一
「少年よ、君は恋をしているのか」
学生客も多い、その安い居酒屋の暗い照明は、どこか現実から浮いたような独特の雰囲気を持っていた。そんな店のゆったりとした座敷席にてお猪口を傾けながら、長い黒髪の女性がこう言った。彼女は既に幾分か酔っている様子で、眼つきは曖昧でとろんとして、薄化粧をした頬はほんのりと赤らんでいる。彼女に言葉を掛けられた人物は、先日成人を迎えたばかりだ。本来はもう少年という年齢ではないのだが、痩せた体躯と幼さの残る顔立ちは、彼を少年と呼ばせるのに充分な材料を示していた。少年は彼女から視線を逸らして、ぽそりとつぶやく。
「いいえ、しているわけがないでしょうに」
判りきったつまらないことを聞くなとでも言いたげに、少年は首を横に振る。すると彼女はこの後輩の少年に、中身を半分ほど残したお猪口を差し出した。
「結構です。僕は、日本酒を呑みません」
「……」
彼女は不満げに眉をしかめて、少年をじろりと睨みつける。少年は、負けるまいと彼女を睨み返す。そんなどうにもならない攻防がしばらく続いた後、彼女は根負けしたのか、ふらりと立ち上がった。思いのほかしっかりした足取りの彼女は、座敷の端っこの方へのんびりと歩きだした。そしてひとりの若い店員を捕まえて、はっきりと通る声でこう注文をつけたのだ。
「すみません、お冷を、ピッチャーで」
「……」
これは嫌がらせだろうか。しばらくして、少年の目の前には、ピッチャーいっぱいに入った氷水が置かれた。付属のコップは、ひとつだった。
「先輩」
「なんだい、少年よ」
彼女は小さい付属のコップに、器用な手つきで水を注いでいく。八分目までに水を入れ終わると、ピッチャーを自分の脇に置いた。
「まあ、いいじゃないか」
飲めよと言わんばかりに、彼女はコップを差し出した。差し出されたからには受け取らないわけにもいくまい。諦めを付けた少年が、それを受け取ろうとすると、彼女はひょいと細腕を引っ込め、コップの水を自分で飲みほしてしまった。
「しかも、飲ませてすらくれないんですね」
「文句があるならコップを奪ってみたらどうだね?今ならもれなく、おねえさんと間接キスができる」
「……店員さん。コップを、もうひとつ」
少年が攻めてこないことを知った彼女は、ますますつまらなそうに二杯目の水を注いでいた。
「君は、そんなに呑んでいないじゃないか。どうして自分用のコップを用意する必要がある。こんなことで追加のコップを頼んでいたら、さっき見かけた可愛いバイトのおねえさんが気の毒だ」
「あなたこそ、僕の唇を狙っているんですか?」
少年の問いに、彼女は切れ長の眼を真ん丸くして彼の顔を見た。彼女はその表情のまま、こう続ける。
「いいや。要らない。狙うならむしろあの可愛いおねえさんの唇がいい」
「……もういいです」
少年とその先輩である彼女は、いつもの仲良しメンバー一同で店に来ていた。理由は、特に意味もない仲間内での飲み会である。本来はもうふたりほど連れがいるのだが、風に当たりに行ったり、長いお手洗いに行ったりで、席を外している。その結果、四人分の荷物に対して、ふたりだけが席に残る形となった。
「例えばだ」
少年のコップが運ばれてくるころ、彼女は再びコップをお猪口に持ち替えて話を切り出した。
「例えば君は、いつもつるんでいる彼女には、男としての感情は抱いていないのか。君たちは話も合うようだし、随分と仲がいいじゃないか」
「いいえ」
少年は水を注ぎつつ、はっきりと否定した。
「あれは生まれる前に生き別れた姉です」
「ごめん、わけがわからん」
「つまり、そういう感じじゃないということです」
「……今度からはもっと解りやすく言え」
「はい、すみません」
少年はごく表面的に謝罪を述べると、今度は彼女の使ったコップを手に取った。
「先輩は、僕に何を期待しているんですか」
「何も」
自らのために水を注ぐ少年の手元を見ながら、彼女は柔らかい笑みを浮かべて語る。
「あるいは、全てをだね」
彼女はおかしさを噛み殺したような調子で話しながら、少年の鼻先を、細くて白い人差し指でぴん、とつついた。少年は呆気にとられたかのように、ぽかんとその指を見つめている。彼の眼は、薄暗くてぼんやりとした照明のもとで柔らかに光る、彼女の指輪に向けられていた。装飾もなく、線の細い地味な指輪は、普段は全く目立つことなく右手の人差し指に収まっている。日常の中では全く気に留めることすらなかったそんな品が、この弱々しい光のもとではこんなにも目立っている。少年にはそれが少し奇妙でもあり、興味深くもあった。本当だったらいつまででも見ていたいような気分に駆られていた少年だったが、ふと視界に飛び込んできた指輪の持ち主のだらしなくにやけた顔が、彼をどこかぼやけていて煙草臭い現実へと引き戻してくれた。