五
彼女は黙っていた。先程のうれしそうなにやけた表情は露と消え、指輪を携えた、ただの不機嫌そうな仏頂面で、空のお猪口を弄ぶ。
相対する少年の身体からは、とっくの昔に酔いなど抜けてしまっていた。そして、酔いとともにやってきた白いもやがすっかり晴れた彼の視界には、彼女の顔はよく見えすぎている。鋭い、本当に鋭い。それこそ、鋭すぎて痛いのかどうかさえも判らないくらい。
「……最低なのはそっちだろう」
仏頂面を崩しておどけたように、ややオーバーなまでの抑揚を付けて彼女は笑う。
「君は――君は、何て最低な後輩なんだ」
彼女は笑い続ける。顔を歪めて、肩を震わせて、それでも収まらずにとうとう顔を伏せて。彼女はまだまだ笑い続ける。腹を抱えて、大きな笑い声を上げて。さらに何とまあ、酒の席であるにもかかわらず、周りの注目を集めていることも、まるっきり気にしていない様子でさえいた。
「……その割に、あなたは随分と嬉しそうですけれど?」
少年は戸惑いながらも、そんな彼女の言葉と態度のギャップを、はっきりと指摘せずにはいられなかった。何故なら仮にも自分の先輩の、薄暗い照明が台無しになるくらいの大笑いに若干の羞恥心を覚えたから。そして、この恥ずかしい先輩の子供のような笑顔に、彼自身がわずかでもつられてしまったことが恥ずかしかったからにほかならなかった。
「……いつまで笑っているんですか、先輩」
何だかたまらなく堪えがたくなって、彼はとうとう口を出した。しかしながら当然のように、彼女が取り合ってくれるわけもない。
「ま、細かいことは気にするなよ」
お猪口を置いて、彼女は横に置いていたコップから、冷水を一気にあおって勢いよく卓上に置く。どうやら先程までのような大笑いは収まったらしいが、その普段の彼女にはとても似つかわしくない幼い笑顔は、そのままだ。
「これからも最低同士、仲良くしようじゃないか。――高柳くん?」
おや、この人、意外にも僕の名前を覚えていたのか。きっととてもつまらないであろう方へ冷めゆく頭で、少年はそんなことしか考えられなかった。考えられなくて、彼の口からはその先の美しい返事がまったく出てこなくなってしまった。そして、まさにそのときである。これからに詰まっていた彼らの前に、しばらく前に出て行った仲間が戻ってきたのは。
「いやー、参った! まさか隣のビルまで行くことになるなんてなあ」
それはトイレに行くと言ったまま長らく帰ってこなかった本村である。外に出たことでいくらか酒の抜けた様子である本村は、大げさな動きで少年の横に荒っぽく座り、ひょろりと長い身体を落ちつけた。
「本村くん、春丘さんは?」
少年がちらりと顔を向けて尋ねると、本村は肩をすくめて素っ気なく応じた。
「俺に聞くなよ。多分、彼女と電話じゃねえの」
「ほう、春丘氏、今回は珍しく長続きしているのか。良いことだ」
ふたりのやり取りに彼女は口を挟む。どこか皮肉めいたような響きに、本村は笑いをこらえながら彼女をたしなめた。
「そう言ってやらないでくださいよ。奴はあれでも毎回真剣にがんばってるんですから」
「知ってるよ。だが、彼は少しばかり運が悪い」
彼女の言葉に、本村はその通りだと笑った。
「まったく、どうしてああも貧乏くじばかり引いちゃいますかねぇ――」
未だ帰らない男に関する、悪意のない噂話。ふたりの間でそれが淡々とひと巡りしたころ、本村は思い出したように少年に声をかけた。
「あ、ところで資料のことだけど」
もう一方で彼女は、いつものようにふいに外界に興味を失ったらしかった。言葉を交わす後輩ふたりを見るでもなく、自分で空にしたばかりのお猪口をつまみ上げて、何がおもしろいのか色々な方向から眺めまわしていた。
「……今聞いても忘れるから明日にしてくれない?」
彼女の様子を視界の端に捉えた少年は、本村の言葉に眉間に人差し指を当てて応じる。
「了解。何だよ、眠いのか?」
肩をばんばんと叩く本村を、首を軽く振ってほどほどにあしらう。そこでようやく、本村はテーブルの上の何かに気が付いたようだ。
「って、何だよこのピッチャー。これ全部、お冷?」
長いまつげに縁取られた目をぱちくりする本村を前に、少年は対面を指差した。
「……あの人の仕業」
そこには、またいつの間にか表情を変えた彼女がいた。
「おねえさん、冷酒もう一本!」
指先に映る彼女は再び店員を呼びつけて、屈託のない笑顔で新しい酒を要求する。よく見ると、いつもきれいに直されている化粧が今日に限ってはほんの少し溶けて、なめらかな肌の上で光っていた。
「相変わらず『わけのわからんこと』をする人だなぁ」
「うん、まったく」
「しかし姫さん、随分とご機嫌だな。何かあったのか?」
「……さあ、僕には何も」
少年の口元が、わずかに緩んだ。