遭遇
月のない夜は暗いから嫌いだ。無事到着できたことに少しだけほっとして、青いステンドグラスがはまった扉を押し開けた。
石造りの彫刻が施された壁面に聖者の像が立ち並ぶ。荘厳で暖かい眼差しを戴き、ゆっくり教会の通路を歩く。
席に着いたのはあたしが一番だった。黄金色のパイプオルガンが調律される音を流し聴きながら、十字架を見上げる。いつものミサが楽しみになったのは、聖歌隊メンバーに憧れがあるから。やっと諳じられるようになった聖句を口ずさんで目を閉じる。最後の一節を終えて目を開けた。そこには何もなかった。
あたしとそれ以外の区別もままならない。
それでもどうしてだか霧散しない意識が目を開いた。暗い暗い夜空、またたきを繰り返す弱々しい光が消える。打ち鳴らされた鐘の音で目が覚めた。
いけない、もう讃美歌が始まっている。独唱から始まった旋律に耳を傾けるけれど、あたしが知っているあらゆる聖句のどれも含まれてはいなかった。
合唱がやんで、壁や長椅子に設置された石油ランプが灯されていく。目の前に広がるここは、うん。
そう、これは、まさに。廃墟。
廃墟、打ち捨てられた場。信仰を失った神の宮。
冷たい石造りの聖堂だ。彫刻の類は見当たらない。あらかた打ちっぱなしの状態で、ゆるやかに祈り場へ連なる階段に敷物は無く。その先、あるべき祭壇も十字架さえもなく。冴えざえとした夜が。がらんどうの舞台に降り注ぐだけ。無秩序に崩壊した天井跡が、最大の特徴と言えた。
円形に広がる舞台の方がこっちより暗い。中心に立って今しがた独唱を終えた女は、首元をU字に開けた黒のドレスを纏っている。
足先までを完全に覆い隠した天鵞絨な布地はすとんと床に落ちるデザイン。肩から下ろして腕にひっかけた黒のストール以外装飾はない。同じ格好の女が五人、後ろに色違いで白の女が六人。こちらに向かって弧を描くように整列している。おろされた髪が夜風にさらされて揺れた。白は何でもない色。黒は何でもある色。あたしの目にはそう映った。
一人だけ前に出た女が右斜め前、つまりはあたしの席に目を向けた。黒く憂いのつまった瞳。
「宮繋の斎場へようこそ、見届け人として歓迎いたします。エリー・ロットーさん」
どうしてあたしの名前を知っているのだろう、そしてミヤツナギって何だろう?
心を読み取ったかのごとく、女は片目を閉じて薄く笑んだ。
「あなたが感じたとおりよ」
どういう意味かはかりかねる。
「ここは何処でもあり、何処でもない場所」
一呼吸おいて続く。
「一つの運命が終わり、魂が産まれ、また神が起つ」
「永劫への回帰、輪廻の永続的性質のあるかぎり、終わりも始まりもない」
「区切りとしての寿命を見届ける、送り届けるのが存在理由」
「一つの宮から一つの宮へ」
「黄道十二宮は知っているかしら」
それくらいなら知っている。ちなみにあたしは山羊座だ。
「それの大規模なものと考えてくれてかまわないわ」
なんとなくだけど、輪郭だけは理解できた。そんな気にさせてもらえるなら、なかなか悪くない。
次に、白の女が一人前に出た。黒の女の左に立って、分厚い本を手に持って開く。辞書大の本は、かなり背表紙が頑丈に造られているようで、普通あれだけの厚みは割れてしまいそうだけどびくともしていなかった。
黒に白線で構成された表紙には己を呑み込むウロボロスが簡略化されて描かれていた。それなのにすべてを呑み尽くさんと牙をむく迫力は見事だ。その中央に大きく年代記と。実にシンプルな題名だとあたしは思った。究極に突き詰められた題名と。
朗々とした声で内容が読み上げられる。
「蛇を従えた偉大なる医師
矢に倒れた半人半馬なる者
吉兆なる黄色の輝き
鋭き眼差しの大山猫
永劫の宮へ今繋るがいい」
低い別の声で、かすかに数字が重なる。
「1987 185 1006 11」
この数字に意味はあるんだろうか、分からない。
本が閉じられる。拍手に似た音だ。
それで舞台挨拶は終わりを告げて、演題に。
外着のストールを巻きっぱなしだったのに今頃気がついて、あわてて脱いで身なりを整えた。火が消えて、舞台だけを強く際立たせるや女たちが動き、円陣の形をとる。オセロかなにかみたいだ、とあたしはぼんやり思いつつ、開演の時。
二人の和音が唱和する。更に後ろの和音が重なり、波になり、波形をつくり出した。桃色の微粒子が立ち上ったかと思えば、波にのり高く天井付近まで巻きあがった。
一つ目の和音は波。
存在を許すという女神のスカート。
月のない夜は暗いから嫌いだ。世界に拒絶されているみたいで、心がきゅうっとなる。
連なって周回する光の粒子が、いつしか半月前の夜に重なった。
「もう寝なさい、明日は早いわ」
半分寝ながら母さんが簡易ベッドにうつ伏せ、すぐに規則ただしい呼吸に変わる。夜行列車の旅。コンパクトな個室は落ち着く。線路を滑るリズミカルな衝撃が好きなのだ。左隣の弟と父さんがいる個室から壁を蹴る音がした。
上のベッドがいいと主張しまくってたけど、落ちないことを祈るばかりだ。窓辺の席に腰かけたまま、暗い畑を眺める。憂鬱な自分の瞳が鬼火みたいに揺れて、そのままトンネルにかき消されていく。 十分ほどして長いトンネルを抜けても、窓を開ける気にはならない。暖房はよく効いていて、暑いくらいなのに窓を開ける手があがらない。
別に引っ越しに反対したわけじゃないし、かなり期待だってしていた。着く前から過去形だったのは変だろうか。
「今からホームシックじゃ大変だなぁ」
父さんは頭をぼりぼり掻いて苦笑いしてて、母さんは新しい学校の制服が可愛いと力説してて。
「姉ちゃん今からモテる心配かよ」
失礼な弟にデコピンかまして、そんなんじゃないよと笑い。劣等感、なんて大層な代物じゃないけど。前に転校していった子も大号泣してたから、そんなものなんだろうと思いつつ転入手続きの書類にサインした。
これで侵入を許して下さい、異分子の居場所を見逃して下さい、そんな書類に見えるあたしはひねくれてる?
やたら祈りの場が多いこの街は、あたしの性にあったようだ。
いちばんに適応したのはあたしで、家族は意外そうな顔をした。
「エルも引っ張って連れていってよ」
父さんと壁の塗り替えに熱中している弟を指差して母さんは言うけど、白いペンキまみれの作業着じゃあ、礼拝には不向きだよと足早に門を出る。
遅刻した。
開始まであと五分、ここから十分。
結局その日は歌を聴けず仕舞いだった。
ここまで振り返って、あたしは考える。
あたしは何に許されたいの?
許されたあたしは何になるの?
あたしを許すのは何なの?
何を許されるあたしなの?
まるで言葉遊びね。
「楽しんでる?」
黒衣の女が歌の合間に呼びかける。あたしの中身がぐるぐる揺れ動いてるのはたしかだけど。楽しいには遠い気がする。答えたら、それが合図のように曲調ががらりと変わった。鋭利にかきたつ高音。身悶えする鋭い矢の群。
あたしすら一直線に突き抜ける音の矢じりは止まらない。




