中編1
その日、私はクリスフォード侯爵家のメイドの皆様と一緒に窓磨きをしておりました。
私は何故かこの家の客人として扱われているため、毎日特に何もすることがなく暇なのです。
それにタダ飯食いというのは気が引けますし。
なのでこうしてメイドの皆様のお仕事を一緒にさせていただいています。
もちろん侯爵様とアロウス様の許可はとっています。
もしばれてメイドの皆様が怒られてしまっては大変ですからね。
最初は二人ともいい顔はしなかったのですが私が珍しく強情だったので手伝い程度なら、と最後にはしぶしぶ了承してくださいました。
「え?」
私は思わず聞き返してしまいました。
「だからね、アロウス様、もうすぐ結婚なさるんですって。私の友人がね、お城仕えしてるんだけどその子からの情報。今、国王様の許可を待っているとこなんですって」
メイドのリズさんがちょっと興奮した様子で頬を赤らめながらもう一度繰り返してくれました。
国王からの許可。
わが国では貴族の結婚には国王様の許可が要ります。
少なからず政治にも影響してくることですので当然といえば当然なのかもしれません。
しかし、それは形式上といったようなものでほとんど不可となることはなく、いわば許可申請という名の報告のようなものだったりします。
「私たちにはまだ何も報告はないけれど、どんな女なのかしらね。ねぇ、エルサは何か知っている?」
リズさんは興味津々と言った様子で顔をズイッとこちらに寄せてきました。
「いえ、私は何も」
私はそれだけしか言えませんでした。
結婚するという話自体寝耳に水だったのですから。
私が窓磨きの手を止めたことにも気づかずにリズさんは上機嫌で続けます。
「きっと、綺麗で素敵な方ね。だってあのアロウス様のお心をつかんだのですもの。アロウス様もいよいよ年貢の納め時か~」
リズさんはなんだかルンルンです。
まだ見ぬ奥方様に胸を躍らせているようです。
「でも、意外だったなぁ。アロウス様はエルサのことが大切なんだと思ってたから」
「そんなまさか。それに私は平民ですし」
私は否定します。
リズさんもなんだか一人で納得しているようでウンウンとうなずいておられます。
「そうよね。いくら特別な扱いをされていても貴族と平民は結婚出来ないし、その時点で対象外だものね」
「……そうですね」
私はなんだか頭が何かを考えるのを放棄しているように真っ白になってしまってそれだけ言うのが精一杯でした。
『こっちこっち』
アロウス様が私の手をぐいぐいと引っ張ります。
あんまり引っ張るものだから私は前のめりに倒れてしまうんじゃないかと必死に足を動かしていました。
ところが道が開けたところでアロウス様は突然足を止められ、私はそれに気がついても必死に動かしていた足を急に止めることは出来ずそのままアロウス様の背中に激突してしまいました。
私はアロウス様の後頭部に鼻を思いっきりぶつけてしまいあまりの痛みにその場にうずくまっていると、
『ほら、見てごらんよ』
アロウス様のそんな声が聞こえてきました。
ようやく治まってきたとはいえまだ痛む鼻を押さえながら顔を上げるとそこには色とりどりに咲き誇る一面の花。
それはもう天国が本当にあるのならこんな感じなのかなと思うほど美しいところでした。
ぽーっと見とれている私にアロウス様はあるものを差し出してくれました。
それはこのお花畑の花たちで作られた可愛らしい花冠。
『わぁ~、綺麗』
私がそう感嘆の声を上げるとアロウス様はうれしそうにふんわりと笑って私の頭に載せてくれました。
『エルサ、お姫様みたいだよ』
お姫様だなんて私にはとっても勿体無いお言葉でしたが、まるで天国にいる天使のようなお顔でそう言われてなんだかとってもうれしくって。
『ありがとう』
私がそうお礼を言うとアロウス様は座ったまま私を抱きしめました。
『エルサ、ずっと一緒にいようね。僕らはずっと一緒だ』
『はい。エルサもずっとアロウス様と一緒にいたいです』
ずっと一緒に。そうあの頃の私は本気で信じていたのです。
ぱちりと目を開けるとそこは真っ暗でした。
いつ窓磨きを終えたのか、よくわからないまま、いつの間にやら自分の寝室で眠り込んでいたようです。
懐かしい夢を見ました。
あれは8歳のときに2人でお屋敷を抜け出したときの本当にあった出来事です。
ずっと忘れていたはずなのに。
何で今更?
だけど私はこの夢によって気がついてしまいました。
私はあのときにした約束をずっと信じてきていたのだということを。
アロウス様に冷たくされても、優しくもしてくれたしお屋敷から出て行くことは拒まれた。
だから私はアロウス様に必要とされているんだと思っていた。
アロウス様と女性方との噂はよく耳にしていたけれど本命らしき方は常に作らず誰もが短いお付き合いだったからきっと心の中では安心していたんです。
あぁ、まだ大丈夫だって。
まだ私よりも上に立ってる女はいないって。
私はなんて浅ましくって馬鹿なんだろう。
何故だかクックッと小さな笑いが口からこぼれました。
芽は小さなうちに摘み取らなくては?
小さいどころかぐんぐんと背を伸ばし葉を茂らせ蕾をつけていつの間にやら大輪の花を咲かせていたではないですか。
こんなに気持ちが大きくなっていることにさえ今まで気づかなかっただなんてなんて、私はなんて愚かなんでしょう。
私はアロウス様を愛していたのです。
私は気づいてしまった。
でもアロウス様は見つけてしまった。
私よりも大切な女を。
私は遅すぎたのです。
気づいてしまってからの私はとても醜い人間になってしまいました。
まだ見ぬアロウス様の婚約者に嫉妬しなんだか熱い。心が焦げてしまいそう。
お二人の幸せなど祈れず、それどころかアロウス様がいつものように「もういい」の一言で婚約を解消してくれないかと願ってしまう。
ついこの間まで早く身を固めていただかないと、と言っていたのは私なのに。
なんて身勝手な心。
私はこんな人間だったのでしょうか。
私の心が少しずつ黒く染まってきて。
自分で自分が恐ろしくなってきます。
それからずっと考えていました。
メイドの皆様のお手伝いも疎かにただぼーーっと。
でも、やはり出てくる答えは1つだけで。
私が婚約の噂をリズさんから聞いてから一月。
ずっと婚約者さんと共にいたのかお屋敷に戻られなかったアロウス様が久々に姿を現しました。
いましかチャンスがない。
そう思って私はアロウス様の部屋のドアをノックしました。
すぐにどうぞと返事が来て私はそうっとドアを開けました。隙間からのぞくように様子を伺うと、
「なにやってるの。早く入っておいでよ」
と私の姿をみてクスクス笑われてしまいました。
彼の言葉通り私は部屋の中に入り後ろ手にドアを閉めました。
久々のアロウス様の姿は少しだけ痩せてしまったようですが、恋心を自覚してしまったからなのか今まで以上に魅力的に見えてしまうので不思議です。
あっ、髪も少し伸びたようです。
もともと少し長めだった髪が肩につくぐらいになっています。
こんなに長い間、ひと月も会わなかったのは初めてなのでその間にこんなに変化があることにちょっとびっくりしてしまいます。
改めてよくよく見るといつの間にこんなに男らしくなっていたのか。
その姿にはもう幼さの欠片も残ってはいません。
そんな物思いにふけっていると、
「どうしたの?」
と声がかけられました。
今日は機嫌がいいのかなんだか雰囲気が柔らかです。
やはりご自身が今幸せだからなのか。
そう思うと心臓がチクリと痛むのを感じました。
でもここでくじけるわけには行きません。
私は勇気を出してアロウス様にことの真相を聞きました。
「あの、噂でアロウス様がご結婚されるってきいて…。それは本当なのですか?」
それだけ言うのが精一杯で私は視線を床に落として答えを待ちます。
違う、それは嘘だよ。と言ってくれればいい。
私は藁にもすがる思いで最後の望みにかけました。
だけれど現実というものは決して私に優しくなく。
「本当だよ」
そうか。そうなのか。
それならば私のとる行動は1つだけ。
このひと月ずっと考えていた答えどおりに。
私は顔を上げてアロウス様の目を見て用意していた言葉を紡ぎます。
「それはよかったですね。おめでとうございます」
あえてお相手のことは聞きません。婚約者さんのことを聞いてしまうとこの胸を焦がすこの嫉妬心がよりはっきりしたものに姿を変えてしまいそうで怖かったのです。
アロウス様はその奥に潜むそんな暗い思いに気がつかなかったらしく私の精一杯の心にもない祝福に、
「ありがとう。エルサには必ず式に参加してほしい」
とあのお花畑のときのようにうれしそうにふんわりと微笑まれました。
あぁ、目の奥が暑くなってきました。
心臓がチクチク痛んで仕方ないです。
でもあと少し。これだけは伝えなければ。
がんばれ、私!
「はい、是非。アロウス様は私にとってとっても大切な方ですもの。勿論ですわ。
ところでアロウス様。先日私の元に母から手紙が来て戻ってきてほしいという内容でした。アロウス様も結婚されて奥様がこのお屋敷にいらっしゃるのなら客人としての私はもう不要でしょう? だから私は明日にでもうちへ帰ろうと思うのですけどよろしいでしょうか」
一気にそれだけ言い切りました。
母から手紙が来たのは本当。ただ一時帰宅でという感じでしたが。
でももう神様がそろそろ潮時ですよ、と言っているようなタイミングです。
もういっそのことうちへ帰ってあちらで暮らそうと私は決意したのです。
アロウス様は私のこの言葉に一度大きく目を開かれました。
まさかこんなことを言われるとは思っていなかったようです。
そしてハニーブラウンの瞳が左右を漂い、
「……わかった」
とだけおっしゃいました。
「では、そういうことでよろしくお願いします」
私はそれだけ言うと部屋から逃げるように飛び出しました。
いつも私がうちへ一時帰宅するというと嫌な顔をして否と言っていたアロウス様。
こんな気持ちの私を引き止めてくれなくて嬉しい。
でも、私が引き止めるほどの価値もなくなってしまったという現実は悲しい。
自分の部屋についた頃にはいつの間にやら頬に涙が伝っていて、私はそのまま久しぶりに、声を上げて泣きました。
そして次の日。
纏めた荷物を抱えて最後にお屋敷の隅々を歩きます。
あぁ、この階段は幼いころよくアロウス様と追いかけっこをして執事のバーグさんに怒られたところです。壮年の紳士だったバーグさんは普段は物静かですが怒ると物凄く怖いんです。でもとっても優しい人。私とアロウス様はそんな彼にとても懐いていました。バーグさんが急に倒れてその後すぐにお亡くなりになったのは私たちが13歳の頃でした。私とアロウス様はバーグさんの葬儀のときわんわん泣きました。人目も憚らず涙が枯れるまで。今思えばあれが私が見たアロウス様の最後の涙でした。
あぁ、この陰になっているところ。かくれんぼをしているときにここに隠れるとアロウス様は絶対に私を見つけられないんですよ。なんでも出来るアロウス様ですがかくれんぼだけはあまり得意ではないんです。アロウス様の負けの宣言を聞いて出てきた私を見てアロウス様はすっごく悔しそうな顔をするんです。
そしてこのお庭は……。
そんな風に思い出しながら歩いているとなんだかとても複雑な気持ちになりました。
愛おしさと切なさとが複雑に交じり合ったそんな気持ち。
なんだか鼻の奥がツンとしてきました。
ここは大切な思い出がたくさん詰まった場所。
ここから離れるのはやっぱり寂しい。
でも、アロウス様と奥様の仲むつまじい姿を見ながら、そこらじゅうにアロウス様との思い出が詰まったこの場所に居続けるのはもっともっと辛いのです。
だから、私の決断は間違っていないはずです。
屋敷の外もぐるりと1周してから私は屋敷の門扉を出ました。
もうここに来ることはないのでしょうね。
窓からメイドの皆様が手を振ってくださっている姿が見えます。
私は屋敷に一度だけ頭を下げました。
さよなら、優しい皆様。
さよなら、私の大切な思い出たち。
さよなら、アロウス様。
そうして私はお屋敷に背を向けて歩き出しました。