第十一話 幼妖猫
今日は西風が強い。隣国の砂漠の砂が舞っているのか、空はかすみ埃っぽい。
薬仙堂は、作る薬にごみが混じってはいけないと、暑い日にも関わらず窓をぴたりと閉ざしていた。
とはいえ、閉めているのは薄布を張りめぐらした内窓で、ついたての奥まで、ぬるく頼りない風なら届くのだが。
「下界の夏は暑いんだねぇ」
爽やかな水色の着物をゆったりと羽織り、涼しげな白い面に苦笑いを浮かせた草草は、ふぅとひとつ、吐息をもらす。
「坊ちゃん、無理しちゃいけませんよ」
「坊ちゃんは、下界の夏は初めてですからねぇ。ちょっと休みましょうか」
眉間にしわを寄せ、迫力を増した心配顔の狼君が、手のひらをくゆらすと涼しい風がそよぎだす。
美麗な顔にいたわりの笑みを浮かべた虹蛇は、湯のみに砂糖水を注いで、ふうとひと吹き。すると、水はさわりと凍りつく。これをさじでしゃくしゃくと割り砕き、坊ちゃんに「どうぞ」と差しだした。
仙山であれば、夏は涼しい風が吹きわたり、水はいっそう冷たく澄む。冬なら陽射しは柔らかく、地には湯気の湧きでるところもある。
下界より、はるかに過ごしやすい神界で生まれ育った草草を、坊ちゃん心配性と坊ちゃん第一の守役たちが、心配し、何とかしたいと思うのは当然のこと。
「狼君、虹蛇。ありがとう」
草草はとびっきり嬉しそうにふんわりと笑い、涼風に目を細めながら冷えた湯のみを受け取る。
さじで氷混じりの甘い水をすくい、さあ、と口を開けたとき、ついたてから従兄の顔がのぞきこんだ。
「あの、草草様、お役人さんがいらっしゃいましたが」
途端、優しげに細められていた目は鋭い眼光を取り戻し、綺麗な弧を描いていた眉はその一方が跳ね上がる。
「坊ちゃんは今、休憩中だ!」
「あの役人、また坊ちゃんを頼ろうっていうのかい? そんなことだから、いつまでたっても知恵がまわらないのさ!」
これを受け、従兄の頬はひくりと引きつる。
従兄に当たってはいけないと、役人が持ってくる話も結構おもしろいと、二人の仙をなだめる言葉が少々出遅れたのは、ちゃっかり、坊ちゃんの口に甘い氷が含まれていたせいだった。
「金を盗む幽霊など、いるんだろうか?」
店の端に置かれた卓で、役人は太い眉をギュッと寄せ、無骨な顔をさらに無骨な感じにしかめた。
これに、草草は首をひねる。
「霊ですよねぇ……よほど思い入れのある品に憑く、というならわかりますけど。狼君、虹蛇、どう思う?」
「坊ちゃんの言うとおりだと思います。だいたい、霊が金を盗んで何に使うんだ?」
「そうだよ。霊になったら食べ物も着物もいらないんだ。そんな霊がいたら、よほどの業突く張りだね。あんた、盗人が見つけられないからって、霊の仕業にするつもりかい?」
不機嫌そうな仏頂面と、ふんっと鳴らした鼻の音が、役人を攻めたてた。坊ちゃんの休憩を邪魔し、こうして手を煩わせているからだろう。
その坊ちゃんはといえば、冷えた湯のみを卓に持ちこみ、今もさじを口に運んで頬をほころばせているのだが。
「いやっ、そんなつもりはないぞ! 盗人の仕業ならちゃんと捕まえるつもりだ」
「つもりつもりってあんた、坊ちゃんの知恵を借りずに捕まえられるのかい?」
ここでも坊ちゃんの、二人の仙をなだめる言葉は出遅れた。
近ごろ、この辺りの商家が三軒、泥棒に入られている。
この無骨そうな真面目そうな役人は、せっせと調べて歩く間に、妙な話を小耳に挟んだ。
――金を盗んだのは、少し前に亡くなった金貸しの爺の幽霊だ。
どうしてこんな話になったのか。とある商家の厳重な蔵から、金が盗まれたからだ。
この蔵には凝った鍵がひとつだけ。その鍵は、主人が肌身離さず持っていた。錠にこじ開けた跡はない。ほかに入口は、天井近くに小窓がふたつ。こちらは格子がついているし、そもそも人が出入りできる大きさではないそうだ。
ほかの商家も、どこから泥棒が入ったのか、いつ忍びこんだのか、まったく手がかりがない。だから。
人ならざるものの仕業ではないか。金を盗むなんてきっと欲深い奴だ。ならば、最近亡くなった金貸しの爺の幽霊に違いない。となったらしい。
ここは来仙でも一等繁華な通りだ。そこで泥棒騒ぎが起きている。人々はおもしろ半分、ひやかし半分、こんな噂をしているのだろう。
役人は、これを頭から信じているわけではない。ないが、もし本当に妖しげなものの仕業だとしたら……と考えるほどには、調べが行き詰っているというわけだ。
「うぅん……」
これを聞き、草草はちょいと首をかしげた。
人はそれぞれ十人十色。そうした霊がいないとは、断言はできない。が、どうだろうと思う。
本当に欲深い霊の仕業だとしたら、金だけでなく、蔵に残されてあったという黄金に銀塊、美しい玉、掛軸や壺も盗んでいくのではないか。
生きた人ならば、売りさばく際に足がつくかもしれないと心配もするだろうが、霊がそんなことを気にする必要はない。
あるいは、人とは違う価値観を持つ妖物の仕業か、と考え、これも違うだろうと首をふる。
妖物は金などいらないと思うが、光る物が好き、ならばいるだろう。しかし、それなら煌めく黄金に銀、玉は盗まれただろうし、逆に、長年使われ輝きを失った金は残っていなければおかしい。
盗まれたのは金ばかり。錠の壊された銭箱の中身が、綺麗さっぱりなくなっていたのだ。
「だから金貸しの爺さんの幽霊、なのではないか?」
「金貸しだから、お金だけに執着してるってことですか?」
役人の言葉に、珍しく坊ちゃんの首はあいまいにゆれる。だが、とも思う。
盗まれたのはそれぞれの蔵で、銭箱が一つずつ。ほかにも銭箱はあったそうなのだ。金に執着する霊が、なぜすべてを盗まないのか。
それに、三軒の商家はきっかり十日置きに泥棒に入られている。すでに亡く、何ものにも囚われることのないであろう霊にしては、ずいぶん律儀な気もするが。
草草が首をかしげはしたものの、反論はしなかったからか。この考えに自信を持ったらしい役人の、太い眉がきりりと持ち上がった。
「もし相手が幽霊となるとだな、草草殿に力を貸してもらわなければ、その金貸しの爺さんを捕まえることは」
と、続けたときのこと。
――ミギャー!
薬仙堂の店先で、ものすごい声が上がった。
一堂がふり向けば、そこにあったのはまだらに灰色がかった毛玉――いや、よく見てみれば、丸々と太った猫だ。
灰猫は、巨体をゆらしてどすどすこちらへ駆けてくる。そして、ぼんっと丸い体は思いがけなく弾んだ。
灰の毛玉が宙を飛ぶ。卓に向かって鋭い爪がシャキリと伸びる。
「坊ちゃん!」
草草はいち早く遠ざけられて、虹蛇の腕の中だ。狼君の手が灰猫をつかもうと伸びる。が……
「ミギャア!」
「ぐあっ!」
爪の狙った先が、無骨そうな真面目そうな役人であったためか。狼君の手は途中で、やる気のなさそうな感じで止まっている。
あとには、鼻先を引っかかれ、血をにじませて太い眉を情けなく下げた役人と、その腹をぼすぼすと叩き続ける灰猫がいた。
*
「さ、お食べ」
「ニャア」
これほどの毛玉では今日はさぞや暑かろうと、草草が氷混じりの砂糖水を皿に出してやる。
灰猫は嬉しそうにひと声鳴き、赤い舌でなめ始めた。
ここは草草の部屋だ。作る薬に毛が入ってもいけないと、彼らは猫を連れて店からこちらへ移っていた。
鼻先に薬を塗ってやった役人には、「では調べてみます」と言って、ひとまずお帰りいただいた。
なぜかというと――
「白玉、お爺さんが泥棒じゃないんだね?」
草草がこう問えば、灰猫――白玉はニャアと鳴く。さらに続けてニャッニャッと鳴く声は、「鼠! 鼠!」と訴えている。
草草たちには猫の言葉がわかる、というわけではない。この白玉、ちょっとばかり妖物の力を持っているのだ。
白玉は、先ほどの話にあった、少し前に亡くなったという『金貸しの爺』に飼われていた猫だ。
猫としてはずいぶん婆のようだが、妖物としては生まれたて。長い年月を生きたからか。はたまた可愛がってくれた爺が、仙山の薬草から作った、薬仙堂の甘い薬湯を飲ませていたためか。妖の力を得た。
といっても、まだ大した力はない。人の言葉がわかる。以前はよたよたと歩いていたのが元気に駆けまわれるようになった。これくらいの違いだ。
このこともあって、守役たちが白玉を、何をするかわからない妖物だからと遠ざけることはなかった。
爺を泥棒扱いした役人には襲いかかった灰猫が、どすんと床に下りると、草草の足元に行儀よく座ってニャアと挨拶したのも良かったのだろう。
礼儀をわきまえた猫だと、狼君は真面目くさった顔でうなずいていたし、虹蛇は誰かに見習わせたいものだと、鼻を押さえる役人に細くした目をくれていた。
その、白玉の話はこうだ。
ある日、街を歩いていた白玉はこんな話を耳にした。
『あの泥棒、金貸しの爺さんの幽霊なんだってね。まったく、死んでまで金が欲しいのかねぇ』
『生きてるときも、金返せ、金返せってうるさかったからな。まあ、狙われてるのは金持ちだけだ。俺たち貧乏人の家に爺さんの幽霊は来ないだろ』
『生きてるときから来ないでほしかったねぇ』
ニタニタと、声を上げて笑う男たちを見て、白玉は頭に血がカァッと上った。
爺はとっても優しかった。白玉を大事に大切に可愛がってくれた。いつもにこにことして、あったかい手でなでてくれた。おいしい薬湯もごちそうしてくれた。
そんな爺が泥棒なんて、するはずはない。これは何としても爺の汚名を晴らさなければ。
白玉は、泥棒が出るという一等繁華な通りを目指して駆けた。もちろん、男たちの鼻先を鋭い爪で引っかいてから、だ。
「それで、妙な鼠を見たんだね?」
草草が、ごわごわとした灰色の背をなでてやると、よほど腹を空かせていたのか甘い氷を一心になめていた白玉は、きちんと顔を上げてニャアと鳴く。
白玉は何夜も、何夜も、この通りをがんばって見張っていたのだ。そして、ついに怪しげな鼠の一団を見つけた。なぜだか、墨臭い鼠だ。
白玉はこれを追う。しかし、ちょうど薬仙堂の辺りで、鼠の気配はかき消すようになくなった。
以来、この灰猫は通りを歩きまわり、床下にもぐりこみ屋根裏をのぞきこみ、鼠を探しているという。
まだ妖の力は少なくとも何がしかを感じたらしい。薬仙堂だけは遠慮したそうだが。
「あんた、そんなに小さいのに主人のために泥棒を探してるなんて、偉いねぇ」
「あの役人は、やはり白玉を見習うべきだな」
虹蛇が口の端を上げ、満足げにふふんと笑う。狼君のしかめっ面は大きく一度、縦にゆれる。
二人は、坊ちゃんだけが大事とばかり、一心に仕える仙ノ物。妖物としては幼い灰猫のがんばりが、お気に召したようだった。
ちなみに、白玉は猫としては巨大である。
「白玉、教えてくれてありがとう。さ、お食べ。あとでご飯と、薬仙堂の甘い薬湯もあげようか」
背をひとなでし、白玉の嬉しげな鳴き声に頬をゆるめた草草は、さて、と目の玉をまわす。
墨臭い鼠に、金貸しの爺の幽霊、そして、手がかりも残さずに忍びこむ泥棒。その泥棒は十日置きに盗みを働き、足のつきにくい金のみを奪っていく。しかも、銭箱一つだけ、だ。
泥棒は人の仕業のように思える部分もあるが、白玉が怪しげな鼠の一団を見ている。
金を盗んだところは見ていないそうだが、白玉曰く、泥棒に入られた商家は猫を飼っていないとのこと。鼠の泥棒だから、猫のいる商家は狙わないと言いたいのだろう。
これには坊ちゃんも、納得顔になった。
鼠の一団は、やはり怪しい。
まだ大した力はないとはいえ、妖物である白玉からも逃れるほどの鼠だ。なぜだか墨臭く、薬仙堂の近くで突如、気配を消してもいる。
草草は、ふむ、とうなずき虹蛇を見やる。
「ねえ、虹蛇。僕が風邪をひいてる間、向かいの本屋に行ってくれてたよね。そこに変わった本はなかった?」
白玉を眺めて、「しかし、猫にしてはよく食べるねぇ」と呆れ顔になっていた虹蛇は、すぐさま綺麗な笑みを作ってこちらを向く。
「変わった本、ですか?」
「うん。たとえば鼠の絵がたくさん描いてあるとか、変な力を感じるとか」
ここまでを言うと虹蛇は、ああ、といった感じでうなずいた。
*
草草はまず白玉を連れ、すでに隠居し、ゆるりと読書や縫い物をしていた薬仙堂の祖父母の部屋に、お邪魔した。
「お祖父様、お祖母様。申し訳ありませんが少しの間、白玉を預かっていただけませんか?」
草草はこれから、このたびの泥棒について調べようと思っている。
その間、部屋にひとりでは白玉も暇だろうし、そこには黄金壺や水応鏡、羽衣製の着物といった、神や仙に属さないものには危うい品もある。
利口な猫ではありそうだが、念のため、だ。
「これは、ずいぶん立派な猫でございますね」
「あら、お辞儀して、お利口ねぇ。さ、いらっしゃい」
灰色の毛玉を見て、目をパチパチとしばたいた祖父に相好を崩した祖母。祖母がなでると、白玉も可愛げに鳴く。
この灰猫は「ありがと」と言っているのだが、祖父母にはニャアとしか聞こえていないだろう。
白玉は人の言葉を解しても、まだ、人の言葉を声にはできない。
いずれは話すようにもなるだろうし、人の姿を取ったりも、できるようになるだろう。
「白玉は、薬仙堂の甘い薬湯が好きだそうです」
祖父母にはわからないだろうからと、草草は白玉の好みを伝えてやる。
「おお! そうでございますか。ちょっと待ってるんだよ」
これには祖父も頬をゆるめ、歳のわりには足取りも軽く、いそいそ部屋を出ていった。さっそく薬湯を与える気のようだ。
これなら大丈夫だろうと、草草はくすりと笑みをもらす。
白玉に「いい子にしてるんだよ」と声をかけ、次は、伯父の下へ。
「伯父上、少し前に亡くなったという金貸しのお爺さんは、どんな人だったんですか?」
こう問うて、草草は小首をかしげた。
人からの話と白玉の言では、受ける印象が大きく違う。もし白玉の言うようなだけの人物であったなら、泥棒だ、などと噂されたりはしなかったと思うのだ。
このたびの件に金貸しの爺は関わりないだろうが、長年下界を学んできた坊ちゃんの、ちょっとした好奇心である。
「それは、きちんと金を返さなかった者の恨み言でしょう」
伯父は眉をひそめて首をふり、「この辺りの商家でも借りた方はおりますが」と続ける。
金を貸すのも、貸した金を取り返すのも、金貸しにとっては商売だ。
この爺は、期日になるまで金を催促することはなかったし、きちんと返す者には折り目正しく接していた。もちろん利息を誤魔化すようなこともなく、まことにしっかりとした商売人だったと、ふたたび首をふる。
この繁華な通りの商家では、むしろ爺は信用を得ていたようだ。
これには草草も納得した。
金を借りるときは頭を下げていい顔をするが、返す段になると何だかんだ理由をつけてはごねる。
爺はこうした者に対して、厳しい取り立てをしたのだろう。それが商売だ。
そして今、泥棒の濡れ衣を着せられているのだから、こうした者が多かった、ということでもある。
草草がこんなことを口にすると。
「その爺さんは何も悪くないじゃないですか。人ってのは勝手なものだね」
「借りた物を返すのは当たり前のことです」
虹蛇がふんっと小気味よく鼻を鳴らせば、仏頂面になった狼君の口からは、至極まっとうな台詞が出た。
そこへ伯父のため息が続く。
「本当でございますね。どこから出たのか存じませんが、あの爺様の幽霊が金を盗んだなどという話は、この辺りの者は誰も信じておりませんのに」
「……そうですか」
坊ちゃんは、役人がこの辺りの商家で、『泥棒は爺さんの幽霊だ』などと口を滑らせていなければ良いが、と、ぬるい笑みを浮かべていた。
それから草草と二人の仙は、ようやく目的の、向かいの本屋を訪れた。
「いらっ……しゃい、ませ」
本屋の使用人は、只ならぬ貴人と武人と策士の姿を認めてはギョッと目を見開き、おどおどといった感じで頭を下げる。なんだか腰まで引けているような。
毎日のように挨拶しているのに、まだ慣れていないのだろうか。ゆるりと笑った草草は、しかし、それだけではないと気がついた。
鋭い眼光は今、ギラリと光っている。『坊ちゃんがそんな妖しげな本を見るんですか?』と心配なのだ。
その心配を『あんな本、たいした力はないよ。我らでどうとでもなるさ』と、一蹴したのは虹蛇である。
本の存在に気づいていながら、これまで何も言わなかったのは、薬仙堂に関わりがなかったからだろう。彼は坊ちゃんが無事ならそれでいい。
その、切れ長の目は細く尖っている。たいした力はないと見ても、警戒だけは怠らないようだ。
これ以上の心配はかけまいと、草草は守役たちに挟まれて、大人しく歩いていく。
店にはところ狭しと棚が並び、種類ごとに、本が丁寧に重ねて置かれてあった。
一箇所、娯楽本の減りが激しいのは、坊ちゃんが風邪をひいた際、虹蛇がごっそりと買いあさったせいだろう。草草は今、時間を見つけては楽しくこれを読んでいる。
「坊ちゃん、この本ですよ」
虹蛇が指したのは、娯楽本の端のほうに、追いやられるようにして置いてある鼠色の本だ。表題は『鼠一座の珍道中』。
草草が手を伸ばすと、虹蛇にそっと止められた。代わりに狼君の手が、本をむんずとわしづかむ。
守役たちは坊ちゃんに、妖しげな本をさわらせるのが嫌らしい。
「この本は鼠臭いし、血の臭いもします」
「妙な力は、鼠と、人のものも混じってるようですよ」
眉間にしわを寄せた狼君が、ぱらりぱらりと本をめくる。虹蛇は片方の眉をつり上げて、坊ちゃんを隠すように立ちはだかる。
そんな二人の隙間から、ひょいと首を伸ばしてのぞき見た草草は、うん、とひとつうなずいた。
本には、たくさんの鼠の絵が書かれてあった。どうやら鼠の芸人一座がおもしろおかしく旅をする、といった話であるらしい。だが今、内容はどうでもいい。問題は絵のほうだ。
あまり絵はうまくない。墨の色も少々おかしい。
「これ、鼠の血を混ぜた墨で書かれたんじゃないかな?」
草草がこそりとささやけば、眉間のしわはくっきりと、形良い眉はきりきりと、刻まれ跳ね上がっている。
使用人には聞こえないよう、坊ちゃんはぽそりぽそりと話しだす。
おそらくこの本は、こういう風に作られた。
まず、たくさんの鼠を捕る。殺したのか、生き血を抜いたのか。この辺りはわからないが、そうして集めた血を墨に混ぜ、この鼠は描かれた。
このとき、妖しげな呪文を唱えたりもしただろう。妙なお札も使ったかもしれない。
「では、この本を書いたのは道士崩れの外術使い、ということですか?」
「それじゃ、その外術使いが本の鼠を操って、盗みを働いてたってことですか?」
二人の仙の問いに、草草はそうだろうとうなずいた。
人には忍びこむのが難しい蔵であっても、小さな鼠ならば簡単だ。役人がどれだけ調べようと、人の仕業ではないのだから、それらしい手がかりなど見つかりはしない。
金だけを盗んだのは、物だと売りさばいたときに足がついてしまうから。だけでなく、鼠が小窓の格子から持ち出せる大きさだからだろう。
十日置きに盗みを働いたのは、外術使いにも仕事か何かの都合があるのか。
あるいは――
「その外術使い、一度鼠を操ると、次に術を使うまでに時間が必要なんじゃないかな?」
夜ごと鼠を操るほどの力はないのでは、と草草は、続けて指を一本立てる。
それならば、本屋に鼠の本を置いた理由もわかる。
この繁華な通りに本があれば、鼠たちは本屋から目的の商家まで、動く距離が少なくて済む。
つまり、力の節約だ。
鼠にしたのは、忍びやすさに加えて、数を集めやすかったからだろう。
だが、小さな鼠だからこそ、金を運ぶには手間がかかる。外術使いの力が弱ければ、一晩中操るのも難しいかもしれない。だから、銭箱一つ分の金しか盗めなかった。
娯楽本にしたのは、たくさんの鼠が描かれてあっても誰も妙だとは思わないからだ。
それに、と草草は小首をかしげた。
「この鼠、あまり上手じゃないよねぇ。こんな絵を掛軸にしても、目的の店に持ちこんだところで、飾ってもらえないと思うんだ」
本ならば、紙を多く使ってあるからそれだけでも価値はある。安値で売れば、本屋になら置いてもらえる。
これを聞き、狼君は納得顔を大きくゆらす。虹蛇はふふんと鼻で笑い、こう続ける。
「確かにこんな絵じゃ、この本屋だってせいぜい、紙代くらいしか払わなかったんじゃないですかねぇ」
話を終えると、守役たちは「さすが坊ちゃん」と褒めたたえた。
しかしその横で、草草の脳裏には、かつて菓子作りを手伝ったときのことが思いだされていた。
銀にも見える毛を持つ大狼と、七色に艶めく白い大蛇を、餡に彫ったときのことだ。草草の絵は、確か、狐とひもにしか見えなかったような……
坊ちゃんはふるりとひと振り、ひとまず、思いださなかったことにした。
*
数日後の、星々が煌めきそよとした風の吹く、半月が街を照らす夜のこと。
「ここで見ていれば、その鼠とやらが現れるのか?」
店じまいをした薬仙堂に、無骨そうな真面目そうな役人の声がこだまする。
窓はわずかに開き、向かいの本屋がよく見える。そこに陣取ったのは役人、ではなく灰色の毛玉、白玉だ。
ほのかな明かりのともる卓で、守役たちに囲まれながら座る草草の肩には、いつもより着物が一枚、多くかかっている。
これは湯冷めしてはいけないと、狼君がかけてくれた物……
前回の夜更かしでは――妄念をけしかけに行ったときのことだ、翌日、坊ちゃんが風邪をひいてしまった。
『なぜ坊ちゃんが風邪をひいたのか。同じ過ちを犯さないように、よく考えなくちゃいけない。人である従兄殿も相談に乗ってくれ』
狼君はよほど真剣だったのだろう。ギラギラと眼光を光らせて、従兄にこう詰めよった。
おどおどを通り越し、がくがくする従兄。その答えは――
『あっ、あの……けっ、毛皮が、わ、悪かったんじゃないでしょうか?』
このときも湯冷めを心配した狼君は、夜更かしの際、ふんわりとした毛皮を草草に羽織らせていた。
これが暑すぎ汗をかき、逆に体が冷えたために風邪をひいたのだろう。と、従兄は勇気をふりしぼって進言したわけだ。
これを聞き、この世の終わりかと思うほどに肩を落とした狼君を、元気づけるのに、坊ちゃんはたいそう苦心した。
まあ、こんないきさつがあったので、毛皮は止めて着物になったのだろう。おかげで、草草は今宵を快適に過ごしている。
「たぶん、鼠は現れると思いますよ。今日は前の盗みからちょうど十日経ってます。まだ、猫を飼ってない商家も何軒もありますからね」
役人の問いかけに、草草はこう返して請け負う。
「む……するとその鼠は、薬仙堂に忍びこむ可能性もあったというわけか」
今日は灰猫がいるから大丈夫だろうが。こう続けた役人の、存在感のある太い眉が、ぼんやりとした明かりの中でもギュッと寄ったのがよくわかった。
これを見て、少しばかり口元をゆるませた草草は、しかし、それはないだろうと思う。ここには大狼と大蛇がいるのだ。鼠が近づくはずもない。
心配してくれた役人には申し訳ないが、これを言うわけにもいかない。
こんなことを考えながら、坊ちゃんがぬるくほほ笑んでいると。
「坊ちゃん」
何かを感じたらしい、虹蛇がささやく。狼君の鼻はすんっと鳴る。
「ニャッ」
わずかあと、白玉が小さく、けれど鋭く鳴いた。声は「鼠!」と言っている。
「なんだ? ついに鼠が現れたのか?」
役人が窓の隙間に顔を寄せると、これを狼君が引きはがし、虹蛇は「坊ちゃん、どうぞ」と勧めてくる。
ここで草草は、遠慮なく窓をのぞき見た。
「たくさんいるねぇ」
通りには、黒い小さな影が、ぞろぞろとうごめいていた。三十、いや、五十ほどもいるだろうか。それは本屋の床下から出てきているようだ。
目をこらして見てみれば、確かに鼠とわかる。が、前歯がひどく大きい。あの歯で壁に穴を開け、忍びこむのだろうか。銭箱の錠も食い破るのだろうか。ただの鼠ではなさそうだ。
その一団はぞろぞろと、右のほうへ駆けていく。
「ニャッ、ニャッ」
早く追わなきゃ、と訴える白玉に、草草はにこりと笑い背をなでて、大丈夫だとささやいた。
小さな鼠が銭箱一つ分の金を運ぶには、それなりの時間がかかるだろう。こちらには二人の仙もいる。妖しげな術が使われている今、彼らが外術使いを逃すことはない。
「ねっ、鼠は現れたのか? どうなってるんだ?」
役人はといえば、狼君が窓から引きはがしたせいだろう、白玉の言葉もわからないからだろう、状況が把握できていないようだ。
太い眉はあいまいに下がり、まぶたはパチパチ忙しい。
今回の目的は、白玉の願う、金貸しの爺の汚名を晴らすこと。役人には何としても、外術使いを捕らえてもらわねばならない。それに。
草草がチラリと心配したとおり、役人は「泥棒は金貸しの爺さんの幽霊かもしれない」と口を滑らせていた。真面目ゆえに告げたのだろうし、断定していないだけマシではあったが。
おかげで今、この辺りの商家では、「あのお役人さんでは、きっと盗人は捕まりませんねぇ」といった話がささやかれている。
ここはしっかり解決し、役人の信用も回復すべきだろう。
「では行きましょうか。お役人さん、盗人を見つけたらがんばってくださいね」
草草がにっこりほほ笑むと、訳がわからないだろうに役人は、「う、うぬっ」とうなずいた。
鼠を追った一行は――
「すごいねぇ」
物陰にしゃがみこみ、一軒の商家をうかがう草草は、ふんふんと感心した風にうなずいていた。
月の照らす静かな通りを、銭束を背負った鼠たちがせっせせっせと駆けている。
商家の塀を見てみれば、下のほうに穴を開けたのか、そこから銭束が押し出てくる。向こう側にも鼠がいるのだろう。それを器用に引っぱり背に巻きつけ、鼠たちは駆けだすのだ。
塀のうちの蔵には、天井の窓に鼠だろう小さな影が、二つ。銭束らしき物を庭へ向かって投げている。落ちた音はしないので、こちらにも受け取る鼠がいるらしい。蔵の中にも、銭束を渡す鼠がいるのだろう。
人が操っているせいなのか、なんだか動きも人臭い。
「なかなか手際がいいねぇ」
坊ちゃんは泥棒鼠を褒めたりしつつも、灰猫の背をなでることは忘れない。やはり猫だからか、白玉が、うずうず体を揺らしているのだ。
それでも大人しく留まっているのは、この騒動の元凶は外術使いだと、ちゃんと理解しているからだろう。利口な猫だと頬がゆるむ。
「坊ちゃん。向こうに怪しげな奴がいます」
「五、六本、向こうの通りですかねぇ。その辺りから妖しい力も感じますよ」
すんっと鼻を鳴らした狼君の、片眉をつり上げた虹蛇の、鋭い眼光と剣呑な眼差しが一方を向く。
鼠たちが金を運ぶ方角だ。そこにいるのが外術使いだろう。
夜とはいえ、ここは繁華な通りだ。いつ誰が通るかわからない。だから自身は姿を隠したまま、金を受け取るつもりなのだ。鼠を操るための術具を、広げる都合もあるかもしれない。
「じゃあ、手はずどおり」
この鼠は、白玉や役人が相手にするには、数も多いし厄介そうだ。だから手はずどおり、回りこんで外術使いを捕まえよう、と草草が続けようとしたとき。
「逃がさんぞ!」
「ミギャー!」
役人が思いのほか颯爽と、白玉は相変わらずどすどすと、止める間もなく駆けだしてしまった。手はずはどこへいったのか。
怒鳴り声と雄たけびが、夜のしじまに響きわたる。
これに、鼠たちの動きはぴたりと止まった。それから逃げる様子を見せ、しかし、声に気づいた外術使いが何かしたのだろう。
鼠たちは方向を変えて一斉に、一人と一匹に襲いかかる。
「ぬっ、おおう! おうっ」
小さな鼠たちの素早い動きに、役人は翻弄されているようだ。ときおりかじられるのか、悲鳴が上がることもある。
「ミギャア! ギャッ! ニギャッ!」
一方――灰の毛玉はぼんっと弾み、華麗に宙を舞っていた。
白玉は前足を巧みに繰りだし、鼠を切り裂いているらしい。猫だからか、妖の力があるからか。爪で裂かれた鼠は、紙に戻っているようでもある。数が徐々に減っていく。
「白玉って、足が遅かっただけで強いんだね」
坊ちゃんの口から、ほう、と感嘆の息がもれた。そういえば、と思いだす。役人に躍りかかった姿も実に軽やかだった。
「大丈夫みたいですねぇ」
幼い妖物の雄姿に満足したのか、虹蛇はふふんと楽しげに笑う。役人のほうは、ちっとも大丈夫じゃないが。
「坊ちゃん、外術使いが逃げるようです」
ここで鼻を動かす狼君が、こちらを向いた。
「……悪いんだけど、捕まえてもらってもいい?」
本当は役人の仕事だったはずなのだが。チラリと見れば、鼠と格闘する役人にそんな余裕はなさそうだ。
草草の、ぬるく笑った困り顔がななめに傾くと、狼君は任せてくださいといった感じで力強くうなずく。そしてギロリ、役人への一瞥を残し、黒い影が夜の街を駆け抜けた。
もちろん坊ちゃんの身は、尖った目を役人に向けて鼻を鳴らした虹蛇が、しっかりと守っている。
――翌朝のこと。
「ニャア」
薬仙堂の裏庭で、素振りを終えた草草を見上げ、白玉が、ひと声鳴いた。灰猫はこんなことを言っている――ありがと、でした。
昨夜、役人は見事、繁華な通りを騒がせていた泥棒を捕まえた。いや。
夜ごと見張って鼠を見つけたのは白玉だし、そこから考えをめぐらしたのは坊ちゃんだ。虹蛇は妖しげな本を見つけていたし、外術使いを捕まえたのは狼君である。もう一つ言えば、鼠を退治したのは華麗に舞った灰猫だが。
ともかく、これで白玉の亡き主人、『金貸しの爺』の汚名は晴れるだろう。役人の信用も、回復すると思われる。
「ニャア」
さよなら、と残した白玉は、くるりとこちらに背を向ける。
「白玉、どこに行くの?」
草草が優しげな声をかけると、灰色の足が、ぴたりと止まった。
この灰猫に、帰るところはないはずだ。
白玉は、猫にしては長生きだ。以前はよたよたと歩いていたのが、元気に駆けまわるようにもなっている。
これが人からどう見えるか――化け猫、かもしれない。
可愛がってくれていた爺は、もう亡くなっている。そのあと家人はこの猫を、どうしただろう。
初めて会ったとき、白玉はずいぶん腹を空かせているようだった。
まだらの灰色の毛はごわごわとしている。家人も可愛がっていたなら、きっとさらりとして、もっと柔らかだっただろう。
それに、猫の名は『白玉』。この灰猫は、本当は白猫のはずなのだ。
「お祖父様とお祖母様がね、白玉と一緒に暮らしたいって言ってるんだ。薬仙堂にいてくれたら、僕も毎日会えるから嬉しいよ」
――だから、ここにいよう。
驚いた風に、パッとふり向く白玉に、草草はふうわりと笑う。しゃがみこんで手を伸ばせば、のろのろこちらへ歩いてくる。
足を止め、仰ぎ見る。
「ニャァ、ン」
――いい、の?
――いいよ。
坊ちゃんの手に白玉が、すり、と体を寄せてきた。