中編1
『それは、本気で言っているのかい?』
いつも穏やかな笑みを湛えているはずの父が冷たく僕にそう尋ねた。
その時の僕は身分制度というものにはまだ疎くて、この国の民たちが全員僕と同じような生活をしているとはもちろん思っていなかったけれど、それでもそんなに隔たりがあるものだという認識なんてなかった。
特にエルサと僕はいつも一緒だったから。
僕と同じ遊びをして、僕と一緒に家庭教師から学び、ほとんどの時を一緒に過ごしていた。
ただ、服だけが、ほかの家の令嬢たちに比べれば少し質素だな、とそう思ったくらいだった。
あるとき、何も知らなかった僕は将来はエルサと一緒になりたい、と父に告げた。
その言葉は冷たく返され、貴族と平民は結婚できないのだと知らされた。
平民ってなんだ?
僕はエルサに何度か言ったことがある。
『もっとフリルやレースで埋め尽くされたドレスを着るとエルサはもっとかわいいと思うよ』
と。
しかし、エルサはいつも苦く笑いながらこう答えた。
『私は、平民ですから』
その時になって僕はようやくエルサの言葉の本当の意味を理解した。
僕の隣には、エルサは並べない。
僕とエルサは違うのだと。
「アロウス様。お帰りなさい」
屋敷の玄関を潜ると奥からパタパタと足音を鳴らしてエルサが駆け寄ってくるのがみえた。
さきほどまで一緒にいたヴィエラとはあまりにも違う、丈の短い飾り気のない質素なドレス。
僕は君を選べない。
僕はその姿を拒絶するように力を込めて目を閉じた。
質素なドレスに身を包むエルサも、僕の帰りに嬉しそうな笑顔を浮かべるエルサも見るのがつらい。
花開くようなその笑顔を見てしまえば僕の心は甘く疼く。
そしてそれはだんだんと熱を持って心を焦がしてしまう。
なんて煩わしい感情なんだろう。
しっかりとふたを閉めて決して開かないように鍵を閉めても、エルサの微笑む姿を見るといともあっけなく愛しさは溢れ出す。
もう僕はエルサを視界に入れることも辛くなっていた。
エルサがいる限り僕はいつまでたってもこの感情から逃れられない。
昔はあんなに大切で、ずっと一緒に居たいと思っていたのに、もう今では一瞬でも一緒にいることが苦痛になってきている。
そしてそんな彼女に憎しみさえも芽生える。
彼女さえいなければ僕は僕なりの穏やかな幸せを掴みに行くことができるのに、そのたびに彼女は目の前に現れて僕の足止めをするから。
僕は、傍らに佇み僕の様子を窺うように顔を覗き込んでいたエルサを振り払うように無視して自分の部屋に向かって歩を進めた。
いっそエルサが僕の前から消えてくれればいいのに。
僕の記憶からもエルサがいなくなってくれれば僕は楽になれるのに。
そんな事を何度か繰り返した頃、エルサがメイドの一人と話しているところに偶然鉢合わせそうになった。
エルサは必要がないと言っているのに、それでは申し訳ないからとメイドたちの仕事をよく手伝っていて彼女たちと仲がいい。
特に同年代のリズとは年相応の明るくはしゃいだような声で話しているのをよく耳にする。
どうやら今はそのリズと二人で水の入った重いバケツを運んでいるようだ。
「え? エルサ、実家に帰るの?」
彼女たちと顔を合わせないよう、反対方向へと踵を返しかけたそのとき、そんな驚いたような声が聞こえてきて、僕は思わず足を止めた。
「そうなんです。最近アロウス様にも嫌われてしまったようですしここにいる理由ももうないかと思って。それにほらっ、私ももう23ですからね。そろそろ相手を見つけなきゃいき遅れちゃいます」
いき遅れる?
エルサは何の話をしているのだろう?
「そっか、寂しくなるわね。でもエルサなら大丈夫よ! きっと実家に帰って恋人募集中なんて言ったらいろんな男が寄ってきてすぐにいいのが見つかるわよ」
リズがクスクス笑いながらそう言っているのがどこか遠いところで聞こえた。
いろんな男? すぐに見つかる?? エルサが僕以外の男のものになる??
今まで予想できたはずなのに、一度も考えたことのなかったその話に僕の頭は血の気が引いたように真っ白になった。
それなのにどこか冷静な部分がはっきりとしたイメージを作り出す。
僕の知らない男にうっとりとした顔で微笑むエルサ。その腕には小さな赤ん坊が抱かれていてそこには幸せな空気に満ちている。
ダメだ。
エルサは僕のものなのに、そんなの許せるはずがない。
勝手に作り出した空想の中の男にさえ嫉妬して、今にも殴りかかりそうなほど鋭い怒りが突き上げるというのに。
もし、これが現実となったら僕は一体どうなってしまうのだろう?
「アロウス様?」
いつのまにやら僕のところまで来ていたらしいエルサが少し驚いたように僕の名を呼んだ。
まさか先ほどまでの会話を聞かれていたとは思っていなかったようで気まずそうに少し首をかしげて見せる。
リズが気を利かせたように「失礼します」と頭を下げて水のたっぷり入ったバケツを両手にぶら下げてふらふらと去っていくのが見えた。その姿は少し可哀そうになったけれど今の僕はそんなことに構っていられなかった。
リズの姿が角に隠れるのを待ってから、未だに整理できない頭でなんとか言葉を紡ぐ。
「……エルサは、実家に帰るの?」
「あ、はい。アロウス様さえよろしければ」
こちらに向けられたエルサの黄緑色の瞳が一瞬寂しそうにゆるりと揺れるのを感じた。
僕は必要以上にエルサに触れることを随分前からしなくなっていた。
触れてはいけないのだと自分に言い聞かせていた。
でも揺れる瞳をを見た瞬間、もう僕はなにも考られずにただエルサを胸に閉じ込めていた。
その体は記憶にあるよりも柔らかくて僕の体にしっとりとなじむ。
僕はエルサに囁いた。
「エルサはここに居て。どこにも行かないで」
と。
エルサは身じろぎもせず、僕の腕の中で小さくコクリと頷いた。
いなくなってほしい、でも手放したくなんかない。
相反するふたつの想い。
ただ、この状況は誰にとっても良いものとは言えない。
そんな事は分かっていたけれど、僕にはどうすることもできず、相変わらずエルサの存在を否定するように避けながら、しかしいざエルサが離れていこうとすると引き留めるという身勝手な態度を繰り返すこととなった。
ある日の、よく晴れた昼間のことだった。
珍しく城にも領地にも行く予定はなく、かといって暇でもなかったその日、自室にこもって仕事をしていた。
長いこと書類に目を通しているとなんだか目の奥が鈍く痛んで、疲れた目を癒すつもりで窓の外をぼんやりと眺めた。
僕の部屋から見えるのは色とりどりの花が咲き乱れる美しく整えられた庭園と、その奥に屋敷への入り口である巨大な門扉。
僕は、ふと門扉の前に金色が見えたような気がして目を凝らしてみた。
それはやはりエルサのようでなんだか蹲っているようだ。
具合でも悪いのだろうか?
そう思ったときに、そういえば今日は僕に訪問者があったのだと執事に知らされていたのを思い出した。
僕の頭によぎったのは嫌な予感。
その予感に突き動かされるように僕はあわてて門扉に向かって駆け出した。
「エルサ、こんなところで何をしてるんだ?」
そう声をかけると、蹲るようにして座りこんだままだったエルサが顔を上げた。
普段はかすかに色づく程度の白い頬には真っ赤な手の平の形。
「ちょっと疲れることがあったので力が抜けていただけです」
そう言い、ため息をつきながら彼女は立ち上がる。
やはり僕の予感の通りエルサはヴィエラの襲撃にあったらしい。
他人にエルサのことを話した覚えはないのに、どこから嗅ぎ付けてくるのか。
わめき散らす女の姿が容易に想像できるから僕は彼女たちを無視する。
すると彼女たちはなぜかエルサを呼び出す。
エルサも無視するように言っているのにそうしない。
だからいつもこんなにひどい目にあう。
腫れてまではいないけれど見るからに痛そうな赤い頬。
「よくもあの女! 覚えてろよ!!」
僕は小さく、しかし目一杯の恨みをこめてヴィエラへの呪いの言葉を吐き出した。
けれども結局それは僕の蒔いた種で。
ぼくはいつもエルサを傷つけてばかりだ。
「ごめんね。でももうこんなことはないから、つらい思いをさせてすまない」
僕はせめてもの思いでエルサを抱きしめてそう囁いた。
――もうこんなことはないから――
もう、いい加減この想いに決着をつけなければならないのだろう。
文章表現の未熟さと語録の少なさが恨めしいです。
ごめんなさい。