②
大尉との話がまとまり、はれて僕は学生という身分を得た。その後何度か大尉との電話のやり取りを経て、四月も中旬に差し掛かった頃、ついに学園へ向かう日が訪れた。
学園は全寮制であり、当然今までの家とはしばしの別れを迎えることになった。
そして、この家を離れるという作業が一番堪えた。そこに姉さんを残し旅立っていくような気持ちがむくむくと膨らみ、僕は何度もドアノブを握り直した。
ついには我慢できなくなり、前日にまとめた荷物のいくらかを鞄から引っ張り出した。衣類などを自分の部屋へ投げ入れ、生活用品をリビングのテーブルへと置いた。生活感、あるいは僕の住んでいた痕跡と言える物を可能な限り家に残し、また帰ってくるのだ、という強い自己暗示を自分にかけることで、ようやく僕はドアに鍵を挿す行動に至った。
道中自分で犯したその行為により、ひどく自己嫌悪を抱いたが、今ようやく最後の電車を降りると、その行動も随分と昔の思い出のように感じられた。
改札をくぐり深呼吸をすると、どこからか潮の香りがした。
周囲を見渡すと、駅周りこそ整備されているが、そこには都会とは程遠い景色が広がっていた。
――ずいぶんと遠くまで来てしまった。そんな詩的な文句が自然と浮かんだ。
こんな場所に学園などあるのだろうか……。だが、よくよく考えて見れば特化因子を監視するための学園がおおっぴらに存在するはずも無く、かえってこういった地方の方が、何かと都合が良いのだろうと思うと合点がいった。それに大尉は、学園の施設面での利便性を度々口にしていた。それほどの施設があるのならば、やはり面積の多く取れる土地柄が最適なのだろう。
駅に着いたら電話をくれ、という大尉の言葉を思い出し、僕は携帯電話を取り出した。数コールの後、ここ最近で最も聞きなれた声が耳に響いた。
「遼次か。駅には無事につけたのか?」
「はい、ここからはどうすればいいですか? バス停なんかはまだ見当たらないですけど」
「あー……」
大尉が珍しく情けない声を上げた。何か言いよどんでいるようだ。
「とりあえず海の方へ向かってくれ。そう遠くは無い」
海……?
先ほどから鼻をくすぐる潮の香りは、やはり海が近いからなのか。だがなぜ海に。僕は渋々歩みを海の方へ向けながら、大尉に尋ねてみた。
「なぜ海なんですか」
しばしの沈黙の後、大尉は質問に答えた。
「……学園が海にあるからだ」
僕は一瞬大尉の言葉が理解出来なかった。考えたすえ、海と学園をどうにか結びつけ、大尉にもう一度質問をした。
「埋立地、ですか」
「いや……島なんだ」
さぁ、ますます疑問は深まった。新生活を前にして、大きな謎が立ちはだかった。
「志堂は私有している島をそのまま学園にしたんだ。学園街、というよりは学園島だな」
学園島という言葉に異常な違和感を覚えた。少なくとも、僕の中では新出単語に位置づけられる。勿論、頻出単語にするつもりもない。
「ただでさえ学園という存在に不安を感じてたお前を、これ以上追い詰めるのは酷かと思ってな、少し強引な手に出た。すまん」
「酷かなって……、随分じゃないですか。たとえ小学校から通っていたとしても、進学と同時に学園島なんて所に連れて来られたら、誰だって不安になりますよ」
大尉はもう一度謝罪の言葉を述べた。
気づくと僕は立ち止まってしまっていた。
大尉の言葉に嫌らしさこそ覚えたが、その裏には自分を想ってくれる気持ちがあるのも事実。
「でも、せっかくここまできたんだし、進んで見たいと思います」
電話越しに大尉の笑い声がかすかに聞こえた。
「そろそろ切るぞ……まぁ、頑張れよ」
心の中で苦笑する。嫌な気分ではなかった。
近づくにつれ、目の前に何が存在しているのかが、朧ながらに見えてきた。
それは真っ白なフェリーだった。周囲に他の船舶は無く、港と呼べるような景色ではなかった。ではこのフェリーの運行のためだけに、この船着場を作ったのか。学園島のこともあり、僕は改めて志堂の大きさを思い知る。
ぼうっとしていると、こちらに気づいたのか、船の中から一人の男が声をかけてきた。
「おーい。乗るんだろ」
タラップを駆け上ると、先ほどの男がこちらに向かってきた。
「今日はお前一人だ。また珍しい時期に来たな」
「えぇ……」
話も早々に切り上げ、船内の一室に案内してもらった。大きな客間のような部屋だった。男の話によると、毎月の初めに船を出すという。学生一人のために船を動かすのは異例、とのことだ。これも大尉と純奈の力添えによるものだろう。
誰もいないのをいいことに、僕は部屋のど真ん中に寝転がった。勢いよく伸びをすると改めて緊張してきた。
純奈との再会。見知らぬ人たちとの生活。
うまく、やれるといいな……。
一瞬船が震えるように揺れる。出航したようだ。
意識の緊張とは反対に、僕の体は長旅での疲労感を覚えていた。目を瞑ると、すぐに心地よい睡眠が訪れた。
おい、という声で僕は目を覚ました。重いまぶた開くと、先ほどの男が開いたドアから半身を突き出していた。
「着いたぞ」
時計を見ると一時間近くが経過していた。早めに横になったのは正解だったようだ。いまだに睡眠欲を求める頭を振り、のろのろと部屋を出る。
「ようこそ玲瓏へ」
男の声に押されるように、僕は船を下りた。
まず僕の目に飛び込んできたのは巨大な門だった。左右に砂浜はなく、突き出たアスファルトの橋にフェリーは止まっている。島、というよりは要塞というイメージを受ける。その理由はやはり、この門のせいだろう。
視線を外すと、門の横にこれまた大きな文字が刻印されていた。
玲瓏学園。
玲瓏という言葉の意味を、僕は偶然にも知っていた。小説の中に初めてその言葉を見た。意味の分からなかった僕は、姉さんに言葉の意味を聞いたのだ。
玲瓏――清く、澄んだ様。と、姉さんは言っていた。
誰が学園にこの名をつけたのか僕には知る由も無いが、悪趣味だ、と思った。
この要塞じみた景観を目にすると、改めて特化因子のを観察するする意味合いが強い気がする。誰もにそう思わせるこの学園に、玲瓏と言う言葉を結びつけるのはやはり悪趣味だろう。
門の横から突き出た箱型の小部屋から、二人組みの男が出てきた。彼らは僕に対し明らかな警戒の眼差しを送る。
「卯月、遼次さん?」
僕がはい、と答えると、二人とも安堵の表情を浮かべた。
「すいませんね、一応学生証を見せてもらえるかな」
僕はポケットを漁り、前日大尉から送られてきた学生証を見せた。
二人は手元の資料と学生証へ視線を何度も行き来させ、時折二人で小声で話していた。
「よし、通ってください」
学生証を僕に返すと、早足で二人は先ほど出てきた部屋へと戻っていく。そこは守衛室のようなものなのだろう。
一人残された僕は多少の不安に駆られたが、ふつふつと沸く緊張とごちゃ混ぜになって、よく分からない気持ちになった。
ギィ、という不快な音を立てながら門がゆっくりと開いていく。
僕は吸い込まれるようにその門をくぐった。
門をくぐった僕の前には、見たことのない世界が広がっていた。正確には日本とは程遠い、どこかヨーロッパを思わせる景観だ。石畳の道を挟むように、背の低い風情のある建物が無数に軒を連ねていた。この景色に一番近いと思ったのが、そう、ヨーロッパの街。
おぉ、と感嘆の言葉が漏れる。
ふと視線を感じ横を見ると、一人の男がこちらをじっと見つめていた。その目つきはとても鋭く、睨まれていると言っても差し支えはないだろう。
この学園は門のくぐり方に作法でも設けているのだろうか。僕のくだらない考えをよそに、男はこちらに近づいてきた。
「卯月遼次さん?」
本日二回目の質問を受けた。男がまとっている衣服はここの制服だろう。残念ながら僕はまだ受け取っていない。
「はい……あなたは?」
「お嬢様がお待ちです。僕のことは君塚と呼んでください」
丁寧な言葉でそう告げられた。
君塚と名乗る男は、無言でいる僕をまるで気にする様子も無く、すたすたと歩き始めた。斬新な自己紹介だと僕は思った。周囲には僕ら二人以外に人がいない。門の近くだからだろうか。では彼は、僕に自己紹介をするためだけにここに張っていた……。
「何してるんですか。ついてきてください」
などというわけもなく、僕は仕方なしに君塚に並んだ。
横を歩く君塚の顔を盗み見ると、彼は能面のような表情を浮かべていた。そこから感情のようなものは読み取れない。近くで見る彼の顔は、男の僕から見てもとても整っていると思えた。短く切りそろえた前髪と、この学園の非日常的な景観から、彼が人形のように見えた。とことん無口なところも理由の一つである。背丈は僕よりほんの少しだけ低い、丁度姉さんと同じくらいか。
しばらく歩き、大通りと思しき場所に出ると、僕の視界に人の群れが飛び込んできた。
制服でない上に、この美しい男と並び歩く現状も相まってか、周囲からの視線は多い。気恥ずかしさを紛らわすために、僕は思い切って君塚に話しかけた。
「君塚さんはおいくつなんですか?」
「高等部の一年、つまり、玲瓏学園での四回生です。遼次さんの一つ下ですね。ですので呼び捨てで構いません、敬語も結構ですよ」
君塚は相も変わらず前方から視線を外さずに、淡々と答えた。
「さっき言ってたお嬢様ってのは、純奈のこと?」
その問いに、初めて君塚の表情が一瞬崩れたのを僕は見た。本当に一瞬だったが、確かにそこに感情を捉えることが出来た。彼の視線と同じくらいに尖った、苛立ちのようなものを。
「はい、お嬢様の執事兼護衛という形でこの学園に通っています」
確かに学園をこうもガッシリと固めてしまえば、逆に見えるものも見えなくなってしまうだろう。特に純奈の特化因子には人が集まりやすい。護衛は必須だろう。
「この通りは中央通りと言います。商業区、学園区、居住区、その他数ある地区を分ける道です。気になる場所はあると思いますが、案内は後ほどお嬢様がご自身でするとのことなので、今は我慢してください」
先ほどから僕が抱いていた考えを見透かすように、君塚は告げた。
周囲を見ると依然向けられる視線は変わらないが、景色はベースとなるヨーロッパ調の外観を崩さない程度に、少しずつ変化を見せている。それぞれが各区画へ伸びる通りへの入り口なのだろう。
「次で右に折れます」
曲がるとすぐ、前方に大きな建物が見えてきた。
「今はどの区画に向かっているんだ?」
「学園区です。校舎や部室棟などがあります」
今の時間これだけの生徒が通りにいるということは、すでに放課後というわけだ。
「放課後の活動?」
「はい、委員会のようなものです」
純奈のことだ、創設者が志堂であることからも、生徒会に属しているものと思ったが、どうやら違うらしい。
「なんという委員会なんだ?」
君塚は急に立ち止まった。
「ここです。この建物の三階です」
彼は話の本筋や僕の疑問への答えを言いよどんでいる様子だった。無論、その表情から読み取ったわけではないが、態度が妙にわざとらしい。もしかしたら、全てを純奈自身に語らせたいのかもしれない。もしくは、自分の口から語りたいという、純奈の意向を汲んでいるのかもしれない。
校舎からは並んで歩くということはしなかった。通りより狭い屋内の廊下は、二人が並んで歩いたところで他人の邪魔になるような広さではなかったものの、僕自身なぜだか気が引けたのだ。それは純奈に近づくにつれ高まった緊張感が原因かもしれない。
三階へと続く階段を上りきり、僕の息は多少あがっていた。門からここまで結構な距離である。慣れているからか、君塚に僕のような疲労感は見て取れない。
「ここです」
君塚は三階一番奥の部屋の前で止まると、僕にそう告げ、再び沈黙してしまった。
このドアは僕が自分で開けるべきなのだろう。
手にかけたドアノブはひんやりとしていて気持ちがよかった。そういえば今朝もドア一つに感情を揺さぶられたことを思い出した。ただのドアノブに、別れや再会という意味が絡み、妙に重く感じる。
乾いたのどを唾液で潤し、僕はドアを引いた。その向こうに――いた。
訪れた黄昏を身体いっぱいに受け、志堂純奈はゆったりとした動作でこちらを振り向いた。
「久しぶり」
ドアの開閉という大仕事に夢中になっていた僕に、再会の言葉を考えている余裕はなかった。当たり前のように告げられた純奈の言葉に、僕は何も返せない。
無言でいる僕を見た純奈は、ここで初めて表情に変化をつけた。不満そうに口を歪ませ、眉を吊り上げる。
「久しぶり」
第一声が僕に届いていなかったと判断したのか、純奈は律儀にも同じ言葉を僕に向けた。
「――っ、あぁ」
うめき声にも似た、濁った声が僕の喉から漏れた。そして、
「久しぶり」
と、なんとか答えられた。
やはり緊張しているのだろう。心臓の鼓動が今にも耳に響いてきそうだ。突然動き出した状況、未知なる場所での再会、その全てが僕の行動に支障をきたしている。
君塚に押される形で部屋の中央まで進むと、純奈が僕に近づいてきた。ゆっくりと、上品さを失わないその動きに、僕はまたしても見とれてしまった。
「二年ぶり?」
「……そうだね。だいたいそれくらい」
「どうしてた?」
何も――。そう口にしようとして、なんとかとどまった。
しかし事実、僕はこの二年間何もしていない。何も成長していない。姉さんに助けられて生かされてきたようなものだ。
不覚にも、徐々に積もっていた後ろめたさに、この瞬間僕は気づいた。今までの感情のうねりは決して緊張などではなかったのだ。大尉から聞いた純奈の情報に感心していた僕の感情は、ほんの上っ面の部分でしかなかった。羨ましい。変化を起こせるその行動力が。何かを動かせるその環境が。全てを備えたその能力が。
黙ったままの僕が可笑しいのか、純奈はくすりと笑った。
「どうしたの? 緊張してるの?」
僕は無理矢理に顔を上げ、彼女の顔を正面から見据えた。
吸い込まれそうな瞳、長いまつげ。貧相な語彙でも、十分に表現できる彼女の容姿。波打つような黒髪は、この三年で随分と伸びたようだ。
「きれいだな……」
と、感嘆がもれたことに気づいたのに、時間はかからなかった。
純奈は飛び上がるように下がり、両手で顔を覆った。
「はっ――遼次! いつからそんな風になったの!」
気づくと身体の芯から熱がこみ上げてきた。
「違う、今のは違うっ」
「違うって何よ!」
こほん、という音で僕らは君塚の存在を思い出した。
「ごめん」
こういうのは早さと誠実さが大切だ。僕は迷わずそう告げると、純奈に視線を戻した。
「きれいになったよ、純奈。本当に」
両手から覗く純奈の目は、依然僕を睨んだままだったが、僕は言葉を続けた。
「この二年間、僕には何もなかった。何もね。姉さんのいるおかげで僕は生きれたけど、姉さんのいるおかげで僕に変化は訪れなかった。だから純奈に会ってその差を思い知ったよ。根っこの部分では変わってないけど、やっぱりあの頃の純奈とは全然違う」
自然と言葉は、鋭さを増した。僕の悪い癖だ。悲観的、とは少し角度の違う、妙に卑屈な姿勢で物事を捉えてしまう。そしてやっかいなことに、こういった場面に限って、僕の口はよく働く。
「違う、私は何も――」
「それは」
純奈の反論をさえぎるように僕は口を開き、
「純奈が変わった証拠だよ。僕は変わっていないから。ずっと同じ場所にいるから、だから分るし断言できる。そして願っていたわけじゃないけど、姉さんの死で僕は今ようやく変化を手に入れた。嫌になるよね。諦めかけて、受け入れようとしたところにこの一撃は、さすがに参るよ。年を越してからサンタが来た気分だ」
と告げた。
訪れた沈黙。先ほど君塚と二人だった時のものとは全く異なる、嫌な沈黙。僕自身が作ってしまった空気だからこそ、口を開く気にはなれなかった。
その空気を割るように、純奈がついと進みでた。僕の前まで進むと、右手をそっと僕の肩に乗せた。
「響子さんのこと、私も残念だよ」
先ほど抱いた僕の嫌味な感情を溶かすように、やさしく彼女は言った。その時の僕の心情は、なんというか説明しづらく、しいていうなら後ろめたさの上書きをしたような感じだった。彼女の変化にではなく、その優しさに、今度こそ後ろめたさを覚えてしまった。
「せっかくの再会を、壊すなばか」
そう言って肩を叩いた。
ごめん――。口に出せない想いを、僕は精一杯心の中に響かせた。
そして、姉さんが死んで初めて涙を流した。