二
「……先輩、意味が解りません」
「ん?簡単なことじゃないか」
どこが難しいんだとでも言いたげに、少年は不機嫌な顔で彼女の人差し指を払いのける。すると彼女はやれやれと肩をすくめては、すぐまたにやけた顔に戻って言いだすのだ。
「君はいかにもそれらしく、なおかつ世間の一般からは上手い具合に外れて、その上で私にとって非常においしい人生を送ってくれればそれでいいんだ。それはすなわち君らしい生そのものであって、すなわちそういう意味で私は君に期待しているし、何も求めていないとも言えるわけだな」
「はあ」
「どうだ、私の言っていることの意味が解っただろう?」
「はい、まったくもって意味不明です」
「ちっ」
「先輩、舌打ちはお行儀が悪いですよ」
「ちっ」
少年は、もう何も言わないことにした。彼は彼女のコップを持ち主の手元に置くと、自らのものを取っては、半分ほど注がれた冷たい水を一気に飲み干した。と、そこまではよかったのだが。少年は突如慌ててコップを置くと、平たい胸を押さえて苦しそうに咳き込みだしたのである。
「おやおや」
彼女は呆れ顔で、少年を見る。
「慌てるなよ。そんなに咳き込んだら、せっかく食べたものまで出てしまうじゃないか。ま、これでも飲んで落ち着くといい」
彼女はそう言って、また懲りもせず、極めて素敵な笑顔を見せながら、彼にお猪口を指し出すのであった。
「前々から思ってはいましたが、先輩は本当にダメな大人ですね……」
少年はまた雫まみれのコップに水を注ぐと、彼女の薦めなど見なかったような振りをして、そっと口をつけた。もうコップ自体も見た目通りにかなり冷えていて、彼にはその冷たさが、焦りで火照った身体を唇から冷やしてくれるような、そんな感覚を起こさせていた。
「だいたいあなた、就活生でしょうに」
「うん?」
彼女は、その大人びた容姿にふさわしくないくらいに可愛らしく、茶目っ気たっぷりに小首を傾げて笑う。
「ああ、もうやめた」
彼女は、そう言った後、少し照れくさそうに長い髪をいじった。そして長いまつげの先を少年に向けて、みんなには内緒だよ、と小声で付け加えるのである。少年は彼女の突拍子もない告白に、ただただ口を開け放すことしかできなかった。
「えっ」
「留学する」
「そ、そうなんですか?」
初めて聞いた。
「嘘」
彼女はきっぱりと言い切り、少年の眼をちらりと見る。
「家業を継ぐ」
「あれ、ご実家って……」
「嘘、ただの勤め人だから、継ごうにも継ぐべきもんがない」
再び彼女は少年を見た。その眼つきは、さきほどからすればいくらかしっかりしてきているように思えた。
「嫁に行く」
ああ、これは。
「嘘でしょう」
「嘘だ」
この嘘は、少年が間髪入れずに見破った。彼女の嘘だらけの言葉の表情は非常にしっかりしていて、とても酔った人間のものとは思えないほどだった。しかしまあ、彼女は素面のときから、他人をからかうときに限っては非常に輝く種類の人であったのだが。
「……で、実際のところはどうなんです」
少年は冷や水をあおりながら、鋭く問いを突き付けた。彼を作るいろいろなものが、この獲物はしっかりと追い詰めないと簡単に逃げてしまうんだと言わんばかりに、ここぞとばかりに彼女に向けられていた。
「ああ、もう終わった」
「ずいぶんと早いですね」
「何せ私だから」
「……」
相変わらず優秀な人だ。少年の唇が、相手に聞こえるか聞こえないかくらいのボリュームで言う。このまるでダメな大人の女は、大人としてダメなだけであって、決して人間としての全てにおいてダメなのではない。むしろ、この上なく優秀な部類の学生である。そう、まるで不自然なほどに。彼女の人生は、この上なく順調に回っている。ように見える。少なくとも、酒を酌み交わすこの少年の眼には。
「こうして私は、また新たな伝説を紡ぎだしていくのであった」
少年の心を読み取ったかのような言葉を、彼女は突然に冗談めかした調子でぽろりとこぼした。
「なんてな」
彼女は持っていたお猪口をテーブルに置き、呑み口のあたりを指輪のはまった細い指で撫でる。そうするとまた、照明の弱い光が指輪をやわらかく光らせ、その存在感をはっきりと際立たせた。少年は、その光に思わずはっと息を呑んだ。まるで、光り輝く彼女の中に潜む、ほんのわずかな翳り(かげり)を見つけたかのように。そのわずかな翳りは寂しさなのか、虚しさなのか、重荷から解き放たれた解放感から来るものなのか。少年には、決して判断できなかった。




