第八話 鬼と鬼
「お寺に盗人が入ってたんですか?」
「ええ……で、ですが誰も怪我はしませんでしたし、盗人もお役人様が捕まえてくださいましたので」
店の端にある卓で、草草がちょっとばかり驚いた風に首をかしげると、僧は小さな目をしばたき、おどおどしながら笑みを返した。
僧のいる寺はそれほど大きくなく、小坊主の数も少ない。彼はお札を届けたり、雑用をこなしたりと、寺から出る機会が多いらしい。
ひょろりとした僧が背を丸めてこの卓に座る姿は、すっかり見慣れたものになっていた。
「役人って、あの眉毛の太くて角ばった顔の、真面目だけがとりえって感じの奴かい?」
虹蛇がぶしつけな物言いをするも、つるりとした僧の頭は、ためらうことなく縦にゆれた。
意外と彼も遠慮ないのだろうか。草草はくすりと笑みをもらす。
「あの役人によく捕まえられたな」
「きっと、マヌケな盗人だったのさ」
狼君が不思議そうな顔をななめに傾け、虹蛇はふふんと笑っている。二人の仙は相変わらず、だいぶ失礼だ。
「あのお役人さんだって、たまには盗人を捕まえることもあるよ。たぶん、ちょっと世渡りが下手なだけなんじゃないかな?」
小首をかしげた坊ちゃんも、それなりに失礼であった。
「それで、盗まれた物は戻ってきたんですか?」
僧は「ご本尊様はご無事に」と答えてホッと息をついた。それは良かったと草草もほほ笑む。
本尊は昔、たいそう名のある仏師が彫った物と聞く。さらに寺は代々、力ある和尚が継いでおり、本尊は日々、この和尚に拝まれているありがたい仏像だ。密かに売りだせば、好事家やご利益を求める金持ちが飛びつく代物、というわけだ。
金のほうは戻ってこなかったと、眉を下げた僧は言う。
盗人が入ったのはしばらく前、草草たちが県令の屋敷へ乗りこんでいたころのこと。それから捕まるまでの間に、盗人が使ってしまったのだろう。
「そ、それほど大した額ではありませんでしたし……あとは、その、鬼の角が戻らなくて」
「鬼の角?」
草草は首をひねった。聞いてみれば、何代か前の和尚が退治した、悪しき赤鬼の角だという。
鬼、と呼ばれるものにも、さまざまある。
下界にいるものの多くは妖物だろう。あの世の閻魔様に仕えるものも人は鬼と言うようだが、草草たちにしてみれば、神に従う仙と同じ。あとは鬼の姿をとった神か。
人である和尚が退治したのなら、おそらく害をなした妖物だろう。
「そんな物、何に使うのかな?」
「前に木乃伊を不老長寿の薬といって、売ってた薬屋があったじゃないですか。あれと同じで、鬼のように強くなれるとか、長生きできるとか。そんな迷信でもあるんじゃないですか?」
虹蛇が冗談めいた口ぶりで話すと、意外にも、つるりとした頭が縦にゆれた。
「あ、あの……和尚様はそんなことはないとおっしゃられておりますが、その、角を粉にして飲むと不老長寿を得られるとか。巷ではそんな話があるようです」
「へぇ……人の世には不老長寿の薬って、案外多いんだねぇ」
草草が半ば呆れ、半ば感心した風に言う。狼君は渋い顔で首をふり、虹蛇は鼻でせせら笑う。
僧は小さな目をパチパチとしばたき、困り顔になって笑っていた。
いつもどおり、おどおどとした僧が丁寧な挨拶を置いて薬仙堂を辞すと、草草たちも散歩をしようと外へ出た。
薬仙堂のある、この通りには大きな店がずらりと並び、人の出も多い。市壁でぐるりと囲まれた来仙は、中を東市と西市に分けており、東市には県令や貴族の屋敷、大きな寺院なども集まっている。
薬仙堂や僧のいる寺があるのは西市。ここは西市でももっとも繁華な通りだ。
「坊ちゃん、今日はどの方角に行きますか?」
ここ数日、しとしとと雨が降り続き、ようやく晴れた今日。
『坊ちゃんの日課』がこなせると機嫌の良さそうな狼君が、広い通りの、右へ左に目を移す。
店に閉じこもっていた草草も、嬉しげな顔をきょろきょろと動かす。
「うぅん……そうだ、藤狐さんの様子でも見に行こうか? あ、あの弟夫婦が出ていった酒屋はどうなったかな? ん、前に呼びだされた道観(道教寺院)の近くにあった花、ちょっと珍しかったよね。あれを押し花にして母上に手紙を出そうかな?」
久しぶりの散歩に、坊ちゃんも少し浮かれているらしい。次々と行きたい場所が浮かんでくる。
「坊ちゃん、全部まわってたら疲れてしまいます。ひとつにしましょう」
「ふん……人目がなければ、我が背負って駆けられるんだけどねぇ」
「そうか、それもそうだな」
まさかその、人目自体をなくそうなどと考えたりはしないだろう。
草草がチラリと見上げると、切れ長の目は針のように細くなっている。鋭い眼光もキラリと光ったような。
「……僕、今日は藤狐さんに会いたいな」
草草は、ぬるい笑みを浮かべて譲歩した。
狐の妖物である藤狐が働く、霊の憑いた主人と従姉が営んでいる菓子屋は、広い繁華な通りからは少し外れた場所にある。それでもなかなか賑わいのあるところだ。
来仙の中心部は碁盤の目のように道が敷かれており、一本違う通りを歩けば、また違った景色が見られる。
今日はここを曲がってみようと足を向けた草草は、一軒の店の前に来ると、ぴたりと歩を止めた。
「ここが木乃伊を売ってた薬屋だね」
店の入口と窓に嵌めこまれた飾り彫りは、龍や鳳凰、麒麟に虎。蓮に桃に牡丹に梅。とにかく縁起の良さそうなものを集めましたといった感じで、窮屈そうに並んでいる。
それでいて店先は掃き清めておらず、窓にも埃が溜まっているような。
店先には『丹薬』という貼紙もある。丹薬とは丹砂(硫化水銀)などで作った、不老不死の効果があるとされている薬だ。
実際には毒にしかならない物だし、店も『不老不死』とは謳っていないはず。命の尽きかけた者に飲ませれば、すぐに偽物だとバレてしまうからだ。せいぜい長生薬として売っているのだろう。
いかにも胡散臭い、薬仙堂とは正反対の店のようだ。草草が苦笑いをこぼしたとき、店から見慣れた人物が出てきた。
「お、薬仙堂の客人方。まさか……この薬屋に用があるのか?」
無骨そうな真面目そうな役人が太い眉を寄せ、こんな怪しげな店に何用なのかといった、怪訝な目を向けてくる。
これにいち早く反応したのは、二人の仙だ。
「こんな趣味の悪い店、行くわけないじゃないか。坊ちゃんには似合わないね」
「こんな汚れた店に入って、坊ちゃんが咳をしたらどうするんだ」
「……そうか」
鼻を鳴らした虹蛇と仏頂面になった狼君に、少しの間、役人は押し黙った。おそらく、反対する理由が妙だと思ったのだろう。
彼らとは生まれたときからつき合っている草草は、多少変だと思ったものの気にはせず、にこりと笑う。
「もしかして、お役人さんはお寺から盗まれたという、鬼の角を探してるんですか?」
「そうだ。よくわかったな」
この薬屋は、不老長寿の薬と称して木乃伊を切り売りし、長生薬などと言って丹薬も売っている。そして店の名も『長寿堂』。いかにも鬼の角を売りそうである。
こうしたことを草草が話すと、役人は、ほう、と感心した様子。
「草草殿はなかなか賢いな」
「坊ちゃんはなかなかじゃなくて、すごく賢いんだ!」
「あんた、散々坊ちゃんの世話になってるじゃないか!」
役人は草草を褒めたにも関わらず、その褒めっぷりが足りないと、鋭い眼光と剣呑な眼差しに責め立てられる。
そんな守役たちをなだめるのに、坊ちゃんはしばしの時を要した。
「ふぅん、鬼の角は見つからなかったんですか」
草草が首をひねると、役人も首をひねりながら疑わしい目を長寿堂に向ける。
捕まった盗人は、鬼の角をこの薬屋に売ったと白状したそうだ。しかし長寿堂はこれを否定。それでも役人は店中を探したが、角らしき物は見当たらなかったという。
「だが、絶対に怪しい。主人は妙にびくびくしていたし、一緒に住んでいる年増女の姿も見えないんだ」
その女が鬼の角を隠し持っているのでは、いや、もう誰かに売ってしまったのか。
役人は一人、太い眉をギュッと寄せ、結構大きな声でしゃべっている。けれど、草草の口からもれたのは「角……」という言葉。
「お役人さん、鬼の角を探したんですよね? 角を探したんですか?」
このよくわからない問いに、役人が首を、今度は逆の方向にひねった。構わず草草は続ける。
「鬼の角は粉にして飲むんですよね? だから長寿堂さんは、もう角を削って粉にしてると思うんです」
本来なら、鬼の角の粉薬など眉唾物の代物だろう。角の形を残しておけば、信じて飛びつく客も増えるはず。
しかし、だ。売る前に役人に見つかってしまえば、盗品は没収されてしまう。ならば粉にして、ほかの薬に混ぜておけば隠し通せるかもしれない。
売るときは、鬼の角が盗まれたとの噂を広めればよい。これは事実なのだから信憑性が増すし、何だかんだと言いながらも、長寿に目が眩む客は見つかるものだ。
だから角の形をした物を探しても、見つかりはしないだろう。
これを聞いた役人の目が、ぐわっと見開かれた。
「お坊様に聞いたんですが、赤鬼の角は色も赤くて、鈍く光ってたそうですね。そういう色の粉を探せばいいんじゃないですか?」
そんな色の薬は滅多にないので、もし長寿堂に残っていればきっと見つかるはずだ。
草草がこう提案すると、役人は目をしばたいて太い眉を上下に動かし、ついでその眉をキリリと持ち上げる。
そして、もう一度探すと息巻きながら、長寿堂へ向っていった。
「坊ちゃん。あの役人、世渡りだけじゃなくて、頭を使うのも下手なんじゃないですか?」
そのうしろ姿を見て、片方の眉をくいっと上げた虹蛇。狼君は眉間にしわが浮いている。
眉を下げた坊ちゃんの口から出た言葉は、「そうかも」であった。
*
「……なんだか変じゃない?」
菓子屋のある通りに来ると、草草は首をかしげることとなった。
人の出がちょっとばかり少ないような。人々の顔も少しばかり曇っているような。
「……血の臭いがします。坊ちゃん、俺たちから離れないでください」
「確かに臭うよ。何かあったんですかね?」
鋭い眼光と剣呑な目をめぐらした守役たちが、坊ちゃんのそばをぴたりと歩く。
菓子屋が見えたところで、中からまた、役人が出てきた。といっても、こちらは無骨そうな真面目そうな役人とは別の男だ。
血の臭いがし、役人もうろついているということは、やはりこの辺りで何かあったのだろう。
ともかく、草草たちは菓子屋に入った。
「いらっ、あ! 草草様! 聞いてくださいよ!」
勢いよく出迎えたのは、藤狐だ。尼僧とはまた違う、少し華やかな布を被っている。その布は、やはりもこりと盛り上がっても、いる。どうやら彼女は、心乱れると耳が出てしまうクセがあるようだ。
坊ちゃんに飛びかからんばかりの藤狐を、眉間にくっきりしわを寄せた狼君が、ぐいっと押し留める。眉をきりきり上げた虹蛇は、「少し落ち着きな」と坊ちゃんを守るように立つ。
「あ、すみません。つい……」
「藤狐さん、こんにちは。お元気そうですね」
二人の仙におびえたのか。恐縮したように身をすくめた藤狐に、草草は実にのん気な挨拶をした。
厚ぼったい唇を尖らせてぷりぷりと怒っている藤狐に、苦笑いを浮かべた従姉が茶を勧める。
草草たちは菓子屋の奥に通され、茶をふるまわれ、これまでのいきさつを聞いていた。苛立つ藤狐の話はあちらこちらへ飛んでしまったため、説明したのは主に従姉だが。
その、従姉の話はこうだった。
しばらく前のこと。この辺りにゴロツキ風の男たちが現れるようになった。
時期を聞いてみると、草草たちが県令の屋敷から戻ってきたころ。従兄が『街外れの廃寺に怪しげな火の玉が出る』という、噂を聞きつけてきた時期と重なる。
ゴロツキ風の男たちとは、廃寺にいた者どもと見ていいだろう。彼らは怪異があった廃寺を捨て、この辺りまで流れてきたようだ。
そんな男たちが来れば、当然騒ぎを起こす。それを完膚なきまでに蹴散らし、追いだしたのが藤狐だ。彼女は妖物、相手がただの人なら造作もないことである。
ここまでは何の問題もないように思えた。ところが……
「ゴロツキが殺されたからって、あたしを疑うなんて! おかしいと思いませんか!?」
「誰も藤狐さんのこと、疑ったりしてないわ。この辺りの人は、みんなあなたに感謝してる。あのお役人様も念のためと言ってたし、鬼の仕業だという噂もあるわ」
いきり立った藤狐を、従姉が優しげな声でなだめる。すると、藤狐の肩から力が抜けた。ついでに耳も引っこんだらしい。
なかなかうまくいっているようだと、仲が良さそうで何よりだと、わりと物騒な話の途中にも関わらず、坊ちゃんは穏やかにほほ笑んだ。
ゴロツキたちはこの辺りには顔を出さなくなったものの、少し先にある、空き家を根城にしていた。
そこで、最初の惨劇が起きた。男が一人、腹を食い破られて死んだのだ。それから数日に一人ずつ、男たちが殺されていく――
日ごろは肩で風を切って歩く輩がおびえ、獄に入れてくれと言いだす者まで現れた。彼らは鬼の仕業だとも訴えた。女の鬼が現れたと、そう言ったそうだ。
「腹を食い破るなんて、いかにも妖物らしい殺し方だねぇ」
「あたしはそんなことしません!」
「あんたの仕業だなんて言ってないじゃないか。ほかの妖物がやったのさ」
「人にもおかしな奴はいるぞ?」
「まあねぇ。でも人なら刃物を使うよ。いくらマヌケな役人でも、刃物を使ったか、食い破られたか、それくらいの違いはわかるんじゃないのかい?」
「あ、それは役人も言ってました。獣に襲われたみたいだって。それに数日に一人なんて、いかにも妖物が獲物を食べてるみたいですよね」
二人の仙と一人の妖物の話を聞きながら、草草はくるりと目の玉をまわす。
妖物の仕業、女の鬼、廃寺のゴロツキと火の玉。それに、盗まれた鬼の角だ。
寺に盗人が入ったのは、廃寺に火の玉が出るという噂が立つ、少し前のこと。鬼の角が盗まれて、それから女の鬼が現れたという。
これほど立て続けに事が起きれば、無関係とは思えない。
「狼君、虹蛇。僕、さっきの長寿堂に行ってみたいんだけど」
小首をかしげた草草に、もちろん、守役たちは反対した。狼君曰く、坊ちゃんが咳をすると悪いから。虹蛇曰く、あの店は坊ちゃんに相応しくない。
「それに坊ちゃん、あの薬屋はかすかに血の臭いがしました」
「そうですよ。あんなところへ行くのは、やめましょう?」
狼君が渋い顔を横にふる。優しげな声で虹蛇が諭す。だが、それより。
「……血の臭いがしたの?」
二人の仙にとって、坊ちゃんが足を踏み入れなければ、誰の物ともわからない血など、どうでもよかったらしい。坊ちゃんの健康と坊ちゃんに相応しいかどうか。そちらほうがずっと大切であるらしい。
草草は新たに得た情報から、ふたたび考えをめぐらすこととなった。
*
「坊ちゃん、疲れたらすぐに言ってください。無理しちゃだめですよ」
「本当ですよ? まったく盗人といい、長寿堂といい、面倒なことをしてくれたもんだよ!」
狼君の心配顔が草草をのぞきこむ。一緒になってうかがっていた虹蛇は、顔を上げてふんっと鼻を鳴らす。
草草は「まだ僕の推測だよ」と苦笑いしつつ、陽が傾き、涼しくなってきた街中を、廃寺へ向けて歩いていた。
このたびの件を、草草はこう考えていた。
事の起こりは寺に入った盗人だ。盗人は盗んだ鬼の角を、長寿堂に売り払った。
長寿堂は不老長寿の薬として売るため、鬼の角を粉にしただろう。そして、おそらくだが、一緒に住んでいたという年増女に、試しに飲ませたのだ。
役人は「主人は妙にびくびくしていたし、年増女の姿も見えない」と言い、狼君は「かすかに血の臭いがした」と言った。
これらをつなげると、鬼の角を飲んだ女に異変が起きた、と見ていいだろう。
血の臭いがし、けれど長寿堂はピンピンしている。ならば女が、血を吐いて亡くなったのかもしれない。慌てた長寿堂は、女の亡骸を廃寺近くに捨てたのではないか。
ただ盗まれた品を買っただけなら、多少のお叱りを受ければ済むこと。長寿堂が役人の顔を見てびくびくする必要はないのだ。
そして――女は鬼になった。だから、鬼の力によるものだろう火の玉が、廃寺に現れた。
女の鬼が廃寺にいたゴロツキを執拗にねらっているのは、姿を見られたからか、ほかに理由があるのか。この辺りはわからない。
だが、血の味を覚えた女の鬼は、ゴロツキをすべて喰らい尽くしたら次はどうするだろう。妙な薬を飲ませた長寿堂を襲うのか。では、その次は……
放っておけば、従姉夫婦や薬仙堂の面々にも害が及ぶかもしれない。無骨そうな真面目そうな役人も、ひょろりとした猫背の僧だって、危ないかもしれない。同じ妖物なら藤狐も油断はできない。
これは、このままにして良いことではないのだ。
『伯父上や従兄殿、薬仙堂の一族に何かあったら、母上が悲しむよ。そうしたら父上も僕も悲しいよ……』
人を喰らった妖物に会うなどとんでもない、と首を横にふっていた守役たちは、ひどく悲しげな坊ちゃんを見て、首のふりを縦に変えることとなった。
「まったく! 和尚も和尚だよ。力があるなら、こんなことになる前に手を打てばいいじゃないか!」
街を歩く二人の仙の、怒りの矛先は、徳が高いと評判の和尚にまで及んだらしい。虹蛇はきりきりと眉をつり上げ、狼君は眉間にぐっとしわを寄せる。
「そういえばお坊様が、最近、和尚様が熱心にご祈祷してるって言ってたね」
ずいぶん霊力のありそうな和尚は、鬼の角に何かしらの力があると承知していたはずだ。きっとこの騒動を知って、すぐに祈祷を始めたのだろう。
「盗人が入る前から、ちゃんと祈祷しておくべきです!」
「せめて坊ちゃんが乗りだすより前に、退治すべきですよ!」
「……それは、さすがに無理じゃないかな?」
どれほど力があろうと、盗人が入ることまではわからないだろうし、草草の都合など、なおさら知らないだろう。
坊ちゃんは困り顔で笑いつつ、守役たちをなだめつつ、いつもと変わらぬ様子で、女の鬼がいるであろう廃寺へと向った。
「何かいます。臭い奴です」
「嫌な感じですよ。すぐにやっつけたほうが良さそうですね」
街外れの廃寺に着いたのは、そろそろ陽も落ちようかというころ。ちょうど良かったと、草草は二人の仙を見やった。
狼君の目は青く染まり、虹蛇の瞳も金色で、二人とも、口から牙がのぞいているのだ。
ここは街外れ。人はまず来ないだろうが、日中は誰かが通るかもしれない。今なら人目がないので、遠慮なく暴れられるというわけだ。
彼らがこれほど嫌がるものなら、大人しく従ったほうが良い。そう考えた草草は虹蛇のそばに寄った。
それを確認した狼君が、廃寺へと足を進める。と……
――バンッ!
扉が壊れそうなほどに勢いよく開き、影が飛びだしてきた。
影と見えたものは、狼君がその首をガシリとつかみ上げている。
それは赤黒い、血のような肌をしていた。目尻が裂けているのだろうか、大きな目は血走っている。口も耳元まで裂け、牙が伸びている。頭には赤く、鈍く光った角。髪の長さや着物から、かろうじて女だとわかる鬼だった。
鬼は狼君の腕に、長い爪を立てようとするも、妖物の爪が仙の体を傷つけることはない。ぼうっ、と現れる火の玉は、狼君が手で軽々と払う。
「あなたは長寿堂にいた、女の方ですか? それとも昔、和尚様に退治されたという赤鬼ですか?」
――ぐ、ぐぐ、ぐぐ、ぐ
草草が声をかけても見向きもせず、女の鬼は仙の腕から逃れようと、ひたすらもがいている。
話し合える相手ではなさそうだと見た草草は、狼君にうなずく。鬼の首にかかっていた仙の指に、力がこもったと見えたとき。
女の鬼の背後にある景色が――ぐにゃり、奇妙に曲がった。
「坊ちゃん!」
草草は、飛び退った虹蛇の腕の中だ。狼君もいち早くその場を離れる。
ねじ曲がり、暗く澱んだ宙から、大きな手が出てきた。
毛むくじゃらの、黒光りする鋭い爪の生えた、女の鬼をひと握りでつかむ、大きな大きな手だ。
その手がひとつ、ふられると、どさりと女の体が落ちた。それは角のない、ただの人の女に見える。
大きな手には、まだ鬼がいた。こちらが鬼の角の持ち主、何代か前の和尚に退治されたという赤鬼なのだろう。
大きな手がぎゅっと握れば、赤鬼もぎゅっと潰れる。
ぎゅっぎゅっと握れば、赤鬼はさらに小さく潰れる。
手が小さくなるにつれ、鬼も小さくなっていく。それが人の手より少し大きいくらいになると、歪んだ景色から現れたものがあった。
筋骨隆々とした逞しい体。その身には腰巻だけをまとっている。頭部には一本の、長い長い角。そして顔も、ずいぶんと長い――
「馬頭鬼か! いきなり現れるんじゃないよ!」
現れたのは閻魔様に仕える地獄の獄卒、人の体に馬の頭を持つ、馬頭鬼だ。
虹蛇が眉をきりきりとつり上げ、狼君も眉間にくっきりとしわを寄せ、不服そうな目を向ける。
馬頭鬼は歯ぐきをむき出しにして、ヒヒンと笑った。人にしてみれば、ニヤリ、といった感じだろうか。
「これは失礼した。ところで、そちらの神はどちらのお方であろうか?」
長い鼻づらで指された草草は、にこりとほほ笑み、仙山に在る山神の息子であると、草神であると答える。
「おお、草神様か。はて、生まれたばかりと思っておったが、ずいぶんと大きいような?」
「もう、十八になりました」
「なに? 十八!? まだ赤子ではないか! そなたら、よくよく草神様をお守りするのだぞ」
ヒンヒンと長い顔をゆらす馬頭鬼に、当たり前だと、しっかり守っていると、守役たちは盛大に文句を返す。
そして、またしても赤子と言われてしまった坊ちゃんは、唇がちょんと尖った。
赤鬼のこと、なぜ馬頭鬼が現れたのか、それに閻魔様のおわすあの世とは。気を取りなおすと草草は、いろいろと知りたいことが浮かんできた。
では聞いてみようと口を開きかけたとき、暗く、ねじ曲がっていた宙がさらに大きく歪む。
馬頭鬼の姿も一緒に曲がり始めている。
「お、もう帰らねばならぬ。こたびは迷惑をおかけした。閻魔様に伝えておくゆえ、山神様に挨拶があるやもしれぬ。草神様にはわが孫に礼をさせよう」
その声が消えると同時に、辺りの風景も元に戻った。
「あいつ、何なんだい!? 好き放題言っておいて、勝手に帰ったよ!」
「俺たちがいつ、坊ちゃんの守りを疎かにしたっていうんだ!」
馬頭鬼の物言いが気に入らなかったらしい。守役たちが気炎を上げる。
しかし草草は、その横で首をひねっていた。
馬頭鬼は「孫」と言った。それはもしかすると、たいそう霊力のありそうな和尚のことではないか。和尚の祈祷によって、馬頭鬼は現れたのではないか。
和尚は、菓子屋の主人に憑いた霊を『良さそうな霊』と見たと聞く。良きものはそのままに、悪しきものだけを退治する、異質なものであっても受け入れられる御仁だ。
こうした考えは人としては珍しい。だが、祖父が馬頭鬼ならばたやすいはず。
弟夫婦の酒屋で騒いでいた仙や精霊を見て、『天罰である』とも言ったそうだ。会ったこともないものの正体を、見抜くのは難しい。
彼は馬頭鬼を知っていたから、怪異の元は神に仕えるものであると、わかったのかもしれない。
まあ、どちらでも良いことか。ひょろりとした猫背の僧が慕い、来仙の人々が敬っているのだ。和尚が立派な御仁であることには違いない。
くすりと笑った草草は、気合を入れて文句を言い続けている二人の仙を、ようやくなだめにかかった。
*
後日。長寿堂と生き残っていたゴロツキが、役人に捕まった。女の亡骸が廃寺で見つかったためだ。
亡骸は衿元から腹にかけて、たくさんの血がついていた。これは草草の見立てたとおり、鬼の角を粉にして飲んだ女が血を吐いたからだ。
そして、亡骸の腹にはそれとは別の、刃物による傷があった。
長寿堂が廃寺に運んだとき、女にはまだ、息があったのだという。それなのに長寿堂は女を捨てた。女を殺したのはゴロツキの一人。ほかの男も、おもしろがって見ていたそうだ。
女の鬼がゴロツキたちをねらったのは、鬼としての糧というだけでなく、女自身の復讐でもあったのだろう。
粉になってしまった鬼の角は、無骨そうな真面目そうな役人が見つけ、無事、和尚の手元に戻った。ついでに、長寿堂とゴロツキを捕まえた手柄は、この役人の元へ。
女の亡骸が見つかると、草草は「鬼の角は、どうも人の体には毒になるらしい」と役人に吹きこんだ。役人はもちろん長寿堂へ乗りこむ。長寿堂に白状させると次はゴロツキへ、というわけだ。
「本当は坊ちゃんの手柄じゃないか!」
「そうだ! 坊ちゃんはなかなかじゃなくて、すごく賢いんだ!」
守役たちは、だいぶ納得がいかないようだったが。
いつもどおり、草草たちが薬仙堂で薬作りをしていると、いつもどおり、ひょろりとした猫背の僧が、店先でおどおどと挨拶をする。
これまたいつもどおり、みなで店の端にある卓に腰をかけ、今日は果物を搾った冷たい果実水を飲む。
「あ、あの、草草様。和尚様がお礼をとおっしゃられておりまして……その、何のことでしょう?」
不思議そうな顔で、小さな目をパチパチとしばたいた僧が差しだしたのは、なかなか綺麗な菓子箱だ。
やはり和尚が馬頭鬼の『孫』なのだろう。草草はにっこり笑って押しいただく。
「おそらく、伯父がお寺に寄付をしたからでしょう」
みなから敬われている和尚の寺に、盗人が入ったため、街の者たちはこぞって寄付をしたそうだ。もちろん薬仙堂もだ。もしかすると、盗まれた額より多くの金が集まったかもしれない。
「あ、そうでしたか。そ、それはまことにありがとうございます!」
僧が納得した風に、つるりとした頭を深々と下げた。
このたびの件、和尚が話していないのなら、草草が言うことでもないだろう。もしかすると、いつかこの僧が寺を継ぐときにでも伝えるのかもしれない。
和尚が馬頭鬼の孫だと知ったら、この、ちょっと恐がりな僧は、きっと腰を抜かすに違いない。
草草は笑みをこぼし、そしてふと、小首をかしげた。
「もしかして、和尚様のお顔は少し長くありませんか?」
「は?」
小さな目をパチリとまたたき、きょとんとした僧。狼君は馬頭鬼の長い顔を思いだしたのか。なるほどといった様子でうなずく。虹蛇ののどからは、くっ、と笑いがもれる。
「そ、そう言われてみますと、少し、その、長いような……」
この答えに、坊ちゃんはたいそう満足げな顔になって、にんまりと笑った。