閑話 坊坊奮闘記
「ついにこの時が来ましたね」
「そっ、そうですね」
草草がにこりと笑えば、いつもより背をさらに丸めた猫背の僧は、つるりとした頭をかくかくとゆらす。
「坊ちゃん。何があるかわからないので、あまり近づいちゃいけませんよ」
「坊さん、坊ちゃんに迷惑をかけないように、しっかりやるんだよ」
狼君の迫力顔に、虹蛇の不敵な笑みに、それぞれが、ゆったりと、がくがくと、うなずきを返す。
風も涼しくなってきた、爽やかな晴れの日。
草草と僧、そして二人の仙は、とある屋敷へ踏みこんだ――
*
時は、季節を一つ分ほど遡る。
日ごと陽射しは強まり、まだまだ暑くなるであろう、夏が始まったころのこと。
「坊ちゃん、もう仕事なんてして大丈夫ですか?」
「無理しちゃいけませんよ。まだ寝てたって、いいくらいなんですからね」
眉間にしわが寄り迫力の増した心配顔と、眉を下げても美麗な困り顔が、足取りの軽い坊ちゃんをうかがう。
少し前の晩、草草は役人が恋する娘の屋敷へ行き、その父に妄念をけしかけていた。娘の結婚を出世に利用することしか考えていない父から、彼女を解放するためだ。
このときの夜更かしが悪かったのか、心配しすぎた狼君が毛皮を羽織らせたのがいけなかったのか。坊ちゃんは風邪をひき、少々寝込んだ。起き上がれるようになってもなお、過保護な守役たちによって数日部屋に軟禁された。
それが今日、ようやく日常に戻るのだ。
「心配かけて悪かったね。もう大丈夫だよ」
元気いっぱいな青年は、にこにこ笑ってついたての奥、小机と作業道具のそろった定位置へ、意気揚々と歩を進める。
さて、と気合を入れて仕事にかかり、しばらく――
「そうだ、午後からお坊様のお寺に行きたいんだけど」
薬草を片手に愛用のはさみをちょきちょきと動かしながら、草草は守役たちをひょいと見た。
「坊ちゃん、寺は遠いそうです。まだ本調子じゃないのにそんなところまで歩いたら、倒れてしまうかもしれません」
「そうですよ。散歩だってまだ早いんじゃありませんか? ほら、部屋に本もありますし、なんなら庭でも歩きますか?」
狼君の渋い顔が横にゆれ、虹蛇の気づかう笑みは、なだめるようにななめに傾く。
おおよそ坊ちゃんの予想どおりの返答だ。いや、倒れてしまうとか、散歩は庭でとか、考えていたよりも心配の度合いは大きいか。しかも「よそ見をして怪我でもしたら大変です」と、はさみをそっと取り上げられる始末。
苦笑いをもらした草草は、もう片方の手に残る薬草も置くと、実はね、と話しだした。
「この間の、お父上のことなんだけど――」
妄念に憑かれた父は、きっと僧か道士にでも相談するはずだ。
あの妄念はなかなかしぶとそうだった。並みの者がお経を唱えたり呪文をつぶやいたりしても、簡単には祓えないだろう。となると。
父が住んでいるのは来仙の東市、貴族の屋敷のほか、立派な寺院が集まっている。
この相談は、これらの寺院をめぐったあと、こちら側の西市にある、力ある和尚の寺へ行き着くと思えた。
「娘さんはもう、お母上に引き取られたそうけど、和尚様が妄念を祓ったら、お父上は娘さんを取り返そうとするんじゃないかな?」
それより前に、無骨そうな真面目そうな役人が嫁にもらってしまえば、『出世の道具として』の娘の価値はなくなるはず。坊ちゃんとしては首をひねる話だが、黎国では初婚であることも大切なのだ。
しかし。
「それまでに結婚が決まるかどうか、わからないよねぇ」
だから和尚には話を通しておいたほうがいいと、もっと早く訪ねるつもりであったのだがと、草草は守役たちを眺め見た。
「そうですねぇ。それに役人の、あの厳つい顔じゃあ結婚できるかどうかもわかりませんよ」
だいぶ失礼な物言いをし、ふふんと笑った虹蛇に、草草は苦笑いを返す。
まあ、それならそれで仕方ない。役人には縁がなかったものとして、あきらめてもらうしかないだろう。
それでも、なじみになった役人の恋だ。いま少しの時はほしいと思う。
「では坊ちゃん、馬頭鬼を呼んで和尚に伝えてもらったらどうです」
狼君の真面目くさった顔を、思わず、坊ちゃんはじっと見た。
確かに、馬頭鬼は和尚の祖父であるらしい。が、たかだか散歩を止めたいがためにこの仙は、閻魔様に従う仙、地獄の獄卒を呼ぶつもりだろうか。
「ああ、それはいいねぇ。我が声をかけようか」
呼ぶつもりのようだ。虹蛇の瞳が金色にゆれ、唇は何事かをささやくように動きだす。
草草は止めなければと口を開いた。
父神の方針なのか、わりと気ままに過ごすことの多い仙山のものとは違い、亡者を相手にする獄卒は忙しいと聞く。こんなことで呼びつけるのは申し訳ない。
それに今、筋骨隆々とした馬頭の鬼が現れたなら、薬仙堂は大騒ぎになる。
と、ここへ。
「ご、ごめんくださいませ」
実によい時に、ひょろりとした猫背の僧が薬仙堂を訪れた。
「お坊様、ちょうどよかったです」
「そ、そうですか?」
店の端にある卓で、草草が嬉しそうに笑うと、僧は何のことかわからないだろうに顔をほにゃりと崩した。
「さ、どうぞ」
風邪で寝込んだ際、母がせっせと送ってくれた仙山の果実を搾ってもらい、みなで冷えた湯のみを傾ける。
ちなみに従兄も卓にいる。事件の臭いを嗅ぎつけたのか、果実の匂いに誘われたのか、両方かもしれない。
「お坊様、実は」
「あの、草草様」
湯のみを置くと、二つの声が重なった。にっこり笑った坊ちゃんと、おどおどと背を縮めた僧が、お先にどうぞと譲り合う。
「もしかして、貴族の方に憑いた妄念のことでしょうか?」
草草がこう言ってみると、僧は小さな目をパチパチとしばたき背はちょっとばかり伸ばして、首を大きく縦にふった。
「あの、和尚様が妄念をご覧になりますと、何がしかの力が働いているとおっしゃられました。そこで、もしかすると草草様のお力ではと、ならば訳がおありだろうから伺ってくるようにと申しつけられまして」
僧はふたたび背を縮め、こちらをうかがってくる。
なるほど、と草草はうなずいた。
ひとつの想いに囚われた妄念を操ることのできる者など、そうはいない。和尚はすぐに、神の子と仙の仕業か――と思い至ったのだろう。
妄念をけしかける際、虹蛇は『この屋敷の旦那様があんたの恋しい男だよ』と暗示をかけた。
この力を感じ取ったのだから、和尚だってただ者ではない。人ではあるだろうが馬頭鬼の孫だからか、かなりの霊力を持っているようだ。
その貴族は今、どうなっているのかと問えば、魔除けのお札を身につけ、ひとまず害はないという。ただ、妄念は父にベタリと近づけないだけで、すぐそばで「恋しい」などとささやいているそうだ。
力ある和尚なら、もう少し遠ざけることもできたと思うのだが、この御仁、なかなか良い根性の持ち主でもあるらしい。
「いろいろとお手数をかけてしまって、すみませんでした」
謝りつつも笑みをこぼした草草は、これまでのことを話して聞かせた。
その貴族の父が、羽衣を使って県令の子息の花嫁を亡き者にし、後釜に娘を据えようとしていたこと。
これに僧は、そんな大それた企みを知ることになるとは、思ってもいなかったのだろう。ひっと悲鳴を上げてサアと顔色を失くした。
役人がその娘に恋をし、しかし父は娘を利用することしか頭になく、兄も娘の魔鏡を勝手に持ちだしたりと、あまり良い家庭ではなかったこと。
これを聞けば、僧は「その娘さんも大変でしたねぇ」などと痛ましい顔でうなずいた。
今もそうだが、この僧は菓子屋の主人の霊に飛び上がったり、藤狐の狐の姿を見て椅子から転げ落ちたり、けれどその都度、結構立ち直りが早いと草草は思う。
ちらりと見れば、その横に座る従兄は、まだ頬を引きつらせていた。
「それにしても、そのお父上、ずいぶん早く和尚様のお寺に行きましたね」
草草はてっきり、東市の寺院をめぐってから和尚の下へ相談が行くものと思っていたが、計算違いだったようだ。
ちょっぴり眉を下げてほほ笑むと。
「いえ、あの方は東市のお寺へいらっしゃったんです。そこへ和尚様がちょうど同席なさっておいででして」
つるりとした頭は、ふるりと横にゆれた。
霊力ある僧や道士というものは、この大きな来仙であっても数えるほどしかいない。力ある和尚がほかの寺から呼ばれ、あるいは訪ねられ、相談事を持ちかけられるのは珍しい話ではないという。
「それでは和尚様もお忙しいですねぇ。ずいぶんご高齢だそうですが、お体は大丈夫ですか?」
草草が首をかしげると、僧は一旦心配そうに眉を下げ、しかし今度は誇らしげな顔になって大きくうなずく。
「元が丈夫なお方なのでしょうか。いつもお元気で、いざというときなど、私と同じくらいの速さで駆けられるのでございます」
「……」
十九歳の若者と並んで走るご老人、いかがなものか。やはり馬頭鬼の孫だからか、和尚はわりと、人離れしたところがあるようだ。
*
この話のあと、僧は寺と薬仙堂を往復してくれた。
僧はほかの用もあるからと快く引き受けてくれたし、なにより、守役たちが坊ちゃんの遠出をどうしても良しとしなかったのだ。ただの風邪ではあったが、よほど心配だったのだろう。ただの風邪だが。
そうして、話はこんな感じにまとまった。
「ずっと妄念を憑けておくわけにもいかないので、お役人さんと娘さんの結婚が決まるか、お役人さんが断られたら祓いましょう」
失礼ながら坊ちゃんは、このとき、役人の恋がうまくいくかどうかは半々くらいだろうと思っていた。
「和尚様もお忙しいでしょうし、この件は僕たちの仕業ですから、祓うのはこちらで引き受けます。あ、せっかくですから、お坊様もどうですか?」
何がせっかくなのか坊ちゃん自身もわからないが、こう、口をついて出たため、僧も一緒に祓いに行くこととなった。
季節はめぐり、夏の盛り――草草たちが来幸屋の次男、健優の件で走り回っていたころのこと。
「そっ、そろそろ結婚の申しこみをしてもいいだろうかっ!?」
太い眉を一本につながりそうなほどギュッと寄せて眉尻は下げる、という器用で奇妙な顔をした役人から、切羽詰った相談を受けた。
坊ちゃんはこれに真剣に答える。それからしばらく――
「そ、草草殿……け、けっ、決まっ……」
通りで顔を合わせたのが、結婚の申しこみの直後であったらしい。太い眉も頬も、呆けた風にたるんだ顔の役人から、言語不明瞭な報告を受けた。
坊ちゃんは最初、祝福していいのかどうかわからず、小首をかしげていた。
またまた季節はめぐる。
風も涼しくなってきた今日の今宵、ついに、役人と娘の婚儀が挙げられることとなった。
そこで、草草と僧、そして二人の仙は、ようやく妄念を祓おうと父の屋敷を訪れた――というわけだ。
「はっ、早くどうにかしてくれ!」
「ひいっ」
部屋に通されると、幾月か妄念にまとわりつかれたせいか、すっかり頬の削げた父が勢いよくすがってきた。
顔を引きつらせた僧は、ぴょんと跳ねて見事にかわす。
父の背に貼りつく、うっとりとしつつも陰惨な笑みを浮かべる妄念を怖れたのか。はたまた幽鬼のごとき父に怯えたのか。きっと両方だ。
この父を、狼君が「動くな」と押さえつける。虹蛇は、ひたすら父を見つめ続ける妄念のそばへ。
これを見て、草草はふところから、とある鏡を取りだした。元々妄念が憑いていた、今宵、役人の花嫁となる娘の持ち物であった魔鏡だ。
この鏡に妄念が憑いていたこと。どうやら妄念の主は娘の曾祖母であるらしいこと。これらを役人に伝えてもらうと、娘は魔鏡を手放すと、道士様の良いようにしていただきたいと言った。
こうした場合の『良いように』とは、寺院に奉納し祓い清めることだが、坊ちゃんは普通に手鏡として使っていた。妄念はいなかったのだ、問題はあるまい。
草草は、魔鏡を床に置いた。
虹蛇が暗示を解けば、妄念は父に執着することもなく、なじみある魔鏡に戻るだろう。ここへ僧が用意したお札を貼れば、妄念は魔鏡に封じられる。
仙の力でも封じることはできるのだが、まあ、せっかくだ。
「坊ちゃん、もう少し離れてたほうがいいんじゃありませんか?」
眉間にしわの寄った心配顔を向けられて、草草は苦笑いを浮かべながら、一歩うしろへ下がる。
「坊さん、いいかい?」
口の端の上がった不敵な笑みを向けられて、僧はがくがくうなずきながら、お札をしっかり構え持つ。
――ふう
虹蛇が息を吹きかけると、暗示が解けたのだろう。これまで父から目を逸らすことのなかった妄念が、辺りをめぐらし魔鏡を目指す。
「あれ?」
もうすぐ魔鏡というところで、妄念は突如、身をひるがしてしまった。
小首をかしげた坊ちゃんは、あっという間に虹蛇の腕の中だ。父を放りだした狼君の手は、妄念の細くたなびく足をがしりと捕らえる。
そして僧の構え持ったお札は――
「ひゃあ!」
顔を引きつらせ体をのけ反らせながらも、びしり。見事、妄念の額に貼りついていた。
妄念が魔鏡を嫌ったのは、長らく草草が持っていたせいだろう。鏡は神の子を映し、神気を映し清められ、この妄念が好まない品になっていたようだ。神気というものも、便利なような不便なような。坊ちゃんは苦笑いをもらす。
お札が貼りつきぐったりとした妄念をぐいぐいと魔鏡に押しこめ、屋敷を辞したときはもう、空は茜色に染まっていた。
「お坊様、今日は大活躍でしたね」
「えっ? そっ、そう、ですか?」
草草がふうわりと笑い、僧は照れた様子でほにゃりと笑う。
「あの役人、坊ちゃんにどれだけ手間をかけさせる気だろうね? あの厳つい顔でも娘を口説き落とせたんだ。多少頭を使うのが下手でも、事件も自分で解決してほしいもんだよ」
「坊ちゃんのようには賢くないから、無理だろう」
二人の仙は相変わらず、たいそう失礼だ。
しかし、いつもなら多少なりともたしなめるはずの草草が、ふふ、と笑いをもらした。
もうすぐ日は暮れる。役人の婚儀が始まる。今宵はみなが、この宴に呼ばれているのだ。
仙山から水鏡でのぞいたり、県令の屋敷の屋根で水応鏡をうかがったり。これまで婚儀を見たことはあっても、実際に出席するのは初めてのこと。しかも、なじみの顔が花婿だ。坊ちゃんはつい、浮かれてしまう。
「お役人さんの花婿姿、楽しみだねぇ」
はたして無骨そうな真面目そうな役人は、どんな顔で紅い装束をまとい、どんな様子で花嫁の横に立つのだろう。
ふふふふふ。坊ちゃんの、弾む笑みはしばらく止まらなかった。