⑥
目を開けた瞬間、後悔や失意やら、負の感情が全身に広がっていくのを感じた。なぜ僕は目覚ましをかけなかったのか。
読みながら眠りに落ちてしまった。小説は端が折れ、枕に半分を埋めている。
窓からの日差しがうっすらと部屋に入っている。間違いない。今この瞬間は夜明けであり、日の出であり、昨日の僕が純奈に確認した、明朝というやつだ。
ズボンに足を通した瞬間、その冷たさに身体がブルリと震える。四月とは言え、まだこの時間は寒さが残っている。かき集めた服でなんとか身を整え、走るように廊下へと飛び出した。寮の廊下はシンと静まり返っており、自分の足音だけがむなしく響く。足早に通り過ぎると、階段を三段飛ばしで駆け下り、その勢いを残したまま外へと出た。
周囲は青白い靄がかかっており、まだ日は完全に昇っていない。服の裾から入り込む冷気を気にする間もなく、僕は足を動かす行為に集中した。
校舎が見えたところで徐行。スピードを落とすと同時に汗がジワリと身体中に広がった。音楽室の位置を頭の中で反芻していると、不意に自分の中である考えが芽生えた。閉ざされた校舎の扉をじっと見据える。これは状況的に見て大きな失態だ。そう、僕は校舎に入る手段を何一つ持ち合わせてはいなかった。
その意識が僕の脳内を占めたとき、身体には別の種類の汗が流れ始めていた。ふと君塚の存在が頭を掠めたが、取って返していては間に合わない。彼への連絡ならば昨日のうちに出来たはずだ。それでも電話ひとつ入れなかったというのは、それこそが昨日の僕の決心だということだ。これは僕がひとりで乗り越えるべき問題だ。
周囲に人影が無いことを確認し、覚悟を決める。全身を弛緩させ、自分の感覚に全てを委ねる。背筋が冷たくなるような感覚を覚える。対照的に頭がぼうっと熱くなる。指先から足先まで、全てが自分の支配下にあるのだ、という意識が強く芽生える。指に触れる空気さえも、足裏に感じる地面の硬ささえも。周囲を巻き込んだ一体感にますます頭が熱くなる。目に映る景色が現実味を失いつつある。全ての感覚を遠く、夢のように感じる中で、確かに近づいてくるものがあった。それは形こそないが、僕にとっては信じるに足るべき存在であり、この場合は僕が向かうべき未来へと通ずる『予感』だった。
次の瞬間、僕の体は跳ねるように動き出していた。体は引っ張られるように一つの方向を目指して走る。気づくと汗への嫌悪感も冷気も感じない。今の僕が感じているのはただ一つ、僕自身の特化因子『予感』だけ。体が止まったのは校舎の裏側に近い中庭だった。教室とは逆にある棟。この一角に音楽室もある。
『予感』が引き出した答えを信じるしか今の僕に選択肢はない。目の前にある小窓を軽く横に引いてみると、何の抵抗も無く開いた。先日閉め忘れたものだろう。肘を上手く使い、何とか侵入することに成功した。タイル張りな小奇麗な空間に個室が五、六見える。一目で女子トイレと判断し、慌てて廊下に出る。
うっすらと日の光で照らされた廊下を、非常灯が申し訳程度に色づけている。目を凝らし自分の現在位置を確認すると、音楽室に向けて僕は歩き始めた。廊下の突き当たりを折れ、階段へと足をかける。数歩進んだところで、僕はその異常さにようやく気がついた。
思い返すと恐ろしかった。おそらく階段の一段目辺りからだろう。自分の足音が全くしない。ただでさえ静かなこの場所だ、気づくのに一瞬遅れてしまった。
「―――――、――」
試しに声を張り上げてみたが、まるで耳に届かない。もう一度試しても、喉に痛みを残すのみで変化は起きなかった。掌を打ちつけ、足で床を叩いても、それは同じことだった。全くの無音。静寂と無音にこうも差があるのかと僕は思った。静寂の中にも音は存在する。感知はせずとも耳は音を拾い、その機能は継続される。しかし無音とはどうだろう。耳に入る音が一切無いというのは非常に不愉快だった。機能をしない耳のあたりに妙な違和感を覚える。それは歯医者で麻酔を打たれた後に残る感覚に似ている気がした。そこには確かにあるはずなのに、僕は自分の耳へと手を伸ばさずにはいられなかった。
しかしそれはあくまで現象に過ぎない。急な雨に降られるようなもので、抵抗こそあれ、恐れ立ち止まるものではない。自分に強く言い聞かせ、僕は歩みを再開した。
ふと疑問に感じたことが一つある。はたしてこの無音を司る当人にも等しく沈黙は訪れているのだろうか。特化因子には個々に一定のルールはあるが、それ以上に例外も多い。もし本人が音を拾えるのならば、僕の足音や息遣いも聞こえてしまうことになる。僕が見つけるよりも先に相手に僕の姿を見られたならば、彼女は驚き逃げてしまうだろう。しかし、彼女の驚き出した声も、走り去る音も僕には届きようが無いのだ。更なる慎重さが求められてくる。
音楽室が見えた辺りから、僕の緊張感はピークを迎えつつあった。一足一足に気を配り進んでいく。いくら気をつけたところで、ひたすらに無音の中では僕の慎重さが功を奏しているか確認することもできない。
長い時間をかけてやっと音楽室のドアの前まで来た。横開きのドアの奥にさらに二つのドアが見て取れる。一見したところ、二つのドアはそれぞれ音楽室と楽器などを置く準備室へとつながっているようだ。一つ目のドアは防音の役目を果たしているのだろう。
慎重にドアを開け、残りの二つのドアを確認する。それぞれについた小窓から中を確認するが、それらしき人影は見えない。どちらのドアを開けるか、これが成否を分けることは目に見えていた。逃げられてしまえば、それこそ無音の中で追うことはまず難しいだろう。
この場所で当人が出てくるのを待つ、という選択肢もあったが、念のためどちらの部屋にいるのかを知っておくべきだという考えに至った。
少しだけ、少しだけでいい。近くに人がいるという事実に抵抗があった僕は、可能な限り小さな『予感』を引き出そうと努めた。再び頭が熱くなる感覚に身を委ねると、自然と音楽室側のドアへと手が伸びた。
これでいい、と感じたのも束の間、僕の因子はさらに先の『予感』を引き当てた。
下ろしかけていた手は無意識に再び伸び、ドアは開かれた。躊躇せずに中へと入る。それらの動作の中に、僕なりの抵抗がなかったわけではない。しかし、感じた『予感』は既に使命感のようなものに変わっていた。
周囲にはやはり人影が見えない。特化因子は依然その役目を果たしているのか、僕の体はプログラムされているように迷い無く進む。その先には大きなエレクトーンがあった。その前まで進むと頭の火照りは急に消し飛んだ。ここまで来たら迷ってなどいられない。思い切ってエレクトーンの後ろを覗き込んだ。
そこには純奈の言った通り一人の女の子がいた。そして純奈の言った通り、彼女は泣いていた。身体を精一杯に丸め、体育座りの格好をとっていた。
彼女は僕の存在に気づくと、目を大きく開いた。次いで口も開かれた。
悲鳴を上げる――、そう思った僕の予想は裏切られた。彼女は機敏な動作で立ち上がると、思い切り僕にぶつかってきた。しかしその動きは僕から逃げるためのものではなかった。ぶつかると同時に彼女は僕の背中に腕を回し、強く抱きしめてきた。僕はあっけにとられつつも、反射的に彼女を抱きしめてしまった。身長に大きな差があるからか、彼女との抱擁は親子のそれに近いように思われた。
瞬間、周囲に音が戻った。彼女の高い泣き声が耳を衝く。
目に入った瞬間の彼女はすすり泣いているように見えたが、今は安心した子供のようにわんわんと泣いている。
無意識にドアを開けてからここまでの一連の僕の行動はおそらく因子に左右されていた。しかし今回を機に僕は認識を多少改めなければならない。自分の良い『予感』のために周囲の運命を捻じ曲げてしまうと確信していた僕の特化因子。人のためには使えない、と決めていた僕の『予感』は、泣いている彼女のために正しい結果を導き出したようだ。
「落ち着いた?」
僕の問いかけに彼女は「はい」と弱弱しく答えた。
泣きやんだ彼女を連れて審問委員会の会室に着いたころには日はとうに昇っていた。
促されるまま椅子へと腰掛けた彼女は、落ち着かなそうにキョロキョロしている。ケトルのカチッという湯が沸いた音にも反応するほど、彼女は怯えているようだった。
「コーヒーと紅茶どっちがいい?」
「あ、すいません。紅茶で」
カップを用意している僕は背中に強い視線を感じていた。振り向くと、彼女はあからさまに視線を逸らした。
「僕は五回生の卯月遼次。君は?」
「……私も五回生の……瀬尾小町です」
彼女の返答を聞き、つい「え?」と大きな声を上げてしまった。
「! な、なんですか!」
体の前で両手を交差させる彼女は見るからに怯えていた。
別に驚かすつもりなどなかった。ただ、同学年という認識がハナからなかった僕にとっては衝撃だった。
彼女――瀬尾小町の身長はおそらく百五十あるかないかだろう。きっちりと揃えられた前髪から覗く瞳は依然ウルウルと湿っており、小動物のような印象を僕に持たせた。初めて目にした彼女の顔が泣き顔というのも、僕に彼女が年下だという先入観を与えた理由だろう。
「同学年、なんだね」
「はい……よく言われます」
瀬尾はがっくりとうなだれてしまった。
湯を入れたカップを彼女に渡すと、僕は彼女と向き合う位置に座った。一口飲むと、急に体に倦怠感が襲ってきた。二口目をすすり、どう話を切り出そうかと逡巡していると、先に彼女が口を開いた。
「先ほどは、すいませんでした……」
「びっくりしたけど、うん……いや、いいんだ」
別段気にしていなかった抱擁の件は、彼女が同学年だと知ると、とてもやましいものに感じられた。
「どうして泣いてたの?」
「それは……」
瀬尾は口を噤むと下を向いてしまった。
さっきの今じゃ、なかなか話しづらいだろう。泣いている姿を見られるだけでもなかなかに恥ずかしいのだ、ましてその理由を会ったばかりの人間に話すのは難しいだろう。せめて自分が女の子なら……。
そう思った瞬間、会室の扉が勢いよく開け放たれた。僕は反射的に上ずった声を上げ、瀬尾も「きゃっ」と小さな悲鳴のようなものを上げた。
そこには純奈と君塚が立っていた。見たところ純奈は寝巻きのまま飛び出してきたようだ。君塚は制服こそ着ているが、寝癖がちらほらと見える。状況から察するに純奈に無理やりに起こされたのだろう。
「あ、あの……」
瀬尾が助けを求めるような目をこちらに向けてくる。それに応えるため僕が口を開こうとすると、
「遼次!」
という怒声が純奈の口から放たれた。
聞き返す暇もなく、純奈はつかつかとこちらに歩いてくる。
「『予感』を……使った?」
純奈に『予知』を使わせてしまった落ち目から、僕は嘘をつけなかった。素直に「うん」と言うと。純奈は深いため息をついた。心配してたのだろう。しかし僕は純奈のこの態度に苛立ちを感じてしまった。
「純奈こそ、なんで相談もなく『予知』を使ったんだ」
つい強い口調になってしまう。
「相談したら、絶対止めるでしょ。一刻も早く見つけて助けたかったの」
そう言って純奈は瀬尾に視線を移す。彼女の言い分は否定できない。しかし助けたいという気持ちのもとで僕もまた『予感』を使ったのだ。僕だけが否定されるのは釈然としない。
「僕だって一刻も早く助けたかった。だから『予感』を使った。純奈と同じだ。なにが悪いんだよ」
「じゃあ……遼次。なんで私からの電話のこと、君塚に言わなかったの?」
そう言われるとこは分かっていた。校舎へはいるのも、音楽室の二つのドアも、君塚がいれば解決できた問題なのだ。しかし僕はあえてそうしなかった。
「僕は証明したかった」
言い訳にも似た言葉が、自然と口からこぼれる。
「変わらなきゃって思ったんだ。純奈は言った。遼次は変わらないって」
「それは――」
「分かってる」
純奈の言葉を遮り、僕は続けた。
「純奈が悪い意味で言ったわけじゃないってことも、分かってるよ。それでも悔しかった。取り残された気分だった」
自分だけが三年前に立ち続けている気がする。何も変わらず、何も変えられず。
「漠然とだけど、審問会の活動は僕を変えてくれる気がした。誰かのためになってるって感覚がそこにはあった。だけど純奈が因子を使ったとき、僕は正直追いつけないって思った。あれほど因子に悩まされた純奈が、因子を使う決断をこうも早く決めるなんて。僕は考えもしなかった」
三年前で止まっている僕には、到底思いつかなかった。自分が苦しむと分かっていても、誰かのためになるならと。そんな意識は僕の中には無かった。
「僕はこれをチャンスだと思ったんだ」
心の中で瀬尾に対する謝罪を入れる。当の瀬尾は話についてこられないからか、僕と純奈の間で視線を行ったり来たりさせている。
「『予感』の有用性ですか?」
不意に入れられた君塚の横槍に僕は頷く。そうだ、姉さんが示した有用性。今度は僕が示す。僕のために。そしていずれは誰かのために。
「でも……!」
「お嬢様」
納得できない純奈を君塚が制した。以前の二人の関係ならば、きっとこんなことは起こりえなかっただろう。
「なによ、君塚。私だってただ怒りたくて怒ってるわけじゃないの。遼次を呼んだのは私なのよ。遼次が変わることには勿論賛成、でもそれで遼次が苦しむのなら、それは私に責任がある」
「責任なんて……。関係ない、僕の意思だ」
「『予知』だって私の意志よ。それに――」
「お二人とも!」
先ほどより語気荒く、再び君塚が会話を止めに入った。
「聞いてください。お二人とも、自らの覚悟のもとに因子を使ったはずです。それは個人の責任であって、他人がとやかく言うことではありません。第一誰かを守るために使ったはずです。お互いの心配は無用だと僕は思います。それに――」
君塚はすうっと片手を挙げ、人差し指を向けた。そこには再び瞳を濡らしつつあった瀬尾小町の姿があった。
「お二人の特化因子は見事に一人の女性を救いました」
僕は純奈と目を合わせた。謝ろうかと思ったが、それもまた違う気がした。純奈も同じ考えのようだ。
救った――。君塚の言葉に僕は改めて胸をなでおろした。
純奈は瀬尾を見据えると、「良かった」と小さく口にした。
君塚が知り、純奈が探し、僕が見つけた。
それぞれが役割を果たしたのだ。改めて目の前にいる瀬尾の存在が、僕らに安堵と充足感を与えた。
「皆さん、お飲み物は? そちらも入れなおしますよ」
落ち着いたところで、君塚が言った。瀬尾も「紅茶を」と小声で言い、カップを君塚に差し出した。
「瀬尾小町さんだよね? ごめんね、慌しくて。私は志堂純奈、あっちは君塚ね」
そう言って純奈は右手を差し出した。
「は、はい」
瀬尾はなぜ自分の名前を知っているのか疑問だったようだが、すぐに右手をだし純奈と握手を交わした。
「この際だから言うけど私の因子は『予知』よ。ごめんね。あなたの出席状況を見させてもらったの。不自然なくらい綺麗に一週間も休んでるから、もしやと思って、あなたの未来をちょっと見させてもらったの」
「そうだったんですか……。ここ、審問委員会ですよね。やっぱり、私……」
「うん。あなたの因子が噂になってて。ひょっとして、丁度一週間くらい前に因子が発現した?」
純奈の言葉に瀬尾は目を見開いた。
「迷惑……かけてしまったんですね……」
「別に取って食おうってわけじゃないわ。ただ、私達も因子を持ってる身として、あなたの気持ちには共通するものが多いはず。だから、手助けできればと思って……。迷惑だったら、ごめんなさい」
純奈が頭を下げると、「いやっ」と瀬尾は手で制した。
「こちらこそ……ありがとうございます」
瀬尾は深々と頭を下げると、ことの顛末について話し始めた。
「私の因子……『沈黙』が発現したのは、小さい頃なんです。私には妹がいて、でも特異点が見つかったのは私だけでした。それでも家族は私を一員として見てくれた。勿論発現した後も……」
瀬尾は君塚から貰ったカップへと視線を落とした。全員にカップを渡した彼は瀬尾の横に座った。
「私がいけないんです。家族は私をしっかり見てくれた。それでも毎晩毎晩不安で、次の日の朝には家族が私を置いて遠くに行っちゃうんじゃないかって、とても不安でした。だから私、自分から家を出ることにしたんです」
純奈が姿勢を正すのを横で感じた。
「色々調べるうちに玲瓏を見つけました。寮なら毎晩家族への引け目を感じる必要もないかなって……。バカだったんです私が。それでも頑張ってみようって、一年間我慢して、友達もできたし、それなりに楽しいこともあって。そうです、一週間くらい前です。新学期も始まって、私は自分は成長したぞって、新しいスタートだぞって、妹に近況報告も兼ねて連絡するつもりでした。でも……、電話繋がらなくて。なんかの間違いだと思って学園側に聞いたら、学費とか生活費は全て預かってますって。学園側も番号は知らないって言われて……私、私」
瀬尾の涙が、カップへと落ちた。君塚は目を瞑り、考えをめぐらせているようだった。
僕と姉さんも親に捨てられたのだ。僕は姉さんがいたおかげで家族を身近に感じることが出来たが、彼女は本当に一人きりになってしまった。その悲しみは、姉さんを失った三月の末に僕が抱いた気持ちと一緒だろうか。
隣にいる純奈がぎゅっと拳を握った。
「その日から、因子、止まらなくって……。一人になりたかったんです。どうせ聞こえないなら、思いっきり泣き叫んでやろうと思ったんです。でも、それ以上に、見つけてほしかった……。誰かに私の声を聞いてほしかったんです。だから嬉しかったんです――遼次さん」
瀬尾が泣きはらした目をこちらに向けてきた。涙は依然流れ、僕は思わず目を逸らしそうになった。
「見つけられて本当に良かった」
立ち上がった純奈は瀬尾の横に立つと、「小町」と彼女を呼び、腕を広げた。瀬尾は純奈の意図に気づいてか、一層目に涙を浮かべると、思い切り純奈の胸に飛びついた。
純奈の胸の中で子供のように泣く瀬尾。こうなってしまうと僕に出来ることは何もない。斜め向かい側に座る君塚も同じ心境なのか、自然と僕らは目があった。
「ありがとうございます。志堂さん」
「純奈でいいよ、小町」
瀬尾は純奈の一言一言に涙を流し、嗚咽を上げた。久しぶりの温もりというやつに、長い間保ってきた緊張の糸が解けたのだろう。
「あぁー、制服がべちょべちょだよー」
「ご、ごめんなさい」
そう謝ってから再び純奈の胸へと顔を埋める瀬尾は、印象通り小動物そのものだった。しばらくそうしていた瀬尾はふいに顔を上げ、こちらを見やった。
「遼次さんも、制服すいません……」
すっかり忘れていた。
「もう乾いたよ」
先ほど瀬尾に濡らされた制服はすでに綺麗さっぱり乾いていた。指先で擦っても湿り気は一切無い。純奈のように鼻水までつけられてしまったらこうはいかなかっただろう。
「遼次」
「ん?」
「な、なんであんたも制服濡れてるの?」
「あぁ、だって――」
意識せずに見た純奈の顔は強張り、不自然な笑みを浮かべていた。因子を使わなくても分かる。悪い予感が周囲を渦巻いていた。
瀬尾はそんな純奈の表情など気づかず、泣き腫らした目でこちらを見やると、微笑を浮かべた。
「遼次さんも君塚さんもありがとうございます」
「いえ、僕は」
君塚は横目で僕を気にしながら、軽く応答する。純奈の視線はますます強くなったが、瀬尾の手前感情を上手く出せずにいるようだ。純奈のぎこちない笑いは徐々に丸みを帯び、どこか達観したような、アルカイックスマイルに似た笑みを最終的には浮かべていた。
「あの、ずうずうしいかも知れないですけど、お願いがあるんです」
瀬尾の言葉に純奈のへたくそな笑みはすうっと消えた。僕と君塚も自然と真剣な表情になる。
「私も、審問委員会に入れてはくれないでしょうか」
そう言うと、瀬尾は再度「お願いします」と言い頭を下げた。
僕には反対する理由がなかったが、純奈はそうではないらしい。指先で唇をなぞり、うーんと考え始めた。
「ダメ、でしょうか……役に立たないですよね、私じゃ……」
「そんなことはないのよ。ただ、小町の抱えているものが全て無くなったわけじゃないでしょ? そんな早く決断していいのかと心配になったのよ。それに審問会にいるってことは自分と似たように因子に悩まされている人に多く出会うことになるし……それに耐えられる?」
純奈の言い方はきついように感じたが、当然瀬尾を思ってのことだろう。審問会の人数が増えることは会長の純奈が一番嬉しいはずだ。その感情を押し殺してまで小町を説得するということは、それほど彼女を心配しているという風にもとれる。
「大丈夫……とは自信を持って言えません。でも……」
最後の方は小声でほとんど聞き取れなかった。純奈もそうだったらしく、首を少し傾けて促す。
「あの……えと、純奈さん達と一緒にいたいんです」
そう言うと瀬尾は掌で顔を多い、ぷるぷると震えだした。彼女にとって今のは一世一代の大告白だったらしい。隙間から覗く耳が真っ赤に染まっている。
「小町……おまえ可愛いな」
本来僕か君塚が言うべきであろう台詞は純奈に奪われた。彼女は瀬尾をもう一度ぎゅっと抱きしめ、
「ようこそ審問会へ」
と言った。
「! ありがとうございます!」
瀬尾も精一杯の笑顔と感謝でそれに答えた。