~序~ 坊ちゃん下界に下りる
黎の国の北に、ひときわ高くそびえる仙山がある。
人が踏みこめば迷い、気がつけば麓に戻されているという、不可思議な山。中腹にかかる雲は晴れることがなく、それより上には仙ノ物が暮らし、頂には山神がおわします、神聖な山である。
この、天にほど近いところにある神殿で――
「父上、本当にいいんですか?」
「草草ももう十八、立派な大人だ。下界に下りて、人の暮らしぶりを見ておいで」
「はい、ありがとうございます」
おごそかな気を放つ壮年の男、山神が慈愛に満ちた笑みを浮かべると、清らかな気をまとった優しげな顔立ちの青年、草草がとびっきり嬉しそうにふんわりと笑った。
草草は、山神と人の女の間に生まれた子。
これまで仙山で暮らしてきた彼は、母や仙ノ物から人の話を聞き、水鏡で人の街をのぞき見て、いつかは下界へ行ってみたいと思うようになった。
十五のとき、「人は十五歳で大人だそうです」と下界行きを伺ってみたところ、親は口をそろえて「まだ子供だから早い」と首をふった。
太古から在る山神にしてみれば、十五の子など心許ないだろうが、人である母もそう言うのならやはり子供なのか。確かにまだ背は伸びているようだし、人も国によって大人とみなす歳は違う、と、そのときの草草は残念ながらも納得した。
それから三年、山神は息子の体が成長し終えたことで、大人と判断したのだろう。ようやく許しが出たというわけだ。
ところが。
「山神様、待ってください。坊ちゃんはまだ十八の赤子です。せめて百までは仙山で暮らすべきです」
眉間にしわを寄せ、常に鋭い眼光をいっそうギラリと光らせた長身の男は、よわい千年を越える仙。
正体は、虎より大きな体に銀にも見える毛を持つ狼、狼君である。
「赤子……」
草草の口がポカンと開いた。
彼が生まれたときから世話をしてきた狼君にとって、千年も万年も生きる仙にとって、たった十八など赤子かもしれない。だが、神と人の子である草草は人と同じように成長した、れっきとした青年なのだ。
それを赤子と言われては呆気にとられるし、せっかくの下界行きを八十二年も先のばしにされては堪らない。
草草が口を開こうとすると、横から援軍が入った。
「狼君。坊ちゃんが行きたいと言い、山神様のお許しも出たのにケチをつける気かい?」
形よい眉の一方を上げ、狼君に剣呑な目を向けた美麗な男は、こちらも千年以上の時を生きてきた仙。
その実体は七色に艶めく白い大蛇、虹蛇だ。
「そうじゃない。俺は危ないと言ってるんだ。坊ちゃんは岩も持ち上げられないし、崖だって飛び越えられない。河だって渡れないんだぞ」
眉間のしわをぐっと深めた狼君は、坊ちゃんを危ない目に遭わせるなどもってのほか、と過保護っぷりを発揮する。
「そんなもの、狼君が退かせばいいし、坊ちゃんを背負って飛べばいい。河は我の背に乗せて渡ればいいのさ」
虹蛇はどうだとばかり、あごを上げた。
「……狼君、虹蛇。人の街には大岩も断崖も大河もないから、僕は大丈夫だよ」
二人の仙は坊ちゃんを、秘境にでも連れて行くつもりなのか。草草が困ったように笑う。
狼君と虹蛇もそのことに気づいたらしく、ああそうかと納得した風にうなずいた。
ちなみに、坊ちゃんが生まれたときからそばにいる、守役の二人がともに下界へ行くのは、誰が言わなくとも決まっていることである。
「坊ちゃん、盗賊に襲われたらどうするんです? 戦もあるかもしれません。やはり下界は危険です」
しかし心配性の狼君は、まだ引き下がらないらしい。新たな心配事を探してきては、大きく首をふった。
そんな彼に、虹蛇がふんっと鼻を鳴らす。
「そんなもの、我らで退治すればいいし、我らが滅ぼせばいいのさ」
「……滅ぼすって、軍を全滅させるの?」
「軍を滅ぼしたところで、人は新たな兵を集めるだけです。国ごと滅ぼしたほうが手っ取り早いですよ」
物騒な言葉にはずいぶん不釣合いな、綺麗な笑みを浮かべた虹蛇は、坊ちゃんの願いを叶えるためなら手段を選ばない、という草草至上主義を掲げている。
「……」
長い時を生きる仙は、人の造った国が滅びようと気にも留めない。さて、どう説得すればいいのか。
草草は、くるりと目の玉をまわしながら口を開く。
神も国の命脈などは気にしないが、地を荒らして多くの血が流れれば、土地神が気を悪くするかもしれず、従う仙が怒るかもしれず。そうなると、山神に迷惑がかかるかもしれない。
駆けては地を揺るがし、舞っては豪雨を呼ぶ。そんな狼君と虹蛇の姿を人が見れば、妖物退治だの、力を我がものにしようだのと騒ぐかもしれない。仙が人に敗れるとは思えないが、万が一ということもある。
草草は父神を煩わせたくないし、守役たちの身も心配だ。
こうしたことを言うと、山神は親思いの息子だとほほ笑み、二人の仙は優しい坊ちゃんだと頬をゆるめる。
「なに、大丈夫です。地を荒らさず、多くの血も流さず、人には我らの仕業だと知られないようにうまくやりますよ」
「うぅん……」
仙は人の命もさして気にしない。戦が始まったら、本当に国を滅ぼしそうだ。
「国が滅びたら、僕たちも楽しく暮らせないんじゃないかな? 戦が起こりそうなら、よその国にでも行こうよ」
草草がうかがうと、守役たちはそれもそうかと納得した。彼らは坊ちゃんが安全で楽しければ、それでいいのである。
これで、どこぞの国の滅亡を避けることはできそうだ。草草はにこりと笑った。
「ですが坊ちゃん、人は嘘を吐いたり、騙したりもします」
「そんなもの、我には通用しない。狼君も相手の本性なら嗅ぎとれるじゃないか。坊ちゃんに嘘を吐いた輩は、毒で殺せばいいのさ」
「そうか。悪い奴が坊ちゃんに近づいてきたら、食い殺せばいいんだな」
二人の仙は目を合わせ、物騒なことをしゃべり合う。
「狼君、虹蛇。むやみに殺しちゃダメだよ。人に知られたら、面倒なことになるかもしれないよ?」
「なに、大丈夫ですよ。我らは下界で暮らしたことがありますからね。うまくやりますよ」
口の端を上げ、不敵な笑みを浮かべる虹蛇。鋭い眼光を煌めかせ、力強くうなずく狼君。
おそらく毒蛇にでも化け、野犬にでもなって、事を成すつもりだろう。
「じゃあ、大丈夫かな?」
物騒な提案を、しかし草草はあっさりと受け入れた。
仙はこちらに害をなす者にしか手を出さないから、人が悪さをしなければ問題はないのだ。
人から見れば多少やりすぎかもしれないが、それが仙というものだと思っているし、怒れる神よりよほど可愛げがあるとも感じている。
神と仙に囲まれて暮らしてきた坊ちゃんにも、少々ずれたところがあるのは、仕方のないことだろう。
仙山で人らしい意見を述べられるのは、彼の母くらいのものか。
その母はといえば、奥の間にこもり、愛する息子の旅立ちの準備に余念がなかった。
卓に並べたさまざまな道具を指し、ひとつひとつ確認している。
「草仙筒に黄金壺、水応鏡に……あ、羽衣で新しい着物も作ろうかしら?」
草仙筒があれば、どこにいても仙山の薬草を摘むことができる。黄金壺は黄金の粒が出てくる。水応鏡を持っていれば、仙山にある水鏡に映り、話すこともできる。羽衣は身を浮かすことのできる布だ。
どれも下界に持ちだしてはならない至宝のようだが、この母は気にしていない。
草仙筒は仙山の草神である、草草しか使えない。神や仙に属さないものが黄金壺に手を入れれば、毒虫や糞が出てくる。同じく、水応鏡をのぞけば命が削られるし、羽衣をまとえば身を絞められる。
草仙筒のほかは、人が手にすると害のある物ばかりだが、それでも母は気にしない。
仙山で暮らすこと二十年、彼女も少々ずれてきたようだ。
「織女蜘蛛、草草の着物を作りましょう。あの子には瑞々しい若草色や、爽やかな空色が似合うわ。若草色には金糸、空色には銀糸で刺繍をしようかしら?」
「……奥様、刺繍はお止めになったほうが、よろしいかと存じます。あまり煌びやかにしますと、盗賊に目をつけられるかもしれません。それでは坊ちゃんが危のうございます」
「あ、そうだったわね。残念だけれど、刺繍は止めましょう」
仙である織女蜘蛛のほうが、よほどまともであった。
*
数日後の昼下がり。草草と守役の二人は仙山に近い、来仙の街に着いた。
近いといっても、仙山の麓から馬車で半日はかかる。それを狼君は重い荷を担ぎ、虹蛇は坊ちゃんを背負い、仙山の頂から半日もかからず走り着いたのだから、仙の力は人離れしている。
街の門前に列をなす人々に混じり、並ぶ草草たちは非常に目立った。
山神には遠く及ばないものの、草草の神気は人から見れば充分におごそかで、優しげな顔立ちは慈悲深く感じられる。
ずいぶんと高貴な家のご令息か。はたまた、うしろでゆるくまとめた髪にゆったりとした着物という装いから、歳若くも霊力ある道士様か。仙人のごとき貴人、そんな風に見えている。
狼君は鋭い眼光が怖ろしくも、体格の良さと仙の威容が相まって秀でた武人のようであるし、虹蛇の美しさは人を惹きつけるも、仙ノ物らしい獰猛さが垣間見え、油断ならない策士のようだ。
前に並んでいた者はふらりと顔を向け、只ならぬ貴人と武人と策士を認めてギョッと目を見開き、しばしして、慌てて顔を背ける。草草たちのうしろは、少し距離が空いている。
さもご立派な人物に粗相をしてはならないと、みなが気後れしているのだ。
どこぞのご令息にしては供の者が少なく、馬車にも乗っていない。もしや災難にでも遭ったのかと心配し、いや、やはり道士様だろうかと首をひねり、そわそわとして落ち着かない。
前に並ぶ者は、順番を譲るべきかと悩みつつも、畏れ多くて声をかけられずにいる。
狼君の担いでいる荷の量が、人ひとりが持つには多すぎることも、みなの心を騒がせている一因だろう。
そんな様子の人々を見た草草は、自らの着物を見下ろし、ついで二人の仙に目を向けた。
神気や仙気というものは、人にもそれとなく感じられると聞いている。それで目立つのだろうと思い至ってはいたが、ふと、自分たちの装いが妙なのか、とも考えたのだ。
草草の着物は良家の子息といったところ。織女蜘蛛のおかげで、黎国の皇子もかくやといった、絢爛豪華な装束は避けられた。
狼君は黒尽くめ。うしろで一括りにした髪は、狼の尾のようにも見える。虹蛇はあざやかな紫の着物に紅の帯、長い髪も複雑に編んでいてなかなか派手だ。
しかし織女蜘蛛は、多少目につくものの、おかしくはないとも言っていた。
坊ちゃんはこうしたことにおいて、愛息子の装いを凝らすのが好きな母より、こちらの仙の言葉を頼りにしている。
下界で暮らしたことのある守役たちにも聞いてみようと、草草は口を開いた。
「僕たち、何か変かな?」
「とんでもない! 変なところなど何ひとつありませんよ。みなが坊ちゃんの素晴らしさに驚いてるんです」
どことなく畏れ、かしこまっている人々を見まわした虹蛇が、満足げににっこりと笑う。狼君も強くうなずいている。
二人の仙は未だかつて、草草をけなしたことがない。
育ての親を自負している彼らは、世間で言うところの親バカなのだろう。その目には『天上天下一の素晴らしい坊ちゃん』と映っているようでもある。
そう思いだした草草は、聞く相手が適当ではなかったと、苦笑いしつつ首をかしげた。
今の場合、守役たちの言い分は正しいのだが、彼らの常日ごろの言動を考えれば、坊ちゃんの判断もけっして間違ってはいなかったりする。
「次の者!」
只ならぬ三人が並ぶ、妙にそわそわと落ち着かない列が進む。
三人に顔を向けた門兵は、やはりギョッと目を見開いた。日ごろ庶民がお目にかかることなど、まずないような貴人と武人と策士だから仕方ない。
「我らは仙山の先から来た。薬仙堂の親戚の者だよ」
虹蛇が黄金壺から取りだしておいた、小さな黄金の粒を通行料として渡すと、門兵は目の玉が飛びだしそうなほど、さらに大きな目になった。
粒であっても光り輝く黄金は、通行料としては多すぎるのだ。けれど人の貨幣を用意するほうが、面倒だから仕方ない。
ちなみに『仙山の先』と言えば、草草たちにとっては仙山の頂のことだが、人は仙山を迂回した先にある街だと思う。嘘は言っていないが、誤魔化してはいる。
『薬仙堂』は、仙山の中腹にかかる雲より下に入ることを許された、一族が営んでいる薬屋だ。母の実家でもある。
愛息子を心配した両親の手配により、三人は薬仙堂で世話になることが決まっていた。
「おお! 草草様でございますね? 私、薬仙堂の主でございます」
門をくぐると、門兵に伝えた虹蛇の声が聞こえたのか、只ならぬ姿を見ただけで確信したのか。
簡素ながら身なりの整った中年の男が、満面に笑みをたたえながら小走りで駆けてきた。そして後頭部が見えるほど、深々とお辞儀する。この主人に従ってきた家人たちも、嬉しげな顔で同じように頭を下げる。
草草が主人を「伯父上」と呼んで丁寧な挨拶をすると、伯父は頬を染め、感極まった様子でふたたび礼をする。家人らも同様に、幾度となく頭を下げた。
薬仙堂は古くから仙山の薬草を摘み、薬を作って売っている。山神から恵みを与えられてきた一族だ。
その息子であり、正真正銘、神でもある草草を、その守役であり仙でもある狼君と虹蛇を、店を閉めて総出で出迎え、丁重にもてなすのは彼らにとって当然のこと。
人にとって神や仙がどういう存在なのか。
草草は知っているつもりだったが、これほど敬われるものなのかと改めて認識し、ほぅほぅとフクロウのようにうなずいた。
二人の仙は、坊ちゃんが礼を尽くされるのは当然と、満足げな顔をしている。
少々丁寧すぎる挨拶を終え、草草が街を見わたせば、すべての人々と言っていいくらい、多くの目がこちらに向けられていた。
実はこれ、只ならぬ三人だけのせいではない。
薬仙堂は、良薬を身分に関わらず安く売ると評判で、伯父は来仙の名士でもある。その一族が門のうちに並び、何者かの到着を今か今かと待つ姿は、ひどく人目を引いていた。
さらに現れたのが、只ならぬ貴人と武人と策士。その歳若く見える三人に、名士が礼を尽くしていては目立たないほうが無理な話だ。
水鏡で街をのぞき、母や下界から戻った仙の話を聞いて、人のことを学んできた草草にも察しはついたものの、先ほどの疑問も思いだした。
「伯父上。僕たちはずいぶん目立つようですが、何か変なところでもありますか?」
「とんでもない! おかしなところなど、まったくございません。みなが草草様の素晴らしさに、目を見張っているのでございます」
誇らしげに草草を称える伯父の姿は、まるで守役たちを見ているようだ。返ってきた言葉も、つい先ほど虹蛇から聞いたものと同じような……
人の街で生きてきた伯父がそう言うなら、おそらく大丈夫なのだろう。
草草は伯父が、愛息子を飾り立てるのが大好きな母の、兄であることに一抹の不安を覚えつつ、ひとまず納得しておいた。
只ならぬ貴人と武人と策士、それに街の名士とその家人ら一行は、おおいに人目を引きながら薬仙堂へ向かう。
『薬仙堂のお客人』の噂は来仙を駆けめぐり、さまざまなものを呼びこむことになろうとは、楽しげに街を眺める坊ちゃんは、まだ知る由もなかった。