第十四話 間違えた嫁
涼やかな夜風が、ゆるくまとめた黒髪を柔らかくくすぐり、酒にほんのり染まった頬をちょうど良く冷ます。
草草は杯を卓に置くと、満月の映りこんだ水面を、水路を照らすともしびを、眺めてふわりとほほ笑んだ。
ここは料理屋の裏手を流れる水路に、張りだすようにして作られた、卓が並ぶ露台であった。
屋根は半分ほどしかなく、手すりはあるが壁もない。
雨の日や寒い時期、夏の昼間は暑すぎて使えないだろうが、夜はこうして涼みながら、闇に浮く淡い光を楽しむことができる。穏やかな陽の射す季節なら、水路を行きかう小舟でも眺めて、のんびりとした時を過ごせそうだと思えた。
「草草様、私どもは挨拶に行って参りますので、ごゆっくりお楽しみください」
「はい、ありがとうございます」
草草がうなずくと、伯父夫婦は露台の中央、商家の主人方がそろうひときわ賑やかな卓へ向かう。
残ったのは坊ちゃんと二人の仙、そして従兄と従妹だ。
今宵は商家の家人らが集う、納涼の宴。
とはいえ、主人方はまったく遊びというわけでもないのだろう。笑みを浮かべて杯を傾けながらも、あの店は近ごろ金払いが悪いので危ないのでは、とか、この店はどこぞの寺へずいぶん寄付をしたから儲かっているらしい、などと商売に関わる噂のやり取りをしているようだ。
そして、若い息子と娘らは――
「ご一献、いかがでしょうか?」
従兄より少々年上と思われる男が銚子を手に、従妹と同い年くらいの娘は恥ずかしそうに顔をうつむけ、この卓を訪れた。
どうやらこの宴、出会いの場でもあるらしい。
従兄がどうぞと促すと、おそらく兄妹なのだろう、若い男女は遠慮がちに腰を下ろす。そのそばで、従妹が草草に向け、自身の着物をポンポンと叩いてみせた。
これはあらかじめ決めておいた合図だ。意味は『虹蛇に気のありそうな娘』、この仙の派手な装いを指しているのだろう。
髪をなでれば黒尽くめという意味か、狼君となり、首をふれば坊ちゃんだ。近づいてはいけません、とでも言いたいのかもしれない。
相変わらずの小姑っぷりだが、草草としてはありがたい。
長寿を誇る神と仙だからか、三者ともにこうした話はピンとこない。それに、やはり人とは違うところもあるので、誤解される言動を取って下手に話が進みでもしたら、断る伯父に迷惑がかかる。
「では、僕たちは少し水路を眺めてきます」
にこりと笑って立ち上がると、娘の顔があからさまに残念なものになった。が、男のほうは嬉しげだ。ここぞとばかり、従兄に娘を紹介し始めたりもする。
どうやら、娘は虹蛇がお気に入りだが、家としては薬仙堂と縁を持ってほしいようだ。
頬の引きつった従兄を見て、悪いことをしてしまったかと眉を下げた坊ちゃんであったが、従妹がするりと間に入ったのを認め、これなら大丈夫だと大きくうなずく。
「従兄殿に、誰か紹介してあげたほうがいいかな?」
草草は卓を離れつつ、守役たちを眺め見た。やはり申し訳なく感じたし、美麗な虹蛇に目が向く嫁では困るとも思ったのだ。
「織女蜘蛛か藤狐辺りでいいんじゃないですか? 従兄殿とも顔見知りだし、仙や妖物だから綺麗に化けられるし、体も丈夫で心根もいいですよ」
綺麗に笑った虹蛇が、坊ちゃんの相手ではないからか適当に選ぶも、坊ちゃんの問いだからだろう真っ当な答えを返してきた。
これを聞き、草草の顔はななめに傾く。
神や仙には慣れているはずの薬仙堂の一族ながら、ちょっとばかり怖がりな従兄だ。できれば人のほうがいいと思う。けれど夫婦になるなら心根のほうが大切か。ここはなじみの仙か妖物で、手を打ってもらうべきなのか。
などと考えていると、狼君が自信ありげに口を開いた。
「心根がいいっていうなら、白玉はどうです?」
「……」
人ではないどころか、人の姿でもなかった。
「坊ちゃん、ここへ座りましょう」
露台の手すりの近くには、長椅子が、水路に向かって並んでいる。
ちゃっかりと、酒や料理を持ってきた守役たちは、わきの机にそれらを整え、真ん中へどうぞと坊ちゃんに勧めてくる。
腰をかけ、満月と星の煌めく夜空を、満月とともしびの揺らぐ水面を、並べて眺めながら酒をすするというのも乙なものだ。
ふふふ、と草草の口から楽しげな笑みがもれた。守役たちもさぞや良い気分だろうと両隣をうかがうと。
「どうしたの?」
なぜだか、二つの顔はそろって左を向いており、目も恐くなっているような。草草もそちらを見やる。
ひとつ空けた長椅子に、男が腰を下ろしていた。
歳は二十も半ばだろうか。白地に青の刺繍の入った品のいい着物を着こなし、顔にはおっとりとした笑みを浮かべ、夜の景色を楽しんでいるようだ。
育ちの良さそうな商家の息子、そんな感じの男だ。が――
「こんばんは」
視線に気づいたのか、男はゆるりを顔を向け、こちらへ挨拶を寄こした。
二人の仙の恐い目も、清らかさや気品にあふれすぎた坊ちゃんも、気にならないらしい。度胸があるというよりは鈍感というのか、のん気な印象を受ける。
だからだろうか、男は――女二人の霊に挟まれながら、朗らかにほほ笑んでいた。
「こんばんは、いい夜ですね」
草草はにこりと笑って返事を返した。
二人の仙に警戒の色は見られるものの、本性を嗅ぎ取ることのできる狼君が、臭いとは言わない。となれば、悪い人物でも、悪しき霊でもないのだろう。
それに、女二人の霊を引き連れた男なんて、ものすごく気になる。
「私は船問屋、来幸屋の次男で、健優と申します」
男は嬉しげに笑い杯を手に、隣の長椅子へ越してきた。歳のわりには無邪気な顔で、懐っこい性質でもあるのだろう。
来幸屋は、来仙の一等繁華な通りでも五本の指に入る大きな店だ。
船を何隻も持ち、黎の都と来仙を行き来し、途中、いくつかの港にも寄って荷を運ぶ。よそから頼まれる品のほか、自店でも買い付けと小売をしており、店はなかなか賑わっている。
薬草を仙山でまかなう薬仙堂とは商売上の関わりが薄く、同じ通りとはいっても場所も離れているが、草草も店ならのぞいたことがあった。
そして、こんな噂も聞いていた。
――来幸屋の次男には、きっと嫉妬深い妖狐でも憑いてるに違いないよ。だから嫁が立て続けに早死したんだ。
「あんた、嫁が何人も死んでるんだって?」
虹蛇も思いだしたのだろう。人ならば遠慮するところをずけずけと問うた。
口に出してしまったものは仕方ない。ここは詫びでも入れるべきかと、草草は済まなそうな顔を作る。しかし。
来幸屋の次男、健優は、顔を曇らせはしたものの声を荒げることはなく、「やはり私には、何か悪いものでも憑いてるのかもしれませんねぇ」などと真剣な顔で悩み始める。
温厚で真面目、なのだろうが、どことなくズレた感じもする御仁だ。
ちょい、と首をかしげた草草は、健優ならば怒りはしないかも、と失礼ついでにこれまでのことを聞いてみた。
「最初の妻が亡くなったのは、四年ほど前のことです」
健優は彼女を思いだしているのか、眉が寂しげに下がる。
この妻はとある冬、風邪で寝込んだという。これがきっかけだったのか、少しずつ体調を崩すようになり、寝込むことも長くなり、亡くなってしまった。
「病死、だったんですね?」
草草が問えば、健優の顔は縦にゆれ、「お医者様はそう言ってました」と返ってくる。
しかし、狼君の眉間にはしわが寄り、虹蛇の鼻はふんっと鳴った。なぜかというと。
霊は、何がしかの力を感じているのだろう、あるいは二人の仙が怖いのか、離れたところで固まり、それでも健優を見守っている。その霊の一人が、首をふっているのだ。
ふむ、と草草はうなずく。
女二人の霊、彼女たちは健優の妻だろう。今、首をふり病死ではないと訴えているのが最初の妻か。当の夫はちっとも気づいていないが。
嘘を見抜く虹蛇が、そうとは告げてこない。ならば、健優が病死だと思っているのは本当で、霊の訴えも本当だ。
霊の様子からも、夫を恨んでいるようには見えない。すると最初の妻は、健優ではない誰かに毒でも盛られていたのか。
「二番目の妻は――」
草草が考えをめぐらしている間にも、彼の声は続く。
こちらは二年ばかり前か。道観(道教寺院)へ子宝祈願のお参りに行った帰り道で、この妻は高い石段の上から何者かに突き落とされたそうだ。
「私の姉やも供をしていたのですが、一緒に落ちて頭を打ち、危ないところでした」
健優はこう言ってため息をこぼした。
草草が霊のほうを見てみれば、今度は別の女が、怒った風な顔になって必死に首をふっている。あれが二番目の妻か。
突き落とされたのではない、いや、違うか。一緒に落ちたという姉やは、被害者ではなく犯人だ、とでも訴えたいのだろうか。
「最後の妻、いえ、この娘さんとはまだ結婚してはいなかったのですが」
霊は二人しかいないが、健優にはまだ妻が、いや、嫁になるはずだった娘がいたようだ。
草草は、ふむ、とうなずき話を聞く。
両家が集い、ささやかな宴を開いた帰りのこと。この娘は家人らが少し目を離していた隙に、何者かに背中を刺されてしまった。とはいえ、こちらは軽症で済んだそうだ。
だが、この頃からだ。『来幸屋の次男には妖狐が憑いている』こんな噂がささやかれ、この縁談は立ち消えた。
「人様の言う、嫉妬深い妖狐とやらが私に憑いてたとしても、もう妻をもらうつもりはないので、これ以上の害はないでしょう」
話を終えると、健優は眉尻を落として笑みを浮かせた。
妖しげなものが憑いていると思えば、慌てて寺にでも駆けこむのが普通だと思うが、よほどのん気な性質なのか。
首をひねった草草は、こんなことを言ってみる。
「妖狐は見当たりませんが、あなたの奥様方が二人、あちらにいらっしゃいますよ」
「おや、そうなんですか? どこでしょう」
きょろり、きょろり。ともしび照らす水面を、健優はおっとりとした様子で眺め見る。これは筋金入りののん気らしいと、草草はくすりと笑みをこぼした。
と、ここへ。
「坊ちゃま、こちらでございましたか」
声のしたほうへ、『坊ちゃん』な草草が、『坊ちゃま』と呼ばれているらしい健優が、そろってくるりとふり向いた。
*
「主人がお世話になりまして」
こう言って頭を下げたのは、健優の『姉や』だ。
おそらく、来幸屋ではそれなりの立場にある使用人の娘だろう。幼かった健優の面倒を見、遊び相手にもなっていた、姉代わり女ということだ。
来た早々、「坊ちゃま、寒くはございませんか」だとか「坊ちゃま、飲みすぎはいけませんよ」などと健優を気づかう姿は、まるでどこぞの守役たちを見ているようであった。
そして今、姉やはジッとこちらを見据えている。大事な坊ちゃまに近づけてよい人物かどうか、品定めでもしているのかもしれない。
草草は苦笑いを浮かべつつ、姉やを眺めた。
額に傷跡がある。これが二番目の妻とともに石段から落ちた際、負った怪我のようだ。
二人の仙は、品定めらしき視線が気に食わないのだろう。鋭い眼光を、針のように細い目を、姉やに向ける。しかし彼女は気にならないらしい。坊ちゃまのためなら度胸も湧いてくるのか。
女の霊、特に二番目の妻は、あなたが犯人だろうと姉やに罵声を浴びせる。しかし彼女は気づかない。こうしたところは主人同様、鈍感なのか。
「健優殿、先ほどの奥様方の霊ですが」
姉やの登場で中断していた話を戻そうと、草草はほほ笑みながら口を開いた。
「ああ、そうでしたねぇ」
健優の目はふたたび水面へ、姉やの目はこちらを向く。
その眼差しが少々厳しいのは、霊などと言いだしたものだから、信用していいのかと怪しんでいるのだろう。
人を疑ったりはしなさそうな健優だ。彼女のようなしっかりとした人物がそばにいるのは良いことだと、草草は思う。
姉やの眼差しを受けると、精悍な眉の間にしわが寄り、形良い眉の片方はつり上がったので、守役たちの意見は違うようだが。
「奥様方、祓ったりはしませんから、こちらに来ていただけませんか?」
草草の優しげな笑みが功を奏したのか、健優の方向違いな手招きが良かったのか。距離を置いていた霊はようやく、しかしながらおどおどと、こちらへゆっくり寄ってきた。
女二人の霊よりも、生きた健優と姉やのほうが、肝が据わっているらしい。
――それぞれの話はこうだった。まずは最初の妻。
《私は丈夫というほどでもなかったので、最初は病気で亡くなったものと思っておりました》
「では、なぜこの世に留まったんですか?」
《お優しい旦那様が心配でしたので……》
これを草草が伝えると、健優は照れた風に笑い、姉やの顔はそのとおりとばかり大きく縦にゆれた。
「あんたはそれなりに見目が良くて、それで頼りなさそうなもんだから、放っておけないって思う女も多いんだろうね」
虹蛇が訳知り顔でふふんと笑えば、いまひとつ、こうしたことにはうとい草草と狼君が、そんなものかと見合ってうなずく。
姉やの目が少々恐くなったのは、虹蛇の物言いに、お気に召さない部分があったからだろう。やはり守役たちに似ている。
ふふ、と笑った草草は霊に続けて問う。
「あなたはなぜ、ご自分が病死ではないと思ったんですか?」
《私のあとで二人も、立て続けにおかしなことが起こったのです。それなら私もきっと……》
最初の妻はこう言って、おずおずと姉やを向いた。姉やという立場なら、毒を盛るのは容易だろう。しかし。
どうもこの妻には、何の確証もないらしい。姉やの仕業だと、改めて問われると自信を持っては言えないようだ。そもそも、毒を盛られたかどうかも定かではない。まあ、二人目、三人目と続けば、疑う気持ちもわかるが。
それに、この妻は医者が病死と言ったのだ。姉やが医者の目を誤魔化せるだろうか。あるいは、五本の指に入るほどの豪商の家人を差し置いて、医者を抱きこむことができるだろうか。
まさかその豪商が、毒を見逃す藪医者を呼んだとも思えない。
ならばと、草草は二番目の妻へ目を向ける。
《私はあの姉やに、石段の上でうしろから押されたんです!》
この妻は、眉をつり上げてきっぱりと断言した。
こちらも草草が伝えてみると――
「私が奥様を押してしまったのは本当でございます」
姉やの顔が苦しげに歪んだ。これに健優が、「姉やのせいではないよ」と優しい声をかける。
どういうことなのか。
聞いてみれば、何者かに背を押されたのは、姉やのほうであったそうだ。女なのか、少年なのか、軽い足音が聞こえてふり向くより前、それほど大きくはない手が彼女を押したという。
ただ、姉やのすぐ前には、ちょうど石段を降りようとする二番目の妻がいた。姉やの体は前に倒れる。この妻とぶつかる。
そうして二人は転げ落ちた。
「私は何としても、奥様を守るべきでございましたのに……」
《何を言ってるのよ! あなたが私を突き落としたんでしょう!?》
「悪いのは突き落とした者だよ。姉やは悪くないよ」
《旦那様! この女の仕業です!》
「いえ、坊ちゃまになぐさめていただくなど……申し訳ございません」
《あなたは旦那様を独り占めにしたかったのよ!》
健優と姉や、そこへ二番目の妻が入り乱れたやり取りは、なんともチグハグであった。一方は聞こえていないのだ、仕方あるまい。
これを見ながら聞きながら、草草の目の玉はくるりと回り始める。
二番目の妻は、突き落とした人物を見たわけではないらしい。
ではなぜ、姉やを犯人だと思ったのか。こちらの妻は実際、姉やに押される形となった。そして。
《あなた、私のことを嫌ってたでしょう!? 着物が派手だとか、もっとおしとやかにとか、いちいち文句を言ってたわよね!》
どうやら、姉やが小姑っぷりを存分に発揮したがために、嫌われ、疑われたのだと思われた。
草草の顔に、ぬるい笑みが浮かんだ。
薬仙堂の卓を見れば、米屋の娘――狼君に気があると聞いている、を紹介されて頬を強ばらせた従兄を、従妹がしっかり守っている。これは将来、従兄が嫁を取ったとき、従妹も気をつけたほうがいいかもしれない。
考えが横道に逸れてしまった坊ちゃんは、ふるりとひと振り、姉やを向く。
姉やは一緒に石段から落ちた。自身が疑われないための、一世一代の演技だったとしても、いや、ならばなおのこと『奥様が足を滑らせて落ちるのを助けようとした』とでも言えばいい。
誰かに突き落とされたとなれば役人の調べが入る。うしろ暗いところのある者なら、これは避けたいはずなのだ。
それに、何といっても二人の仙が、臭いとも嘘だとも言わなかった。やはり姉やは犯人ではないのだろう。
彼女が品定めやら不審やら、そんな目を坊ちゃんに向けたせいか。眉間にしわの浮いた仏頂面と、片方の眉の上がった不機嫌な顔が、まだ姉やを向いてはいるが。
もう少し調べたいことはあるが、と草草はうなずく。
最初の妻に毒は使われたのか。これはまだ不明だが、二番目の妻を突き落としたり、三番目の嫁を刺したり、こちらは人の仕業だろう。
となれば健優には、噂に上った嫉妬深い妖狐のような、性質の悪い者がそばにいる。
「噂になった妖狐とやらを、あぶり出してみませんか?」
にこりと笑ってこう言うと。
「坊ちゃん、妖狐はいませんよ?」
「どこの妖狐か知りませんが、近寄っちゃいけません」
「おや、やはり私には妖狐も憑いてるんですか?」
「もしや、新しい嫁様の囮を立てようとお考えでございましょうか?」
真っ当な答えを返してきたのは、姉やだけであった。
*
翌日、草草たちはいつもどおり、ついたての奥で薬作りを手伝いながら、伯父を捕まえこう問うた。
「伯父上、来幸屋に出入りしてるお医者様をご存知ですか?」
最初の妻の死に疑問はないか、はたして毒は使われたのか、これを調べるためだ。
「おお、それならば」
伯父はポンと手を打ち、にこりと笑う。
その医者は伯父の幼なじみだそうだ。
薬仙堂の者も診てもらうことがあり、この店の薬も使うのでたまに顔を出している。顔を出せば薬の知識を仕入れたり、披露したりと勉強熱心な人物でもあるという。
「へぇ、じゃあ藪医者ってわけじゃないんだね?」
「ええ、私が知る中では一番のお医者様だと思っております。もちろん、草草様には及びませんが」
伯父が胸を張ってこう返したものだから、虹蛇の口の端は思いっきり上がり、狼君の顔は力強く縦にゆれた。
坊ちゃんの顔にはぬるい笑みが浮く。
「伯父上、失礼ですがそのお医者様、お金に困っていたのが急に羽振りが良くなったり、心配事がありそうだったり。もう四年も前のことですが、何か変わった様子はありませんでしたか?」
伯父の首がかしいだので、草草は昨晩の、来幸屋のことを話して聞かせた。
最初の妻が毒を盛られていたとすれば、病死と断じた医者は怪しくなる。
「なるほど……確かに医者も人でございます。お金を包まれて、便宜を図る者もいるでしょう」
ここまでを言い口をつぐんだ伯父は、ですが、と続ける。
「あのお医者様におかしな様子はなかったと思いますし、危うい話を持ちかけられたら、すぐにお役人さんのところへ駆けこむはずです」
幼なじみだからか、危ないものには近づかないし逃げ足も速い男だと、伯父は自信ありげにうなずいた。
勉強熱心で逃げ足の速い医者、坊ちゃんはちょっとばかり興味が湧く。いや、今は来幸屋の件だ。
伯父の言が正しければ、その幼なじみは毒を見逃すような藪医者ではなく、金をもらって病死と偽ったり毒を盛ったりする人物でもない。
ならば、最初の妻は病死だった可能性が高いだろうか。
ふむ、とうなずいた草草は、伯父に礼を述べてひとまず仕事へ――
「坊ちゃん、ずいぶんしゃべったのでひと休みしましょう」
横を向けば、狼君は小机に向かって菓子を綺麗に並べており、虹蛇はさじをしゃくしゃく動かして、水滴のついた冷えた湯飲みを差しだしてくる。
もちろん坊ちゃんは、にっこり笑って受け取るも、いつの間に用意していたのかと首をひねったりもした。
午後になると草草は、散歩がてら、無骨そうな真面目そうな役人を捕まえてこう問うた。
「お役人さん、恋しい娘さんとはどうなりましたか?」
これは坊ちゃんの好奇心である。
「ぬっ、そっ、それは……あの、だなっ」
役人は、太い眉を一本につながりそうなほどギュッと寄せて眉尻は下げる、という器用で奇妙な顔をして、相談を始める。
だいぶ親しくなったのだが、そろそろ結婚の申しこみをしてもいいだろうか。
思いのほか真面目な内容であったため、坊ちゃんは真剣な顔で応じることとなった。
「ところでお役人さん。来幸屋さんの二番目の奥様と、三番目のお嫁さんの件、ご存知ですか?」
本題に入ると、恋しい娘を思いだしていたのだろう、ゆるんでいた役人の顔が引き締まり、そしてまた、眉尻が垂れた。
「どちらも解決していないな……」
うなりをもらした役人に、虹蛇の鼻の音と狼君の仏頂面が追い討ちをかける。草草は、まあまあとなだめる。
二つの件で役人が知っていることは、こうであった。
まず、二番目の妻の件――姉やの証言は昨晩聞いたとおり、女とも少年とも思える軽い足音がし、大きくはない手で背中を押された。ほかに、何かを見たり聞いたりした者はいない。
そして、三番目の嫁の件――娘は背を刺され、倒れた際、ふわりと広がった女物の着物のすそを見た。悲鳴を聞いた家人が駆けつけると、夜の通りを逃げていく、やはり女らしき小柄な人影を見ている。
「来幸屋の妻や、嫁になるはずだった娘が狙われたんだ。犯人は同じ者だろう。そして女だな!」
「それしかわかってないのかい?」
「ちゃんと調べたのか?」
自信満々に言い切った役人を、また、虹蛇の鼻と狼君の仏頂面が攻め立てた。草草はといえば、目の玉をくるりと回していた。
二番目の妻と三番目の嫁の件は、似ている。
二件とも背後から襲われた。事が起きたのも閑静な道観と夜の通り、人気のない場所だ。犯人は一人のようでもあるし、姉やと一緒に突き落としたり、刺したものの失敗したりと杜撰な手口でもあった。
一方、最初の妻に毒が使われていたとすると、この犯人は時間をかけて疑われないよう慎重に事を進めた、となる。協力者もいたかもしれない。毒も用意しなければならない。金もかかる方法だ。
うん、と草草はうなずく。
やはり、最初の妻は病死と考えるほうが自然だ。おそらく女であろう犯人は、この妻が亡くなったのを知り、自分が健優の妻になれると思ったのか。
しかし二番目の妻が現れた。そこで、この妻も死んでしまえば――とでも考えたのかもしれない。
三番目の嫁は結婚する前に襲われている。ならば、うまくいくだろう。
「お役人さん、恋しい娘さんのこと、がんばってくださいね」
「おっ、おっ、おぉ……」
坊ちゃんはこんなことを言って役人の頬を引きつらせ、ようやく、本日一番の目的の場所――従姉夫婦の菓子屋へ向かった。
*
しばらくすると、来仙の一等繁華な通りで、こんな姿が見られるようになった。
並ぶ店を楽しむようにゆるりと歩く健優の、おっとりとした笑みが向く先には、ギクシャクとした藤狐がいた。
健優が腕輪を取って差しだすと、藤狐はカクカクうなずく。健優がこれを買おうとすると、藤狐の首はぶるぶる揺れ、慌ててこれを止めようとする。
初々しい、いや、珍妙な二人の姿だ。
草草は姉やの察したとおり、嫁の囮を立てていた。犯人をおびき出し、襲おうとしたところを捕らえる策だ。
囮役を藤狐に頼んだのは、腕っ節が強いのを見込んでのこと。人である犯人が襲ってきたとしても、妖物の藤狐なら、まずは安心だ。
『あたしが人の男の嫁!?』
話を聞いた藤狐は、厚ぼったい唇をポカンと開けたあと、頭の布をもこりと押し上げ、目をギョッと見開いた。
詳しい事情を話せば快く引き受けてくれた。が、「お嫁さんのふり……」とブツブツもらしていたので、人の色恋の真似事などしたことがないのかもしれない。
藤狐はかつて、艶めいた夢を見るという夢札を使っていたが、それとこれとは別のようであった。
朗らかな健優とギクシャクした藤狐が、繁華な通りを歩く。人々の、視線は集まり噂が生まれる。
「もしやあの娘さん、健優殿のお嫁さんだろうか」
「どうでしょう。あの娘さん、健優様を慕っているようには見えませんけれど」
いまひとつ、策がうまくいっているのかどうか定かではなかった。
そのころ、草草たちはというと、来幸屋の店内にいた。
女であろう犯人は、健優に会いたいと店に来るかもしれない。あるいは今、健優は藤狐と一緒にいる。そんなところへ図々しくも声をかけはしないだろうが、遠目に二人の様子をうかがったりはするかもしれない。
というわけで、草草たちはこのところ、来幸屋をのぞいたり通りを往復してみたりと、忙しなく動いていた。
とはいえ――
「今回は藤狐さんにも、従姉殿のお店にも迷惑をかけてるから、何か買っていこうかな」
「坊ちゃんは優しいですねぇ」
にっこり笑った坊ちゃんに、虹蛇が綺麗な笑みを向ける。
「あ、白玉にも……でも、お爺さんの飾りがあるから重いかな?」
「いえ、坊ちゃんが買ってくれたら、白玉も喜ぶに決まってます」
小首をかしげた坊ちゃんに、狼君が大きくうなずく。
なんとも気楽なものであった。
みなへの贈物を選んだり、草草の飾りを吟味したり、仲よく楽しく店を眺めていると。
「坊ちゃん」
狼君の鼻がすんと鳴った。その顔の向く先には、一人の女の姿がある。まだ若い、従妹と同い年くらいの娘だ。
これを見て、草草の首はかしぐ。
二番目の妻が突き落とされたのは、二年ばかり前のこと。そのときこの娘は、十三か、十四か。まだ子供ともいえるが、そんな娘の仕業だったのだろうか。
だが、彼女を向く、狼君の眉間にはくっきりしわが寄っており、虹蛇も嫌な感じでもするのか片方の眉がつり上がっている。
ならばと草草は、娘と店の者の声にそっと耳を傾けた。
「あの……健優様が新しいお嫁様をお迎えになるような話を伺ったのですが、本当でございますか?」
「ええ、ようやく健優様にも良いご縁がございまして。お相手は、薬仙堂さんのご親戚の娘さんで……」
恐る恐るといった感じで問うた娘に、店の者は明るい声を返す。そして「今宵、来幸屋でささやかな宴を開くことになっておりまして」とも続ける。
このたびの策、伯父から来幸屋へ、話はしっかり通っていた。
女と、念のために小柄な男も、健優の嫁について聞く者があれば、こう答えるようにとも決めてあった。
――この夜。
「藤狐さん、気をつけてくださいね。草草殿も気をつけて、よろしくお願いします」
宴会の真似事をして、草草一行が来幸屋を辞す際、健優はおっとりとした様子ながらも心配そうに、こう言った。
実は健優、このたびの策には反対だったのだ。曰く、囮役の娘さんが危ない。
意外なことに、坊ちゃまのためなら、と賛成するかと思っていた姉やも同じ意見であった。
考えてみれば、彼女は二度目の妻を目の前で亡くしたのだ。それに、やはり姉やは人なのだ。二人の仙とは違う。
「藤狐さんにはそれなりの心得があります。狼君と虹蛇もいるので、大丈夫ですよ」
草草がふわりと笑い、藤狐もギクシャクしつつ大きくうなずく。これに少しは安堵したのか、健優と姉やの頬はほのかにゆるんだ。
「坊ちゃんのことはしっかり守るから、任せておきな」
虹蛇がニヤリと笑い、狼君は力強くうなずく。守る対象が違うからだろう、姉やの顔はこわばり、さすがの健優も眉を落とした。
店を出て、暗い通りを歩く。
女二人の霊も、あとをついてくる。
霊には事の真相を知ってもらい、あの世へ行ってもらうのが良いだろうと、草草は思っている。
二番目の妻は、姉やの仕業だと信じているものだから不服そうだが、鋭い眼光と剣呑な眼差しに加えて、にこりと笑った坊ちゃんの「祓ってしまいますよ」という言葉が効いたようだ。
「坊ちゃん、臭います。やはり店で見た娘です」
「気配もありますよ。藤狐、一本奥の道だよ。わかるかい?」
「……はい。何となくですけど」
二人の仙と一人の妖物の話を聞き、草草はうんとうなずく。
「じゃあ藤狐さん、お願いします」
藤狐はちょっとばかり酔った風情をかもし出し、夜風に当たってくるなどと言って通りを曲がる。
草草は大丈夫かと声をかけ、しかしあとは追わない。
「坊ちゃん、娘が動きました」
藤狐のあとを娘がつけ、そのあとを坊ちゃんたちが追う恰好となった。藤狐が向かう先には水路がある。その岸辺に立っていれば、きっと――
――バシャン!
夜の街に水音がこだました。草草たちが向かってみれば、困った感じに首をかしげた藤狐と、娘の溺れる姿がある。
うしろから押されそうになった際、この妖物はひらりと身をかわしたようだ。
「虹蛇、悪いんだけど、お願いしていい?」
草草がうかがい見ると、にこりと笑った虹蛇が、何かを持ち上げるように片手を上げる。水もザアと持ち上がる。
道に、むせこみ倒れる娘がいた。
彼女は――来幸屋の近く、何本か入った通りにある職人の家の娘だった。
幼いころは子供の気安さで、来幸屋にもよく来ていたという。そこで、こんなやり取りがあったそうだ。
『健優様、大きくなったらお嫁様にしてください!』
『うぅん、歳が合わないかな。大きくなったとき、私に妻がいなかったらお嫁さんになってもらえるのかなぁ』
健優と娘は、十ほど歳が離れている。健優は豪商の息子でもあるから、いつまでも独りではいられないし、妻もそれなりの家の出でなければならない。
こうしたことは、ある程度の歳になれば、娘もわかっていたという。
ところが、最初の妻が亡くなった。自分はもう少し経てば年頃になる。家柄も、後妻ならばもしかして、と思うようになった。
二番目の妻は、道観で偶然見かけた。子宝祈願をしていた。このときの気持ちを、娘はよくわからないと言った。我知らずあとを追い、気がつけば、姉やともども突き落としていた。
三番目の嫁に対しては、明確な害意があったという。一度、間違ってしまった娘は、歯止めが利かなくなっていたのか。それでも怖れもあったから、背中を刺す手に力が入らなかったのかもしれない。
この娘は、無骨そうな真面目そうな役人の下へ。
これを見た二番目の妻は、すう、と姿を消した。この妻は、犯人が捕まることを望んでいたのだろう。ようやくあの世へ行けたわけだ。その前に、娘を散々なじり暴れたりもしていたが。
そして、最初の妻は――
薬仙堂の端の卓で、健優がおっとりと笑う。
妻や嫁を害したのが、見知った娘だったのだ。しばらくは元気がなさそうであったが、持ち前ののん気さもあってか笑顔が戻ってきたらしい。
そのそばには姉やが控え、なぜだか、霊の妻も控えている。
《お優しい旦那様が心配で……》
そうなのだ。この妻は元々、自分の死を疑い、悔しいからとこの世に留まっていたわけではないのだ。
草草がこれを伝えると。
「坊ちゃま、祓っていただいたほうが、よろしいのではございませんか?」
「この世にいたいなら、無理に祓うのもねぇ」
健優が相変わらずのんびりと笑えば、姉やの頬はひくりと動き、霊は嬉しげにうなずく。
「どっちでもいいけどさ、坊ちゃんにだけは迷惑かけるんじゃないよ」
虹蛇は呆れ顔で鼻を鳴らし、狼君は渋い顔を縦にふった。
「健優殿がそれでいいなら」
どうやら、反対しているのは姉やだけのようだ。それが真っ当な気もするが、まあ、いいだろう。
くすりと笑った草草は、湯飲みを手に取り茶をすする。
少し涼しくなってきたのか。熱い茶が、おいしいと感じた。