緑の文字のおまじない
出て行け、ここは俺が稼いだ金で建てた俺の家だ。
俺の家で許可なく息をするな。
何度、夫に言われただろう?
そして今日、私は夫に茶封筒を差し出した。
色気の「い」の字もないそれに、夫が顔をしかめる。
もうちょっと可愛げを持てといつも言っているだろう、こんな細かいところから、お前っていう女は駄目なんだよ。
どこか勝ち誇りながら汚い言葉を吐き、茶封筒の封を切る。
取り出された中身は、紙。
離婚届。
広げられた紙に緑色で書かれた文字。
私の方の名前と印鑑は、既に記入済みのもの。
目にした途端、夫が一瞬、獣を食い殺す瞬間の野獣のような目で睨んできた。
なんだこれは。
何度も出て行けと命令されていたのに、長々と実行に移さず、私は本当に不実でした。
合法的に、出ていきます。
立ち上がった私に、夫は、今度はすがる様な目をして、スカートの裾を掴んできた。
どういうつもりだ? 今まで、俺たちは上手くやってきたじゃないか。
そりゃあ、たまには怒りにまかせて、お前に酷いことを言ったかもしれない。
でも、それだって夫婦だからじゃないか。
涙を流して訴える夫。
愛していなけりゃ、手だってでないさ。
苛立つのは、もう、お前が俺の一部だからだ。
わかるだろ?
無言を貫く私に、夫は再び怒りをあらわにする。
いい加減しろ!
お前みたいな、結婚してから専業主婦でぬくぬく食わせて貰っていただけの無能な女が、世間でやっていけると思ってんのか!
はあはあと肩で息をする夫に、私は最後の言葉をおくった。
かわいそうね。
かわいそう!? 俺がかわいそうだって言うのか!?
俺ほどの稼ぎあって、浮気もしなけりゃギャンブルもしないいい夫がいると思ってんのか!?
ああ、出て行け!
離婚してやるよ!
世間様ってのを味わって、泣きついて帰ってこいよ!
私の背中に罵詈雑言を浴びせ続ける夫。
私は、家をでた。
幼い頃、おまじないが流行った。
用意するのは、お気に入りのノートと、緑色のペン。
ノートの最初から最後までかかって、相手の名前を100回書く。
ただし、99回目まで。
最後の1回は、相手に自分の名前を、好きな紙に書いてもらい、ノートの最後に挟む。
そうしたら、相思相愛になれる。
夫に恋をし、幼い頃のおまじないを信じていた私は、必死に夫の名前を書いた。
でも、ノートには49回しか書けなかった。
緑のペンのインクが、突然きれたのだ。
私は泣きながら、ペンとノートを、学習机の引き出しの奥に隠した。
数日後。
実家に戻っていた私の元に、夫から手紙が届いた。
封を切り、中をあらためると、夫の名前と印鑑が記された離婚届が入っていた。
一筆書き便箋に、これを俺の目の前で破いて、土下座したら許してやると書いてあった。
その便箋を破り捨て、私は机に向かう。
引き出しをあけ、奥にしまわれたペンとノートをだした。
49回、緑の文字で書かれた夫の名前。
この間、帰省した時に何気なく取り出してみた。
ふたを開けて、指先におしつけたら、ペンのインクは復活していた。
緑色の、とげのような痕が、左手の薬指の腹に眩しい。
うっとりしながら、私は、ペンを握り締めて紙に名前を書いていた。
幼い頃、おまじないが流行った。
用意するのは、お気に入りのノートと、緑色のペン。
ノートの最初から最後までかかって、相手の名前を50回書く。
ただし、49回目まで。
最後の1回は、好きな紙に自分の名前を書いて、ノートの最後に挟む。
そうしたら、別れられる。
ノートの最後に離婚届を挟み込んで、私は微笑んだ。
おまじないは、よくきくのね。