序章―関ヶ原の風
「殿、恐れながらもはやこれまでかと…」
そう言ったのは島津家家老長寿院盛淳だった。
慶長5年(1600)9月15日―のちに天下分け目の合戦と言われた関ヶ原の戦いが、今ひとつの結末を迎えようとしていた。当初、石田三成率いる西軍が優位に立ちそのまま西軍勝利かと思われた矢先、西軍側であった小早川秀秋の裏切りにより形勢は一気に逆転、徳川家康率いる東軍が怒濤の反撃を開始し、一旦崩れだした西軍はそのまま壊滅状態となった。
そんな敗色濃厚となった西軍の一人島津義弘は静かにその状況を見つめていた。そして、霧の中から蹄が島津陣地に近付いて来た。それは西軍敗退を伝える斥候であった。斥候の報告を聞いた盛淳が義弘に言葉をかけると
「さあて、どげんすっか…すでに四方は東軍に囲まれ、もはや退却すっこつもできもはん。まさか戦をする前に勝敗が付くとは思いもよらんかった…」
そう言うとそっと目を閉じ、しばらく義弘は立ち尽くしていた。その姿はまるで鬼の化身がごとき威圧感が漂い盛淳をはじめ甥の豊久、そして多くの家臣はただ見守ることしか出来なかった。
義弘が目を閉じてからどれほどの時が流れただろう。島津陣地の外では未だ戦闘が行われているが、まるでそこだけが時が止まったかのような静けさであった。
「殿!」
甥の豊久が痺れを切らし義弘に詰め寄った。その声にふと我に返ったように目を開いた義弘は横にいる豊久を見つめた。その時豊久は何かを悟った義弘の顔に何とも言えない優しさと恐ろしさを感じ、体が震えるのが分かった。
そして、義弘は一歩前に出て家臣たちを一通り見渡した後、
「皆の者!!よく聞け!」
これより島津軍は合戦史上類を見ない、壮絶な退却戦を行うことを家臣はもちろん義弘自身もまだ知る由もなかった。
この時、島津義弘65歳であった…