四
彼女は静かに語る。
「例えばこの指輪を見た誰かに、こいつには恋人がいるのだと誤解されるのが喜ばしい」
薄明かりのもと、彼女のか細い声は儚い。そんなことはあるはずがないのに、少年の目にはまるで彼女がその存在ごと、今にも消え入りそうに見えた。
「実際は恋人なんてものはいないし、この指輪にも意味はない。そのような類の人物が傍にいた時期もあったのだが、私にあんまりその気がないもので――みんな離れてしまったよ」
彼女は美しかった。周りの男たちは、確かに彼女を放っておくまい。そういえば、仲間の誰かが言っていた――彼女を口説かないのは失礼にあたる、と。
「私もなかなかひどい女でね、とりあえず、よほど嫌いな相手でなかったら申し出を受け入れるだろう。それで、散々相手を振り回して、接吻も交わさずさようならさ」
彼女はあたかも他人事のように、やれやれと首を緩く振った。そして静かに、何かを懐かしむように続けるのだ。
「もっとも、そこまでお預けを喰らえば、大概の男は言うまでもなく離れていくがね」
おどけるように肩をすくめ、舌をちょろりと出して、彼女は語る。少年は、ここまでよく喋る彼女に見覚えがなかった。彼はそれが酒のせいだと呆れるべきなのか、きっと自分が相手だから話してくれるのだと自惚れるべきなのか、並ぶはずのない二択の間で迷っていた。彼女はそういう相手の様子を気にしていないのか――あるいは気付いていないのか――、相変わらず夕暮れのような哀愁を帯びたままに続ける。
「そんなことをするあたり、私はもしかしたら、いわゆる『構ってちゃん』という奴なのかもしれない」
「……」
「まだまだ甘いね、私も」
大人になったつもりだったのだけれどと、彼女は湿っぽく続けた。一方で少年は何も言えなかった。言いたいことのひとつも言えなかった。寂しくたっていいと思います、構ってほしいのは普通のことです、と。彼女には少年の溶けきらない心中の氷塊など見えているはずもない。しかしそこからわずかに表へと漏れ出る雫に納得のいかない心持ちを感じ取ったのか、少年にこんなことを問うてきた。
「なんだ、不服そうじゃないか。何か言いたいことでもあるのかい、少年」
少年は心の一部を、思っていることさえも彼女に見透かされたような気がして、にわかに胸を高鳴らせた。冷水を散々あおったはずの喉もいつの間にか枯れていて、彼は仕方なくねとりとした生唾を呑み込んだ。しばしの沈黙ののち、彼は弱虫なりに精一杯の勇気を出して、この偉大な彼女に向ける言葉を吐き出そうとする。
「……先輩は」
吐き出そうとする。
「先輩は特別なんかじゃないんです」
吐いて、地に落ちた。
「おや」
彼女は呆気にとられたように眼を丸くした。
「随分挑発的じゃないか。酔いが回ってきたかい、少年?」
相変わらず、彼女はうれしそうだった。
相変わらず、彼には彼女が解らなかった。それこそ、一生かかっても解れそうにすらないくらいに。ただ、解らないなりにも彼女に何を言うべきか、どうやって彼女の『酔い』を覚ましてやるべきかは、それこそ水っぽい酒の味のように、指輪の淡い光のように、ほんのりとでも見えていて、ほんのわずかでも知っているつもりだった。
少年は、いつからだろう、いつの間にか彼女の隣にいた。彼女も喜んで、彼を隣に置きたがった。仲間を外れて個人的に遊んだりすることはなかったが、どこかで顔を合わせれば、ふたりはいつもつるんでいた。
それはきっと、恋とは呼べないくらいに成分の薄いものであろうし、もしかしたら酒入りの洋菓子よりももっと子供向けの感情かもしれない。これからふたりが発展する見込みはなかったし、何より彼は異性としての彼女を望まなかった。
「……先輩は、ただの、ダメな大人で、酔っ払いの、どうしようもない、がさつで、口の悪くて、くだらないことしか言わない、実は思ったよりずっとバカで、実際のところは美人だからかろうじて許されてるような人種の、破綻した、やっぱりどうしようもない先輩です」
異性としての彼女に執着しようとは思わないし、実際そこまで興味もない。ただ、先輩後輩である分には何となく居心地がいいからつるんでいる。好きだけど尊敬はしていないし、大好きだけど恋なんてしていない。それは少年の知る限りでの、この女に対する正直な気持ちだった。
それは、中途半端な馴れ合いとでも言うのだろうか。
「――だからこれからも、僕の最低な先輩でいてください」
少なくとも、まだ、救いようのないくらいにどうしようもない関係ではないはずだ。
「……」