第九話 妄恋魔鏡
「失礼する」
店を開けるとすぐ、無骨そうな真面目そうな役人が、薬仙堂にやって来た。その太い眉はどことなく下がっている。
これを見た従兄は、少し楽しげな顔になって草草を呼びにいく。また厄介事が起きたものの役人には解決できず、神の子に相談しに来たに違いないと、わくわくしているのだろう。
役人の来訪を聞くと、ひょこり。ついたてから出たのは、上品で優しげな草草の顔。眉間にしわの浮いた迫力顔と、一方の眉が上がった美麗な顔も、もちろん一緒に出た。
「お役人さん、おはようございます」
草草がにっこり笑って挨拶をすると、役人は慌てた様子で首をふる。
「い、いや、実は今日は草草殿に会いに来たのではないんだ。その、こちらの娘に用があってな……」
「従妹殿に、ですか?」
珍しく歯切れの悪い役人に、草草と従兄は顔を見合わせ、首をかしげる。
二人の仙は、坊ちゃんを煩わせなければそれで良い、と思ったか。眉間からはしわが消え、上がっていた眉も元の高さに戻った。が……
「つまりお役人様は、私を疑っていらっしゃる、ということでしょうか?」
虹蛇ばりに眉をつり上げた従妹が、狼君ほどでないにせよ鋭い瞳で役人を見据え、猫背の僧とは真逆にすっと背筋を伸ばして、店の端の卓に座っている。
対する役人は「いや、そういうわけでは……」と、これまた歯切れが悪い。
従妹だけでなく従兄も胡乱な目を、守役たちも結局は坊ちゃんを煩わせるのかと、眉間のしわと眉の上がりっぷりが復活した顔を、役人に向けているからだろう。
それに、この役人はうら若い娘に弱いのかもしれない。そう感じた草草は、くすりと笑みをこぼした。
歯切れの悪い役人の、用件はこうだった。
昨日のこと。役人は『ささやかな贈物』を手に、何度目かとなる、恋しい娘の屋敷を訪ねた。
恋のお相手は、県令の子息に恋して破れた娘だ。贈物は、「気軽に受け取れる品を、日を決めて贈り続ければ、娘さんも楽しみにしてくれるのでは?」という草草の提案を、愚直なまでに守ったがための品である。
これまでは贈物を侍女に渡し、なんとなく未練がましい目を残しつつも、すぐに帰る役人であったが、この日は違っていた。
なんと、娘が会いたいと言うのだ。
ドキドキと高鳴る胸、手のひらやわきの下には妙な汗がにじむ。盗人やゴロツキと対峙するときとは、また別の緊張感を覚え、役人ののどがごくりと鳴る。
屋敷の奥へと誘われる体はひどくギクシャクしている。ひくりひくりと頬まで引きつるせいか、太い眉もこれに合わせて上下に動いた。
この辺りの情景は、坊ちゃんの妄想だが。
ともかく、娘と会った役人は、相談を持ちかけられたそうだ。
『大切にしていた魔鏡が、なくなってしまったんです。それを探していただきたくて……』
魔鏡などと言えば怪しげに聞こえるが、実のところ、鏡面にほんの僅かなくぼみをつけることで、光を当てたとき、その反射光によって紋様を浮き上がらせる鏡のことだ。
人があみだした素晴らしい技法だと、草草は思う。
娘は恋に破れて鬱々としていたのだろう。しばらくの間、鏡を見ることもなかった。けれど、このままではいけないと思い立ち、街へ出ようと身支度を始めた。
そこで初めて、魔鏡がなくなっていることに気がついた。
『この部屋に出入りした者の仕業、ですか』
話を聞いた役人は、太い眉をギュッとしかめた。
娘の兄である、天女に恋した武官が羽衣をなくしたときのこと。彼は家人を疑い、臥せっていた娘まで叩き起こして、屋敷中を探したのを思いだしたからだ。
娘も同じなのか、少し寂しげにほほ笑みながら、しかし首をふる。
『私は家の者を疑ってはおりません。きっと外から来た誰かが、魔鏡の美しさに惹かれて持ち去ったんです』
臥せっていた娘の部屋を、外から訪れた者はごくごく少ない。この中に、気分を落ち着けるための香を届けた、従妹が含まれていた。
それで役人は事情を聞こうと、薬仙堂にやって来たわけだ。
「結局のところ、お役人様は私を疑ってるんですね?」
従妹が冷ややかな声を出す。従兄が、狼君が、虹蛇が、厳しい顔を向ける。役人の目はうろうろとさまよい、太い眉もひくひく動く。
ここで草草は、みなをなだめるでもなく、役人にはごく普通の穏やかな顔を向けた。気になることもあったし、従妹を疑ったのだから、少しくらい責められてもいいだろうと思ったのだ。
今日の坊ちゃんはちょっぴり厳しい。
「その娘さんは、まったく家人を疑ってないんですか?」
羽衣がなくなったとき、兄は家人を疑った。犯人は、自分の娘を県令の子息の花嫁にしようと企む、父でもあった。それなのに、娘が少しも疑わないのは妙だと思う。
草草がうかがうと、役人は恋しい娘を思いだしたのか、その頬がたるんだ。
「うむ、娘は疑っていないぞ。なんでもその魔鏡は一見ありふれた鏡だが、光を反射させると美しい天女が浮かび上がるそうだ。兄上がまだ天女を想っていたとしても勝手に持ちだしたりしないと、娘は何度もそう言った」
役人は満足げな顔だ。だが、草草の顔にはぬるい笑みが浮かぶ。
「それはたぶん、兄上が持ちだしたはずだから、お役人さんから聞いてほしい、という謎かけじゃないでしょうか?」
娘は、美しい天女が浮かび上がる魔鏡と、天女を忘れられない兄を結びつけておいて、けれど『何度も』兄の仕業ではないと言った。これは逆に疑ってくれと言っているようなものだ。
それに『一見ありふれた鏡』を、外から来た者が『美しさに惹かれて持ち去る』のはおかしい。
娘はしばらく鏡を見ていなかったというから、この鏡は魔鏡だと説明したりもしなかっただろう。だから外の者は、鏡が魔鏡だとは知らないはず。ありふれた鏡としか思っていないなら、わざわざ盗むこともない。
草草の言葉に、従妹が力いっぱいうなずく。彼女も知らなかったということだろう。
「……そ、そう、なの、か?」
役人の口がポカンと開いた。太い眉も、肩も、しょんぼりした風に下がったような。
もしかすると、家人を疑うことのない心優しい娘、という幻想を打ち砕いてしまっただろうか。ちょっと可哀そうかと思った草草は、優しげな笑みを作る。
「きっと娘さんは、自分では兄上に聞けないから、お役人さんに相談したんでしょう。頼りにされてるんですよ。それに娘さんが外に出ようと思い立ったのは、お役人さんの贈物のおかげかもしれませんよ?」
「そっ、そうか! そうだな!」
あっという間に、役人の太い眉がきりりと持ち上がった。
「では失礼する」
颯爽と帰る役人のうしろ姿に向けられた、みなの目はなかなか厳しい。
従妹と従兄の目は据わっている。鋭い眼光はギラリと光り、切れ長の目は針のように細くなっている。
ここで草草は、ようやくみなをなだめ始めた。
「従妹殿の疑いは晴れたようですし、良かったですね」
「草草様がいらっしゃらなければ、まだ疑われてたと思います」
従妹の声は低いままだ。これにうなずく従兄の目も、ジトリと据わったまま。
相談事が舞いこむのは楽しみであっても、疑いをかけられるのは不服なのだろう。まあ、当たり前だが。
「まったく! あの役人は坊ちゃんの知恵を借りなきゃ、事を進められないんですかねぇ!」
「そうです! 坊ちゃんはなかなかじゃなくて、すごく賢いんです!」
虹蛇がふんっと鼻を鳴らすと、狼君も鼻息を荒げて、聞き覚えのある台詞を吐いた。坊ちゃんのこととなると、彼は案外、根に持つ性格であるらしい。
*
午後になると草草たちは、日課となっている散歩に出かけた。
薬仙堂を一歩出ると、人々の目が三人に集まる。虹蛇に熱い視線を送る娘、狼君に気圧される男、そして、草草を拝むご老人。ご利益があるとでも思っているのだろうか。
周辺に住む者なら少しは彼らに慣れただろうが、ここは来仙でも一等繁華な通りだ。人々があちらこちらから集まるため、只ならぬ貴人と武人と策士はいつも人目を引く。
「こんにちは」
草草が向かいにある本屋の使用人に挨拶をすると、彼はギョッと目を見開き、うろたえた感じで頭を下げた。
周辺の者であっても、それほど慣れたわけではないらしい。
「今日は従姉殿の菓子屋へ行こうか」
広い通りを見まわした草草は、守役たちを見上げてにこりと笑う。
朝っぱらから役人が騒動を起こしてくれたおかげで、まだ疑いをかけられた従妹の機嫌が、なおっていないようなのだ。
従妹に菓子でも買ってあげようと言う草草を、守役たちは当然のごとく、「坊ちゃんは優しい」と褒めたたえた。
「いらっ、あ、草草様! 聞いてくださいよ」
菓子屋に着くと、なぜだか今日も藤狐が勢いよく出迎える。だが、ゴロツキが殺された件で役人が来ていた先日のように、飛びかかろうかというほどでもなく、頭に被った布も盛り上がっていない。
怒っているわけではなさそうだと、草草はほほ笑む。
「どうかしたんですか?」
「薬仙堂にいる草草様なら、病にも詳しいですよね?」
草神である草草は、詳しいどころかひと目で見抜く。けれど藤狐はそこまでは知らないので、心配そうな顔になって話を始めた。
この菓子屋の売り子――以前は酒屋で働き、虹蛇が弟夫婦の話を聞きだした売り子であり、従姉夫婦とともに菓子屋へ移った娘だ。
この売り子が、少し前から具合が悪いという。頭がふらふらとして、ぼうっとする。耳鳴りなのか妙な声も聞こえるらしい。それは日増しに悪くなり、今は奥で寝ているそうだ。
「それにあたしのこと、にらんだりするんです。前はそんなことなかったのに……」
「にらむ?」
草草が首をかしげると、厚ぼったい唇をすぼめた藤狐の、眉が下がる。
「あんた、その売り子をいじめたんじゃないのかい?」
「あたし、そんなことしてません! ……と、思うんですけど」
「妖物だということが、バレたんじゃないのか?」
「大丈夫! ……だと、思うんですけど」
口の端を上げてニヤリと笑った虹蛇に、うっすらと眉間にしわを寄せた狼君に、問われた藤狐は自信のなさそうな顔になった。
妖物の藤狐に悪気はなくとも、人である売り子がどう捉えているかはわからない。藤狐は人の女にしては腕っぷしが強いし、すぐに耳も出てしまう。だから不安なのだろう。
売り子がにらむ理由は、草草にもわからない。それでも安心させるような、柔らかな笑みを浮かべる。
「正体がバレたわけじゃないと思いますよ。妖物だと知ったら、人はにらむより恐がると思うんです。それに藤狐さんなら大丈夫です。従姉殿も藤狐さんを信頼してましたよね」
草草の言葉とほほ笑みで、藤狐はずいぶん安心したらしい。ほっと息をつくと、嬉しげに笑った。
売り子の容態を見てほしいと、草草たちは菓子屋の奥へ通された。彼女は眠っているようで、寝台の上で目をつむっている。
草草はその頭に、薄い靄がかかっているのを見て取った。これは病ではない。奇妙な気配があるし、あまり良くない感じも受ける。
「あの靄、何かな?」
「坊ちゃん、これは人の妄念です」
すん、と鼻を鳴らした狼君が、顔をしかめた。
妄念とはそのまま、人の強く固執する想いのことだが、これが強すぎると形をなすことがある。
想いの当人すら喰らい、喰らい尽くすとほかの人や物に憑き、同じような心を見つけてはまた喰らう、と草草は聞いたことがあった。
この靄も、そうしたものであるらしい。
「あの、妄念って霊みたいなものですよね? それがこの子に憑いてるんですか?」
何も感じないと首をひねった藤狐に、半眼になっていた虹蛇が答える。
「こういうのは妖物より、同じような気持ちを持つ、人のほうが感じやすいのさ。まあ、我らにはわかるけどねぇ」
「え? 虹蛇様も狼君様も、すごく強いけど妖物ですよね?」
「あんた、失礼だね! 我らは仙だよ!」
「え? え!? 草草様が仙人様ですよね?」
「坊ちゃんは神だ! 仙と一緒にするな!」
危うく騒ぎが巻き起こりそうになり、草草はしぃっと唇に指を立てた。売り子が眠っているのだ。
そっとうかがうと、そのまぶたがゆっくりと開いていく。
「あ、起こしちゃった? ごめんなさい。具合はどう?」
藤狐の声は届かなかったのか。しばらく視線をさまよわせた売り子は、やがて虹蛇に目を留めた。今度は熱に浮かされたような目になって、一心に見つめている。
「……虹蛇様」
うっとりと笑った売り子の手が伸びると、虹蛇は片方の眉をくいっと上げて身を引く。
途端、売り子の顔が不満げなものに変わった。険しくなった目はゆらぎ、隣にいた草草を見つけては定まる。と……
「お前が……お前がそばにいるから、虹蛇様はあたしを見てくれないんだぁ!」
突如寝台から飛び起き、草草に食ってかかろうとした売り子は、その頭をガシリと狼君につかまれた。
坊ちゃんは素早く遠ざけられ、やはり虹蛇の腕の中だ。
「……人ごときが坊ちゃんを襲おうなんて、いい度胸してるじゃないか」
「虹蛇、売り子さんに怪我をさせちゃダメだよ」
きりきりと眉をつり上げ、売り子に近づく虹蛇を、草草の穏やかな声が制した。
どうやらこの妄念は、男を恋い慕う気持ち、嫉妬や独占したいという想いのようだ。
この妄念の主は売り子自身なのか、ほかの者なのか。それはまだわからない。けれど売り子に憑いているわけだから、彼女にもこうした気持ちがあるのだろう。藤狐をにらんだのは、わりと虹蛇と話すからかもしれない。
だが、これは人なら誰でも持つ心であり、また、その想いは妄念によって強められているはず。売り子が悪いわけでもないのだ。それに。
「その売り子さんに何かあったら、従姉殿やご主人、藤狐さんも悲しむよ」
坊ちゃんが優先するのは、やはり薬仙堂の一族であり、なじみになった主人や妖物だ。売り子に手出しできないことが不服そうだった虹蛇も、これを聞いて納得する。
「なんだか売り子さんの顔色が悪くなってきたから、狼君ももう少し優しくつかんであげて」
離してやれとまでは言わないところが、坊ちゃんらしくもあった。
「じゃあ、妄念を引きはがしましょうか」
狼君に、それなりに優しくつかまれた売り子の頭の、少しうしろ。虹蛇が手を伸ばし、靄と見えたものをグイッと引きだした。
「……これ、天女じゃない?」
虹蛇がつかんでいたのは、羽衣をまとった女の靄だ。ただ、その目はつり上がり、口は裂けている。腰から下は細くたなびき、寝台のそばにある棚の、引き出しまで続いている。
首をかしげた草草が引き出しを開けてみると、そこには、ありふれた鏡が入っていた。
*
「綺麗だねぇ」
菓子屋の小さな裏庭で、草草は売り子の部屋で見つけた鏡を持ち、反射する光を白い壁に当てていた。
光の濃淡によって浮かび上がったのは、優しげな天女。やはりこの鏡が、無骨そうな真面目そうな役人の、恋しい娘の探していた品であるらしい。
坊ちゃんの嬉しそうな顔を見れば、鋭い眼光は楽しげに細められ、美麗な顔もにっこり笑う。
「あたし、奥さんを呼んできていいですか?」
光で描かれた天女に目を輝かせていた藤狐は、従姉にも見せたいと思ったのだろう。はしゃいでいるのか、頭の布をもこりと押し上げて笑う妖物に、草草は優しげな顔でうなずいた。
ちなみに妄念は、虹蛇がぐいぐいと魔鏡に押しこめ、仙の力でふたをしてしまったため、そこから出られずにいる。
少々暑いものの穏やかな昼下がり。こじんまりした庭で、神の子と二人の仙が、光の天女を見ては幸せそうに笑い合う。
その、神の子が手にした鏡には、目がつり上がり口も裂けた女が、くぐもった声をもらしながら苦しげに身悶える姿――
けれどそんなこと、誰も気にしていなかった。
「あの鏡は少し前に、お客さんがあの子にくれたんです」
部屋に戻った草草たちは、茶と菓子をおいしくいただきつつ、藤狐から話を聞いていた。売り子のほうは、妄念を引きはがすと気を失ってしまったため、娘の部屋に寝かせてある。
その客はどこで魔鏡を手に入れたのか。この問いには、藤狐はわからないと首をふった。鏡が魔鏡であったことも知らなかったそうだ。
はて、と草草は首をひねる。
「どんなお客さんなんですか?」
「この近くの肉屋に肉を卸してる、猟師の息子です」
これを聞いた草草は、なるほど、と納得した。
魔鏡を持ちだしたのは、役人が恋した娘の兄、天女を忘れられない武官だろう。この兄は魔鏡を、天女と出会った泉へ持って行ったのではないか。
鏡にはさまざまな逸話が残されており、その中に、鏡はこの世と別の世界をつなぐ道、といった話がある。
実際、仙山の水鏡は下界をのぞくことができ、水応鏡ともつながっている。下界の鏡の多くにそんな力はないけれど、あながち夢物語とも言い切れない。
つまり兄は、もう一度天女に会いたいと思った。だから天女がいるであろう天と泉をつなぐために、天女を浮かび上がらせる魔鏡を持ちだしたのだろう。もちろん魔鏡と、仙山の、晴れることのない雲より上がつながるはずもないが。
あきらめきれない兄は、いつか天とつながることを願い、泉に魔鏡を置いてきたのだ。
それを、狩りに出ていた猟師の息子が見つけ、このとき魔鏡だとも気づいたのか、気に入っていた売り子に贈った。
こんなところだろうか。
「さすが坊ちゃん! そのとおりに違いありません!」
「ええ! 坊ちゃんのおかげで無事、解決ですねぇ」
考えを聞いた守役たちが、賞賛の言葉を口にした。けれど、草草の眉は困った感じに下がる。
「妄念は、お役人さんの好きな娘さんの想い、だよねぇ?」
妄念は同じような心を持つ、人に寄っていくわけだから、物にしてもなじみのある品のほうが憑きやすいはず。
草草がこう続けると、二人の仙もそうだろうと返す。
となると妄念の主は、最近魔鏡を手にしたばかりの売り子ではなく、魔鏡の持ち主だった娘だろう。
「この魔鏡を返したら、また娘さんの気分が塞ぐんじゃない? 虹蛇の力で封じてても、出られないだけで姿は見えるだろうし、声も聞こえるよねぇ?」
「では、魔鏡を壊しますか?」
「妄念をひねり潰しておきましょうか?」
坊ちゃんの困り顔を見て、狼君が気合の入った迫力顔をぐっと突きだした。虹蛇は手のひらを握ったり開いたりしながら、美麗な顔に物騒な笑みを浮かべる。
「魔鏡を壊したら、お役人さんが娘さんに返せなくなるし、妄念をどうにかして、もし想いの主の娘さんにも何かあったら、お役人さんが悲しむんじゃない?」
こう言って、草草が首をかしげると。
「別に役人が頼まれ事を果たせなくても、いいんじゃないですか?」
「娘がどうにかなったとしても、女はたくさんいますよ。あの役人もいずれ、ほかの娘を見つけるんじゃないですかねぇ?」
守役たちは、坊ちゃんほどには役人を気にかけていない、ということが、実によくわかる返事であった。
*
数日後。無骨そうな真面目そうな役人が、薬仙堂を訪れた。その太い眉は、やはり下がっている。
「草草殿の言ったとおり、魔鏡を持ちだしたのは娘の兄上だった。それでだな……」
長話になりそうだと見て、みなで店の端にある卓へ腰を下ろす。
同時に役人の口から、はぁ、とため息がもれた。対して、草草はにこりと笑う。
「その兄上からも、魔鏡をなくしてしまったので探せ、と言われたんですね?」
「なっ!? そっ、そうだが!」
ぐわっと目を見開いた役人に、草草がしずしずと魔鏡を差しだした。驚きすぎた役人の目は、それ以上開かなかったのか、今度は口がガバリと開く。
そんな役人を横目に、ふふん、と虹蛇が口の端を上げる。狼君は何度目かとなる、「坊ちゃんはなかなかじゃなくて、すごく賢いんだ」という台詞を吐いた。
「この魔鏡に妄念……というものが憑いている、のか」
菓子屋での出来事を聞いた役人は、目を忙しくしばたき、手にした魔鏡をくるくるとひっくり返しては首をかしげ、「うぅむ」とうなる。
魔鏡に閉じこめられ、もがいている天女が、役人には見えないのだろう。
それでも彼は、仙の逸話が多くある来仙に暮らし、県令の子息の婚儀には天女が現れたばかり。仙人のごとき貴人の言葉でもあったためか、真っ向から否定する気はないようだ。
それどころか「草草殿は道士だったのか」と、さも納得した様子でもある。ただの薬屋よりは道士のほうが、よほどしっくりきたのかもしれない。
「だから魔鏡をこのまま返すのは、娘さんのためにも良くないと思うんです。それにお役人さんは、娘さんと兄上の両方から、魔鏡を探せと言われてますよね」
本来なら元の持ち主に返すべきだと思うし、役人も娘の頼みを聞きたいだろう。だが、その兄はおそらく役人の上役だ。はたしてどちらに返すのか。
ひょい、とうかがった草草に、役人は「それはもう大丈夫だ」と首をふる。
しかしその顔は、元々無骨なせいで、太い眉を動かしてくれないとわかりにくいのだが、ひどく曇っているような。
「お役人さん、どうしたんですか?」
役人は「うぅぅぅむぅ」と妙なうなりを上げてから、しゃべり始めた。
娘は、兄が魔鏡をなくしたと聞くと、ならば仕方ないとあきらめてしまった。
この姿を見た役人は、太い眉を思いっきり寄せる。
娘は魔鏡を持ちだしたのは兄だろうと考えながらも、聞けずにいた。兄は羽衣を探すために、臥せっていた娘を叩き起こした。あまり兄妹仲が良くないように感じるのだ。
気になった役人は、彼にしては相当がんばって娘から話を聞きだした。
娘は一年前まで、父や兄とは離れて暮らしていたそうだ。娘の母は後妻、兄は前妻の息子。つまり異母兄妹になる。娘の母は、今もって別に暮らしている。
この母の実家はそれなりの名家だったそうで、結婚当初、父は母を大切に扱っていた。
その風向きが変わったのは、母の実家の家族が、流行り病で次々と亡くなってから、母がうしろ盾を失ってから、ということだ。父は冷たくなり、ついには母と娘を屋敷から追いだしてしまった。
一年前、父が娘を引き取ったのは、県令の子息と結婚させるためだ。
「ふぅん……その娘さんは、お母上と一緒に暮らしたほうが、いいんじゃないでしょうか?」
もしかすると、娘が寝込んでいたのは、恋に破れた痛手もあったのかもしれないが、県令の子息をとりこにできなかった、などといった理由で、父にひどく叱責されたせいではないか。
県令の子息はもう結婚したのに、娘は未だ屋敷にいる。父は懲りずに次の縁談を画策しているのではないか。娘はささやかな抵抗として臥せっていた、ということもありうる。
そんな父ならば娘を引き離したほうがいいのでは、と草草が続ければ、役人は太い眉が一本につながりそうなほどギュッと寄せ、力強くうなずく。
「うむ。実は娘のことを相談しようと思い、別に暮らしているお母上を訪ねたんだ。お母上はずいぶん潔い方でな。屋敷を追いだされたときは文句も言わず、娘を連れてさっさと出ていった節もある。一年前、娘を引き取るという話には、強く反対したそうだ」
「お父上が、無理に引き取ったんですね?」
「この来仙では、なかなか力のある方だからな……」
うしろ盾のない母では、どうにもならないということか。
はぁ、と大きなため息をついた役人に、ところで、と声をかける。草草はひとつ、気になることができたのだ。
「この魔鏡は娘さんの前に、別の持ち主がいませんでしたか? それは誰か。お役人さんは聞いてますか?」
「お……な、なぜそんなことまで、わかるんだ?」
役人が目を、パチパチパチパチしばたいた。
話を聞くかぎり、娘には県令の子息との恋以外にも、思い悩むことがたくさんあったようだ。
娘を出世の道具としか考えない父。思いやりのない兄。はたしてこんな状況で、妄念が育つほどに子息だけを想うだろうか。
あるいは逆に、こんな状況だからこそ、というほどに子息への想いに囚われていたなら、妄念は娘から離れなかったと思うのだ。
となると、妄念の主は別人だ。妄念はなじみのある物に憑く。ならば魔鏡の持ち主も、ほかにもいたことになる。と、草草は考えたわけだ。
ここで二人の仙が「さすが坊ちゃん」と合いの手を入れた。
いつものことではあるが、暇でもあったのだろう。話の最中、役人の恋にも、お相手の娘の家の事情にも、まったく興味がないといった顔をしていた。
彼らの目は、ふむ、と考えこんだり、ちょい、と小首をかしげて説明したりする、坊ちゃんにのみ注がれていた。暇なだけでなく、草草の話もしたかったのかもしれない。
ようやく出番がきたとばかりに張りきる守役たちによって、『坊ちゃんがどれだけ賢いか』が語られ、草草はしばし、聞き役にまわることとなった。
*
――ひっそりとした夜。人々の寝入った屋敷が、ただ静かに建ち並ぶ。静寂の中を動く影が、三つ。
「坊ちゃん、大丈夫です。誰もいません」
「坊ちゃん。暗いので足元に気をつけてくださいね」
鋭い眼光を周囲にめぐらし耳をそばだて、狼君は、すん、と鼻を鳴らす。三日月の光では転んでしまうかもしれないと、虹蛇は甲斐甲斐しく坊ちゃんの手をひく。
ふところに魔鏡を忍ばせた草草は、東市にある、無骨そうな真面目そうな役人が恋する娘の、屋敷に来ていた。
夜はすっかり涼しいものの、草草は今、ちょっとばかり暑い。
心配顔になった狼君が、「坊ちゃん、湯冷めしたらどうするんです?」と言ったために、ふんわりとした毛皮を羽織っているからだ。
『坊ちゃん。髪もしっかり乾かさなくちゃ、風邪をひくといけません』
『小腹が空くとまずいですねぇ。菓子か軽くつまめる物も、持って行きましょう』
『いや、夜はあまり食べないほうがいい。明日、腹が痛くなるかもしれないぞ?』
『でも坊ちゃんがおなかを空かせたら、可哀そうじゃないか』
薬仙堂を出るまでに、たいそう手間取った。
「じゃあ虹蛇、お願いしていい?」
「ええ、任せてください」
草草がふところから魔鏡を取りだすと、にっこり笑った虹蛇が手を伸ばす。鏡面にふれた手がつかみ出したのは、天女の姿をした妄念だ。
役人から聞いた話から察するに、この妄念の主は、娘の曾祖母であるらしい。
元々魔鏡は彼女のために作られた物であり、天女の姿はこの曾祖母を模したものだそうだ。
曾祖母は物静かで、夫に尽くす女だった。だが夫は、外にたくさんの妾を囲っていた。この夫はわりと早死にしたのだが、気がふれていた、とか、ものに憑かれていた、という噂があったらしい。
実のところはわからない。ただ、祖母、つまり曾祖母の娘は「母は情の強い人だった」と、もらしたことがあるそうだ。
おそらく夫の死は、曾祖母の妄念の仕業、だったのだろう。
魔鏡は曾祖母から祖母へ、母から娘へと受け継がれていった。
曾祖母が大切にしていた品ではあったが、祖母や母は、この魔鏡をあまり好んでいなかったともいう。
これは役人が、娘の母から聞いたこと。
実直な役人は、娘との出会い、贈物のこと、このたびの騒動なども、包み隠さず話したのではないか。母の信頼を得たために、こうした話まで聞けたのだろう。娘も役人を頼った。
もしかするとこの恋は、案外うまくいくかもしれない。坊ちゃんは楽しげにほほ笑む。
となれば邪魔なのは今、屋敷でのうのうと寝ているであろう、娘の父だ。
虹蛇は天女の妄念をぐいぐいと引っぱり、腰より下の細くたなびいていた靄まで、すべて魔鏡から出してしまう。
現れた天女は、魔鏡に閉じこめられていたせいか、無理矢理引きはがされたからか、ぐったりとしていた。それでも顔を上げ、憎々しげに虹蛇をにらむ。
すると、虹蛇の瞳がゆらりと揺れ、金色に変わった。
「あんたの恋しい男が、どこにいるか知ってるかい? この屋敷にいるのさ。この屋敷の旦那様が、あんたの恋しい男だよ」
常の虹蛇とは違った、抑揚のない声なき声が繰り返しささやく。金の瞳が濃淡を変えながら、ゆらゆら煌めく。
亡羊とした顔つきになった天女の、目はのたりのたりとさまよっている。
「早く捕まえないと、恋しい旦那はきっと逃げてしまうね」
今度は天女の目がランランと光り始める。夢見るように、けれどどこか陰惨な笑みを浮かべた妄念は、サァッ、と屋敷へ飛び立った。
少しばかりの時が経つと、屋敷から、男の悲鳴がもれ聞こえた。
「あとはお母上に、娘さんを迎えに行ってもらえば終わりだね」
これから――妄念に恋しいとささやかれ、つきまとわれる父は、もう娘の結婚などと言っている場合ではなくなるだろう。これで母は、娘を引き取ることができる。
さっさと結婚してしまうのも良いかもしれない。こちらは役人のがんばり次第だ。あの、無骨そうな真面目そうな役人は、どんな顔をして娘を口説くのだろう。
くすりと笑おうとした草草の、口からあくびが出た。
「坊ちゃん、寝不足になるといけません。もう帰りましょう」
「寝坊するのは構わないけど、目にくまができるとまずいねぇ。坊ちゃん。我が背負いますから、早く帰りましょう?」
狼君が迫力の増した心配顔で、坊ちゃんをうかがう。虹蛇は優しげな声を出し、すでに背中を差しだしている。
「ん……帰ろうか」
だいぶ眠くなった草草は自然、虹蛇の肩に手をかけた。背負われて、目をつむる。歩みに合わせてゆらゆらと、坊ちゃんはうとうとと。
夢の中――
どうにも似合わない、紅い花婿の装束をまとった役人は、無骨そうな真面目そうな顔に滝のごとき汗をしたたらせ、その太い眉は緊張のためか、びくびく上下に動いていた。




