三
「知っているか少年、この私の極めて輝かしい人生には、決定的な欠陥があるのだよ」
それが何か判るかい、と、彼女は少年に悪戯っぽく訪ねた。相変わらずにやにやと笑いながら、今度は、水の入っていない空のコップを手に取って。彼女は挑発的、小悪魔的とでも言うのだろうか、そういう種類の笑顔で少年に微笑みかける。
少年は戸惑った。もちろん彼女の言っていることの意味が解らなかったというのも一因だったが、それ以上に見たこともない彼女の艶っぽい表情に、めまいにも似たひどい混乱をきたしてしまったのだ。彼女は少年の内なる大混乱を知らない故か、はたまた知ってのことなのか、その右のてのひらをぐっと少年に伸ばしてきた。そして彼が状況を呑みこむよりもずっと前に、彼女は少年の後頭部に手を回して、ぐっと自分の方に近付けた。自身もテーブルの方に大きく身を乗り出して、ふたりの額と額は今にもくっつかんとするばかりであった。
「そして、だ。まことにおもしろそうなことに、私は君から自分と同じような匂いを嗅ぎ取っているのさ」
甘い匂いが少年の鼻を突く。
「そうだね、言うなれば『足りない』んだ、私たちは。同じようにね」
それに少し遅れて酒の匂いがやってくる。どちらも、彼女から発せられる匂いだ。彼がその匂いにくらくらする暇もなく、彼女は子供のようににこりと笑って、あっさりと少年を解放した。乗り出した身体もすぐに元の位置に戻っていき、接近から十秒も経ったころには、まるで何事もなかったかのように、全ての状況が元通りになっていた。
「……」
一瞬の、ある種の信じがたい出来事に、少年は何も言えなくなってしまった。
「うん、どうした?」
その子供の笑顔のまま、彼女は少年に聞き返した。少年は、もう考えることを、何かを問い返すことを諦め、すっぱりと止めた。
ただしかし、思考が放棄された彼の頭の中には、彼女のあの言葉だけがどうにも消えずに響いていた――『足りない』、自分と、彼女と同じように。自分の欠点なら、少年は嫌というほど把握していた。彼の人生は、常に自分の欠けたところとの闘いだったからだ。しかし、『彼女と同じように』、となると、少年にはまったく心当たりがない。何が、足りないのだろう?彼は自分の脳髄に潤滑油を継ぎ足すかのように、新たに冷水をあおりながら、ただ何となしに自らの左手を見つめて、残響に浸りながらぼんやりと考えていた。
「なぁ」
ふいに、彼女は穏やかに唇を開く。
「少年よ、君は、恋をしているのか?」
その声色は、まるで幼い子供をあやすような、あるいは優しく言い聞かせるような、心地の良いものだった。店の薄明かりのベールが、放たれた言葉をさらに包んでやわらかくしてくれているのではないだろうか――そんな当てもない想像が浮かんでくるほどに、この優しい母のような彼女の姿は、普段の彼女から大きくかけ離れていた。
「……」
彼女の質問はいくらか前、とはいえそう遠くはない過去において投げかけられたものと全く同一であった。あのとき少年は、悪戯っぽい質問者の表情にどこか嫌なものを感じて、決して問いに答えようとは思わなかった。しかし今は不思議と、このすっかり様変わりした彼女の神秘の衣の美しさにほだされてなのか、彼はつい心に抱えた秘密の玉手箱の紐に手をかけてしまいそうになっていた。今まさに、心の中で大切に保管されている少年の宝物は、酸の毒の中に晒されようとしているのである。
「私は恋をしているよ、少年」
彼女の言葉の矢が、紐を解こうとする少年の手を止める――先程少年が水を飲むことを許さなかったように、彼女は少年が問いに答えることを許さなかった。
「恋というものが解らないからね」
「――」
解らないのに、恋をしている?
醒めた少年の頭を、浮かんだ矛盾がこつこつと突いた。眉をひそめる彼の目の前、おもむろに彼女は右手を宙へやる。彼女は指輪のはまったその手を、軽やかにひらひらと踊らせた。まるで、彼を惑わす魔性のように。あるいは森の奥へ誘う蝶のように。少年の目線は俄かにその手へと移ったが、その直後にはもう、彼女の表情の方へと向けられていた。
「私はね、誤解を招くのが好きなんだ」