⑧
迎えた月曜日。教室に着くや否や、そこには妙なざわめきがあった。
「おはよう」
僕は壁で難しそうな顔をしている純奈を見つけると、近づいて声をかけた。
「おはよ。待ってたわ」
そう言うと純奈は僕の腕を取り、廊下へと引っ張って行った。
「なんかあったのか?」
教室を渦巻く空気感に疑問を感じた僕は、さっそく純奈に質問をぶつけた。
「私もついさっき着いたのよ。で、なんか変だと思って聞いてみたの」
そこで言葉を区切ると、純奈はそっと僕に体を寄せ、「南後がらみらしいわ」と言った。
先日の南後の表情を思い出す。
「詳しく教えて」
「私もまだそこまで分からないのよ。ただ……」
そう言うと純奈は教室を覗き込む。つられて僕も首を向ける。純奈は一度僕に目配せをした後、あごでサインを送ってきた。見て、ということだろう。
教室内の生徒はほとんど揃っていたが、皆が奇妙な位置で囁き合っていた。彼らの中央を見やると、そこには国光の背中が見えた。表情こそ見て取れないが、彼は両手で頭を抱えた状態で椅子に深く座っていた。状況から察するに、教室を満たす話題は、彼を中心としているようだ。
「国光……」
不意に口からこぼれ出た友人の名。純奈と目が合う。
「佐渡君に聞くしかないかしらね」
「うん。でも」
僕の言葉を遮るようにチャイムが鳴り響いた。僕らは仕方なく席に戻った。同時に教室に安岡が入ってきた。教室を満たすただならぬ空気に彼は一瞬眉をひそめたが、すぐに教師としての仕事に戻った。教壇で連絡事項を述べる安岡の声はもはや僕の耳には入ってこない。ピクリとも動かない国光の背中を僕はただじっと見つめていた。
昼食の時間になり今朝の重い空気はどこへ行ったのか、生徒たちは各々に昼食を広げたり食堂に連れ立って向かうなど、ざわざわと陽気な声が飛び交う。
国光が席を立ち教室を後にするのを横目で確かめながら、僕は純奈に話しかけた。
「どうする?」
「うん……」
純奈は一瞬目を瞑ると、すぐに考えがまとまったのか「追いましょ」と言うと自身も席を立った。僕も彼女に続く。
教室を出ると、廊下を曲がる国光の背中が見えた。方向的に食堂ではなさそうだ。僕らは彼を見失わない程度に距離を置きつつ後を追った。
彼は階段をつかつかと躊躇なく上って行く。上には三年の教室がある。風紀委員会の会室に行くには二階にある渡り廊下を使うはずなので、その線は消えた。
三階に上ると、国光の姿は既にそこには無かった。
「あちゃー」
横で純奈が頭を抱える。
急に消えるなんてことはないだろう、勿論因子の可能性を除けばだ。周囲には三年生の生徒達がひしめき合っている。とはいえ国光の背格好なら群集に飲まれても比較的容易に見つけられるはずである。
「わざわざ尾行みたいなまねしなきゃよかったわ」
それもそうだが、小町の件を経て自分自身も慎重になっている部分もある。間違った選択とは言い切れない。
「このまま探す?」
「そうね……。遼次は置くの教室からお願い」
分かった、そう言おうとした僕は一つの可能性に気づいた。右手になおも続く階段がある。
「……屋上って、出れるのか?」
僕の呼びかけに進みかけた純奈が振り返る。
「確か施錠されてたはずだけど……遼次」
純奈が眉をひそめる。
「違う、『予感』じゃない。ただ教室に入るんだとしても誰かに用があってのことだと思うし、そうすぐには出てこないと思うから……」
純奈は軽く息を吐き、「一応ね」と了承してくれた。
屋上への階段は途中からビニールテープが張られていた。くぐり抜けた先のドアには使用禁止の張り紙が張られていた。純奈は両手を挙げて、お手上げのポーズを取る。
「やっぱり禁止みたいね……あれ?」
純奈が確認の意味でノブを回すと、予想に反してドアは開いた。隙間からびゅうっと風が吹き込む。僕らは顔を見合わせると、屋上へと進んだ。
空は青々としていて、雲ひとつ見えなかった。先日南後と出会ったあの丘には劣るが、ここからも良い景色が見える。そんな中に――見つけた。
国光はこちらに背を向けながら、フェンス越しに空を仰いでいた。僕らが近づくと無言のまま振り返る。来ることが分かっていたように、別段驚いた表情も浮かべなかった。
「屋上……開いてたのね」
純奈の問いかけに対し、国光はポケットから鍵の束を取り出して見せた。
「風紀委員の特権ってやつ?」
国光はくすりと笑うと、また空を見上げた。僕と純奈も彼につられるように顔を空に向けた。
三人とも無言のままの時間が流れると、不意に脇に違和感を覚えた。見ると純奈が肘で僕の脇腹をつついていた。話を切り出す役目は僕にあるようだ。
「南後となんかあったのか?」
「んー」
うめき声にも聞こえる妙な返答をした後、国光はようやく視線を下ろした。
「先日の食堂の話に関係するよね?」
今度は無言のまま彼は頷いた。純奈はきょとんとした顔をこちらに向けてくる。そういえばあの時の話は伝えてなかった。
「僕らでよければ――」
相談に乗るよ、そう言いかけて僕は口を噤んだ。ふいに小町との会話が頭をよぎった。彼女は聞いてくれるだけで救われたと言っていた。勿論本人がそういうのだから、彼女は救われたと感じているだろう。しかし全ての人が小町のような考えや状況なわけではない。
僕は国光に踏み込むことが怖かった。ここにきて初めて、他人という存在を意識したかもしれない。僕は姉さんに守られ、純奈や君塚の優しさに触れた。小町は家族に裏切られながらも僕らに出会うことで救われた。だが国光は?
手を差し伸べるという行為は、はたして全ての人が嬉しいと感じるものなのか。僕の頭はもやもやとした灰色の感情で満たされ、それを解消できずにいた。当然言葉は続けられず、沈黙が憎たらしいほど周囲を満たした。
「お前がそんな怖い顔するな」
国光が微笑をたたえて僕の肩をトンと叩いた。
「どうにかしなきゃいけないことぐらいわかってるさ。そうするためには話さなきゃいけないことも」
がしがしと髪を掻きながら彼は言った。
「佐渡君、話して欲しい」
純奈が一歩前へ進み出た。風になびく彼女の髪からふわりと良い匂いがした。毅然とした態度で国光へと向かう純奈の目は爛々と輝いていた。その姿に僕は自分が情けなく思えてくる。
人を傷つけるのに悪意はいらない。自分の純粋に人を思う気持ちが他人を傷つける。そんな思いは純奈の姿を見ていると霧散してしまうようだった。相手を傷つけてしまうかもしれない行き過ぎた心への踏み込みは、彼女の圧倒的な正義感の前ではさしたる意味を持たないだろう。
国光も純奈の視線に動揺しているようだった。
「よし!」
彼は意を決したように言うと、視線をしっかりと僕らに向けた。
「話してくれるのか?」
「おう。ただ、放課後まで待ってくれ。人に話す前にもう一度自分の中で整理したい」
「分かった。放課後、審問委員会の会室で待ってる」
「おう」
そう言うと彼は足早に屋上を去っていった。
純奈は彼の姿が見えなくなると、フェンスへと体を預けて腰を下ろした。顔に安堵の表情が見て取れる。
「僕、なんの役にも立たなかったな」
「そんなことないわよ。佐渡君、前にも少し遼次に話したんでしょ? 遼次、口数は少ないけど、人が話してるときにすごい色々なこと考えるでしょ? そういう真剣なとこ、やっぱり彼も分かってるだろうし、だからこそ決心したんだと思うけどね」
自分の中で色々考えるのは僕の悪い癖だ。単に卑屈なだけだと思う。
僕も純奈に並んで腰を下ろす。フェンスが二人分の体重を受けてキシリと音を上げた。
「国光は純奈の凄みに負けを認めたみたいだし」
「凄みって……。それに国光もってなによ」
「僕も審問会の話を聞いているとき、純奈の凄みにあてられたから」
純奈が唇を尖らせて反論の意を示す。女の子に凄みは失礼だったか。
「目は口ほどにものを言う、ってのも案外間違いじゃないかもしれない」
「そんなに私の目ってきつい?」
純奈が不服そうにこちらに目を向けてきた。
「きついってわけじゃなくて。なんというか……言葉にするのは難しい。そう、こういう複雑な感情を瞳を使って飛ばしてるような気がする」
彼女の真剣な思いは瞳を通してさらに磨かれ、強い意志となって相手に届く。審問会への思いも、電話口に語られたら少しだけ鈍くなるだろう。だとしても僕は純奈に協力していたと思う。それもまた事実。
「そういう因子もあるかもね」
純奈は僕の言っていることが上手く理解出来ないらしく、困ったような表情を浮かべる。実際僕も上手く言葉に出来ていないから仕方が無い。
「さっきみたいな立ち回りを見てると、まさに審問会長って感じがするよ」
「え? ……そうかな」
純奈は照れたように笑った。事実、僕には出来ない芸当だ。彼女の生まれ持った才能だろう。相手の心にストレートに入っていけるそれは、決して特化因子などではない、彼女自身の本質的才能だ。
「それがあれば友達作るのも簡単だろう」
「……たまにきついこと言うよね。それに今は小町がいるもの!」
せっかくの笑顔を僕はまた壊してしまった。卑屈になりすぎるのもよくない。だが、一度スイッチがマイナスに傾くと、僕の口は止まらなかった。
「友達は多いにこしたことがないだろ? 小町以外にも使いなよ」
「そうねー。でも、友達は多いにこしたことないけど、親友は少ない方がいいわ。それに遼次が言う凄みってのを出すのには条件がいるのよ」
「条件? 特化因子じゃないだろ、純奈のその才能は」
「そうなんだけどね……やっぱり勇気がいるのよ」
「どんな条件?」
「その条件が重なると、すごい勇気がわくのよ。頑張ろう! って気になる。かっこつけよう! ともなるわね。あと、ちょっとだけ息苦しくもなるかも……」
純奈は手で長い髪をもてあそびながら僕に目を合わせようともしない。心なしか顔が赤いようにも見える。
「息苦しいってのは、『予知』を使った時みたいな?」
「そうじゃなくて……。苦しいってのは言葉のあやというか、なんというか……」
もじもじと指を絡ませ、尻すぼみに言葉を紡ぐ。
「ま、いいのよ! 悪いことじゃないんだから」
「純奈がいいのなら、いいけどさ……」
僕はあまり要領を得なかったが、純奈が立ち上がってしまったのでこれ以上深く聞こうとは思えなかった。ふいに、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。僕らは顔を見合わせ、急いで屋上を後にした。
国光と南後に関する問題へ思いを馳せていると、あっという間に放課後を迎えた。慌しく帰り仕度を済ませる純奈を横目で見ながら、僕は国光に集中する。結局屋上での話し以降、彼とは一つも口をきいていない。授業中も朝のように深刻そうにはしていなかったし、正直言って僕と純奈の方が授業に集中できていなかったと思う。
「佐渡君」
足早に国光の方へ向かった純奈が彼に声をかける。ふいに教室の空気が張り詰める。審問会の長たる純奈が今朝の渦中の人物である国光に話しかけたのだ。皆が興味を示すのは仕方がないことだろう。
僕も二人のところへと進み出た。国光は僕と純奈を交互に見たあとに、しっかりと頷いた。僕らは教室中の生徒達の視線を背中に受けながら、逃げるように教室をでた。
審問会室までは三人ともこれ以上ないくらいに終始無言だった。しかしそこには屋上で僕が生み出してしまったような気持ちの悪い沈黙はない。かといって長年連れ添った恋人の間に生まれるような沈黙も当然あるはずもなく、変な緊張感を孕んだものだった。お互いが一つの問題に向けて確実に一歩一歩進んでいる、奇妙な興奮を感じるものだった。
会室にはすでに君塚と小町がいた。事情を知らない二人は僕らに続いて姿を現した国光の姿に一瞬あっけにとられていたが、審問会に足を踏み込んで来た以上、何らかの事情があるのだということはすぐに理解出来たようだった。小町は国光に軽く会釈をして、君塚はそれが当然であるかのようにすばやく飲み物の用意に取り掛かった。
僕らは中央のテーブルを囲むように座り、扉に一番近い誕生日席のような位置に国光は腰を下ろした。君塚が一通り飲み物を配り終えると、僕らはさっそく本題に入った。
「じゃあ、佐渡君」
口を開いたのは、やはりというか当然純奈だった。
「まずは、南後と『約束』をしたことだな」
国光は初めに僕に寮の食堂で話してくれた内容を口にした。そこには当然南後への恋心に関することも含まれていたが、以前のように考えあぐねる様子もなく、彼の覚悟が見て取れた。
僕としてはその話には純奈が敏感に反応するのではと危惧していたが、予想に反して彼女は終始真剣そのものだった。
「なるほどね……」
国光の話を聞き、皆が思い思いの反応を示す。ここまでは僕も以前聞いていた話、問題はここからだ。
「南後との関係はどうなの?」
僕は以前聞けなかった、もう少し踏み込んだ質問を国光へとぶつけた。
「良好……ではないよな」
国光は疲れきったような苦笑を浮かべる。
「前に私と遼次がいる時に会ったよね? いつもあんな感じなの?」
小町と出会う前、あわや殴りあいにでもなるのではないかと、初見の僕は危惧したことを思い出す。
「ん、まぁそうだな……」
小町と君塚は居合わせなかったことなので知る由もないが、純奈と南後の関係を知っていれば、容易に状況が想像できるだろう。二人とも別段聞いてくる様子はなかった。
「というか――」
国光が再び口を開いた。
「普段は南後も普通なんだ。志堂が絡んだりすると、急に態度が変わるんだよ。触れちゃいけない領域でもあるんだろ」
彼は気にくわなそうに、ふんと鼻を鳴らす。
僕は丘での南後の態度の変わりようを思い出していた。純奈のこともそうだが、どちらかというと審問会という存在にイラついているような印象があった。それに、彼女自身も大分思いつめていたように思える。
僕は食堂での国光との会話を言いそびれていたこともあり、南後との会話も皆に話すことにした。僕としては南後側の観点からの参考になればいいと、そんな軽い気持ちで話したのが、どうやら間違いだったらしい。
僕の話を聞き終えた国光は、テーブルを割るのではないかという勢いで殴りつけた。五つのカップが大きく揺れ、小町が軽い悲鳴を上げる。
「……南後は、あいつはだましてたんだ」
握った拳をなおもきつくし、テーブルに強く押し付ける。君塚は相変わらずの無表情で、彼だけ変に遠くにいるような印象を受けた。純奈は一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに落ち着きを取り戻し、国光へと質問を投げかけた。
「騙してたって、どういうこと?」
「あいつの因子『約束』のせいで、随分の人が色々と縛られた。怖くなって逃げたやつもいた。元風紀委員長もその一人だ。でも南後は……あいつは仕事はしっかりするし、高慢な態度は表面上のものだって、そういうことを俺はわかっているつもりでいた。それに普段のあいつといる空気も別に嫌いじゃない。だから俺ぐらいは傍にいようと思ったんだ。恥ずかしいけど……守る、って約束もいずれは果たせると考えてた。でも、つい昨日だ。元風紀委員長から電話がかかってきたんだ」
彼は徐々に熱くなる言葉をそこで一旦切ると、カップを傾けて喉を潤した。ここからが話しの根幹であろうことを僕らは無意識に悟った。
「その人……近衛さんって言うんだけど。その人も南後と『約束』をしたってことは聞いてた。内容は分からないけど。んで、その『約束』を破ったらしい。最初は相当あせったらしい、因子の怖さは俺らも良く分かってる。でも、一向に破ったつけがこない。『約束』は成立してなかったのか? 何度考えてもそんなことはない、しっかりと結んでしまった覚えがある。そんな中、友人から決定的な一つの噂を聞いたらしい。噂に決定的もくそもないが、自分の不安はそれで消し飛んだらしい」
言葉を重ねるごとに彼の声は大きく、熱のこもったものになっていく。政治家のスピーチのようだった。違うのは、聞いている僕ら全員が真剣に彼の言葉に耳を傾けているという点だけだろう。
「近衛さんいわく、『約束』の成立には握手が必要らしいんだ」
「握手?」
「そう」
彼は反応した僕の目をしっかりと見ると、自分の両手を使って一人で握手をする動作をして見せた。
「それが特化因子『約束』の条件ってこと?」
勿論全ての因子に条件がきれいに付きまとうわけではないが、『約束』という個人だけでは行えない行動の性質上、握手という明確な形をとることで成立する仕組みになっているのだろう。
「ってことは……国光、握手は……?」
「してない」
彼はしっかりと頷きながら言い放った。ということは、その握手の噂が本当であるならば、南後とのありもしない『約束』で縛られた人がいることになる。
「まずいですね……」
久しぶりに君塚の声を聞いた気がした。
皆の視線が彼へと一斉に向けられる。
「実際に南後さんと『約束』を交わした人はどれくらいいるのでしょうか? それと、近衛さんと言う方が口にした噂、どれくらい広まっているでしょうか?」
「どうだろう……。結構いると思うぞ。噂に関しては、俺はお前らにしか言ってない。だが近衛さんがわざわざ俺に連絡してきたってことは、彼女の知り合いで『約束』を結んだ何人かには言ったんじゃないか?」
国光の返答に君塚が眉をひそめる。
「その人たちにも詳しく話しを聞く必要があるわね。皆別れて聞きにいきましょ。それと――」
純奈の提案が耳に入ってこない。彼女の声がふわふわと周囲を停滞しているようだ。君塚の杞憂はもっと違う場所に向けられているように思える。
一連の話の中で、純奈は俄然正義感に火がついてきたようだ。小町も純奈の言葉を逃さないようにメモまで取っている。しかし、違う。僕の心を占めるのはもっと異なる意識だった。
ふいに君塚と目が合う。何か言いたそうな視線をこちらに向けてくる。何かが頭の隅をちくちくと刺激する。簡単な気づきに僕は到達出来ないでいた。
「人数はいるが結局島だ。生徒の行く場所はだいたい限られれて来る。小町みたいに隠れてない限りすぐに探せるさ」
「いじわる言わないでくださいよ!」
僕は無意識に立ち上がった。押された椅子が音を立てて倒れる。そうだ、玲瓏学園は島だ。どうして気づかなかった。
「どうしたの、遼次急に――」
「まずい――」
玲瓏の狭さは、噂の伝達にも一役買っている。『約束』で縛られた多くの人。傲慢な態度。国光の怒り。
――今目を向けるべきは、文字通り『約束』を結んだ全ての人だ。
君塚もすぐに立ち上がる。僕らは言葉を交わすことなく、扉のほうへ向かった。
「ねぇ! 二人ともどうしたのよ」
僕らを制するように、純奈が前へと回る。小町があたふたとせわしなく動く様子が視界の隅に入った。
「南後さんです」
「へ?」
「今、一番危険なのは南後さんです」
君塚が毅然とした態度で言った。仕える相手であるはずの純奈への態度とは思えない。
「『約束』で縛られてたと思っていた人たちが実際はそうじゃなかったんだ。制約を受けていた人たちが南後にどういう態度を取るか分からないけど……」
僕の補足を受けて、純奈はやっと事態が読めたようだ。小町も横で目を見開いた。
「で、でも、ここは学園なんですよ? 南後さんに恨みがあるからって何をするんですか? 犯罪は犯罪ですよ!」
「ここが学園であろうがなんであろうが、ここの生徒達は皆特化因子を持っているんですよ。南後さんが因子による圧力をかけたのなら、報復として因子を使うことにためらいはないでしょう」
君塚のいつになく厳しい指摘に、小町の顔が青ざめる。ごくりと生唾を飲み込む音も聞こえた。
「国光、南後に連絡取れるだろ?」
僕はここにきて国光の存在を思い出した。純奈が止めに入らなければ、僕は学園中を走り回るはめになっていただろう。しかし対する国光は、
「知らないね」
とそっけなく言い返した。
今まで見たこと無いような冷たい目をした国光は、その目を僕にためらいもなくぶつけてきた。
「お前、分かってたな? こうなること」
僕も負けじと彼を見返すが、瞳に篭っているその冷たさは彼に遠く及ばなかった。それも当然と言えば当然か、自分を裏切った人を僕らは今まさに助けようとしているのだ。当人にしてみれば僕らの行動を後押しする理由などひとつもない。しかしここで僕らが歩みを止めてしまえば、南後の抱えている状況はますます深刻になるだろう。なによりも学園内で犯罪者なんて生ませるわけにはいかないし、純奈がそれを望まない。純奈の望まないことが起こるのは僕としても気持ちの良い事態ではない。
嬉しいことに国光のあざけるような微笑を前にしても、僕らの決意は変わらなかった。それぞれが瞳にある種の闘志のようなものを浮かべているのが見て取れた。
「ひとまず南後冴の保護を優先しましょ」
純奈の言葉と僕らの決意を前にしても、国光が動く様子はなかった。南後に一泡吹かせたいとは彼も強く思っているだろう。しかし彼は動かない。かつて南後に向けていた恋慕か邪魔をしているのか。それは僕にも分からないが、なんとなく彼の根っこでは南後を許せてしまっているのではないのかと感じた。
「ちょっと待って!」
勢い良く扉へと向かった僕と君塚の背中に純奈の言葉が飛んだ。
「二人とも、南後がいる場所分かるの?」
その瞬間の僕と君塚の表情は実に間抜けだっただろう。少なくとも僕は。僕らは再び熱くなってしまっていた。動くことが解決になるだろう、という短絡的な結果へまたも向かいつつあった。
「とりあえず風紀委員会へ行こうかと」
やはり間抜けな表情を浮かべていたのは僕だけだったようだ。君塚は自分のやるべきことを理解していた。
君塚にゴーサインを出した純奈の視線が僕へと移る。後ろで君塚のかけていく音が聞こえる。僕もあんなふうに勢い良く飛び出すはずだったのだ。
純奈はあきられたような表情を浮かべている。ご丁寧にため息までついた。しかし僕はその表情と態度を受けて嫌な気はしなかった。少なくとも彼女に『予知』を使う気はないのだと理解できた。僕が真っ先に南後を見つけなければいけない理由の一つには、当然純奈に無理をさせないという意志がある。その点で見れば、僕の熱く滑稽な一連の動作はある程度の成果を上げた。
「佐渡さん、やっぱり協力は無理なんですか?」
今度は小町が国光に尋ねた。しかし彼はだまって首を振るだけ。小町の小さな勇気は国光のプライドを跳び越すことは出来なかった。
「しかたないわ。佐渡君は被害者なんだもん」
国光の眉がぴくりと反応するのを僕は見逃さなかった。純奈は何気なく言ったつもりだろうが、彼の心に傷を与えるのには十分な言葉だった。彼は本心を顔を覗かせている。本来なら南後とはしっかりとした形でけりをつけたいはずだ。報復は彼の望む結果ではないだろう。しかし物事は上手くはいかない。純奈の言葉はかえって国光と審問会の間に溝を作ってしまった。口を真一文字に結んだ国光は、腕を組んで僕らからそっと視線を逸らした。ここからは僕らでどうにかするほかないだろう。
テーブルの上に置かれていた純奈の携帯電話震える。「どうだった?」ボタンに手をかけるのと同時に純奈が切り出した。相手は君塚だろう。
「そう……分かった」
彼女の反応からして成果はなかったのだろう。
「君塚は周辺で聞き込みをするって」と純奈は僕らに付け加えた。
風紀委員会に国光や近衛って人の他に『約束』を結んだん生徒が何人いただろうか。状況によっては君塚の聞き込みは徒労に終わるだろう。すでに南後に接触を図った人もいるかもしれない。南後が一人でいるとは断言できない。仮にまだ無事で一人でいる場合……。
「……あそこだ」
僕はまたも間抜けな表情をしただろう。気が高ぶりすぎていたとしても言い訳にはならない。なんてバカなんだ。いや、この場合この部屋にいた全員がバカだ。さっき僕は南後との丘での会話を説明したばかりじゃないか。失態を悔やんでいる場合ではない。悔いるな、切り替えろ、だ。僕は勢い良く扉を開け放し、全力であの丘へと向かった。はるか後方で純奈の声が聞こえた気がしたが、取り合っている場合ではない。善は急げだ。その先に善の欠片もないとしても、今は急がねばならない。
僕は階段を駆け下りた。正確には飛び降りた。いつかテレビで見たパルクールにも引けを取らないくらいの見事な跳躍だったと思う。小町を見つけた日、僕は音のない空間で怯えるような足取りで階段を上った。一歩ずつ、聞こえるはずのない自分の足音に耳をすませながら。今僕は、周囲の生徒達が悲鳴を上げるくらいのスピードで階段を飛び降りた。状況が変われば方法は変わる。でも僕は同じものを目指していたと思う。姉さんが僕にしてくれたように、純奈や君塚がしてくれたように。僕自身の全力を持って、僕は誰かを……もういい。この際割り切ってしまおう。僕は誰かを救おうとしている。ただそれだけ。慢心だと言われようと、偽善だと罵られようと、言葉にすればただそれだけなのだ。小町からの感謝の言葉が嬉しかったのも事実だし、本気で助けたいと思っているのも事実。精一杯足を動かしている自分に酔っているのもまた事実だろう。それでも僕は助けるために走り、救いたいと思っている。誰にも文句は言わせない。僕が決めたことだ。僕は自分と平行して走る自分自身の変化の影をそこに見る。振り返ったら、きっとそこには過去の自分が勘弁してくれとばかりに呆れ顔で息を切らしているはずだ。
不意に太ももの辺りに違和感を感じた。ポケットを探ると、携帯電話が震えている。確信を持って相手は純奈だと断言が出来る。ボタンをプッシュすると、耳に当てる前に彼女の声が聞こえてきた。
「どこいるの!」
「――、校舎でたとこ!」呼吸を意識しながらの会話は予想以上に苦しい。
「どこむかってるの!」
「丘――っ!」
「丘? なによ丘って。急に出て行くから――何、小町。え? あぁ……そういうこと……。ごめん遼次! 頑張って! 着いたら連絡して!」
電話を再びポケットに放り込む。いよいよ喋る余裕はなくなってきた。あの感じだと、純奈も気づいてはいないようだ。逆に小町が気づいたことに感心してしまう。普段直情的な純奈と控えめな小町。こういった場合ではお互いの立場が上手い具合にひっくり返って作用するようだ。
意識を体から離す努力はしたものの、やはり足の悲鳴に耳をふさぐことは出来なかった。限界を目先に捕らえたところで、僕はゴールである例の丘へと到着した。南後を探す余裕もなく、僕は勢いそのままに地面へと転がった。
足が運動をやめると同時に、無視していた内臓器官の痛みを猛烈に感じた。何度呼吸を繰り返しても、酸素の供給が間に合わない。体全体で息をするように心がけ、どうにか落ち着きを取り戻すと、今度は体中から噴出した汗への嫌悪感が高まっていった。上体を起こすと風が気持ちよい。しかしそれを享受する間もなく、僕は背後に足音を感じた。
「なにしてんのよ」
振り返ると南後がむすっとした表情で見下ろしていた。左手には以前と同じペーパーバックを掲げていた。
「無事か?」
「はぁ?」
僕の問いかけにますます不機嫌そうな顔を浮かべる南後。彼女の口から状況はうかがえなかったが、その口ぶりと周囲に人影がないことから、とりあえずの安心感を得る。彼女は一人で納得している僕を足で軽く蹴った。
「痛い」
「なにしにきたのよ」
「蹴るな」
「なにしにきたのよ」
さらに三発程食らったところで僕の方が折れた。助けに来た、は少し恥ずかしいので「探しにきた」と僕は言った。
「なんでよ」なおも南後。
「お前の因子の噂を聞いた」
「誰から?」
彼女はもはや質問の権化と化していた。このまま答え続けると僕もまたなんらかの権化と化しそうで少し恐ろしい。
「近衛って人」
「内容は?」
「『約束』には条件があるって」
「ふーん」と言って彼女は自分の右手にそっと目を落とした。
「本当なのか?」今度は僕が聞く番だった。
「うん」
南後は迷うことなく僕の質問に答えた。ある程度覚悟はしていたが、こうして本人の口から改めて聞くと、事態の重さを急に実感した。しかしそれ以上に渦中にいる南後自身の落ち着きように、かえって拍子抜けしてしまった。ここで事態は深刻だぞ! と僕が言うのもおかしな気がしてくる。
「どうするんだ? 噂は現在進行形で広がってるぞ」
「うっさいわね……ことの重大さは分かってるわよ。でも、どうにもできないでしょ」
どうにもできない。彼女の言葉に、僕は唸ってしまう。目先の問題を解決するために僕らは南後の保護に繰り出したが、結局のところ事態の根幹への解決案はなにも話せていなかった。南後が頭を下げればいいのか。そもそも『約束』の被害者達の情報も少なすぎる。国光の意見だけでは全体を見ることは到底難しかった。
かといって南後の保護が完了したから仕事はおしまい、ともいかないだろう。僕は今僕にしか出来ない方法で解決への道を考えるしかない。現状僕が取りかかれることといえば、南後冴の意思を知ることだろう。
「質問してもいい?」
「いや」
断られてしまった。僕は僕にしかできないことをするための土俵にも登れなかった。それでも諦めるわけにはいかない。まずは理由からだ。特化因子『約束』は成立していない。そのことを南後本人は当然知っていた。そのことを口に出さず、彼女は『約束』を結び続けた。その理由が聞きたい。
「なぜ『約束』の条件のことを口にしなかったんだ。『約束』の因子は使われていないんだろ? それでもなぜ……『約束』を続けたんだ」
「答えないってば」
「頼む」
「いやだってば」
「審問会だからか?」
「そうじゃなくて……」
「じゃあ――」しかしすかさず「うっさいわね!」と怒鳴られた。
「あー、もう!」
南後はペーパーバックを放り投げると、その長い髪を両手でメチャメチャに掻きまわした。ヒステリックに近い彼女らしからぬその行動に僕は圧倒される。審問会という看板は人の心に入るための免罪符ではない。僕は先ほどの自分の中の決意……救うのだ、という想いを既に恥じつつあった。それを自分は卑屈だから、人づづきあいが苦手だから、とも思っている自分の側面に、ほとほと嫌気がさしてきた。純奈のような真っ直ぐさが羨ましい。こんなとき彼女がいれば――。
「遼次!」
丘の入り口の茂みから、今まさに僕が求めていた人物が姿を現した。純奈は髪についた草を親の敵に向けるような目で睨みつつ払い落とすと、一直線に僕らの方へ歩み寄ってきた。
「遅いわよ! 見つけたなら見つけたって連絡くらいしてよ」
「……すまん」
願ってこそいたが、思っても見なかった純奈の登場に僕は胸をなでおろした。
「志堂……」
ぼそりとこぼれた南後の言葉。その語感にも、僕と同じような安堵がにじんでいるように感じられた。
「国光は?」
「遼次が飛び出していった後、すぐに出て行ったわ。ここに来てないってことは、彼にも思うところがあるんでしょ……」
彼もまた南後がこの場所にいることは分かっただろう。その真意は分からないが、やはり彼は色々と決めかねているように思える。
純奈は問答無用で南後の腕を掴むと、「行くわよ」と言って丘を下り始めた。
「――っ、離しなさいよ!」
南後はもがくが、純奈は気にもせずぐいと引っ張る。審問会の仕事は僕の完遂した保護の後、純奈の連行へと段階を進めた。
「うるさいわね……。大人しく来なさいよ。その方があんたも安全なんだから」
「どこに行く気? 噂がある程度広まったら、かえって審問会室の方が危険なんじゃないか?」
「まさにそれ。佐渡君が出て行った後、近衛って人が会室に来たわ」
「なんて言ってた?」
「あれはもう……話にならなかったわね。南後を隠してるでしょ! って怒鳴った後、急に大人しくなってぶつぶつ言ってたわ。君塚が気を聞かせて飲み物を出したら、また怒鳴って出てっちゃった。南後、あの人とどんな『約束』したの?」
急に話を振られた南後は一瞬動揺を顔に浮かべたが、すぐに自分を取り戻すと、ぷいと顔を背けた。
「ま、後で聞くわ。それで向かう場所はモノリスよ」
「モノリスね」
南後はぽかんとした顔を浮かべているが、僕としては最高の場所だと思えた。大通りからは離れているし、店の前を通る学生も少ない。奥の席に座ってしまえば、通りからも見えないだろう。寮や特別教室などと比べても最適の隠れ場所だ。
「というわけでさっさと行きましょ。近衛達が街まで探しに来たら、モノリスに行くまでに見つかる可能性が出てきちゃう。遼次手伝って」
僕は純奈に促されて、南後の左腕を掴んだ。落ちているペーパーバックも忘れずに回収する。
なおも嫌々を続ける南後をモノリスまで連れてくるのはだいぶ骨が折れる作業だったが、引きずられる体制が彼女のプライドをすり減らしたのか、商業区につくころには文句も言わなくなった。
無事にモノリスに着くと、奥の席には既に君塚と小町が座っていた。見事に南後を回収してきた僕らに小町は軽い拍手を送ったが、モノ扱いされた南後の眼光を受け、しおれるように肩をすぼめてしまった。その様子を見た純奈は南後のさらに上を行く瞳の鋭さで南後の態度を軟化させ、無事小町の仇を討った。
改めて近衛の話を持ち出すと、南後は再び徹底した黙秘に入ったが、純奈がそれを許さなかった。純奈は以前言っていた条件、とやらが揃っていたらしく、その凄みを持って南後の口を割らせるに至った。
「近衛さんは……すぐに学校を仮病で休むのよ。だから、二度と休まないでくださいって……多分、それね」
しかしその『約束』の内容とやらは、思っている以上に可愛げのあるものだった。やはり南後は根っからの風紀委員タイプらしい。風紀委員長なのに仮病を使う不真面目な近衛のことが許せなかったのだろう。
「で、『約束』がある以上休めないわけか……。仮病使わないでください、じゃなくて休まないでくださいだもんね。私だったら結構厳しいわ……」
当然それを破ったところで『約束』を破った罰はおこるわけじゃない。しかしそんなこと思いもしない当人からすれば、普段の生活でさえも精神をだいぶすり減らすことになるだろう。風邪や腹痛一つとっても、『約束』を守るために学校へと行き、熱なんかがでた日には絶望すら覚えるかもしれない。大方『約束』を破ったというのも熱以上の具合の悪さで学校に行けなかったということだろう。それらを考えると近衛への同情心も沸いてくる。
「問題は、なんであんたが『約束』の条件を口にしなかったかよ」
「それは……」
再び黙る南後。
近衛との『約束』からも、南後が傲慢さだけで他人を支配下に置こうとする人間とは思えない。多少きついところはあるだろうが、あえて自らの立場を危うくする原因にもなることは分かっていたはずだ。南後の行ったことは壮大な嘘をついたに過ぎず、結果的に顰蹙を買うことを彼女が理解出来ていなかったとは思えない。
国光も言っていたとおり、彼女は本質的には善い人間なのだろう。
「話してくれなきゃ、何も分かりませんよ……」
小町が南後の顔色をうかがいながら、恐る恐る口にした。南後は小町を見やった。しかし今回の小町は先ほどよりも強かった。瞳に潤いはあるものの、その視線を逸らそうとはしなかった。
「私は、助けたてもらいました。私は言葉にすることも伝えることも諦めてしまってました。勿論、自分の性格のせいです。それでも遼次さんたちは私を見つけてくれました。だから、なんで南後さんが話さないのか私には分からないんです。当然私と事情は違いますから、話すのが難しいかもしれません。でも、南後さんは口にすることが出来るタイプじゃないですか。正直羨ましいです。言葉に出来るって、すごく強いことだと私思います」
そこまで一気に喋り終えると、小町は紅茶をぐいと飲んだ。上気した顔は依然、おろおろとした小動物っぽっさはぬぐえないが、瀬尾小町にもまた僕と同じような変化が訪れたんだと僕は思った。小町のそんな姿を横で暖かく見守る純奈の目は、まさに母か姉のそれだった。
予想外の相手から投げかけられた予想外の言葉に、南後はしばし呆然としていた。しかし彼女もまた覚悟を決めたのか、それとも単に彼女の高いプライドが小町への対抗心を燃やしたのか、顔には決心の色が濃く浮かんでいた。
「私の因子は『約束』、それが意味することはなんだか分かる?」
漠然とした質問で幕を上げた南後の質問だったが、当然それに答えられる僕らではなかった。南後もまた答えてもらうつもり聞いたのではないだろう。すぐに話を再開した。
「特化因子ってさのは特化って言葉がつくとおり、秀でたものなのよ。秀でてなくても、人間が人間以上のものをもってます、って意味でつけられたって昔何かで読んだことがあるわ」
当然『予知』や『沈黙』なんてものは人間に備わっているものではない。種族が進化の果てに得られるものの領域を有に超えている。まさに特化因子だ。
「でもね、『約束』はどう?」
言葉を区切ると、南後は僕らの顔をじっくりと見渡した。
「『約束』って、人は誰しもするものなんじゃないの? 『約束』って、人と人をつなぐ素晴らしい言葉なんじゃないの?」
もはや誰に向けられた言葉なのか分からない。見開かれた南後の瞳に涙が浮かんでくる。
「私は覚えてないんだけど……小さい頃祖母と『約束』をしたらしいの。内容までは分からないけど、祖母は仕方なしにその『約束』を破った。本当に一瞬のことだったらしいわ……祖母は帰らぬ人となった。派手な交通事故だったらしいんだけど、一緒にいた他の家族は皆無傷。祖母だけが、狙われたように命を落とした。たった一つの『約束』で、よ?」
南後は落ち行く涙を止めようともしなかった。今にもわめき散らしそうな表情をしているが、必死に言葉を紡いでいる。僕らは彼女の言葉に相槌ひとつ打てなかった。
「そこからは私を押し付けあう形で家族は散りじり。たまに優しくしてくれる人達もいたわ。それでも無理だった。誰よりも私が理解してる。私のせいで私の周囲は壊れた。その事実は変わらない。しかも参ったことに『約束』の因子は国内に私しか確認されてないんですって。おかげで引っ張りだこよ。人気者。でも私は誰とも『約束』ができない。会話さえも怖くて仕方がなかった。握手をするって条件があるから、実際に祖母以来人に被害は与えていない。それでも、『約束』の希少性のせいでただの会話も恐ろしい……。何が特化よ! 何が因子よ! なにも秀でてなんていないわ! ただ『約束』が出来ないだけ……。ただのコンプレックスでしかない。玲瓏に来たときは、多少私も気が安らいだわ。周囲にいる人間は皆私と同じように自分の中に劣等感を抱えて当たり前のように笑って暮らしてる。ひょっとしたら私より不幸な人なんてたくさんいる。でも、『約束』の噂が流れた瞬間、周囲の目の色が変わったわ。『約束』以前に、私と話すことを皆恐れていたわ。だから言い出せなかった……。握手がなきゃ私は『約束』できるんだって! 因子じゃない、普通の『約束』が出来るんだ! って。でも言えなかった。私は弱いから。弱いから仕方ないって横から見ている私もいる。さらにそれを横で見ている冷たい目をした私の存在だって知ってる。どう動けば人と普通に話せるのか、どう返答すれば私は普通でいられるのか。因子を持つ人だらけのこの場所なら、私は普通になれると思っていたのに! だから私は考えた……。皆が恐れてもいい。距離があったっていい。私はそういう人になろうって決めたの。そのためには演じるしかなかった。自分は『約束』で支配している、そんな女王みたいな人間だから、だから人にどう見られてもいいんだって……そう思われてることをよしとして、自らそれを作っているんだから平気なんだって……そう思い込むしかなかった。申し訳ないって思った。それでも『約束』の因子を持った私が普通でいるためには、『約束』の因子を利用するしかなかった……。嫌なことを解消するために嫌なことをするの。普通でいるために、普通じゃない人間を気取るの。それが私なのよ――」
まくしたてるように言い終えると、彼女は崩れるようにテーブルに伏せた。南後の抱えるものは僕の想像をはるかに超えていた。自分が悲劇の中心にいること騒ぎ立てる女が、テレビや映画の中には度々登場する。初めは彼女もそうなのかと考えた。しかしそれは違った。彼女は悲劇のヒロインを演じている自分も理解しているし、同時にそれを嫌々演じている。社会の中で特化因子を持つことが足かせになるケースは非常に多い。しかし因子に囲まれた場所でもそれが重くのしかかってくる場合、どう逃れればいいのだろう。彼女のように、当たり前の行動を因子のせいで逆に制限される、というのはかなり珍しいのではないだろうか。僕の『予感』にも近いところがある、それが直接他者との交流の中で鈍く自分を縛ることはなかった。
僕らは一言も発せていない。南後の抱えるものの大きさに触れることさえ恐ろしくなってしまっていた。僕らは彼女の言う、優しくしてくれた人達の一人へと成り下がろうとしている。どうにかしなければ、という感情はキャッチコピーのように僕の意識の中で先行していくのみで、事実その内容を僕は何一つ見てはいなかった。
どうすればいい。どうすればいい。どうすれば――。果たしてその先に踏み込む勇気が僕にはあるのだろうか。
「南後」
口を開いたのは純奈だった。
「あんたはどうしたいの」
「あんた……私の話聞いてたわけ?」
きつく睨むその目を純奈は真っ直ぐに見据える。いつかの二人の口論が思い出される。今思えば、あの程度の喧嘩は可愛いものだ。そりが合わない、という理由だけで言い争いができることは、幸せなことではないだろうか。
「聞いてたわよ。その上で聞いてるの。あんたはどうしたいの? 普通になりたいの? 友達が欲しいの? 家族が欲しいの? 本当の自分を取り戻したいの? 私はあんたの悩みには共感できない。当たり前よね。私の因子は『予知』だもの。でもそれはあんたの因子が『予知』じゃないってこと。なにひとつ私のことを理解できる要素をあんたは持ち合わせていないわけ」
「だからって、私の悩みを志堂が理解できないことに変わりはない!」
「そうよ、それよ。それだけよ――」
今度は純奈の番だった。毅然とした態度で南後を見据える純奈は僕からしても恐ろしかった。もしかしたらそれが正しいのかもしれない、純奈は南後のことを被害者として見てはいなかった。
「――それでこの話はお終いよ。私達には聞いてあげることしか出来ない。人と人ってのはそんなもんでしょ。『約束』があったってなくたって。私達には分かり合える限界ってのがある。それ以上はたとえ因子を使ったってどうにかできる問題じゃないわ。それでも悩みを聞いてあげることは出来るし、手助けくらいなら出来る。だから聞いてるのよ――あんたはどうしたいのって」
「わ、私は……」
予想外の純奈の反応に、逆に南後のほうが落ち着きを失っている。
「勿論『予感』の因子のせいであんたが散々悩んだんだろうってのは分かる。でもそれは理解出来たってだけで、決して私の問題になるわけじゃないわ。だからあんたの中の出来事はあんたの中でどうにかしなさいよ。あんたの外側にいる私達に出来ることがあるでしょ……それを教えて」
「――、私、じゃあ、わたしと『約束』出来るの?」
「うん」純奈はさも当たり前といった風に言い返した。
「『約束』だってするわ。あ、握手抜きでね。友達にもなれるし、ショッピングだって付き合うわよ。どうしてもって言うなら寝るまで絵本だって読んであげるわよ」
よくもまぁ……図太いというか気高いというか。生憎この瞬間の純奈を適切に表現できる語句を僕は知らないし、表現するべき姿じゃないのかもしれない。それはただの志堂純奈の姿そのままで、ありのままの彼女はやはり彼女の名前でしか表現できない。
「ほ、ほんとに、え……なんで……」
南後は純奈についていけてなかった。僕も正直驚いている。というより純奈のこの強さは三年前となんら変わらない。彼女も志堂のことと『予知』のことで散々心をえぐられたが、その渦中にあっても純奈の性格は決して変わらなかったし、相変わらず植物を汚いと言い、夕飯よりも朝食を楽しむ純奈そのままだった。
「じゃ、じゃあ……友達になって、志堂!」
「純奈でいいわよ、冴」
君塚なんて額に汗を浮かべていたし、小町は純奈のその手口というか折衝に開いた口がふさがらないようだった。
「あ、あんた、ハート強すぎでしょ」南後が言う。
「鍛えられたからね」
なぜ俺を見る純奈。
「冴はネガティブすぎるわ。もっと遼次を見習いなさい。こいつの卑屈さったらもう、ブラックホールよりどす黒いわよ。今も冴の言葉を聞きながら頭の中で考えて、卑屈な堂々巡りをしてたに違いないわ。嫌なことを最初は俯瞰して見るけど、すぐに諦めて一巡して、仕方ないに落ち着くわ」
南後が奇異なものでも見るような目をこちらに向けてくる。しかし純奈の言い方は酷いが、当たっていないこともないので発言は控えることにした。
今回は純奈の力だけで解決がなされた。それに文句はないが、上手くいきすぎた感も否めない。僕に南後の真意は量りかねるかねるが、彼女の表情に先ほどまでの悲壮感はまるで見て取れず、非常に心地よい晴れ晴れとした顔をしている。小町は僕らに見つけてもらえたことが嬉しかったと言った。彼女にとっての僕らの行動は、探して見つけて話を聞いただけだ。それが小町にとっての希望であり救いだった。純奈の言葉を借りるなら、僕らは本当の意味で南後の心の中まで救いの手を差し伸べることは出来ない。だから彼女の外側でどうにかこうにかやるしかない。その行動が南後自身が自分の内面と戦うきっかけになるのだど。小町に対して僕らの起こした些細な行動は、小町自身が内面と戦う勇気に繋がった。今回の純奈の強さは南後の悲痛な人生の中で大きな転機になったはずだ。南後を普通から遠ざけたただの『約束』に、たいした感慨も抱かずに同意した純奈という存在は、南後の中で衝撃的だったはずだ。
僕らは――とうか純奈は南後の外側にいながら、彼女の内面と対峙したことになる。南後の問題は解決していない。それは彼女が自分で戦うことだ。そのためのバックアップは任せなさい、ということだろうか。さすがだ純奈、あっぱれ。僕は彼女に気づかれないように、その凛とした姿に尊敬と崇拝をこめた視線を送る。
一変してやわらかい空気になった僕達は、この瞬間には今回の南後に関連する事件のもう一方の被害者達のことを完全に忘れていた。おそれく南後自身もそうだろう。だからモノリスのドアがそっと開かれたことにも一切気づかなかった。それに気づいたのはカウンター越しに立っていた店員だけだった。