第十話 仙人志望
「坊ちゃん、どうぞ」
丁寧に切られた桃の乗った皿を、狼君がうやうやしく差しだす。草草はにっこり笑って、ありがたく受け取る。
その一切れを口に放りこめば、甘い香りが鼻を抜け、瑞々しい果実はのどをすっきりと潤した。
この桃は仙山のもの。
熱を出した草草を見た、二人の仙は自分たちのほうが死にそうな顔になって、水応鏡をきつく握りしめた。坊ちゃんの一大事を山神に報告するためだ。
これを聞いて、やはり血相を変えた父神と母。それから毎日、採れたての果物の小山と美しい花のてんこ盛りが、水応鏡から出てくる。
おかげでこの部屋の一画は、お花畑と化していた。
「坊ちゃん、買ってきましたよ」
部屋に入ってきた虹蛇が、ひと抱えもある本の山をドサリと卓に置いた。草草は笑みを浮かべて礼を述べつつ、チラリと部屋の端を見る。
そこには真新しい本棚に、ぎっしりと詰まった本。
草草の熱が下がったのは、もう五日も前のこと。しかし坊ちゃんを心配した守役たちは、三日は寝台から出ることを良しとしなかった。元気いっぱいな十八歳の青年は、暇で暇で仕方がない。
草草がちょんと唇を尖らせて不服を申し立てると、虹蛇は坊ちゃんの無聊をなぐさめるため、本を買ってくるようになった。毎日ひと抱えほども、だ。
おかげで当分の間、本屋へ行く必要はなくなった。
ちなみにこの二日は、部屋の中なら歩きまわって良い、というお許しが出ている。それでも暇には変わりなく、草草はせっせと本を読んでいる。
「さっき店に、眉毛の太くて角ばった顔の、頭を使うのが苦手な役人が来ましたよ」
綺麗に笑った虹蛇が、相変わらず無礼な物言いをした。これを聞いた草草は、苦笑いを浮かべるでもなく、「へぇ」と目を輝かせる。
部屋にこもりっきりの坊ちゃんにとって、虹蛇が外から持ってくる話は大きな楽しみなのだ。
「もしかして、あのお役人さん。娘さんに結婚を申しこもうと思って、相談に来たのかな?」
無骨そうな真面目そうな役人の恋する娘は、すでに母の元で暮らしている。妄念につきまとわれた父は、自分のことで手一杯なのだろう。母が娘を引き取りに行ったときも、顔も出さなかったようだ。
これで娘は、自らを出世の道具としてしか扱わない、父から解放された。これからが役人のがんばりどころだろう。
草草は興味津々、ぱっちりと開けた目を二人の仙に向ける。
「ですが、あのごつい顔ですからねぇ。それに世渡りも下手なんじゃ、出世だってできませんよ」
「坊ちゃんのように、すごく賢くもありません」
虹蛇はふふんと鼻で笑い、狼君は真面目くさった顔になって、二人して無理だろうと首をふる。
これにはさすがに苦笑いした草草が、役人にも良いところはある、と言おうとしたときのこと。
「うぅぅぅむぅ」
どこかで聞いた覚えのある妙なうなり声が、扉の外から、した。
「お役人さん、どうぞ」
草草が桃を勧めると、役人は「うぬぅ」と妙な返事を返した。先ほどの会話が聞こえていたために、微妙な心持ちなのだろう。
本来なら、言った者のほうが恐縮するのだろうだが、草草は聞かれてしまったなら仕方ないと、潔くも穏やかにほほ笑んでいる。二人の仙はちっとも悪いと思っていないので、けろっとしている。
三人がこんな調子では、むしろ役人のほうが居た堪れないに違いない。
けれど仙山の桃を食べれば、ギュッと寄っていた太い眉は離れ、頬もたるんだようであった。
ちなみに役人がこの部屋を訪れているのは、虹蛇が「坊ちゃんの暇潰しになるかもしれないねぇ」と、用件も聞かずに引っぱってきたからだ。
それなのに、外で待たされ貶される。つくづく扱いが悪い。
「それで、お役人さんのご用件は?」
結婚話だろうかと、草草は期待に満ちた目を向けた。役人も察したのだろう。ふたたび「うぬぅ」と返す。
「いや、その、娘の件ではなくてだな……薬仙堂によく来ていたというご隠居が、行方知れずになったんだ」
役人は途中、咳払いを挟むと、戻っていた太い眉をギュッと寄せる。
草草の目は、ひとつパチリとまたたいた。
行方知れずになったのは、常日ごろから長生きしたいと言っては薬仙堂に通いつめていた、商家のご隠居だ。草草が風邪をひいたと聞き、沈鬱な面持ちで拝んでいたご老人である。
数日前、ご隠居は仙山へ行くと告げ、供として使用人を一人だけ連れて家を出た。
『道士様のようにご立派なお方でも風邪をひかれるのだ。やはり人の身のままでは、長生きなどできない。これは何としても仙人様にお会いして、仙の道を究めなくては』
とか何とか。
来仙から仙山の麓までは馬車で半日ほど。仙山は人が踏みこめば迷い、気がつけば麓に戻されているという、不可思議な山だ。早ければ一刻、遅くとも半日もさまよっていれば麓に戻る、とも言われている。
ならばもう、あきらめて来仙に帰ってきても良いはず。しかしご隠居は戻らない。
これを心配した家人が、役人に探してくれと訴えたそうだ。
「だが、仙山はただの人が探せるような場所ではない。そこで道士である草草殿なら、何か手立てがあるのではと思い、相談しに」
「だめだ! 坊ちゃんは風邪が治ったばかりだぞ。またぶり返したらどうする」
「そうだよ! だいたいそのご隠居は、勝手に仙山へ行ったんじゃないか。坊ちゃんがわざわざ探す必要はないのさ」
役人が言い終える前に、守役たちはものすごい勢いで反対した。狼君の眉間のしわは果てしなく深い。虹蛇の眉は髪にくっつこうかというほどに上がっている。
役人は気圧されたのか。太い眉がぴくぴくふるえている。
これは機嫌が悪くなってしまったようだと、なだめたほうが良さそうだと、草草が口を開く、一歩前。
「しっ、しかしだな。今回のことは草草殿の風邪がきっかけとも」
「なんだと! 坊ちゃんのせいだって言うのか!」
「ふざけるんじゃないよ! 坊ちゃんに悪いところなんて、全然、これっぽっちもないね!」
「おっ、まっ……ぬぅおぉぅ」
役人は、火に油を注いでしまったようだ。二人の仙はものすごい形相になって、今度は役人を、有無を言わさず部屋から追いだしてしまう。
つくづく要領が悪いらしい。このたびはうなってばかりだった役人を、坊ちゃんはぬるい笑みを浮かべて見送った。
*
「草草、体の具合はどうかな?」
「もう元気です。ご心配をおかけして、すみませんでした」
仄かに光った水応鏡に映る、たいそう心配そうな顔の山神に、草草はにっこりと笑いかけた。
つい先ほど、役人のおかげでずいぶん機嫌を損ねてしまった、二人の仙はというと。
狼君は嬉しげに目を細め、虹蛇は耳を赤くして、口をもごもご動かしている。坊ちゃんと『桃の食べさせ合いっこ』をしたので、もうすっかりご機嫌だ。
それに役人の持ってきた相談事も、風邪が治ったばかりの草草が動かなくとも、水応鏡で聞けばいい。
『僕も暇だったから、ちょうどいいよ』
やることができたと楽しげな坊ちゃん。守役たちは「あの役人も、たまには役に立ちますね」「坊ちゃんの気が紛れるなら、ご隠居も行方知れずになった甲斐がありましたねぇ」と、のたまった。
三人とも、相変わらずである。
「父上、仙山の雲より下に人はいませんか? お爺さんと若い男の人らしいんです」
水応鏡に向けて問えば、二日ほど前から崖の下で倒れている老人がいると、まだ生きているようだと、山神から返ってきた。
おそらくご隠居だろう。連れて行ったという供の姿は、仙山にはないようだ。
草草は思案げな顔になって、くるりと目の玉をまわす。
「申し訳ありませんが、そのお爺さんを助けてもらってもいいですか? できれば薬仙堂まで運んでもらいたいんです。あと麓に馬車がないかも、教えてほしいんです」
山神は愛息子に頼られたことが嬉しいのだろう。威厳を保ちつつも、盛大に頬をゆるめた。
そこへ母が顔を出す。寝ていなくて大丈夫なのか、これを食べたほうがいい、夜更かしはいけない。挨拶もそこそこに、次々言葉が飛びだしてくる。
坊ちゃんが疲れないかと、気をもんだ狼君が口を挟むまで、二人の親バカは延々としゃべっていた。
「坊ちゃん、ご隠居を助けるんですか?」
「どうして薬仙堂に運ぶんです?」
水応鏡の光が止むと、二人の仙が不思議そうな顔を向けた。仙は人の命など、元々さして気にしない。ましてや人を拒む仙山に勝手に入った者である。
なぜ助けるのだろうと、わざわざ薬仙堂で面倒を見なくてもいいのではと、思っているのだろう。
「それなんだけどねぇ」
ちょい、と小首をかしげて草草は続ける。
薬仙堂に通っていたご隠居が、「人の身では長生きできない」と言って仙山へ向った。これは聞きようによっては、この店の薬では効き目がないから仙人になること望んだ、とも取れる。しかもそう考えたきっかけは、草草の風邪らしい。
薬仙堂を、表立って非難したりはしないだろうが、不信や不満を覚える者はいるかもしれない。ならばご隠居は、無事に戻ってきたほうがこの店には良いだろうと草草は思う。
それに、供の者の姿が消えたことも気にかかる。
「仙山ではぐれてしまったとか、ご隠居さんが自分で崖から落ちてしまったなら、お供の人はお店に戻ってくるはずだよね?」
戻って来ないのは、うしろ暗いところがあるからだろう。つまり、供の者がご隠居を突き落としたのではないか。
山神に聞いたところ、麓にご隠居が乗ってきたはずの馬車はなかった。供の者はこの馬車で逃げたのではないか。
「その供の男、ご隠居のことが嫌いだったんですか?」
「金目当てっていうこともありますねぇ」
狼君の真面目くさった顔が、訳知り顔でうなずいた虹蛇が、草草をうかがう。
供の者とご隠居の間に、殺したいほどの何かがあったのか。これは草草にはわからない。だが、そんな者をわざわざ供にするだろうか。仙山に向ったなら、殺してまで奪おうというほどの金は持っていなかっただろう、とも思える。
詳しくはわからないので、どちらも否定はできないけれど、もうひとつ考えられることがあった。
「誰かに頼まれたってことはないかな?」
仙山なら亡骸は探せない。ご隠居が戻って来なくとも、きっと仙人になったのだと言えばいい。人を始末するには、おあつらえ向きの場所ではないか。
とすると、頼んだのはご隠居が仙山に行くことを知ったとき、こうしたことを頼める使用人を、供としてつけることのできた者だ。
「そんなことができるのは、店の人たちだよねぇ。だからこのままご隠居さんを家に返したら、危ないと思うんだ」
崖の下に二日もいたのだ。すっかり衰弱しているであろうご隠居を、始末するのは簡単だ。結局は助からなかったと言い訳もできる。
仙山から戻ってすぐに亡くなれば、仙山で命を落としたのと同じこと。やはり薬仙堂にとっては、あまりよろしくない。
「僕の考えすぎかもしれないけどね」
顔をななめに傾けながら小さく笑った草草を、虹蛇が「さすが坊ちゃん」と褒めたたえた。しかし、いつもなら続くはずの狼君は、心配顔になっている。
「坊ちゃん。そんなに気をまわして、それにずいぶんしゃべって、疲れたでしょう? 寝台で休んだほうがいいですよ」
「ああ、それもそうだねぇ。ずっとしゃべりっぱなしだったよ。坊ちゃん、昼寝をしましょうね」
「……」
狼君が手早く寝台を整え、虹蛇が丁寧に草草を抱えて速やかに運ぶ。
せっかく寝台から解放されたはずの坊ちゃんは、また、寝台に逆戻りする破目になった。
横になってみれば、すやすやと昼寝を堪能した草草は、起きると今度は、申し訳ないがと伯父を部屋に呼びつけた。
守役たちが部屋から出してくれないのだから、仕方ない。
「なるほど……でしたら、ご隠居さんは私どもで預かったほうが、安全でございますね」
これまでのことを聞くと、伯父は眉をひそめて小さなため息までもらす。
近場の商家同士、何か知っていそうだと草草は水を向けてみた。
「あのご隠居さんは、少々我が強いといいますか、強情といいますか……」
ご隠居の子は娘が一人。今の主人は入り婿なのだが、ご隠居はこの婿が気に入らない。元は使用人で、ご隠居の知らぬ間に娘といい仲になり、子までなしてしまったからだ。二人の結婚を許したのは、渋々、だったのだろう。
しかし娘夫婦の仲は良く、婿は働き者でもあり、孫も生まれた。これまた一人娘だ。この孫娘も年ごろになると、こちらは少し前にご隠居が選んだ婿を取った。
「ご隠居さんはその孫婿に、店を任せると言っておられるのです」
ここで伯父は、渋い顔になって首をふる。
よく働き、妻や子を大切にする娘婿を、ご隠居は未だ気に入らないらしい。主人というのも名ばかりで、店のことはすべてご隠居が決めているという。元々ご隠居が長生きしようと考えたのも、この娘婿に店を譲りたくなかったから、だそうだ。
今はそれが高じて、仙人まで目指してしまっているようだが。
「ふぅん……じゃあ、娘婿であるご主人はついに我慢できなくなって、ご隠居さんを亡き者にしようとした、ということですか?」
「そう、なのかもしれません……ですが、あのご主人はご隠居さんに辛く当たられても、いつも静かに耐えておられました。私は良くできた婿だと思いますが」
伯父は暗い顔になった。長年耐え忍んできた主人が罪を犯してしまったことに、同情めいた気持ちを抱いているのかもしれない。
けれど……草草はちょいと首をかしげる。少しばかり引っかかることがあるのだ。
「坊ちゃん。そんなご隠居なら、助けなくていいんじゃないですか?」
ここで狼君の仏頂面が、草草をうかがった。
実はこの仙、ご隠居が好きではないのだ。理由は少々臭いから。おそらく、意地が悪くも思えるほどの強情さや、長生きしたいという強い欲が、狼君には臭いと感じられるのだろう。
「ご隠居がいなくなれば、その主人が店を継いで、みんな幸せになって、丸く収まるんじゃないですか?」
虹蛇も気配やご隠居の様子から、同じようなものを感じているのだろう。伯父の話を聞いて、なおさら嫌になったのかもしれない。
くいっと片眉を上げながら、草草をうかがう。
だが、ここで首をふったのは伯父だった。曰く、ご隠居は商家の寄り合いで、跡取りは孫婿であると表明してしまった。
そのため主人が店を継ぐには、相応の理由がなければ認められないだろう、と言うのだ。
「そんな面倒な決め事があるのかい?」
「決め事と言いますか、慣わしといいますか」
二人の仙はおもしろくなさそうな顔だ。しかし、草草の瞳はキラリと光った。
「ご隠居さんをどうにかしようと思ったのは、ご主人じゃなくて、その孫婿なんじゃないですか?」
こう言って草草がみなを見まわすと、パチリと目をしばたいた伯父は、はっと息をのむ。
「なるほど! ご隠居さんがいなくなって得をするのは、ご主人ではなく孫婿です」
草草はうなずきながら、それに、と続ける。
供の者は、ご隠居を亡き者にしようとした。つまり犯人の息のかかった者、ご隠居より犯人の言うことを聞く者だ。
「犯人がご主人だとしたら、ご隠居さんはご主人の言うことを聞きそうな、ご主人と親しそうな使用人を、お供に連れて行ったことになりますよね。ご主人をずいぶん嫌ってるらしいご隠居さんが、そんなことをするでしょうか?」
「そうか……そうですね。確かにご主人には難しい。反対に、ご隠居さんは孫婿を気に入っています。孫婿がこの使用人をお供に、と言ったのであれば、簡単にうなずくはずです」
伯父の顔は晴れ晴れとしていた。主人の仕業ではない、ということが嬉しいのだろう。となると伯父も、孫婿のことはあまり好きではないのかもしれない。
「……まあ、全部推測なので、ご隠居さんが運ばれてきたら聞いてみればいいんですけど」
草草は苦笑いするも、守役たちは「坊ちゃんの言うことに間違いはない」と、自信満々だ。もちろんのこと、伯父も気合の入った賛辞を述べた。
*
この日の夜遅く。薬仙堂をひっそりと訪れるものがあった。人の姿をとった、仙だ。彼は楽々とした様子で背負っていた老人を下ろすと、風のように姿を消した。
そして翌日のこと。
「草草様。ご隠居さんが目を覚ましましたが、お会いになりますか?」
部屋を訪ねた従兄に、草草は本をめくる手を止めて、会うと答えた。
「まさか坊ちゃん。部屋を出るつもりですか?」
「もう少し安静にしてたほうが、いいんじゃないですか?」
狼君の顔は、心配によって迫力が増している。虹蛇は優しげな声で、それでも坊ちゃんをたしなめる。
「人はあまり動かないのも、体が鈍って悪いんだよ。狼君だってそう言って、素振りを勧めてくれたよね」
「それは元気なときです」
「そうですよ。今はまだ早いんじゃないですか?」
仙から見れば、人とはかくも弱きものなのだろう。神でもある草草の場合、完全に当てはまるわけでもないのだが、守役たちは心配で堪らないらしい。しかし。
もう六日目である。さすがにもう良いはずだ。
ここで草草は、チラリと従兄に目を向けた。
「人である従兄殿は、どう思いますか?」
「へっ?」
キラキラと期待に満ちた澄んだ瞳。ギラリと光った鋭い眼光。すっと細められた切れ長の目。真剣そのものの顔が三つ、従兄にずぃっと迫る。
彼ののどはゴクリと鳴る。
「そ、そ、草草様のおっしゃるように、そ、そろそろ体を動かしてみるのも良いかも、と……」
ところどころ声の裏返った返事を聞いて、草草はとびっきり嬉しそうに笑った。二人の仙は、そういうものか、と目を見合わせている。
従兄はといえば、はた目にもわかるほど、体の力がカクンと抜けた。顔に浮かんだ笑みは、幸せそうにも疲れきった風にも見える。
神の子の期待に添えた喜び、只ならぬ貴人と武人と策士から解放された安堵、そんな気持ちがない交ぜになっているのだろう。
草草はたいそうご機嫌な様子になって、足取りも軽く部屋を出ていく。これに心配顔の守役たちが続く。
彼らを見送る従兄の顔は、やはり疲れのほうが強いような。この間の騒動を経た彼は、神の子の風邪にだけは関わりたくないと、心の底から願っているに違いない。
客間に入ると、すいぶんやつれた顔をしたご隠居が、寝台に横たわっていた。それでもうっすらと目を開け、弱々しい声で伯父に感謝を伝えている。
「このたびは迷惑を……申し訳ないが、家へ、家へ、帰してもらえないかね……」
かすれた声は、家に帰りたいとも願っているようだ。
これを耳にした草草は首をひねった。
推測どおりなら、ご隠居を崖に突き落としたのは孫婿の指示。これを知っているなら、弱ったご隠居が家に帰りたいと言うのはおかしい。今度こそ、本当に命を失ってしまうかもしれないのだ。
ご隠居が知らないだけなのか。それとも供の者が勝手にやったことなのか。そもそも草草の考えはまったくの的外れで、自ら足を滑らせただけなのか。
どうあれ、家が安全なら帰ってもらえばいい。
話を聞いてみようと草草が一歩踏みだしたとき、すん、と鼻の鳴る音が聞こえた。耳元で狼君がつぶやく。
「坊ちゃん。このご隠居、前より臭くなくなりました」
生死の狭間をさまよったために、強情、強欲、といった心が削がれたのだろうか。
これならご隠居は娘婿である主人を受け入れ、家族にもご隠居への害意がなければ、みなで幸せになれるかもしれない。
草草は、ふむ、とうなずき寝台へ近よった。
「ご隠居さん、お加減はいかがですか?」
草草が声をかけると、ご隠居は大丈夫だと、そして家に帰りたいと、弱々しく繰り返す。
「崖から落ちたときのことですが、もしかして」
突き落とされたのでは、と続ければ、薄く開いていた目が大きく見開かれた。ご隠居は呆然とした様子で草草を見つめる。唇はふるえ、瞳は揺らいだようでもあった。しかし。
「足を滑らせてしまいました」
力ない声。もう、表情も元に戻っている。
「坊ちゃん。このご隠居、嘘を吐いてますよ」
草草の耳元で、今度は虹蛇がささやいた。
「ご隠居さん、家に帰りたいんですか?」
草草の声はひどく優しげだ。犯人が誰なのか、知っているようでありながら何も言わず、それでも帰りたいと望むなら、それで良いと思ったのだ。
しばしの沈黙のあと、ご隠居はゆっくりとしゃべり始める。
「……私は貧しい家の生まれでしてね。一代であそこまで、店を大きくしました」
店を守るのに必死だったという。自身の才覚を何よりも信じていたという。
必死になりすぎて、家族のために店を大きくしようと思っていたはずなのに、店のために家族を顧みなくなっていたという。
自分を信じるあまり、人の言葉を聞かなくなり、人を見なくなり、大きな過ちを犯してしまった。申し訳ないことをしてしまった。
「だから、私は家に帰らなければ……」
ご隠居の面差しは、とても静かだ。
「では、ご隠居さん。家に帰りましょう」
草草が優しく笑いかけると、ご隠居の顔にも、かすかな笑みが浮かんだ。
最後にご隠居は、店の跡取りは娘婿である主人だと、自分に何かあれば商家の寄り合いでそう伝えてほしいと、伯父に頼んだ。
「ご隠居さんはお変わりになりましたね。これまでのことを悔やみ、犯人をかばっておられる。となると、犯人はご隠居さんが辛く当たってきたご主人の方、だったのでしょうか? ご隠居さんはそれを許そうとお考えなのでしょうか……」
家人に引き取られていくご隠居を見つめながら、伯父がしんみりとつぶやく。
その声を聞きながら、草草はただ、静かに見送った。
*
数日後のこと。
無骨そうな真面目そうな役人が、薬仙堂にやって来た。太い眉をギュッと寄せつつ眉尻は下がる、というなんとも珍妙な面持ちをしている。
「ご隠居のところで、大変なことが起きた。あ、いや、まずは草草殿に礼を言わなければ」
仙山からご隠居を見つけだしたのは、草草の道士としての力によるものだと思ったのだろう。役人は律儀に礼を述べた。
実のところ山神と仙ノ物のおかげだが、それを言うわけにもいかない。草草は穏やかにほほ笑む。
「それで大変なこととは?」
店の端の卓には、この件を気にかけていた伯父も座っている。
「それがだな、孫婿が亡くなったんだ」
「な……なんと?」
伯父が目を、口を、ポカンと開いた。一方、草草はそちらだったかと納得する。
ご隠居は過ちを犯したと言い、犯人を告げず、店を娘婿である主人に託そうとした。
これは伯父が言ったように、自身の行いを省み、ご隠居が追いつめたことで罪を犯してしまった主人を、かばい、許した、とも取れる。
だが、別の見方もできる。
やはり犯人は孫婿であり、彼がいれば家族は不幸になると考え、排除する意を固めた。
犯人の名を伏せたのは、自らの手で裁くため。店の跡取りは主人だと伯父に伝えたのは、ご隠居が返り討ちに遭ったときを考えてのこと。
狼君はご隠居を『前より臭くなくなった』と言った。つまりまだ臭うのだ。強情なのか、強欲なのか。こうした心が、狼君が臭いと感じるほどにはある、ということだ。
ご隠居も、犯人が長年家族を支えてきた主人だったなら、許せたのではないかと草草は思う。けれど自らが選んだ孫婿、ご隠居自身の過ちだったからこそ、許せなかったのかもしれない。
結局は強情、なのだろう。
「それで、その孫婿はどうして亡くなったんですか?」
「ご隠居が仙山で手に入れたとかいう仙人になれる薬を、孫婿が飲んでしまったそうだ。その途端、苦しみだしてそれっきり、らしい。だが、そんな薬があるんだろうか?」
太い眉をギュッと寄せた役人が、困ったような目を向けた。
どうやらこのことを聞きたくて、やって来たようだ。草草がくすりと笑って口を開こうとしたとき。
「そんな薬、あるわけないじゃないか」
虹蛇がふんっと鼻を鳴らした。狼君も仏頂面になってうなずいている。
「や、やはりそうか……では、ご隠居は誰かに騙されたのか?」
役人は「うぅむ」とうなり、人のいない仙山で誰に騙されるのか、とか、姿を消した供の者の仕業かもしれない、だのとしゃべっている。
悩める役人を眺めつつ、草草はつらつらと考えていた。
ご隠居はどんな風にして、孫婿に『仙人になれる薬』を飲ませたのだろう。たとえば。
『崖下で仙人様に出会い、命を助けてもらったばかりか、この、ありがたい薬までもらった。私はこの薬を飲んで仙人になり、ずっとこの店を守っていく』
ご隠居は孫婿の所業など何も知らない顔で、『毒薬』を飲もうとして見せる。
孫婿は薬が本物かどうか、半信半疑であっても止めるだろう。薬を奪うだろう。ご隠居がいるかぎり店は自分の物にならない。もし万が一、本当に不老不死になってしまったら困るのだ。
薬を手にした孫婿は、すぐには飲まなかったかもしれない。だが、ご隠居は本物だと信じている様子だった。崖から突き落とされたにも関わらず、仙山から生きて帰っても、きた。人ならざる力が働いたと、孫婿は思ったのではないか。
事実、草草が頼まず、山神や仙が動かなければ、ご隠居の命は尽きていた。
本物らしき仙人になれる薬――ご隠居を始末して店をわが物にしようという、欲の強そうな孫婿だ。こんな物があれば、飲んでみたいという誘惑にも駆られるのでは……
まあ、芝居などせず、うまく茶にでも混ぜて飲ませただけかもしれないが。
「しかし……こう言っては何だが、そんな怪しげな薬を飲んだのが、ご隠居ではなく孫婿だったというのは、不幸中の幸いかもしれないな」
役人の渋い顔が左右にゆれた。草草は「ん?」と小首をかしげる。
「どういうことですか?」
「孫婿が亡くなったあと、赤子を抱いた女が押しかけてきたんだ」
その女は、赤子は孫婿の息子だと言い、孫婿はいつか妻を追いだして、自分たちを店に入れると約束していたとも叫び、暴れもした。
あの孫婿が店を継いだなら、家族は大変なことになっていただろうと役人は言う。
「ちょうど俺がいるときだったから、追い返したがな。孫娘は夫を亡くしたばかりだというのに、そんな女に乗りこまれて、さぞ心を痛めただろうな」
役人は、はぁ、とため息をついた。
「あんた……まさか、その孫娘に惚れたなんて言わないだろうね?」
「坊ちゃんが散々手を貸してやったのに、ほかの娘を好きになっただと?」
虹蛇が形良い眉をきりきりと上げ、目を針のように細める。狼君は眉間にくっきりとしわを寄せ、ギラリと眼光を光らせる。
剣呑な眼差しが、鋭い眼光が、役人に突き刺さる。
「なっ! 何を言う! 俺はあの娘を想って……」
「どの娘だい!?」
「今さらほかの娘がいいなんて言わせないぞ!」
照れてしまったのだろう。役人は顔を真っ赤にして口ごもった。そこへ二人の仙が、ものすごい勢いで食ってかかる。
役人は真っ赤なままに太い眉をびくびくふるわせ、慌てふためいた様子で、それでもしっかり礼をして薬仙堂を出ていく。
やはり無骨で真面目な役人を、坊ちゃんはくすくす笑いながら見送った。
――これは、しばらくあとのこと。
伯父に聞いたところ、元気になったご隠居は、相変わらず娘婿である主人に口うるさいらしい。だが、商家の寄り合いには顔を出さなくなった。店のことはまず、主人の意見を聞くようにもなったそうだ。
このささやかな変化は、きっと家族の笑顔につながっているのだろう。
それともうひとつ、変わったことがあった。ご隠居が一切の薬を飲まなくなったことだ。
どんな理由であれ、孫婿の命を奪ったのだ。ご隠居は自身への罰として、長生きするという欲を捨てたのだと思う。
なんだか薬仙堂は大切な客を一人、失ってしまったような。けれど客はたくさんいる。大丈夫だろう。
この日も賑わう店内を見まわしながら、草草は朗らかにほほ笑んだ。