第七話 身代わり草草
散歩から帰った草草たちは、ひと息つこうかと湯を沸かしつつ、ついたての奥の小机に、とっくりと落ち着いていた。
そこへ、従兄が顔を出す。
「あの、虹蛇様。これを」
おずおずと差しだされた手紙を見て、虹蛇がふんっと鼻を鳴らした。
おそらくまた、恋文だろう。仙が人に興味を持つことは稀なのだが。と、草草は苦笑いを浮かべつつ、届けてくれた従兄に礼を述べる。
その、娘の思いの丈がこもっているであろう手紙は、従兄の手から虹蛇へ。虹蛇の手から、一切の迷いもなく紙くず入れへ……
「ん? 押し花がついてるね」
この一言で、手紙は紙くず入れの入口から、草草の元へと向った。
「坊ちゃん、気に入ったんですか?」
「なかなか可愛らしいよねぇ。僕も母上に、こんな手紙を出してみようかな?」
なんとも色気のない話ではあるが、にっこり笑った草草に、それは良いと狼君が優しげな目を向ける。先ほどまで、まったく関心のなさそうだった虹蛇の手も、手紙に伸びている。
「もしかすると中の手紙にも花がついてるかもしれませんね。どれ、見てみましょう」
やはりこの守役は、内容にはまるで興味がないらしい。坊ちゃんが喜ぶことのほうが大切なのだ。綺麗に笑いながら、かさりと手紙を開く。
途端、虹蛇の眉が跳ね上がった。
「どうしたの?」
小首をかしげた草草に差しだされた手紙には、こう、書かれていた。
――あなたの主人の秘密を知っている。
「虹蛇の主人って、僕のことだよね?」
「つまり……坊ちゃんを脅してるんですか?」
「人の分際で坊ちゃんを脅すなんて……いい度胸じゃないか」
低い、二人の仙の声が、静かに薬仙堂をふるわせた。
狼君の眼光はギラギラと光り、元の色も浮き上がって青みがかっている。眉をつり上げた虹蛇の唇からは、わずかに牙がのぞいている。相当、不機嫌になってしまったようだ。
これは少々まずいかと、草草自ら茶でも淹れてなだめようかと、ちょうど沸いたばかりの薬缶に手を伸ばす。
「坊ちゃん、触っちゃいけません。火傷したらどうするんです?」
「そうですよ。茶など我が淹れますから、坊ちゃんは座っててくださいね」
目の色と牙はそのままに、狼君は大きく首をふり、虹蛇は優しげな声で坊ちゃんをたしなめる。相変わらずの守役たちであった。
草草は、不機嫌極まりないといった顔の二人の仙を引き連れて、涼しくなった夕暮れの街を、心地よさげに歩いていた。
手紙には『人に知られたくなければ、街外れの道観(道教寺院)に来るように』ともあった。その刻限が迫っているのだ。
その前に、三人は従兄に手紙を渡したという、小柄な娘が働く飯屋を訪れていた。
『この手紙について、お聞きしたいんですが』
草草は優しげな笑みを浮かべ、穏やかな声を出す。
だが、その肩越しに常より何割か増しの、鋭い眼光と剣呑な目がピタリと張りついていたせいか。坊ちゃんの優しげな顔も、このたびはあまり効果がなかったようだ。
すっかりおびえてしまった娘から話を聞きだすまで、草草はけっこう骨を折ることとなった。
ようやっと聞いた話はこうだ。
『手紙はお客様から、虹蛇様に渡してくれって頼まれたんです』
その客は、髪の白くなった老人であるらしい。
表の封筒は、丁寧な文字に可愛らしい押し花。こちらは娘が用意したのかと問えば、「お客様に封筒を頼むと言われたので」と返ってきた。
草草はふんふん、と納得する。
中の手紙には別人の手による達者な文字が、やはり丁寧に並んでいた。こちらは老人が書いたのだろう。老人は娘に少々の金も渡したかもしれない。
『とても可愛らしい封筒ですね。ありがとうございました』
にっこり笑った草草に、娘はポッと頬を染め、嬉しげな顔で何度も頭を下げる。娘の目にはもう、うしろに控えた恐い守役たちは映っていないようであった。
老人が「虹蛇に」と言い、娘に封筒を用意させたのは、こうやって渡せば恋文に見え、誰も不審に思わない。ならば必ず虹蛇に届くと考えたからだろう。
恋文なら男は目を通すはず、とも思ったのかもしれない。残念ながら仙には当てはまらないが。
けれど、飯屋の娘に頼んだのは正解だ。あの可愛らしい封筒がなければ、手紙は今ごろ紙くず入れの中である。
草草はくすりと笑みをもらしつつ、老人の目的はなんだろう、と首をかしげた。
「ねえ、手紙に書かれてた『秘密』のことだけど……」
「坊ちゃんに、人に脅されるような秘密なんてありませんよね!」
眉が上がりっぱなしの虹蛇が声を荒げる。眉間のしわが消えない狼君も、力強くうなずく。
「……」
神の子や仙ノ物、ということは秘密ではなかったのか。
自信満々に言いきった二人の仙を見て、坊ちゃんはしばし、唇を尖らせながら真剣に考えこんでしまっていた。
*
「こんなところに坊ちゃんを呼びだしたのか!」
今は使われていない、寂れた道観に着いた途端、狼君の眼光がギラリと光り、ごうっ、と風が吹いた。すると、積もっていた埃や蜘蛛の巣が一掃される。
ついでに開いたまま、窓になんとかぶら下がっていた扉まで、力尽きたようにパタン、と落ちた。
「まったくだよ! その爺さんが来たら八つ裂きにしてやるのさ!」
これ以上は無理というほど眉をつり上げた虹蛇は、けれどいそいそと、転がっていた椅子を立て、軋まないかと確かめる。今度はふところから取りだした綺麗な布を敷き、顔にも綺麗な笑みを作って、坊ちゃんに「どうぞ」と勧める。
布など、いつの間に用意していたのか。とにかく甲斐甲斐しい。
草草はといえば、こんなときであっても嬉しげに笑って礼を述べた。
身の安全は、守役たちがいるから大丈夫だと信頼しきっているし、厄介事は、考えれば何とかなるだろうと思ってもいる。案外、楽天家なのかもしれない。
そんな坊ちゃんを見れば、なんとはなしに機嫌がなおってくるところも、相変わらずの二人の仙であった。
「坊ちゃん。誰か、来ます」
鋭い眼光と剣呑な眼差しが、入口に突き刺さった。
草草は、さてどんな人物がやって来るのかと、のほほんとした顔を向ける。
ギィと音を立てた扉が、ゆっくりと開いていく。静かに現れた人影は、白髪の、品の良さそうな穏やかな感じの老人だった。
とても人を脅すような輩には見えない。首をかしげた草草に、すん、と鼻を鳴らした狼君が、「こいつは臭くありません」と怪訝そうな声をかけた。
「来ていただけたということは、やはり……おぉ、よくぞご立派になられて……」
老人は、まるで孫を見るような慈しみの目を、草草に向けた。それから、よよ、といった風情で涙まで浮かべだす。
草草の口が、ポカンと開いた。二人の仙も毒気を抜かれたらしい。どういうことだと目を合わせ、顔もななめにかしいでいる。
「これは失礼いたしました。若様に対しまして、あのような手紙を出したこともお詫び申し上げます」
涙を拭った老人が、深々と頭を下げた。が、草草は「ん?」と首をひねる。
今、この老人は『若様』と言った。若様といえば貴族の子息だろう。もしや人違いでもしているのだろうか。
ともかく事情を探ろうと、草草は口を開く。
「あなたはどちら様ですか?」
「あ、これはまた失礼いたしました。私は県令様のお屋敷の、家令を務めている者でございます。若様のお母上様にも少々仕えたことがございます」
老人は昔を思いだしたのか、懐かしげな顔になってほほ笑んだ。
この家令は、若様の母を『奥様』とは言わなかった。ということは、若様とやらは県令と妾の間に出来た息子、と見ていいだろう。
草草はふところから手紙を取りだす。
「どうして、こんな手紙を出したんですか?」
「それなのですが……」
今度は家令の顔に、苦悩の色が表れた。
実は、このたびの県令の子息と刺吏の娘の婚礼には、ひと悶着あったそうだ。
娘が嫁入りすると決まっていたのに、刺吏が県令の子息を婿に迎えたいと言いだしたのだ。
刺吏には息子が一人と娘が一人。この息子は養子で、本来は甥に当たる。
刺吏はこの養子を気に入っていないわけではないが、いざ娘が嫁ぐとなると手放したくなくなったらしい。ご子息を跡継ぎにするから婿に来てくれないか、という話が浮上した。
これを聞いた県令は、渋い顔をして首をふった。
県令の子息が婿に入れば、刺吏の養子の立場がなくなる。この養子はすでに、刺吏の片腕としての実績がある。県令の子息が行っても苦労するだけだし、いずれ互いの派閥ができ、争うことにもなりかねない。
「県令様の言うとおりですね。ご子息のためにも、刺吏様のためにも、断ったのは正解だと思います」
同意した草草を見て、若様がご立派に育ったとばかり、家令は嬉しげな顔をする。
「それが坊ちゃんと、どう関わってくるんだい?」
「どうしてこんな汚いところに、坊ちゃんを呼びだしたんだ?」
対する二人の仙は、県令や刺吏の家の事情など、ちっとも興味がないらしい。彼らは相も変わらず、坊ちゃん一色だ。
人から見れば少々態度の大きすぎる従者たちに、家令は驚いたのか。目をしばたきながらも、ふたたび話を始めた。
「県令様にご子息は一人しか、いらっしゃらないことになっております。ですから婿にやるわけにはいかないと、この話はすぐに断ることができました。ですが……」
県令には昔、家から勘当された『出来の悪い弟』がいるという。
勘当を言いわたした父はすでに亡く、婚礼の話でも耳にしたのか。この弟はふらりと帰ってきた。そして、なにやら怪しげな男たちと集い、悪だくみをしている様子なのだ。
草草はなるほど、と思った。ここで若様、つまり妾の息子につながってくるらしい。
「こういうことですね? その弟は、まず妾の息子を探して手懐ける。刺吏様には県令様の跡継ぎはいるからと言って、ご子息と花嫁様をあちらへやってしまう。そして妾の息子を県令様の跡継ぎにすれば、弟の思いのまま……」
草草はしゃべりながら、顔がななめに傾いていく。
県令のそば近くにいる家令でさえ、草草と妾の息子を間違えているくらいなのに、勘当されていた弟がどうやって見つけようというのか。
「……もしかして、その弟は偽者でも仕立てるつもりなんですか?」
「お、おぉ……そう、そうでございます。若様のおっしゃるとおりでございます。本当にご立派になられて」
家令がまた、よよ、と涙をにじませた。守役たちは「さすが坊ちゃん」と誇らしげだ。
けれど草草の眉は下がり、顔には困ったような笑みが浮かんでくる。
「すみません。僕、若様じゃないんです」
「……は?」
今度は家令が、ポカンとする番であった。
「さようでございましたか。草草様にはお父上様がいらっしゃる……」
家令はがっくりとうなだれている。
若様ではないと知っても丁寧な物腰が崩れないのは、草草が仙人のごとき貴人だからだろうか。
なぜ草草を若様と間違えたのか。聞いてみれば、こういうことだった。
県令の子息と刺吏の娘の婚儀があった日――羽衣を取り返し、織女蜘蛛にひと芝居打ってもらおうと訪れたときのことだ。
屋敷の裏で、草草たちを見かけた者があった。華やかな婚儀を陰ながら、感慨深そうな顔でそっとうかがう貴人。感慨深かったのではなく、羽衣を取り返す手順を確認していただけだが。
しかし、県令と家令はこう考えた。もしや昔、県令様に迷惑がかかると言って、自ら屋敷を去った娘の子ではないか。
弟が悪だくみをしていたこともあって、こちらと結びつけてしまったのだろう。それで探るような手紙を出し、草草の出方をうかがった。
つまり本当の息子のゆくえは、今もってわからないということだ。
「その弟は本物の若様が現れたら、どうするつもりなんでしょう?」
がっくりさせたようで申し訳ないと、眉が下がり気味の草草が聞くと、家令はゆるく首をふり、とつとつとしゃべり始める。
「偽者を仕立てるのはやめ、若様を手懐けようとするのでしょうか。それとも……」
「むしろ計画の邪魔になると考えて、本物を始末しようとするかもしれない。ということですね?」
「はい。弟ならやりかねないと、そうお考えになられた県令様が、密かに若様を逃がせと……」
弟の所業を嘆いているのか、若様の身を憐れんでいるのか。細く、長いため息をついた家令に、草草はひとつ提案をした。
「ということだったんです」
陽もとっぷりと暮れたころ。脅迫文をもらったと聞き、心配したのだろう。店先に家人たちの不安顔がずらりと並ぶ、薬仙堂に戻った草草は、居間で伯父とひざを突き合わせていた。
「なんと……草草様をわが子と思うなど、県令様ごときが図々しい」
眉間にしわを寄せた伯父が、さも思慮深そうな顔で重々しく首をふる。だが、その様子には相応しくない、たいそう無礼な物言いであった。
草草は苦笑いをもらし、二人の仙はもちろん、伯父の言葉に賛同している。
「ですが、県令様が誤解なさったとすると、その悪だくみをしているという弟も、草草様を本当の息子だと思うかもしれない、となりますか?」
「ええ、そうですね」
心配そうな目を向けてくる伯父に、草草はうなずく。
『婚儀を陰ながら、そっとうかがっていた貴人』の噂は、県令の屋敷で密やかに広がっているそうだ。
となれば、うしろ暗い陰謀をめぐらせている弟は、県令や家令と同じ結論に行きつくに違いない。草草は息子ではないと県令が断言したとしても、はたして信じるかどうか。
すると、草草に害が及ぶ可能性も、ある。
それに、弟はいずれ偽者を県令の屋敷へ引きこむ。そうなると証拠でもないかぎり、追いだすのは難しい。息子を追いだしたという噂が広まれば、外聞の悪いことこの上ないのだ。
そのあとで本当の息子が現れたとすると、これまた本物が危ない。
だから、と草草は指を立てて伯父を見据えた。
「弟の先手を打って、僕が本当の息子ということにして、県令様のお屋敷に乗りこもうと思うんです」
「なっ、なんと! いけません! その弟が何をしてくるのかわからないのに、そんな危ないことをなさっては、なりません!」
伯父は強く、激しくかぶりをふる。予想どおりの反応であった。
呼びだされた道観で、草草が家令に同じ提案をしたとき。
心配性の狼君は当然のごとく、「そんな危ないことは……」と眉間にしわを寄せて反対した。これを「そんなもの、我らで……」と、こちらもいつものごとく蹴散らしたのは、坊ちゃん至上主義の虹蛇だ。
二人の仙がそろって反対するのは、彼らが対処しにくいこと。
たとえば、何をするか予想もつかない妖物。あとは、刃物を持ったら怪我をするかも、火のそばに寄ると火傷をするかも、悪い物を食べて腹を壊すかも……
最初のひとつを除けば、まるで赤子扱いである。
それでいて、追いはぎをおびき出すためのおとりになったり、悪だくみの渦中に飛びこんだり。相手が人ならどうとでもなると考えているらしく、虹蛇は反対しないし、狼君も譲歩する。
やはりそこは仙だから、少々ずれているのだろう。そう思えば、伯父は実に人らしい。人だから当たり前だが。
その伯父はというと、なにやら足早に居間を出て、すぐに戻ってきた。
「草草様。この騒動が落ち着くまで、御仙石をお持ちください」
伯父は真剣な顔つきで、草草の眼前にずいっと仙石を差しだす。持っていれば、そこにあるのが当然と思える、誰も気に留めない石だ。
すぐに仙石を思いつく辺り、若干、人らしくないような。坊ちゃんはぬるい笑みを浮かべつつ、伯父の説得に取りかかった。
*
「父上、お初にお目にかかります」
草草がうやうやしく頭を下げると、県令は凝った細工の椅子から立ち上がり、小さな目を優しげに細めた。
うしろには家令が、穏やかにほほ笑みながら控えている。
県令の隣には妻。こちらはおもしろくない、といった顔を草草に向けた。彼女から見れば、草草は夫がよそで作った子だから仕方ないだろう。
つい先日、婚儀を挙げたばかりの子息と花嫁は、刺吏の元へ挨拶に出向いていた。彼らはいないほうが面倒も少なくて済む。
このこともあり、草草が屋敷へ乗りこむ日取りは今日と決まった。
そして県令夫妻の脇には、問題の弟が、実に落ち着かない様子で座っていた。
草草たちを見てはギョッと目を見開き、口をパクパクと動かしては顔を逸らす。またチラリと見ては情けなさそうに眉を下げる。草草の清らかな気を畏れたのか、二人の仙の偉人ぶりに気圧されたのか。
それが少しは納まると、今度は用意している偽者では太刀打ちできない、と思ったのかもしれない。しまった、という風に顔をしかめている。
実は、草草たちが県令の屋敷に乗りこむ前。薬仙堂の周りを聞きこんでみると、草草の身元を調べる者があった。
一人は白髪の品の良さそうな老人。こちらは家令だ。もう一人はいかにも胡散臭そうな、眉の辺りに傷のある男。弟とは容姿が違うようだから、こちらは弟の仲間だろう。
草草は『仙山の先から来た、薬仙堂の親戚』ということになっている。実はこれ、このたびの騒動には都合が良かった。
県令の妾、つまり若様の母は仙恵という街の出だそうだ。これは『仙山の先』にある街のひとつである。
来仙は大きな街だ。周辺から人々が、職や夢を求めてやって来る。若様の母もこのうちの一人であったらしい。
この母は幼い若様を連れて屋敷を出ると、仙恵に戻るため、来仙を出たことまではわかっている。つまり『仙山の先』から来た草草は、若様の条件に合うわけだ。
このこともあったために家令はいち早く手紙を出し、弟からしてみれば、もっと早く動くべきだった、ということになる。
「あ、兄上……この者は本当に、兄上の息子でしょうか?」
草草たちを見たのは、今日が初めてなのだろう。ようやく立ち直ったらしい弟が胡散臭そうな目を向けて、しかしすぐに逸らした。
ギラリと光った鋭い眼光と、針のように細い剣呑な眼差しに、負けたようである。
「歳も母の名も同じ。仙恵から来たとなれば、おそらく私の息子だろう」
実のところ、若様の歳は草草の一つ上であったし、当然のこと母の名も違う。仙恵から来たのでもないが、これはあくまでも芝居。
すべてを承知している県令が、穏やかな口調で認めると、弟は慌てた様子で首をふる。
「で、ですが兄上。この者は兄上とはまったく似ておりません。義姉上も、そうお思いになりませんか?」
「ええ、そうですね。特に目の辺りなど、まったく似ていないようです。本当に……あの女にそっくりです!」
「は?」
眉をつり上げ、憎々しげに草草を見やった妻は、ふん、と小さく鼻を鳴らし、さっさと部屋を出てしまう。
残されたのは、ポカンと口を開けた弟だ。
弟は、草草に良い顔をしない県令の妻を、味方に引き入れたかったのだろう。だが、妻は「あの女にそっくり」と言ったことで、草草を妾の息子だと認めてしまった。
県令も妻も認めてしまえば、偽者だという、より確かな証拠がないかぎり、もう草草を追いだすことはできない。さて、弟はこれからどう出てくるか。
ため息をつくと草草に厭な目を向け、やはり二人の仙におびえたらしく、慌てて顔を逸らした弟は、重い足取りで部屋を出ていく。
「草草殿、じゅうぶんに気をつけなさい。まあ、あれがいるから大丈夫だとは思うが」
弟の去った部屋で、県令は小さいながら意志の強そうな目を、草草に向けた。すると、うしろに控えた家令が真摯な顔つきでうなずく。
「僕には力強い味方がいるから、大丈夫です」
そんな二人に、草草はにこりと余裕の笑みを返した。
――県令の屋敷に乗りこんでいく日か。
「坊ちゃん、何が食べたいですか?」
「まず、お吸い物がいいな」
「どれ……大丈夫、毒は入ってませんよ」
ひと口すすった虹蛇が綺麗に笑うと、草草は嬉しげな顔で吸い物に口をつける。
二人のやり取りを、どことなくうらやましそうな顔つきの、狼君がじっと見つめている。
草草たちは宛がわれた客室で、県令の家族とは別に食事をとっていた。
『私はあの女の息子と一緒に食事など、したくありません!』
虹蛇に負けないくらい、眉をきりきりとつり上げた県令の妻がこう言い放ったためだ。
しかし、これは草草たちには都合が良かった。
弟の次なる手は、草草を手懐けようとするか、草草を亡き者にして自身が用意した偽者を引き入れるか。
只ならぬ貴人と武人と策士を目の当たりにした弟は、早々に前者をあきらめたらしい。三人に接触してくることはない。
となれば後者。草草を始末すれば、いくらでも嘘を並べて偽者扱いできる。そして本当の息子はこちらだと、用意した偽者を引きこむつもりだろう。
こうなると食べ物にも気を配る必要があるわけだが、彼らなら人目がなければ、毒などたやすく避けられる。
毒入りかもしれない豪勢な食事を、草草たちはずいぶん気軽に楽しんでいた。
「坊ちゃん、次は何が食べたいですか?」
「ん、ごま和えがいいな」
「どれ……うん、これも大丈夫ですよ」
虹蛇ににっこり笑って勧められ、草草はおいしそうにごま和えを食べ始める。
草神である草草は、草花の毒ならすぐにわかるが、生き物の毒はわからない。自ら毒を持つ虹蛇は、毒が効かない。だから毒見役が彼になるのは、ごく自然なことなのだが……
狼君の箸が、寂しげにごま和えをつまんだ。
「今日は奥様に呼ばれてるんだよね?」
「はい! 何でも一緒に狩りに出ようと言ってました!」
箸を置いた草草に、ちょっとばかり寂しかったのか、狼君が気合の入った返事を返した。
坊ちゃんと仲よく食事をとった虹蛇は、上機嫌な顔だ。
「狩りだなんて、人の女のわりには勇ましいですね。我らにひるむ様子もないし」
「あの弟より、よほど度胸がありますよ」
「さて、今日は何が起きるんでしょうかねぇ」
虹蛇がニヤリと笑い、狼君の眼光がキラリと光る。彼らはやる気満々だ。さっさと片をつけて薬仙堂に帰ろうと、考えているのだろう。
県令の屋敷では、狼君は坊ちゃんの日課、素振りや散歩が満足にできないと不満げだし、虹蛇は坊ちゃんに対する、県令の妻や弟の無礼な態度がひどく不服なのだ。
それに、坊ちゃんの着物や装飾品をあまり持ってこられなかったことも、気に入らないようだった。
命をねらわれているであろう状況にも関わらず、二人の仙が心配するのは、坊ちゃんの健康と、坊ちゃんが敬われているかどうか。そして坊ちゃんの装いである。
相変わらずの守役たちだと草草は、今日の狩りへの不安などみじんもない、楽しげな笑みをこぼした。
*
「坊ちゃん、こんな駄馬に乗っちゃいけません。いきなり暴れて、坊ちゃんをふり落とそうとしたら、どうするんです?」
「そんなもの、我が坊ちゃんを助ければいいのさ。馬鹿な馬は狼君が蹴り飛ばしてやりなよ」
「坊ちゃん、弓など引いちゃダメです。手の皮がすりむけてしまうかもしれない」
「ふん……それはいけないねぇ。坊ちゃん、弓は止めておきましょう?」
「坊ちゃん、あまり草むらに近づいちゃいけません。虫にさされたら腫れたり、かゆくなったりしてしまいます」
「そんなもの……さすがに細かい虫が多かったら、全部は防ぎきれないかもしれないねぇ。坊ちゃん、もっとこちらへ寄りましょうね」
狩に出た守役たちは、その過保護っぷりやら何やらを、存分に発揮していた。
最初は大事にされすぎている『坊ちゃん』を、小馬鹿にした風に笑った県令の妻であったが、今はもう、呆れているというのか、呆気にとられているというのか。ときおりポカンとした顔を向けるだけだ。
当の草草はといえば、そんな二人の仙には慣れている、というよりこれが常のことなので、狩りを見学しながら楽しげに笑っていた。
「おみごと!」
かなりの距離があったにも関わらず、県令の妻が放った矢は、見事、獲物を仕留めた。彼女はなかなかの腕前であるらしい。
草草は素直に褒めたたえ、狼君はつまらなそうな目を向け、虹蛇はふんっと鼻を鳴らす。神界には光のごとき矢を放つ仙もいるから、たいしたようには見えないのだろう。
従者の一人が獲物の元へと駆けていく。するとまた、すぐに妻は弓を引いた。
「おみごと!」
こちらの矢も命中する。だが、残る従者は動かない。
この場には県令の妻と草草たちのみ。彼女を一人にはできないと、考えているのだろう。
しかし妻の命令で、従者はためらいを見せながらも獲物の元へと向う。
「……これで、邪魔者がいなくなりましたね」
県令の妻が、ニンマリと笑った。
――がさり、がさり
見通しの悪い森の中、人影が現れた。その数は十人を越えているだろうか。
もちろん二人の仙は、人がどれほどうまく隠れようと、初めから気配を察している。
虹蛇は坊ちゃんのそばで、狼君はその手前で、眉をくいっと上げながら目を針のように細め、眉間にしわを寄せつつ眼光をギラリと光らせる。
守役たちを信頼している草草は、相変わらず、のほほんとした顔をめぐらせた。
そして男たちの中に、眉の辺りに傷のある者を見つけた。薬仙堂の周りで、身元を調べていたという男だろう。
草草はその男をまっすぐ見据える。
「あなたは誰の指示で、ここにいるんですか?」
男はうすら笑いを浮かべるのみ。答える気はないようだ。なかなか度胸もあるらしい。すでに草草たちを見知っているのかもしれないが、鋭い眼光と剣呑な眼差しにも、ひるむ様子はない。
周りの男たちには、少々腰の引けた感じの者も見受けられるが。
「私も知りたい。この者を始末してくれるなら、私からも礼をしましょう」
「あんたのとこの、弟様だ」
県令の妻が人の悪い笑みを浮かべると、今度は男もニヤリと嗤った。
草草はひとつ、うなずく。
やはり弟は、自身の計画には邪魔な草草を、始末しようとしていた。
この場に男たちを差し向けたのは、県令の妻の出方を見るためだろう。もし彼女が共犯になれば、弱みを握ることもできる。次なる偽者を送ったとき、利用できるかもしれないのだ。
「そうですか。あの、弟ですか……聞きましたよ。私はこの耳で、はっきりと聞きましたよ」
突如、県令の妻が、ふふふ、と低い笑いをもらした。それに応えるように、草草もにこりと笑う。
「では、奥様。もう、やっつけてしまいますね」
「はい。草草殿、よろしくお願いします」
にっこりと、晴れやかに笑った県令の妻。彼女こそ、県令が頼りにした『あれ』であり、草草の言った『力強い味方』である。
草草が頼むと、狼君は黒い影となって森を舞う。いや、ちゃんと人の姿のままだが、見通しの悪さに加えて動きが速すぎ、よく見えないのだ。
草草に確認できたのは、呆気にとられた男たちの顔。すぐに狼君が倒したために、それは一瞬のことだった。
「あんた。いくら演技だからって、坊ちゃんに対して失礼な態度が多すぎなかったかい?」
「それは申し訳ないと思っています。ですがあれくらいはしなければ、弟たちをおびき出せません。それより虹蛇殿と狼君殿は、少し草草殿を大事にしすぎではありませんか? あれでは草草殿も窮屈だと思いますが」
「なんだって? 我らのどこが悪いって言うんだい!?」
すべてが片づき、そよと風が吹く森に聞こえたのは……
坊ちゃんのそばで何事もなかったかのように、しれっとしている狼君が、倒した男たちのうめき声。
眉をつり上げた虹蛇と、だいぶ度胸のある県令の妻の、ちょっとした言い合い。
そして、くすりとこぼした草草の、小さな笑い声であった。
*
朝、薬仙堂の裏庭で、草草と狼君が仲よくそろって木刀を振るう。二人は相変わらず、似合わなくて、似合っている。
久しぶりに心地よい汗をかいた草草の、笑みは清々しい。狼君も目を細めている。彼が満足げなのは、坊ちゃんの健康に良いと思う日課をこなせたからだろう。
みなで汗を拭い、終えると草草は、虹蛇が厳選した着物に着替える。こちらの守役も整った坊ちゃんの姿を見て、いたくご満悦な様子だ。
今日はいつもより、少しばかり飾りが多い。あまり荷を持っていけなかった県令の屋敷で溜まっていた鬱憤の、反動かもしれない。
居間へ行くと、薬仙堂の面々が嬉しげな顔で挨拶をする。常よりごはんの盛りが多いのは、やはり草草たちがいない間、寂しかったせいか。
草草たちは、ようやく日常に戻っていた。
県令の弟がどうなったのか。それは草草にはわからない。
だが、弟が人を使って若様を亡き者にしようとしたことは、県令の妻がしっかり確認している。その仲間も捕まったから、もう言い逃れはできない。おそらく県令の良いように取り計らうのだろう。
もし、彼らが罪を逃れたとしたら――あの森にはやはり、街を出た草草の気を感じた、精霊や仙の虫が仙山から下りてきて、ひっそりとうかがっていた。弟たちはきっと、獄につながれていたほうが安全に違いない。
「あの、草草様。お客様ですよ」
草草が薬作りをしていると、従兄が声をかけた。
ついたてから顔を出し、ひょいと店先の卓を見れば、ひょろりとした猫背の僧がおどおどした様子で座っている。
「お坊様、こんにちは」
「あ……そ、草草様! お帰りになられたんですね」
ぴょんと立ち上がり、僧は嬉しげに笑った。
草草たちの留守は、知人の家に招かれたから、ということになっている。僧はその間に薬仙堂を訪れて、これを聞いていたのだろう。
卓に腰を下ろすと、従兄が冷たい砂糖水を出した。
ひと口飲んでみれば、いつもよりだいぶ甘い。こちらはいつもどおりで良いのだがと、坊ちゃんの顔にちょっとばかりぬるい笑みが浮かぶ。
「あ、あの、草草様。実は先日のお祓いで、私は初めて……その、霊と、は、話をしまして」
「へぇ、すごいじゃないですか。ちゃんと話せたんですね?」
「は、はい! 和尚様は一緒にいてくださいましたが、その、ちゃんと話すことができました」
数ヶ月前は、霊を見ただけで悲鳴を上げていた僧だ。大した進歩である。
草草がふわりと、慈愛に満ちた笑みを浮かべると、僧は小さな目をパチパチとしばたかせ、少々恥ずかしげに笑っている。
その目を見て、草草はふと、思うことがあった。
「お坊様のご家族は、お元気ですか?」
「へ? あ、あの、私に家族はいないんです」
また、小さな目をパチパチとしばたいた僧が、おどおどと続ける。
父は僧が生まれる前、母は僧の幼いころ、亡くなったのだという。
年端もいかなかった僧はよく覚えていないが、母と二人で旅をしていたこと、母が亡くなったのは旅の途中であること、助けてくれる者があり来仙に来たこと。これらは記憶にあるそうだ。
もしかすると。草草の目の玉が、くるりとまわった。
父が亡くなったというのは母の言葉であり、事実かどうかわからない。
母との旅は、県令の屋敷を出た若様の母が、仙恵に行く途中だったのではないか。母は亡くなり、若様は助けてくれた者に連れられ、来仙に戻ってきた。
僧と若様は同い年。僧の小さな目は、県令の目を思い起こさせる――
「どうやら私は、血縁というものが薄いようです……」
僧は少しだけ、寂しげなため息をついた。
「ですがお坊様は、立派な和尚様と出会いました」
穏やかで優しげな草草の声に、僧はパッと顔を上げる。その顔には誇らしげな笑みが浮かび、それは、少し照れたようなものに変わっていく。
「薬仙堂の若主人ともお友だちになれましたし、その……そ、草草様にも出会えました」
ほにゃりと笑った僧は、「仏様のお導きでしょうか。私は良縁に恵まれているようです」とつぶやく。
草草も、ふうわりと笑った。
もし僧が若様だとしたら――僧と県令の間に縁があれば、いつか必ずめぐり会える。
僧は今、尊敬できる和尚の元で暮らし、僧としての務めにも自信を持ち始めたときだ。毎日をしっかりと生き、幸せそうにも見える。
県令のほうは、家内の騒動は納まったものの、ここで若様が現れれば、また騒ぎが起きるかもしれない。
きっと、まだ出会う時期ではないのだろう。ならば仏様のお導きとやらに、任せてみてもいいだろう。
草草はこう、思ったのだ。
「あの、お坊様。最近、街の外れにある廃寺で、怪しげな火の玉が出るとか……」
「へ!?」
ここへ、おずおずと顔を出したのは従兄だ。街で噂を聞きつけてきたらしい。話を聞いた僧の、身がぴくりとふるえる。
「へえ、坊さん、ちょうどいいじゃないか。ささっと退治してきなよ」
「ひぇっ!」
口の端を上げてニヤリと笑った虹蛇。狼君もそうしろと、力強い目を向ける。二人の仙に迫られた僧の、頬がひくりと引きつる。
やはりまだ、もう少し。もう少し、なのだろう。坊ちゃんは守役たちをいさめつつ、柔らかく笑った。




