閑話 薬仙堂騒動
もうすぐ朝食の準備が整おうかという薬仙堂の居間には、家人が勢ぞろいしている。いつもどおりの光景。
やがて扉が開き、清々しい笑みをたたえた神の子と、威風堂々とした二人の仙が現れる。となるのがここ数ヶ月の日常。
だが、この日は少々、いや、だいぶ違っていた。
扉の開く音で、そちらに顔を向けた従兄はギョッと目を見開いた。
そこには狼君が一人、たたずんでいた。
眉間には深い深いしわが寄り、唇はきつく引き結ばれている。鋭い眼光はいつにも増して険しく、なにより、まとう空気がずっしりと重い。どことなく周りも暗く見えるような。仙気とやらのせいだろうか。
いったい何事なのか。こんな仙の姿を一度として見たことのなかった従兄の、胸が嫌なざわめきを覚える。
「……狼君様、いかがなさいましたか?」
問う父の声も、いささか揺らいでいた。固唾を飲んで見守る家人たち。
狼君の唇が、ゆっくりと開く。
「坊ちゃんが……風邪をひいた」
「な……」
なんだ、ただの風邪か。と、従兄が肩の力を抜こうとしたとき。
「なんと! 風邪ですと!? それはいけません!」
父の大声に、従兄の肩はびくりと跳ねた。
昨夜、人々はもう寝入ろうかというころ。草草たちは妄念の憑いた魔鏡を持ち、東市に出向いていた。
なんでも、権力をふりかざして娘を強引に引き取り、出世の道具にしようとしていた貴族を、大人しくさせるためだとか。
きっとあの、妄念とやらを使ったに違いない。その貴族は今、どんなことになっているのか。いずれ様子を見に行ってみようと思えば、従兄の胸はちょっとわくわくする。
「何をのんびりしているんだ! 早く薬を出してきなさい。私は草草様のお加減をうかがってくる」
大変なことになったと血相を変えた父は、息子に命じると、どんよりとした狼君の腕を引っぱるようにして居間を出ていく。
「私はお粥を作ります!」
使命感に燃えているのか。きりりと顔を引きしめた妹は、すぐさま台所へ向う。
「もっと暖かい布団を出したほうが、良いでしょうか?」
「いや。熱いとお感じのようなら、無理に暖めないほうが良いよ」
「ですが寒がっていらっしゃるようでしたら暖めなければ。布団は用意しておいたほうが良いと思いますよ」
真剣な顔つきになった母が、足早に居間を去る。
店をゆずって隠居している祖父母は、ひどく痛ましそうな顔になって見つめ合い、深いため息をもらしている。
ただの風邪ではなかったか。
人の血もひく草草は、怪我もするし病にもかかるそうだ。だが、神である草神は、そうたやすく命を落としたりはしないとも聞いている。
これが人ならいざ知らず、いや、人であっても草草は、赤子でもご老人でもない。毎日素振りに散歩にと、ときおり厄介事にも首を突っこむくらい、元気いっぱいな十八歳の青年なのだ。
もちろん従兄も心配ではあるし、一刻も早く治ってほしいと思う。
朝は心洗われるような清々しい笑みを見て、今日もがんばろうという心持ちで一日を始めたいとも思う。この世の終わりといった感じの狼君では、起きだしたばかりの寝台に戻りたい気分だ。けれど……
ただの風邪ではなかったか。
みなの様子に、口が半開きになっていた従兄はもう一度、胸のうちで同じ台詞を繰り返す。
「これ、早く薬を出してきなさい」
今度は祖父に急かされて、従兄は慌てて店まで駆けることとなった。
「失礼いたしまっ、っ」
薬を持ち、草草たちの部屋を訪れた従兄は、ふたたびギョッと目を見開き、ついでに、のど元まで声なき悲鳴がせり上がった。
ほんのり頬を上気させ、いつもより赤みの増した唇から、少しつらそうな息を吐く草草。熱が上がって熱いのだろう、薄い布団をかけている。
こんな姿を見れば、早く治ってほしいと従兄の胸は痛む。これは良くはないが、いい。問題はその横だ。
広い広い寝台には、大きな大きな銀狼が、静かに寝そべっていた。そのふっさりとした尻尾はゆらりゆらりと優しげにゆれ、そよとした柔らかな風を、熱がる神の子に送っているようだ。
そしてその頭。白く艶めく枕は、大蛇の腹ではないのか。細くなった尾の先は、草草の額にペタリと貼りついている。ひんやりとした蛇の体で、熱を下げようとしているのだろう。
二人の仙の意図はわかった。が、しかし。
子犬や小蛇の姿なら知っている従兄も、彼らの正体を見たのは初めてのこと。危うく悲鳴を上げるところであったし、今も恐い。
「では、お医者様は呼ばなくてもよろしいですか?」
「ああ。坊ちゃんに敵う医者なんて、いないからな」
「薬だって、坊ちゃんの作った物が一番だからねぇ」
「さようでございますね」
大狼と大蛇を前にして、父はなぜ、普通にしゃべっているのか。
従兄は薬をお盆に捧げ持ち、少々腰の引けた恰好で寝台へ近づく、と。
――シャアッ
「ひぃっ!」
長い体を持て余し、とぐろを巻いていた大蛇が鎌首を持ち上げると、人を丸呑みできそうなほどに大きな口を開けて迫ってきた。
瞬間、全身が総毛立ち、ザァッと体中の血がひいた音まで聞こえた。と、従兄は確かに思った。
しかし、大蛇は器用にお盆の端を咥えて寝台へ戻っていく。わかっている、あれは虹蛇なのだ。なのだが、従兄は腰が抜けていた。
「お兄様、どうしたんですか?」
突然の声に、へたりこんでいた従兄の体がびくりと跳ねる。ふり仰げば、お盆を持ち、怪訝そうな顔をななめにかしげた妹がいた。
けれど妹は、兄の異変より神の子の容態のほうが気になるらしい。目はすぐに寝台へ向う、と。
――シャアッ
ふたたび口を大きく開けた大蛇が、今度は妹に迫った。恐がらせてはいけないと、慌てた従兄は腰の抜けたまま、それでもかばうように妹の脚へとすがりつく。
「お粥は熱いのでお気をつけください。もし今は食べられないようでしたら、せめて果物だけでもお召し上がりになってください」
さも神の子が心配といった顔で、妹は手にしたお盆を差しだした。
なぜ迫りくる大蛇を前にして、平気でいられるのか。それとも自分が恐がりなのか。いやいやと、従兄は大きく首をふる。
「お兄様。離してもらえますか?」
脚にすがりついたままだった従兄を、妹は迷惑そうな顔になって見下ろしていた。
*
店を開けると、薬仙堂にはさまざまな客がやって来る。
子供が腹を壊したと眉をしかめる若女房。最近食が細くなったと首をふるご老人。症状を詳しく聞いては薬を勧めていく。
従兄と話す客の目は、ときおり奥のついたてをチラリと向く。
草草の姿を見ることができれば、良いことがあるとか、長生きできるとか。そんな噂があるらしいのだ。
虹蛇を見れば目の保養。これは普通だが、綺麗になれる、なんて話もあったりする。狼君なら、寿命が縮む……らしい。
それはともかく、客の目が逸れれば従兄も気になる。いつもならそこにいる神の子が、今は熱を出して寝ているのだ。今日はどうにも仕事が捗らないと、眉を下げて首をふる。
一日の始まりが、心洗われるような清々しい笑みではなく、この世の終わりといった風な迫力顔だったからかもしれないが。
「ご、ごめんくださいませ」
ひょろりとした猫背の僧が、おどおどしながらやって来た。従兄は挨拶を返し、草草が風邪をひいたとも伝える。
すると、その小さな目が、彼なりに精いっぱい大きくなった。
「え? そっ、草草様が風邪!?」
悲鳴以外では珍しく、声を張り上げた僧は、薬は、医者は、と思いっきりうろたえる。
大丈夫だと従兄がなだめようとすると、僧の眉は突如きりりと持ち上がる。
「そうだ! 和尚様にご祈祷していただきます! では、失礼します!」
この僧にしては実に珍しい。ハキハキとしゃべり、背筋をしゃんと伸ばし、キビキビとした足取りで薬仙堂を出ていった。
風邪とはそれほど大変なものだっただろうか。その、二度と見ることはないのでは、と思えるほどに颯爽としたうしろ姿を見送りながら、従兄の顔はななめに傾く。
「若主人、あのお方が風邪というのは本当かね?」
「は? はい」
従兄に声をかけたのは、常日ごろから長生きしたいと言っては薬仙堂に通いつめている、商家のご隠居だ。僧の声が聞こえていたのだろう。
「おぉ……なんということだ」
ご隠居は顔中のしわを深めて沈鬱な面持ちになると、奥のついたてに向って手を合わせ始めた。見れば、ほかにも拝んでいるご老人がいく人か、いる。
風邪とは、大変なものであったらしい。従兄もつられて手を合わせる。
つむっていた目を開ければ、妹の、拝んでどうするといった風な呆れ顔が、こちらを向いていた。
どうやらご隠居から、貴人が風邪をひいたという話が広まったようだ。
この日は一日中、周辺の商家から見舞いやら、よくわからない参拝客が押し寄せ、薬仙堂の面々はその対応に追われることとなった。
神の子には早く治ってもらいたいと、従兄は切実に願う。
そして夜。妙に忙しく、けれど仕事はまったく捗らないという一日を終えて、従兄はぐったりとしていた。
ようやく寝られると頬をゆるめて自室へ向う、その途中のこと。
「なぜ坊ちゃんが風邪をひいたのか。同じ過ちを犯さないように、よく考えなくちゃいけない。人である従兄殿も相談に乗ってくれ」
「……」
従兄には、ギラリと煌めく眼光から逃れる術はなかった。
昨夜の行動を、坊ちゃんの様子を、狼君は順を追って、実に詳しく長たらしく説明する。しかも、今じゃなくてもいいだろう『坊ちゃん自慢』つき。
いつもならこれをいさめてくれる草草は、いない。
朝は清々しい笑みもなく、迫りくる大蛇に腰を抜かし、妹には兄の沽券に関わるような目を向けられた。
店を開ければ、見舞客や参拝客がやって来た。そして夜は、鋭い眼光に見据えられながら、疲れた頭で長話を聞く。
やはり風邪とは、本当に大変なものだった。
神の子には一瞬でも早く治ってほしいと、二度と風邪をひいてほしくないと、ようやく解放された従兄は心の底から祈っていた。