私の居場所 前編
私たちの結婚式から2月が経ちました。
あれから毎日、侯爵家の妻として必要な知識、礼儀作法などを身に着けるべく勉強に奮闘し、夜は挨拶と人脈づくりを兼ねて社交界に出席して、と大変忙しく過ごしておりました。
それもようやく落ち着いた今日。
私はアロウス様と街の大通りを歩いています。
いつも移動は馬車なのですが、あまり目立ちたくなくて、アロウス様に無理を言って街のはずれのほうで降ろしてもらったのです。
両脇に様々な店が立ち並ぶ石畳の敷かれたそこには沢山の人々が行きかっていて、みなさん陽気な笑顔を浮かべています。穏やかで平和な風景です。これが私が2月ほど前まで暮らしていたところ。
「おや、エルサちゃん」
「ひさしぶりだね。元気だった?」
すれ違う人の中には顔見知りの方たちもいて、私に気が付いたみなさんはそんな温かい言葉をかけてくれます。
もう私なんか忘れ去られてしまっていると思っていたのに、まだ覚えていてくださる方もいらしたようで思わず顔がほころびます。
そんな嬉しい気持ちで声をかけてくださった皆さん一人一人と言葉を交わしていると、ふいに隣にいるアロウス様に手を握られました。
それはちょっと突然で、どうしたのかと隣をふと見上げるとアロウス様はいつもどおりの微笑を浮かべていて逆にどうかした?とでも言うように首を小さく傾げられてしまいました。
何かがおかしいような気がしましたが気のせいだったようです。
私たちはそのまま手をつないで歩きました。
幼いころとは違って、暖かくて大きな手。私の手を優しく包み込んでくれるこの手が私は大好きです。
美しい曲線を描くアイアン作りの看板の中に今日の目的であるお店の名前を見つけて私は足を止めました。
「アロウス様。ここが以前私が働いていたパン屋さんです」
そう告げてからガラス越しに店の中を覗き込みます。
そこには2ヶ月前と何一つ変わらない光景が広がっていました。
狭い店の中には棚やテーブルが所狭しと置かれていて、その上にはたくさんのパンが並べられています。
普段食事の時に食べているようなごくシンプルなパンの他に惣菜パンから菓子パンまで種類は様々です。
ガラス越しでも香ばしいいい香りが漂ってきて私たちの鼻をくすぐります。
お店の奥のほうには木製の小さなカウンターが置いてあってそこで会計をするようになっているのですが、ちょうど今、お婆さんがお金を払い終わったところのようでその陰になっていたところからよく知った顔が現れました。
彼女も私に気がついてくれたようでこちらに向かって手を振ってくれます。
私はアロウス様から手を離してお店のドアを引き開け、2人で店内へ入りました。
ドアに吊り下げられた来客を知らせるための小さな鐘が明るい音を店内に響かせます。
「お久しぶりです。メリアさん」
私がそう声をかけるとメリアさんがカウンターを抜けてこちらにやってきました。
メリアさんは今年20歳で私よりも3つほど年下なのですがとてもしっかりしていてここでの仕事も全て彼女から教えていただきました。
それなのに私はすぐに、しかも突然辞めてしまって、申し訳ない気持ちで彼女の前に立ちます。
ところがメリアさんは私の気まずい想いなどにはまったく気がつかない様子で前に立ち、私の両手を
握ってきました。
「久しぶり。元気だった!? 急に来なくなって心配したんだよ。そのあとおばさんから結婚したって聞かされてもうビックリ!」
そう言って笑いかけてくれながら彼女は手を離し、今度は私の体を抱きしめてくれます。
「よかったわねぇ。おめでとう、エルサ」
「ありがとうございます。メリアさん」
優しい優しい声で祝福してくれます。
ここで働いていたころ少しだけアロウス様のことをお話していたので、彼女のそんな言葉に熱いものがこみ上げてきて、思わずメリアさんを抱きしめ返しました。
「旦那様のアロウス様です。アロウス様、こちらがこのお店で一緒に働いていたメリアさんです。とっておもお世話になったんですよ」
身内となったアロウス様を人に紹介するときは“様”付けしないように礼儀作法の先生から教えられたのですがそれはまだまだ私にはハードルが高く、こんな紹介になってしまいます。
二人は初めまして、といいながら握手を交わしました。
その手が離れるのを待ってから私はメリアさんに謝罪します。
「あの、メリアさんとジニーさんには本当にご迷惑をおかけしてすみませんでした。挨拶もこんなに遅くなってしまって申し訳ありません」
私は精一杯の気持ちを込めて彼女に向かって頭を下げました。
しかし、彼女はあわてた様子で両手をぶんぶんと振ります。
「そんなの気にしなくていいのよ。まぁ、エドなんかはすっごく落ち込んでてちょっと可哀そうだったけどね」
なにやら可笑しそうにメリアさんが笑います。
「エドモンドさんですか?」
「そうそう、まだ諦めきれずに足しげく通ってるけどね。そろそろ現実見ればいいのに。今日もそろそろ来る時間だと思うんだけど」
メリアさんがため息をつきながらチロリと壁に掛けられた時計に目を走らせました。時計は午後2時を指しています。そういえば彼はいつもこの時間にお店にやってきていましたっけ。そう私が思い返したと同時に再び鐘の音が店内に響き渡りました。
そしてそれと同時現れたのは吊りズボン姿の素朴な身なりの青年、エドモンドさんです。噂をすればってやつですね。
「エルサ……?」
彼は信じられないものを見るような目で私を見ると、そばかすの散ったその顔をどんどん赤く染めていきます。
どうしたのでしょう?
そしてぱぁっと笑顔を顔いっぱいに輝かせて飛び掛るような勢いで私の肩に両手を乗せてきました。
「やっぱりエルサだ。良かった。オレ、ずっと待っていたんだよ。やっぱり結婚っていうのはジニーとメリアの冗談だったんだ。なぁ、今日から店に出てるの? 二人ともオレに何も教えてくれないから驚いたじゃないか」
「え? いえ、あの……」
次から次へと彼の口から飛び出してくる言葉についていくことができず、どうしましょう、否定する暇がありません。
そんな私の混乱にも気づかずに、尚もエドモンドさんは一人しゃべり続けておられます。
誰とでもすぐに打ち解けられるような明るい性格のエドモンドさんですがとにかく一人で突っ走ってしまうところがあるのが難なところかもしれません。
「はい、ストップ、ストーーップ!」
そこでようやくメリアさんが私とエドモントさんの間に腕を落として止めに入ってくれました。
「エド、暴走しすぎよ」
いつもこうやって手が付けられなくなったエドモンドさんを止めてくれるのはメリアさんでしたっけ。頼もしいです。メリアさん。年下なのにお姉さんの様だと思ってしまいます。
そこで、まだ私の肩に置かれたままだった手がようやく外されました。
しかし、それはエドモンドさんの力によるものではなく、私がアロウス様に抱き込まれるように引き寄せられたからで。
「エルサ、これは誰だ?」
ちょうどアロウス様に背中をくっつけているような体勢の私にはそのお顔を見ることはできなかったのですが、こ、声が怖い。
私は、アロウス様がいらぬ誤解をせぬようあわてて紹介します。
「あの、このお店の常連さんでエドモンドさんです。こちらで働いていた時に色々とよくしてもらっていて。エドモンドさん、こちらは私の旦那様のアロウス様です」
「よく……ね」
アロウス様のそんなつぶやきが聞こえます。
あぁ、声が怖い。冷たい。
そして対するエドモンドさんはしばらく状況が理解できないように呆然と立ちすくみ、それからしばらく私とアロウス様の顔を交互に見つめた後、
「そ、そうなんだ」
とこちらは力の入らない弱弱しい声で呟きました。
そして沈黙。
何なんでしょうね、この気まずい重たい空気は。なぜこんなにもアロウス様は冷ややかでエドモンドさんは落ち込んでおられるんでしょう。
そこでも助け船を出してくれたのはメリアさんでした。
「だから私が言ってたでしょう。ほらっ、落ち込んでる暇があったら他を探す!」
そう言ってメリアさんはエドモンドさんの足へ蹴りを一つ。あ、そこは弁慶さんも泣いてしまうところ。
「いってー! 何するんだよ」
「何って元気づけてあげただけじゃない。ほらこれでエドも元通り~」
「人を単純みたいに言うなよっ」
「単純でしょ。あんた以上にちょろい奴は見たことないわ」
そうして二人の言い合いが始まります。
助け舟が大きな波に攫われて行くのが見えました。
そんな時、突然店の奥の、パンを焼く工房になっている部屋のドアがガチャリと開かれました。そして大きな大きな体が姿を現します。
「なんで賑やかなのかと思えば。よぉ、エルサ。久しぶりだな」
「ジニーさん!!」
このパン屋さんの店主であるジニーさんが焼きたてのパンの乗った天板を持ってこちらへやってきました。
「お久しぶりです、ジニーさん。あの、突然辞めてしまってご迷惑を……」
「いいからいいから」
慌てて頭を下げ、謝罪している上にそんなジニーさんの穏やかな声が重なります。顔を上げるとそこにはくまさんのようなホッとする優しい笑顔がありました。そしてジニーさんは天板を一度置き、カウンターの奥にある小さな棚から白い箱を抱えてやってきました。
「ほら、エルサに頼まれていたものだよ。おめでとう」
「あっ、そういえば」
私は赤いリボンがかけられたその箱を受け取ります。
それはここで働いていたときにジニーさんにお願いしていたものでした。
大変失礼なことをしたのに、こんな私のために、作ってくれていたのですね。
「ありがとうございます。ジニーさん」
「自信作だ。中身は帰ってから見てくれな」
私は「はい」と目頭をじんわりと熱くしながらうなずきました。
私はこんなに暖かい人たちに囲まれて幸せでした。
そうこうしているうちにお店にはお客さんがたくさんやってきて、もっと皆さんとお話していたかったのですがお仕事の邪魔になってしまうので、私は「また来ますね」と挨拶をしてアロウス様と共に帰路につきました。
ずっと気にかかっていたご挨拶をようやく済ませることができ、私の心はちょっと軽くなっていました。
そのことに浮かれていたのでしょう。
この時、私はまだ何も気がついていませんでした。
アロウス様の様子がおかしいことに。