中編2
久々に帰った実家で私を待っていたのは母の笑顔と大量の書類。
「帰ってきたばかりで疲れているところ悪いんだけどこれ急ぎだから、このしるしを付けている部分全部にサインしてね」
母はなんてことないようにそう言うと私の前にドン!と書類を置き、私と同じ黄緑色の瞳でかわいらしくウィンクしました。
御年41歳。
まだまだ若い母です。
それにしてもこれ、すごい量です。
高く高く積み上げられたそれにサインって1日やそこらで終わるのでしょうか。
私が途方に暮れていると、
「ごめんなさいね。本当は手紙と一緒にあちらにおくれたらよかったんだけど、これあまり他人に見られたくないものだから」
少し気まずそうに母は呟きました。
どうやら帰宅要請の原因はこれだったようです。
「この書類って一体なんなんですか?」
私が見てもこの書類に記されている単語たちはあまり見慣れないものばかりでよく分かりません。
「うーん。住所変更みたいなものかしらね。まぁ大丈夫よ。かわいい娘を危ない目になんか遭わせたりしないから」
母は少し焦ったように早口でそう言いました。
なんだか嫌な予感がするのは気のせいでしょうか。
しかしふと目を通したページに信頼できるある人物のサインを目にして私はしぶしぶペンを握る決意をしました。
それからまたひと月ほど経ちました。
あのあと無事書類へのサインを終え(2日かかりました)た私は街のパン屋さんで売り子の仕事を始めました。
香ばしいパンの焼けるいい匂い、たくさんのお客様。毎日少しずつ顔なじみが増えていきます。
今までどちらかというと閉ざされた空間にいた私にとっては新しい発見の毎日で楽しく過ごしています。
楽しいのです。
楽しいのですが、お店のお客さんにハニーブラウンの色を見つけては、似たような声が聞こえては、嫌でもあの方を思い出してしまって。
忘れよう、忘れたいと思えば思うほどその感覚は鋭くなっていくかのようで私は日に日に疲れ果てていきました。
ある雨の夜、すっかり食欲もなくした私を気遣って母が温めたミルクの入ったマグカップを渡してくれました。
口に入れるとそのぬくもりがじんわりと体中に広がります。
ぼんやりと残りのミルクから立ち上がる湯気を見つめていると、ふと視線を感じて私は顔をあげました。
そこには心配そうな母の顔。
あぁ、私は何をやっているのでしょうか。
いつも笑顔を絶やさない母にこんな顔をさせているなんて。
そして私はふと思いついたことを聞いてみることにしました。
「お母様は、失恋ってしたことありますか?」
悲しみとか嫉妬とは無縁そうな母。
私からこんな質問が出たことにか、一瞬驚いたような顔をした母は一つ息をつくと、
「ないわね」
と簡潔に答えました。
やっぱりそうですよね。
「でもね、失恋はしなかったけれど代わりに私は家族を失ったわ」
私は驚いてハッと母の顔を見ました。
そういえば、と私は思い至りました。
母方の祖父母に会ったことがない。
悲しげで暗い表情の母。
今までこんな表情をした母を見たことがありません。
「私とエルサのお父様はね、駆け落ちして結婚したの。私は本当はそれなりの家の生まれでね、私の肖像画を描きに来た、しがない画家だったのがお父様。私はお父様のことを好きになった。お父様も私のことを愛してると言ってくれた。だから離れたくなかった。でも私にはお父様との未来を選ぶことは許されなかった」
「だから駆け落ちしたの?」
私は恐る恐る尋ねました。
「そう、こっそりとうちを抜け出してね」
母は悲ししげな表情のまま口元だけニコリと笑みの形を作りました。
「でも、すぐに見つかってしまって。私とお父様は引き裂かれそうになったのだけれど私の兄が仲裁に入ってくれて結局、私がどちらか選ぶことになったの」
「家族かお父様か?」
「そう」
母はこくりと頷きました。
「それで私はお父様を選んだ。両親とはそこで縁を切ったわ。二人が亡くなるまで風の噂でくらいしかどうしているのかさえも分からなかった。後にね、兄から聞いた話。私の両親はね絶縁してからも私のことをずっと気にかけていてくれていたって。私はお父様と結婚してエルサも生まれて幸せだったけれど、その代償として両親を悲しませてしまった。そのことは今でも後悔しているわ」
そこまで言い切ると母の瞳にうっすらと涙が浮かぶのが見えました。
そんなしんみりとした空気の中、
「っ、ずびっ、うぅくっ、ずびっ」
突然部屋のドアの外から汚い男性の嗚咽が聞こえてきました。
母が慌ててドアを開きます。
そこには先の話にも出てきた私の伯父様が顔中を涙でぐちゃぐちゃにしながら突っ立っていたのです。
「聞いていらしたのですか」
母は伯父様にタオルを差し出します。
伯父様はそれを受け取ると顔をゴシゴシと拭き、そして最後にぶーっと鼻を咬みました。
いつも思うのですがなかなか暑苦しい方です。
「どうぞ、伯父様。こちらにお座りください」
私は空いている隣の席を勧めました。
伯父様は、
「うむ、すまない」
と言いながら椅子を引き腰を下ろされました。
目と鼻が異常に赤いのを気にしなければ伯父様もなかなかのいい男です。
いつも上品な服を着ていて、でも服に着られている感は全く感じられずしっかりと着こなしています。
「なぁ、リリィ」
伯父様はまだ少し鼻をすすりながら母に呼びかけました。
「何かしら? 兄上」
母は少し気まずそうに首をかしげました。
きっと今までこの伯父様にこんな本音を語ったことがなかったのでしょう。
伯父様は一つ頷いてからゆっくりと語りだします。
「確かに父上も母上もお前のことで嘆き悲しんでいたけれど、だけれどこれでよかったんだって、二人は言っていたぞ。どんな形であれ、リリィが幸せであることが自分たちの一番の幸せだって。そう言っていた。だからお前は何も気にせず幸せに浸っていればいいんだ。それだけで父上も母上もきっとむくわれる」
その言葉をかみ砕くように口を少し動かした後、母はわっと泣き出しました。
それは思ってもいなかった亡き両親の思いだったのでしょう。
様々な想いが浄化される涙。
私はふと隣の伯父様を見上げました。
伯父様はやれやれといった感じで少し赤らんだ、やっぱり私と同じ色である黄緑の瞳を細めました。
そして私にもこう一言。
「エルサが幸せになってくれたら私も嬉しいよ」
伯父様は私の頭にポンポンと手を置きました。
――幸せになってくれたら嬉しい――
その言葉はさきほど口にしたホットミルクのように私の心にじんわりと広がりました。
あぁ、そうなのです。
たとえ遠く離れていても、心が繋がっていなくてもアロウス様が幸せになってくれたら私も嬉しいのです。
そう思うと私の心はなんだかストンと落ち着いてすっきりとした気がします。
今まで囚われていた邪な想いから解き放たれたような、そんな感じ。
窓の外をふと見ると長らく降り続いていた雨がやみ、星空が見え始めていました。