第十二話 神仙の病
薬仙堂の、家人が集まる居間の窓を、西風がガタガタと揺らす。
「今日も西からの風が強いですねぇ」
夕飯を終え、茶などのんびりとすすっていた草草は、湯のみを置いて小首をかしげた。
来仙のある仙州は新緑の芽吹く初夏、西風の強く吹く日がある。隣国の砂漠の砂を運んでくる、どことなく埃っぽい風だ。
だが、今は陽射しもきつい夏の盛り。この時期に、これほどの西風が吹くのは珍しいはず。
「近ごろ多いようでございますね。今年はどうしたのでしょう」
うなずきを返した祖父は、お体にお気をつけください、と続け、伯母と従妹にも注意をうながす。
西風の強い日、薬仙堂は薬にごみが入ってはならないと内窓を閉ざす。夏、火も使うことのある店の奥は、これがなかなか暑いのだ。
それから、祖父の顔は足元へ。
「白玉や。目にごみが入るかもしれないから、こういうときは散歩をしてはいけないよ」
優しげな声をかけられると、甘い薬湯をなめていた真っ白な猫が顔を上げ、嬉しそうにニャアと鳴いた。
祖父母に可愛がられ、綺麗になった白玉である。相変わらず丸くふっさりとして、今は毛玉とも雪玉とも、見える。皿まで綺麗になめ終えると、もうひと声ニャアと鳴く。おいしかった、だそうだ。
幼い妖物の満足げな姿に、坊ちゃんの頬は楽しげにゆるむ。
ちなみに、伯父と従兄は商家の寄り合いがあるからと、家を出ている。
今日が若主人としてのお披露目だそうで、いつもより上等な着物を着、まげを銀のかんざしで飾った従兄は、西風にあおられながらギクシャクと、夕暮れの繁華な通りを歩いていった。
「なんだか妙な風だねぇ」
「え?」
草草がふり向くと、虹蛇の形良い眉が少しばかり上がっていた。どういうことかと問うてみれば、眉をひそめた美麗な顔はあいまいに傾く。
「いえ、何となくですが……狼君、何か感じないかい?」
「……いや」
今度はすんっと鼻を鳴らした狼君の、いぶかしげな顔が傾く。祖父の足元では、丸くてわかりにくいが白玉の首もかしいだようだ。
坊ちゃんはくすりと笑みをもらしつつ、どういうことかと考えをめぐらす。
よわい千年を越える仙、虹蛇が何かを感じたのだから、何もないということはないだろう。けれど、鼻のいい狼君にはわからない。
きわめて臭いの薄いもの、そして悪意や害意のないもの。そんな何ものかが、この季節はずれの西風を吹かせているのか。あるいは、風下から西風を呼んでいるのか。だから風が邪魔をして、彼には臭いが届かない。
その力を虹蛇は感じた。が、気配には敏いこの仙が『何となく』と言ったくらいだ。その何ものかは、きっと遠くにいるのだろう。
ならば、さして心配することはないと思えた。それに。
「狼君と虹蛇がいるもの。大丈夫だよ」
草草の瞳に甘えがにじみ、信頼のこもった表情は柔らかくほころぶ。
「任せてください」
狼君の、眉間にうっすらと浮いていたしわはすぐに消え、うなずいた顔は誇らしげであり優しげだ。
「もっ、もちろん、ですよ……」
虹蛇はやはり照れたらしい。耳を赤くしてぼそぼそとつぶやく。切れ長の目は坊ちゃんの瞳とぶつかると、慌てた風に逸れてしまった。
――この夜。
夜半すぎ、来仙に吹きつけ家々をうるさく揺らした西風は、ようやっと鳴りをひそめた。
薬仙堂の一室の、広い広い寝台には、そんな物音気にもせず、すぅすぅと心地よさげに眠る坊ちゃんの姿があった。
両隣には、おぼろに射しこむ月を浴び、銀にも見える大狼が、白く艶めく大蛇が、寝そべりとぐろを巻いている。
《虹蛇、まだ何か感じるか?》
《いや、風がやんだら感じなくなったよ。狼君はどうだい?》
すんすん、と何度も鼻を鳴らした銀狼が、何もという風に首をふる。白蛇は部屋を見まわして、坊ちゃんのめくれた布団をついでに直す。
《ふん、大丈夫そうだね》
ずっと持ち上がっていた頭と鎌首は、前足の間に、とぐろの天辺に、それぞれゆるりと収まった。
天上の月は傾いていく。ひっそりとした時が流れる。
部屋をかすかに震わせるのは、草草と狼君の穏やかな寝息に、ときおり身をよじる衣擦れの音。虹蛇はぴくりとも動かない。
このまま朝がやってくる、はずであった。
草草の体が――寝台に沈みこむ。
部屋に何も変わりはない。二人の仙も寝入っている。それなのに。
坊ちゃんは、寝台に落ちた自身の影に、ゆっくりと呑まれていった。
*
「ん……ん?」
なんだか薄暗い。今日は曇りだろうか。
こんなことを思いながら、ゆるりと持ち上がっていった草草のまぶたは、いつもとは別の景色を捉えた途端、ぱっちりと開いた。
そこは、黄土色の部屋だった。大きな扉が一つ、窓はない。高い高い天井には、変わった形の行灯がぶら下がっている。
壁を彩る金の装飾は、黎国で好まれる花や鳥ではなく、四つ足の動物が列をなす姿だ。背中にこぶがある。駱駝、というものではなかろうか。床に敷かれた赤い布の、細かな織りは異国の品と見えた。
室内には、草草が寝かされていた大きな寝台が一つ。そして、いつもなら横にいるはずの、守役たちの姿がなかった。
「……」
身を起こし、顔をめぐらした草草は、ふむ、とうなずく。
どうやら自分は何事かに巻きこまれたようだ。すぅすぅと眠っている間に、知らぬ場所に連れてこられたらしい。
心当たりは、ここしばらく来仙に吹きつけていた西風くらいのものか。
部屋の壁と天井は、仙山の水鏡からのぞき見た、砂漠の色によく似ている。それに駱駝、室内もどことなく異国風だ。
ここは、西の隣国にある砂漠ではないだろうか。
昨夜、虹蛇が『何となく』としか感じなかったのは、風を吹かせた何ものかが、来仙からは遠く離れた砂漠にいたためだ。
狼君が臭いに気づかなかったのは、砂の臭いのするものだったから、となるのか。西風は砂漠の砂を運んでくる。砂混じりの風に砂の臭いが混ざっても、妙に思いはしないだろう。
ここまでを考え、確認するようにもう一度うなずいた草草は、自身の体がそわそわと揺れているのに気がついた。
なんだか落ち着かない。両隣にきょろりきょろりと目を向ける。
「狼君……虹蛇……」
思わずこぼれた、自身の頼りなげな声に気づくと、くすり、今度は笑みがもれた。
もう何年も前のこと、草草は家出をしたことがあった。
いや、少し違う。仙山の雲より下には出ていない。父神と母にはちゃんと断りを入れた。では何だったのかといえば、いつもべったりと張りついていた、守役たちから逃げだしたのだ。
坊ちゃんにも自立心や反抗期があった、というわけである。
季節は冬。このとき草草は、雪の精からもらった外套を羽織っていた。雪の結晶が織りこまれてキラキラと煌めく、雪さえあれば存在を消すことのできる、不思議な外套だ。
山神にはお見通しだが、腕のよい精霊が織った品であったから、二人の仙は誤魔化せる。
これを着て見事に逃げた草草は、雪山をそりで滑り降り、雪原で雪だるまを作っては、おおいに一人を満喫した、はずだった。
『これは狼君、こっちは虹蛇』
三角の耳がついた、かろうじて動物と思える雪玉と、不恰好な丸太……にしか見えない雪の塊を眺めて、にっこり笑った坊ちゃんは、しかしすぐ、眉を下げる。
せっかく作ったのに、誰も見てくれない、誰も喜んでくれない。辺りを見わたしても、ただただ白が続くばかり。
なんだか一人はつまらない。ちょっぴり寂しい。そして、寒い。
『狼君……虹蛇……』
きゅっと結んだ唇から、思わず、頼りなげな声がこぼれた。と、そこへ。
『坊ちゃーん! そこですね! 見つけましたよ! 我は見つけましたよ!』
『坊ちゃん! 風邪をひいてしまいます! 早く、早く帰りましょう!』
なぜだろう。雪精霊の外套を羽織っているはずなのに、雪を蹴散らし押しのけて、大蛇と大狼が一目散に迫りくる。
ぽかんと口を開けた坊ちゃんの顔に、徐々に、嬉しげな笑みが広がっていった。
昔を思いだし、もれた笑いはくすくすと連なる。
もう十八、自分ではいっぱしの大人になったつもりでいたが、まだまだ子供であるらしい。
草草はふるりとひと振り、うんとうなずく。
このたびの件、守役たちの目をかいくぐって草草を連れてきたのだ。相手は、身をひそめて近づいたり人を隠して連れ去ったり、そんな術に長けた仙、または神、だろう。
西の砂漠の地下には、冥神がいらっしゃるという。以前、虹蛇が教えてくれた、仙は仙に、妖物は妖物に、人も獣も魚も虫も、同じようなものに命を移す、そんな秘術を使う女神だ。
この神には人との間に生した子がいると、耳にしたことがあった。坊ちゃんと同じ、神と人の子である。そして、この子はたいそう体が弱いらしい、とも聞いていた。
つまり、草草の命をわが子へ、と考えて――
だが、と草草は首をひねる。
これはあまりにも無謀に思えた。山神の息子の命を奪うのだ、仙山と争うことになる。
山神は、太古から在る強き神だ。仙山というだけあって、従う仙の数も多い。仙は砂漠に攻め入るだろう。父神は暴風を送りこみ、地を激しく震わせるかもしれない。
砂漠には嵐が吹きすさび、少ない緑は消え果てる。冥神のおわす地下とて崩れて埋まってしまうだろう。結局は守ろうとした子の命も、失うことになりかねない。
それに、冥神の秘術であっても神の寿命はいじれないと、虹蛇は言っていた。ならば神と人の子はどうなのか。草神だからと安心できるわけでもないが……
それでも。
――狼君と虹蛇なら、きっと僕を見つけてくれる。
そう思えて、坊ちゃんの顔に、ふうわりとした笑みが浮いた。
同じころ。西風もやみ、穏やかな朝を迎えた来仙では――
《坊ちゃん! どこですか!?》
《坊ちゃーん! 坊ちゃーん!》
大狼と大蛇が、昨日の風の代わりとばかり、薬仙堂を揺るがしていた。
銀狼は竜巻のごとき勢いで、家の中を駆けめぐる。白蛇が床を這いずるさまは、まるで暴れ川のようだ。そして挙句は天井へ。
普通に考えれば、そんなところに坊ちゃんがいるはずもないのだが、冷静ではいられないのだろう。
薬仙堂の面々は居間に勢ぞろいし、ぴくりとも身を動かさずにいた。その顔には一様に怯えの色が――浮いたりはしていない。
朝っぱらから暴れまわる大狼と大蛇を前にして、もちろん、家人らはギョッと目を見開いた、が。
守役たちが取り乱しているのだ。すぐ、草草に何かあったのだと察した。二人の仙は人の言葉を発していない。それでも何かを探す様子から、神の子の行方がわからないのだと気がついた。
「人である私たちが動いては、かえって邪魔になるだろう。今は大人しくして、お二人が落ち着かれたら話を伺おう」
伯父は思いっきりの心配を顔に浮かせながらも、冷静な提案をする。
「そういえば昨夜、西風が妙だと、虹蛇様がおっしゃられていたね」
これに祖父が続き、祖母と伯母、従妹もうなずく。
「お二人は慌ててらっしゃるようだから、このことも含めてお話してみたらどうかしら?」
「草草様のお姿が見えないなんて、ただ事ではありません。山神様にもお伝えしたほうが……」
薬仙堂の一族は表情に焦りを見せつつも、きわめて建設的な意見を述べた。
ちなみに、従兄だけは呆けた顔で、椅子にくたりともたれている。もしかすると、腰が抜けているのかもしれない。あらぶる大狼と大蛇がそばにいるのだ。人としては、彼のほうが真っ当だろう。
もう一つ、白玉は朝の散歩に出かけており、不在であった。この騒動に巻きこまれることのなかった、まことに幸運な猫である。
《いない! どこにもいないぞ!》
《坊ちゃん、どこへ行ったんだい!?》
大狼と大蛇が、鼻にしわを寄せてうなりをもらし、大口を開けては呼気を荒げ、牙をむき出し顔を合わせる。
それはどう見ても、これから戦いでも始まるのか、というほどに恐ろしげな様相だ。しかし。
「狼君様、虹蛇様」
守役たちの動きが止まると、伯父はすぐさま声をかけた。神の子のことしか頭にないのか、まるでひるみがない。
《坊ちゃんの姿がない!》
《どこにもいないんだよ!》
相変わらず、二人の仙は人の言葉を話していないが、伯父は重々しくうなずいてこう続ける。
「草草様の行方がわからないなど、仙のお二方がいらっしゃるのにあり得ない状況でございます。妙な西風も吹いたと伺いました。ここは山神様にご相談なさってはいかがでしょう?」
《……そういえば、そうだったね》
《あの西風の仕業なのか?》
ここで大蛇と大狼が、ふたたび顔を合わせた。あらぶる呼気が、恐ろしげなうなりが、ぴたりと止まる。そのとき。
かすかな、本当にかすかな、頼りなげな声が届いた。
――狼君……虹蛇……
《坊ちゃん!》
《坊ちゃん!》
ごうっ、と、どうやったのか、守役たちは一瞬にして消え去った。
あとに残ったのは、顔を曇らせ手を合わせ、仙山へ向けて一心に祈りを捧げる家人たち。神の子の無事を願っているのだろう。
こちらは気が抜けてしまったのか。従兄が椅子から滑り落ち、へたりこんでいる。
と、ここへ。
「ニャア」
幸運な猫、白玉が、ご機嫌な様子で帰宅した。
*
さて、と寝台を降りた草草は、正面の扉へと歩を進めた。
高い高い天井まで届く、砂色の扉だ。こちらも金の細工で三日月と、下には波のような模様が描かれている。いや、これは砂漠だろう、駱駝の歩く姿もある。
この扉が開けば――
ならば草草は、この部屋に閉じこめられたわけではない。
ここは砂漠の地下、西の冥神が支配する場所だ。この扉だけで判断することはできないが、まずは一つ、安心できるというもの。
白い手を、扉へ伸ばす。
《草神様》
「ん?」
すぐそば、いや、目の前から声がかかった気がした。かしこまったような、遠慮がちな、少し甲高い、仙らしきものの声だ。
草草が首をひねると、もう一度、声がした。やはり目の前だ。が、そこには砂色の扉と、行灯に照らされてできた自身の影があるばかり。
「……あなたは影、ですか?」
《はい。冥神様にお仕えする、影であり砂であります》
なんだかよくわからない答えだ。まずは相手の正体を見極めようと、草草は問いを重ねる。
「では、砂の姿も見せてもらえますか?」
《はい。申し訳ありませんが、少しお下がりください》
言われたとおり、一歩、二歩、三歩と下がると、影もつられて下がっていく。
《あ、下がりすぎであります》
こう言われ、首をかしげながら今度は一歩、前へ出る。坊ちゃんの影の、頭が扉にかかる程度だ。すると。
――ザ、ザザ、ザザザザ
扉に落ちた影から、ゆっくりと盛り上がるものがあった。
まずは砂色の、丸い頭が出た。細い首があり、肩へと続く。どうやら人の形であるらしい。ぱらりぱらりと端からこぼれているのは、砂だろう。
これを見た坊ちゃんは、ほほぅ、とうなずく。
確かに、影であり砂でもある。この仙は、影にひそむことができるらしい。影が砂にかかっていれば、そこから姿も現せる。
仙ノ物は砂色の扉から現れた。床には、異国風の赤い布が敷かれてあるのだ。ついでに砂粒も散らばっているし、砂色の部屋に砂色の体では、いまひとつ見つけにくいと思う。
便利なようでいて、若干勝手が悪い気も、しないでもないが。
この仙の実体が、影なのか、砂なのか、それはわからない。だが。
影なら臭いはなさそうだ。砂なら西風に混じってわからない。姿を成さず、影にひそんでいれば、気配もないのかもしれない。だから狼君と虹蛇は、この仙に気づかなかったのだろう。
そして、影に引きこむ力もあるのか。だから草草は、ここに連れてこられた。
ふんふんと納得している間に、坊ちゃんより少しばかり小さな、砂人、とでも言えばいいのか、そんな仙が現れた。
《草神様、このたびはまことに申し訳ありません》
砂人は片方のひざをつき、深々と頭を垂れている。
この謝罪が何を指しているのか――断りもなく連れてきたことなのか、これから起きることなのか。定かではないが、今のところ、こちらを害するつもりはなさそうだ。
ならばいろいろ聞いてみようと、草草は口を開く。
「どうして僕を連れてきたんですか?」
《実は……》
頭を上げた砂人は、堰を切ったように話しだした。
『今は下界に暮らす草神殿は、たいそうな名医だと聞く。ぜひ、わが王子、ラシャンの体も診てもらいたいものだ』
このたびの件の発端は、この、冥神の一言であったという。
『おお、それはぜひ!』
勢いこんだ砂人らに、しかし冥神は美しい顔を曇らせてため息をつく。
曰く、父である山神は、この草神をとても可愛がっているそうだ。こちらが伺いを立てたとして、はたして、愛する息子を遠い砂漠へやるのを許すだろうか。
『下界にいるのも、草神殿が願ったからだと聞くぞ』
『では、草神様が来たいと言って下さったなら、山神様もお許しになり、砂漠へお招きできるのでは?』
そこで砂人たちは、草神の様子をうかがうために風を吹かせて砂を乗せ、東へ送った――
『ふぅ、すっきりしたね。狼君、虹蛇、午後になったら散歩に行こうか』
西風の吹くこの日。内窓を閉ざした薬仙堂で、午前中いっぱいを薬作りに励んだ草草は、ずいぶん汗をかいていた。
裏庭で汗を流し、清々しくほほ笑む。
午後は菓子折りとお布施の一包みでも持って、ひょろりとした猫背の僧のいる、寺へ行ってみようか。
実はこれまで、坊ちゃんはこの寺を訪れたことがない。
僧に会うのも久しぶりだし、馬頭鬼の孫であるから少しお顔が長いらしい、徳の高い和尚にもお目にかかりたい。寺は街外れにあり、竹林に囲まれているそうで涼しげにも思えた。
こんなことを考えて、嬉しそうな笑みを浮かべた草草に、眉間にしわを寄せた心配顔と、形良い眉の下がった困り顔が、向く。
『坊ちゃん、今日は暑いし風も強い。そんなに動いては疲れてしまいます。目にごみが入って痛めてしまうかもしれません』
『坊ちゃん、今日はたくさん汗もかいたので、午後はゆっくり休みましょう? ほら、まだ読んでない本もありますよ』
『わかった。休むよ』
――これを見た砂人たちは。
《草神様が、砂漠に来ると言って下さるのは無理だろう。そう思いました》
こう言って、うなだれた。
散歩すら反対した守役が、はるか遠く、しかも昼は灼熱の砂漠に行っていいと言うはずもない。優しげな草神も、このものたちの進言をきっと素直に聞き入れるだろう。となれば、冥神が伺いを立てたところで、山神の許しも出はしない。
それでも、どうしても、どうしても王子を診ていただきたい。王子に元気になってほしい――
思い余った砂人たちは、たくさんの砂を風に乗せて送りこみ、術でもって草神を連れ去った。
聞き終えた坊ちゃんの顔には、ぬるい笑みが浮いていた。
季節はずれの西風は、草草が来仙にいたせいか。
このたびの件は、父神と守役たちの、あふれんばかりの愛情が原因とも言えるわけか。たいへん幸せなことではあると、重々承知しているが。
それに、あの西風の吹いた日。草草が、守役たちの言うことを大人しく聞いたのは、前の晩、鼠を操って盗みを働いていた外術使いを捕らえたからだ。
少し寝不足とも思えたし、あまり彼らを心配させたくもない。寺は西風がやんでからでもいいのだ、今日は白玉と遊ぼうか、などとも考えていた。
どうしても行きたければ、坊ちゃんは二人の仙を言いくるめる。
「では、このことを冥神様は」
話を聞くかぎり、砂人たちの独断で為したことであるらしい。となると冥神は、まだ草草がいることを知らないのだろうか。
どことなく気の抜けた声で、もうご存知でしょうか、と続けようとしたときのこと。
――愚かものどもが!
腹の底を震わせる、大音響がとどろいた。
*
「すごいねぇ……」
鍵のかかっているはずもない扉を開け、部屋を出た草草は、目の前で繰り広げられる光景に感嘆の声をもらした。
ここは砂漠の地下に広がった、大きな洞窟なのだろう。といっても冥神のおわす神界だ。人の出入りできる場所ではない。
洞窟には、何本もの岩の柱がそびえていた。はるか高い天井に、岩肌に、あるいは柱に、無数の行灯がぶら下がり、大洞窟を照らしている。
今、草草がいるのは岩肌をらせんにめぐらす回廊だ。手すりがあり、ここからは下を望める。そして底には――
「草神殿を無理やり連れてきたとは何事かぁ!」
あらぶる冥神の姿があった。
冥神は、確かに美しい女神であった。が、体は大きく目は三つある。額のちょうど中央に、縦長の目が開いている。肌の色は真っ青で、下半身は……
――ばしんっ、どしんっ!
サソリの尾、なのだろう。それが縦横にしなり、砂人たちを叩き潰していた。
しかし砂の仙は、これで死んでしまうわけでもないらしい。砂がザアッと崩れると、影から新たに湧き上がり、「痛かったであります!」などと叫びながらも冥神に許しを請うている。
山神の子を連れ去ったのだ。仙山と争うとまではいかなくとも、何事もなかったで済む話でもないだろう。冥神が怒るのも無理はない。
それにしても、これをどうすればいいのか。小首をかしげた草草は、ふと、視線を感じてふり向いた。
そこには扉があった。草草が寝かされていた部屋の、隣だ。扉はわずかに開いており、小さな人影も見える。
うっすらと肌が青いほかは特に人と変わりない、体にゆったりとした布を巻きつけた、五、六歳ほどの少年だ。こちらと目が合い驚いたのか、あ、と小さな口を開けている。
おそらく彼が冥神の息子、王子なのだろう。
草草を隣の部屋に寝かせたのは、起きたらすぐに王子を診せ、冥神に気づかれる前に帰すつもりだったのか。
いや、ここは冥神の統べる大洞窟、草神を隠すのは無理か。現に今、事は露見し冥神が暴れている。
砂人たちはただ、早く王子を診てもらいたかっただけかもしれない。
そんな彼らの想いに、彼らが大切に想う王子に、草草は優しくほほ笑んだ。
「僕は仙山の草神、草草です」
「あっ、あの……私は、め、冥の砂漠の王子、ラシャン、です」
王子は細い声でおずおずと、つっかえながら答えた。
体が弱いというから、もしかすると、外のものと話すのは初めてなのかもしれない。それでもこちらに興味はあるのか、大きな目を逸らさずにいる。
ふむ、とうなずき草草は、しかしわずかに首をひねった。
体が弱いと、草神に診てもらいたいと、そんな話であったはずだが、王子に悪いところは見られない。少々活力がないというのか、そんな程度だ。
もしかして……
「王子、おはようございます。今、起きたんですか?」
「は、はい。昨日はよく眠れなかったので……それで、物音がして」
寝坊したのが恥ずかしいのか、王子はうつむき気味にぽそぽそ答えた。草草は気にしなくていいのだと、優しげな顔を横にふる。
この王子は、あらぶる冥神を見慣れているのだろうか。これは不明だが、血気盛んな母の姿を見せる必要もないだろう。
そう考えた草草は、笑みを深めて扉へ近づき、王子のそばへ屈みこむ。
「王子、昨日はたくさん遊びましたか?」
「はい。本を読んだり、絵を描いたりしました」
「それはすごいですねぇ。じゃあ、散歩はしましたか?」
「い、いえ。歩くと疲れると言われてるので……」
草草は笑みを絶やさず、間に雑談を織り交ぜながら質問を重ねた。いわば問診である。
一日中部屋にいるのかと問えば、食事は地底にある美しい湖のそばで、冥神と一緒にとるという。では、どうやって行くのかと聞くと、母が抱いて連れていく。
だが、せっかくの母との食事なのにあまり食べられないのだと、王子はしゅんと眉を下げた。
外に出るのは十日に一度、緑の木陰へ。こちらは天蓋つきの車に乗せられ、砂人たちが牽いていく。
部屋にいる間も、彼らは本を取ったり水を注いだり、何くれとなく世話をする。長く起きていては疲れるからと横にさせられ、王子はうとうとと、寝入ることも多いという。
「……」
ただの過保護だ。
動かないから体力がつかない。腹も減らないから食欲も湧かない。たっぷり昼寝をすれば、夜は眠れないのも当然だ。陽に当たらないのも良くないだろう。冥神の血を引いているとはいえ、人の子でもあるのだ。
やはり、とも草草は思った。これまでの様子から、それとなく察しはつく。
草草が砂漠へ行くことを、山神はきっと許しはしない――これは冥神の考えである。自身ならばそう判断する、ということだ。案外、父神は「草草がいいと言うなら」と許したと思う。だから家出もできたし、下界行きは……三年待ったが。
守役たちも反対する――こちらは砂人の考えだ。そして合っている。
神や仙というものは、総じて過保護の病にでも罹っているのだろうか。などと考え、坊ちゃんはぬるく笑う。
「王子はもっと元気になって、外で遊びたいですか?」
「は……はい!」
大きな目をパチパチと瞬かせたのち、何度もうなずく少年に、草草は柔らかな笑みを向けた。
では、と草草が、回廊の手すりに近づいたとき、わずかな揺れを感じた気がした。
底では相変わらず、冥神が暴れまわり、砂人たちが蹴散らされている。揺れるのは仕方ないとも思えるが、何というのか、揺れというよりは何かが響いたような感じだった。それも天井からだ。
首をかしげ、上を仰いで見てみると、ぱら、ぱらり、から、からり、天井の一箇所が崩れているような。
ここは神界。冥神がおわすかぎり自然に崩れるはずはなく、どれほど怒っていようと大切な王子がいるのだ、冥神が壊すわけもない。
となれば、外からやって来たものがいる――草草は顔を引きしめ、一つ、うなずく。冥神が憤っている今、これはまずいかもしれない。
「おのれ、何奴!」
冥神も天井の異変に気づいたらしい。体は何倍にも大きくなり、その怒気によるものなのか、黒い炎をまといだす。
すると、小柄だった砂人たちにも変化があった。砂の体が膨れ上がる。筋骨隆々とし、色も黒ずみ岩のようだ。口からもれたうなりは低い。
――ゴォンッ!
その間も絶えなかった響きは、ひときわ大きな音を立て、ついに、天井に穴が開いた。
落ちた岩の塊は、砂人、いや、今は岩人か、が、これを激しく打ち払う。
開いた穴からのぞく姿は、暴風の渦を周りに侍らせ、うなりを上げる銀狼と、鋭氷の輪をいくえにもめぐらし、牙をむく白蛇だ。こちらも、いつもよりずっと体が大きい。
その後ろには、仙山の仙ノ物があまた。
《坊ちゃんを返せ!》
「わが界を侵すものを倒せ!」
うなり、怒声、威嚇の音、怒号。あらゆる音が重なり合い、大洞窟が不気味に震える。
互いの声など耳に届いていないのだろう。怒りがぶつかり重なり合い、それがさらなる怒りを呼ぶ。
ここで、何事かを話し終えた草草は、王子の小さな手を引いて、回廊に背筋を伸ばしてすっと立った。
不安げな青白い顔がうかがうと、優しげな顔はにっこりとうなずく。
天井と底で、両者がにらみ合ったのはほんのわずか。大狼と大蛇らは勢いよく落下し、冥神と岩人は、力強く地を蹴り上げる。
二つの怒りが、ぶつかる――
「やめて!」
草草と王子のそろった声に、大洞窟のすべてがぴたり――止んだ。
――それから。
天井からもれた幾筋もの光を受け、青の地底湖が柔らかく揺らめく。ほとりには白い、ほのかに光る小さな花が咲きほこる。
美しい敷物の上には、ゆったりとした異国の布をまとった草草が、花の蜜を垂らした芳しい水でのどを潤し、嬉しげに笑う姿があった。
「毎日、散歩か……」
《すっ、素振りもでありますか……》
「素振りはまだ早いでしょう。最初は無理しちゃいけません。王子の様子を見ながら、王子もがんばりすぎちゃダメですよ」
草草が顔をめぐらしこう言うと、人ほどの大きさになった冥神が、その横にちょこんと座った王子が、真剣な顔でうなずく。
そばに控える砂人たちは、素振りと聞いて動揺したのか、今は小柄な体をそわそわと揺らし、ぱらぱら砂をまいていた。
そして。
「まったく、出来の悪い守役だね! そんなんじゃ王子だって元気になれるわけがないじゃないか!」
「守役としてなってない! 失格だ!」
こちらは人の姿の虹蛇が、髪にくっつこうかというほどに綺麗な眉をつり上げて、狼君は眉間に果てしなく深いしわを刻みこみ、砂人たちをねめつける。
冥神と砂人から詫びはあったのだが、まだ怒りが収まらないのだろう。
ここで草草は、二人の仙をいさめたりはしなかった。守るべきものを攫われたのだ。怒るのは当然のこと。それに。
こうして自分を見つけだし、ちゃんと迎えに来てくれた。それがとても嬉しくて、この守役たちがとても誇らしく思えたのだ。
砂人たちを向く、鋭い眼光と剣呑な眼差しを眺めれば、ふふふ、と弾んだ笑いがもれる。甘えた瞳で見つめていれば、やはり狼君の頬はほころび、虹蛇の耳は赤くなった。
《わ、我々が守役失格ですと!?》
「ああ、失格だね!」
が、砂人たちも悔しかったのだろう。すぐに言い争いが勃発する。
これをのほほんと聞きながら、草草は昔のことを思いだしていた。こちらの守役たちにも、ふり返ってみれば失敗はあったのだ。
狼君は『健康な若者に』と彼なりに真面目に考え、人の世を学んだのだろう。どこぞの軍の鍛錬を持ちだしては、幼い坊ちゃんをへたらせた。
以来、心配性に拍車がかかった。
虹蛇はとある日、蛇の姿で坊ちゃんを乗せ、まとった水の輪を泳ぐように宙をのどかに飛んでいた。はしゃぐ草草に気を良くしたのか。幼い声の望むままに、どんどん高く、ぐんぐん速く。そして、坊ちゃんは落っこちた。
以後、虹蛇は自身が心配だと思えば、坊ちゃんをいさめるようになった。ほんの少し、至上主義を返上したわけだ。
《ですが……お二人だって草神様を奪われたであります!》
「なんだって! あんな卑怯な術を使っておいて、よくもそんなことが言えたもんだね!」
《ひっ、卑怯ではありません! あの術は我々の力を結集した素晴らしい技であります!》
「正面から堂々と来い!」
砂人たちは逃げまわり、狼君がこれを追いかける。虹蛇はもちろん坊ちゃんのそばで、射殺さんばかりの眼差しを砂人たちに向けている。
「こ、こっちが悪かったんだから、ちゃんと謝らなきゃダメなんだよ」
ここで騒ぎを収めたのは、眉を下げておろおろと、それでもしっかりと顔を上げた、小さな王子であった。
このたびの件で、王子は少し大人になったのかもしれない。砂人たちも、こうやって失敗しながら守役として成長していくのだろう。坊ちゃんと、二人の仙と、同じだ。
みなの様子を眺め見て、草草は楽しげにほほ笑んだ。
「じゃあ、王子。また遊びに来ますからね。少しずつでいいんです。無理しちゃダメですよ」
「はい、わかりました。あのっ、お待ちしてますので、また来てくださいね!」
にっこり笑った草草に、王子は寂しげな顔でうなずく。
遠い西の砂漠に、小さな友人ができた。涙の浮いた目元をそっと指で拭ってやると、手を握って再会を誓う。
坊ちゃんは冥神に丁寧な挨拶を置いて、二人の仙は砂人たちをどやしつけ、王子に手をふり飛び立った。
来仙に戻った草草は――
「え? 来仙がずっと揺れてたんですか?」
「ええ! 狼君様と虹蛇様が姿を消されてすぐ、でしょうか。小さな揺れではありましたが、ずっとです!」
息子を連れ去られたことで、やはり父神は怒っていたようだ。
それは大変だっただろうと、迷惑をかけたと、草草は疲れきった感じの従兄をなぐさめた。
「きっとあの西風で、この部屋にも砂が入りこんでたんだよ。砂人がもう術を使えないように、ひと粒だって残しちゃおけないね!」
「お任せください!」
虹蛇の言葉を聞きつけた従妹は、もう陽は沈んだというのに張りきって、草草の部屋を掃除した。
そして夜、広い広い寝台には、すぅすぅ眠る坊ちゃんの姿。
その手には、ふっさりとした銀の尾と、艶めく白の尾の先が、柔らかく握られていた。