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君塚は今までどおり、純奈は僕に気を使って、しばらく黙っていてくれた。正直人前で泣くのは思っている以上に恥ずかしく、二人の配慮はとても嬉しかった。

「遼次はやっぱり変わらないよ」

 自然な振る舞いで僕の隣の椅子に腰を下ろした純奈は、落ち着いた僕にはそう声をかけた。

「やっぱり変わらないかな」

 涙でぐずついた鼻を擦りながら、僕は答えた。

「うん。良い意味でよ。でも、その卑屈さは直すべきだと思うよ」

「やっぱり?」

 短いやり取りに、二人して笑った。

 僕らの会話を無視するかのように、君塚は依然無表情で壁際に突っ立っていた。

「君塚のことは気にしなくていいから」

 僕の心を見透かすように彼女は言った。

「本来なら必要ないんだけどね。やっぱり、志堂とのなんらかのパイプを残す必要があったから」

 志堂の話をする時、純奈は決まって罰の悪そうな表情を浮かべる。その点については二年前とやはり変わらない。

「さっそく本題に入りましょ」

 彼女は憂いのある表情を振り払い、僕をしっかりと見つめた。

「こっちから説明するよりも、遼次の質問に答える形のほうが話が進めやすいと思うの」

「じゃあ、まずは僕が呼ばれた理由。姉さんの死と、示してくれた道。それに動かされて僕はここにいるけど、純奈が呼んでいる、と大尉は言っていた。その理由を聞きたい」

 黄昏はなおも校舎を包み、室内はオレンジ色に染め上げられている。四月の澄んだ空気は、この状況にふさわしいように感じた。全てを始めるに、ふさわしい月だ。

「残念ながら響子さんの死を『予知』することは出来なかった。知っての通り、私の『予知』は意識的に向けた事柄にしか反応できない。響子さんの死なんて想像もしなかった」

 僕は胸が締め付けられるような思いになった。誰もが想像しなかった卯月響子の死。ひょっとしたら、世界単位でのイレギュラーかもしれない。

「君塚を通して私にも響子さんの凶報は届いたけど、もちろん私に出来ることなんて何もない。でも遼次にしてあげられることはある。だからこそあんたは玲瓏に来るべきだと、私は思った。今度は君塚を通して私の方からそっちにコンタクトを取ったわけ。響子さんが玲瓏に行くような、遺言めいたものを残しているとは思いもしなかったけどね」

 そこまではなんとなく分かる。知りたいのはその先。

「僕の力を借りたい。大尉は純奈のメッセージをそう僕に伝えたよ」

 純奈は姿勢を正す。その緊張感が僕にまで伝播する。

「今、この学園は混迷期を迎えつつある。出来てまもない玲瓏学園に混迷期もなにもないけど、分かるでしょ? 遼次、ここの学生は皆普通じゃない」

「特化因子……」

「そう。特化因子の保持の有無は、医療機関で審査できる。今では国民の義務に近い。けど問題はその先、因子の発現にある」

 特化因子にはある種の能力に近いものが付きまとう。しかしそれらは皆が使えるわけではない。因子の二次的能力が使用できる年齢というのは、各人様々なのだ。もちろん、幼少期から使える者もいれば、生涯を通してその使用が出来ない者もいる。ただ遺伝子上の特異点があるのみで、特化因子を持っているだけでは一般的な人間となんら差異は無いのだ。

「この学園に在籍中に発現してしまうケースがある。特化因子の発現には精神的な障害も大きい。その大半が、自分自身が人間と異なるのだという再認識。自分の異常性からくるパニック障害ね」

 僕はまだ自己意識の薄い頃に特化因子を発現したのだと、姉さんが言っていたのを思い出した。

「パニックってのはやはりひどいのか」

「――自殺も少なくない。幸運にもこの学園でそこまでの状態に陥った人はいないけど……」

 悩ましく視線を天井に向けながら、純奈は答えた。

「でもここには医療施設や、併設された研究機関もあるんだろ」

「それこそが問題なの。あまりにひどい状態になると学園生活が送れなくなり、何らかの診断を受けた後、正式に研究機関の預かりになってしまう。そうなった人らは例外なく、回復を望むため本格的な治療と研究を受ける。そうなってしまうとこちらが学園に戻るように強制はまずできない」

 玲瓏の孕む、体のいい実験場の本質を垣間見た気がした。自然と悪寒がし、ひどい嫌悪感に包まれる。

 もしかするでもなく、自分はやはりとんでもないところに来てしまったのではないだろうか。

「姉さんは、因子が発現した時、別になんとも無かったと言ってたよ」

「全ての人が響子さんのように強くはない。ま、あっさりと受け入れる響子さんの姿勢が正しいとも言えないけどね」

 僕自身、もう少し意識のはっきりした年齢になってから発現を経験していた可能性もあるのだ。ただの夜泣きで済んだのなら幸運と言えるだろう。

「純奈はどうだったの?」

 僕は興味本位で聞いてみた。

「私は――いや、ごめん。言いたくない」

 少し赤くなった彼女の表情から察するに、あまり口外したくない状態に陥ったのだろう。

 それに純奈の抱える問題は、発現後が大半を占めるだろう。『予知』という希少な特化因子を発現した彼女は、実の父を含めた志堂グループの戦略に利用される羽目になり、結果的に姉さんやその組織を頼ることとなった。事が片付く間、純奈の居場所としてあてがわれたのが他でもない僕と姉さんの家だった。裏で大きなやり取りが幾度となく繰り返されたらしいが、僕自身の知るところではなかった。当事者である純奈には申し訳ないが、僕にとっては友人が増えたにすぎず、ことさら嫌な事件では無かった。

「そこでお願いがあるの。私の作った委員会に遼次も加入してほしい」

 組織や企業といった言葉に考えをめぐらせていた僕にとって、委員会という言う言葉はとても小さく、些細なことのように感じられた。

 しかし純奈自身からは、このことに全身全霊をかけていると言わんばかりの想いが伝わってきた。彼女の姿勢から察するに、もちろんこれこそが本題中の本題だろう。

「いったいどんな」

「審問委員会よ」

「聞いたことが無い」

「当たり前よ」と前置きしてから、「私が作った」と純奈は自信有り気に言った。

「主に因子の発現に伴う事件や問題に対しての、解決や後処理などを行うの。今の所、私と君塚しかいないけどね」

「申請とかあるんじゃないか?」

「私は志堂純奈よ」

 志堂という言葉に皮肉たっぷりの語感を忍ばせ、純奈は椅子にふんぞり返った。

「最初はね――」

 そして急に寂しそうな表情を浮かべて、独白めいたものを口にし始めた。

「最初はもっと大々的にやるつもりだったの。私は特化因子のことで随分と振り回されて悩まされた。偶然志堂の家に生まれたかもしれないけど、特化因子に悩まされるのを仕方ないって言葉で終わらせたくないの。だから研究機関に対抗して、学生だけで相互的に解決できる状態を作りたかった。同じ立場ならお互いやりやすいしね……、でもやっぱり難しかった。ここの学生は悩みを一心不乱に自分の奥に封じ込めてる。だからみんなどこか余所余所しくて、お互いのこと気にかけているようで、みんな自分のことで精一杯。だから――」

 純奈は射抜くような視線を僕に向けた。

「力を貸して遼次、お願い」

 再び、室内を沈黙が満たした。ピタリと留まった純奈の視線から、確かな意思と決意が伺える。

 二年前、無関係な僕の前で不満一つ漏らさなかった純奈が、僕を頼ってくれている。今度こそ僕は当事者なのだと、強く実感した。

 しかし良いのだろうか。いつだって決断を人に預けてきた僕にとって、これは初めてに近い選択だ。きっと、間違いなくこの選択の後大きな変化が僕を襲うことになるだろう。

 僕の因子は、頼るなとばかりに落ち着き払って傍観を決め込んでいるようだった。良い『予感』でも、悪い『予感』でもない。いや、どちらも伴うからこそのこの感覚。これを信じなくては、僕はこの先きっと何も決めることが出来ないだろう。

「――僕でよければ」

 臆病な卑屈にだけは成り下がりたくなかった。そんな逃避に近い感情だが、僕にとっては大きな決断だ。

 僕の返事に対し、純奈は最高の笑顔を返してきた。

「やっぱり、頼ってよかった。ありがとう」

「こちらこそ。でも、僕が具体的に何か出来るとは思えないよ」

「いいの――」

 純奈はそう静かに前置きをすると、

「遼次、あなたがいることに意味がある」

 と言葉を結んだ。



 具体的な話はまた明日にしよう――。

 純奈にそう言われ、僕らは校舎を後にした。学園を染めたオレンジ色はいよいよ弱まり、夜が生み出す深い青が、人気の無い校舎を包み始めていた。

「とりあえず今日は解散。明日の放課後は必ず会室に来ること、いい?」

「おう」

「ここからの案内は君塚に頼むから、それじゃ」

 そう告げて、純奈はスタスタと歩き去ってしまった。

「男子寮はこちらです」

 君塚の言葉を合図に、僕らは再び二人で歩き始めた。

 君塚は相も変わらず無口だったが、純奈の執事のようなもの、という僕の中での再認識が気まずさを紛らわせた。

 ふと、君塚が足を止めて僕の方を振り向いた。

「正直なとこ、僕は反対でした」

 唐突な内容よりも、君塚が進んで必要以上のことを話し始める様に、僕は驚いてしまった。

「……何が?」

「あなたをこの学園に招くこと、そして審問委員会に勧誘することが、です」

 表情こそ変わらないが、君塚の言葉から察するに、あまり良い感情は抱いていないようだ。唐突に現れた僕に対し、彼が不信感を抱くのは分かるが、ここまでハッキリと否定的な言葉を投げられるとは想像できなかった。

「僕がいることで、何かまずいことでもあるの?」

「大有りです」

 やんわりと話を進める気だったが、君塚はそうではないらしい。口調こそ穏やかだが、やけに攻撃的な話し方だ。

「お嬢様に言われ、あなたを玲瓏に迎える準備をしたのは僕です。当然、卯月遼次という人物について調べました。志堂の力を持ってしてもだいぶ苦労しました。まるで、あなた自身を誰かが世間から隠しているようで」

「多分姉さんのせいかな……。親元を離れてから今の今まで、学校にも通わずにずっと二人で暮らしてたから」

 僕自身、隠されているという認識はなかったけれど、現実的には、因子持ちへの世間からの目は冷たい。大半は因子持ちだけを集めた機関や施設に所属している。それを踏まえると僕は、随分とイレギュラーなのかもしれない。

「あなたの因子は『予感』ですよね」

「うん、そうだよ」

 姉さん曰く、「かなり珍しく、かなり使えない」因子らしい。そのくせ弊害も多く、日常的に使う機会は無い。姉さんとの生活の中で上手く利用できるシーンを見付け、コントロールする術を学んだものの、僕自身そのシーンにはあまり遭遇したくない。

「今、どんな『予感』を感じますか? あなた自身ここに来る際に感じたのは、良い予感ですか? それとも――」

「普段は因子を使うことなんてめったに無いから、分からないよ」

「ですよね。良い『予感』は、あくまでもあなたにとっての良い『予感』ですからね」

 君塚は睨みつけるような目で僕を見据え、言い放った。

 そう、それこそが『予感』の弊害であり、姉さんが使えないと言った理由。

「卯月遼次という人間が良いと感じた『予感』にしたがって行動する際、周囲の人間は少なからず運命を強制的に変えられてしまう。そうですよね?」

 思い出す、姉さんの言葉を。君塚の台詞は姉さんのそれと全く同じだった。僕は記憶を手繰り寄せなながら、姉さんの言葉を君塚の後に続ける。

「その通りだよ。人間はコンピューターじゃないからね。全ての行動に徹底した理念や理屈は存在しない。でも無意識に行われる人の行動も、連続的な選択なんだ。選べば、変わる。それが自分の選択じゃないにしろ、誰かが日々選び続けることで人生は紡がれていく。だから――」

 だから――僕は自分の因子が知覚する『予感』に関わりたくないのだ。

 道中、たまたま右側を歩いた人間がいたとしよう。彼を避けるため左に切ったハンドルのせいで、誰かの一生に幕を降ろす羽目になる。でも、それは運命でありタイミングだと、その様子を見ていた全ての人が言うだろう。運が悪かったのだと。しかし僕は違う。自分に都合が良い道を知っている。轢かれる側にも、ハンドルを握る側にも立たなくて済む動き方を知っている。これが僕が因子を使わない理由。それが運命だとしても、僕にどんな幸福が訪れるか分からなかったとしても、『予感』にそって行動した僕の周囲で不幸が起こったら、僕はきっと自分を憎まずにはいられない。

「遼次さん、あなたに罪はないと分かっています。でも因子を使わなかったとしても、あなたが玲瓏に来ることでお嬢さんになにかがあったとしたら、僕はあなたを恨みます。あなたにとっては理不尽極まりない言われようだと思いますが、それが特化因子を持つということだと思います」

 それは分かる。その気持ちも。

 僕は姉さんみたいに上手くはできない。姉さんは特化因子も一つの才能って言ったけれど、僕にとってのそれはただの足枷でしかない。変化を求めていたのは事実、変化から逃げてきたのも事実。君塚の言葉に反論できる言葉や術を、今の僕は何一つ持ち合わせてはいない。

「それでもお嬢様はあなたに賭けたんです。あなたの『予感』ではなく、卯月遼次という友人がお嬢様にとってどれほどの存在なのか、お二人を見ていれば痛いほど分かります。しばらくの間は、お嬢様の判断を信じてみます」

 そう言い終わると君塚はまた黙ってしまった。その態度からこれ以上話すことは無いのだと理解した。一方的な展開に僕の心は大分揺さぶられたが、当面は様子見という形を貫く、ということだろうか。

 君塚の言い様は少し腹立たしかったが、彼の言葉の正しさは嫌というほど伝わった。僕自身、改めて自分の甘さに気づくこともできた。

「頑張るよ」

 そう返すことが僕の中での精一杯だった。ますます君塚の怒りを買う結果になろうとも、今の僕には純粋な気持ちを素直に伝えることしか出来ない。

「頑張って、自分の役割を見付ける」

 それが姉さんや純奈、勿論君塚への、僕なりの証明になるのではないだろうか。

「分かりました。最後まで、責任を持って見定めさせてもらいます」

 話し始めた時とは打って変わって、君塚は優しい表情を浮かべ、僕の言葉に答えた。

「すいません、時間を取らせてしまって。どうしても伝えておきたかったんです。行きましょうか」

 ハッキリとした言葉にこそ出さないが、君塚なりに僕の存在への納得はしてくれたようだ。

 それにしても、君塚の純奈への忠誠心は余程大きいようだ。

「純奈にはいつから仕えてるの?」

「遼次さんの所から戻られてからです」

「どういった経緯で?」

「志堂へ戻ったお嬢様は、すぐに旦那様と玲瓏に関する話を進めました。当然お嬢様自身も玲瓏に行くことになるので、お嬢様と年の近い、かつある程度の腕が立つ者ということで僕に白羽の矢が立ちました」

 仕えるという行動がいささか僕には理解出来なかった。優良な企業や有名な人の下で働くこととはどこか違う気がする。認められることはあっても、対等になることは決してない。あくまで影としてサポートし続ける。僕には到底出来そうもない。こんなこと、君塚には言えないけれど。

「お嬢様の向いている先が前なのです。お嬢様の言葉が真実であり、その行動を支えることが僕の証明なんです。だから、あなたに今しばらく猶予を与えると言ったんです」

 忠誠を通り越して、これはもう崇拝に近いかもしれないと僕は思った。

 そして、ふと浮かんだ何気ない疑問をぶつけてみることにした。

「好きなの?」

 振り返った君塚の目が大きく見開かれる。顔が見る見るゆがみを増していく。そして、

「はぁぁ!? な、何を言ってるんですか!? 何でそんなこと言うんですか!?」

 羞恥とも憤怒ともつかぬ表情を浮かべる君塚。冷静さと寡黙さは吹き飛び、動揺を身体全体で表現している。僕の小さな疑問は、君塚にとっての大きな真実だったようだ。

「ごめん、気になって……」

「仕えてるんです! そんな感情は微塵もありません!」

 しかしここまであからさまに動揺するとは。同時に慌てる君塚は新鮮で面白くもあった。

「やっぱりあなたは見定めるどころじゃすみません! 監視が必要です!」

「だからごめんって、二度と言わないからさ」

 息も絶え絶えな君塚。彼にとってその感情はタブーであり、不可侵な領域らしい。

「ふぅ……。本当に、いい加減にしてください」

 慣れないオーバーリアクションに疲弊したのか、君塚は無理やりに落ち着きを取り戻した。彼のこんな姿は、かなり珍しいのではないだろうか。きっと純奈でも目にしたことはないだろう。

 自分だけが見た彼の姿は、彼の気持ちとともに自分の中だけにそっとしまっておこう。その決心を覚えているうちに、話題も逸らそう。

「しかし、玲瓏をつくるにあたって、よくもそんな上手く事が進んだね」

「……えぇ。旦那様自身お嬢様よりも、どちらかというと卯月響子さんに諭された部分が大きいようです」

 不自然な話題転換に気づいた君塚は横目で僕を見やったが、彼自身のためにもそれが正しいことだと気づいているはずだ。

 しかしまぁ……なるほどね。僕の知らない所でそこまでしていましたか、姉さん。

「確かに姉さんに直接諭されたら、容易にノーとは言いづらいな」

「僕はお会いしたことがないので。怖い方なのですか?」

「怖いというより……」

 実際怖くはない。ただ、逆らう理由を見失ってしまう。自分の意見の正当性を説く前に、彼女の意見に惹かれてしまう。そんな魅力が姉さんにはあったと思う。

「高潔、完璧って言葉が生命を持ったら、多分あんな人になる。一度完璧でいる秘訣を聞いたことがあったけど、非常にためにならないアドバイスを貰った」

「なんですか?」

「姉さん曰く、成功の秘訣は失敗しないこと、だそうだ」

「それはなんかもう……。しかし間違っているとは言えません」

 七転び八起きの話をしても、「私は転ばないし、仮に転んだとしても二度目はない」と返された。完璧への執着があったようには見えなかったから、全てがそつなくできる彼女にとって失敗に関する格言や名言は理解に苦しむようだった。

「失敗から学ぶことは多いが、再び立ち向かう動機にはならない、とも言っていた」

「辛らつな言葉ですが、少なからず同意は出来ますね」

 失敗という側面が無い以上、成功するという実感も持っていないようだった。それが僕にますます姉さんを尊敬する理由になり、劣等感を抱く理由にもなった。

 僕は時たま卑屈という評価を受けるが、こんな姉がいれば誰しも卑屈さという逃走経路を用意するほか無くなると思う。

「着きました」

 すぐ先に男子寮と思しき建物が見えてきた。高さは四階くらいだろうか、しかしやたらと横に長い建物だ。端から端まで、視界に収めるのがやっとだ。

 この島全体にベースとして存在するヨーロッパ調の流れは、ここ男子寮にもしっかりと届いているようだ。

 扉を開くとそこは、広めのエントランスになっていた。

「左手に進むと食堂や談話室があります。遼次さんの部屋は二階になります」

「管理人みたいな人はいないの? 挨拶しとこうと思って」

「常時いる寮母のような方はいませんね。清掃や食事は専門の方が来ますし、学生と直接的な交流のある方はいません。一応、風紀委員の方が名目上の管理者にはなってますが……。そちらに挨拶しますか?」

 その専門の方というのも島に住んでる人たちなのだろう。もっとガチガチに管理されているものだと思っていたが、そうでもないらしい。これも姉さんの力添えがあった純奈の理想が反映されているのだろうか。島の中ではせめてもの自由を、ということだろうか。

「とりあえずその人に挨拶するよ」

「分かりました、こちらです」

 そういって君塚は階段を上り始めた。

「部屋にいるの?」

「えぇ、ちょっと変わった人で、この時間はおそらく部屋で筋トレでもしているはずです。遼次さんと同じ五回生にあたる方で……ここです」

 君塚がドアをノックすると、部屋の中からゴトン、という音に続き、足音が聞こえてきた。

「はい?」

 ドアから身体を覗かせたのは、身長は百八十も超えていそうな大きな男だった。Tシャツ越しにも分かるその筋肉もあいまって、僕は少し腰が引けてしまった。

「あぁ、志堂のとこの。なんだ?」

「今日島に来られた卯月遼次さんです。あいさつを、ということでここまで案内しました」

 君塚の説明を受けた男は、僕へと目を向けた。

「佐渡国光だ。よろしく」

「卯月遼次です。よろしく」

 伸ばされた手を僕も握り返す。先ほどは体格に圧倒されてしまったが、握手とともにほころんだ顔は意外と穏やかで、彼がまだ高校生だという事実を僕に思い出させた。

「朝晩、休日は昼も食堂で飯が食えるが、時間は決まってない。行けばいつでも食えるから。あとは……、消灯時間も特には決まってないし、基本的に自由だな。問題さえ起こさないように頼む、一応風紀委員だからな」

「ん、分かった」

 彼が問題を前にしてどういった解決策を取るのかは知らないが、僕は本能的にそれを避けたいと思った。きっと、彼の腕っ節が遺憾なく発揮されるだろうことは、容易に想像できた。

 ドアの隙間から見える室内には大きなダンベルが二つ転がっていた。先ほどの音はこれを置いた際に出た音だろう。ますます風紀委員としての彼には、あまりお世話になりたくないものだ。

「君塚が案内してるってことは、志堂の友人か?」

 やはり君塚と純奈のセットは玲瓏でも有名らしい。

「昔の友人です。君塚とは今日知り合ったばかりだけど」

「志堂の友達か……大変だな、お前も」

「え? どういう――」

「んじゃ、明日からもよろしくな」

 一方的に言い終えると、佐渡はドアを閉めてしまった。

「今の、どういう意味?」

「お嬢様は志堂の名前を抜きにしても、学園での有名人ですから。あとは風紀委員長のことでしょう」

「風紀委員長?」

 聞くと、佐渡は風紀委員会の副委員長だそうだ。

「南後冴、という方なんですが。なんというか非常に……」

 随分と言いよどんでいるようだ。

「はっきり言ってくれ。君塚に聞いたなんて告げ口しないから」

「はい……。南後さんは、お嬢様とかなり仲がよろしくないんです。お嬢様は審問委員会を無理やり承認させ、それに結構自由奔放な方なので……」

 なるほど。南後冴という人がどういう性格かは分からないが、なんとなく理解できた。

「対立してると」

「はい」

 君塚は心底参ったという調子で頭を振った。

 こんな風に感情を表してくれるとは、この短時間で随分と僕に大して開放的になったようだ。

 それにしても純奈。確かに行動的で自由奔放な印象はあったが、再会するまでの数年でその性格にはさらなる磨きがかかったらしい。僕自身審問委員会への参加を撤回する気はないが、少し心配になってきた。

「もちろん南後さんにも非はあります。お互いが牙を向け合っているといった状態です」

 僕も審問委員会での活動を通して、いずれは南後冴という人物とも関わることになるだろう。ますます不安の種は増えるばかりだ。

「明日にでも分かりますよ。……遼次さんの部屋はこちらです」

「ありがとう」

「中に制服なども置いてあります。僕も部屋に戻りますが、何か質問はありますか?」

 玲瓏や今後の活動について聞きたいことはあったが、それは明日純奈の口から聞けるだろう。

「大丈夫、ありがとう。また明日」

 おやすみなさい。そう言って君塚は廊下を戻っていった。

 部屋は以前の僕の部屋より広く、調度品なんかも綺麗に揃っていた。机の上では、袋に入った真新しい制服がこれでもかというくらいに存在感を放っていた。

 ベッドに思い切り飛び込もうと思ったが、何気なく目に留まった窓へと足を動かした。

 ノブを回し思い切り外へ押すと、まだ少し冷たい夜風が吹き込んできた。この地で桜を目にはしなかったが、自然と春を強く意識した。

「姉さん」

 一人っきりの部屋でその名を口にすると、自然と悲しみがこみ上げてきた。

 純奈と君塚の前で見せた涙を思い出し、少し顔がほてった。それでも純粋に涙を流せた自分を思うと、純奈の言葉や君塚の沈黙は僕にとってかけがえの無いもののように思えた。

 扉を閉め、今度こそベッドへ飛び込んだ。

 そういえば夕飯を食べていない。風呂もまだだ。

 いや、今日はいいだろう。急激な変化の波に心身ともにかなり疲れていた。

 先ほどの悲しみは明日への想像をめぐらせているうちに霧散し、僕は急激に高まる睡眠欲に身を任せた。

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