第26話:七月の熱量、まだ見ぬ貌(前半)
「……だからさ、悠馬。織田信長がキリスト教を保護したのは、単に南蛮文化が好きだったからじゃなくて、仏教勢力の一向一揆に対抗するための『政治的な条件分岐』なんだってば!」
秘密ラボの中央デスク。愛衣の鋭い声が、何行もの深い空白を引き裂くように響いた。
彼女の目の前には、付箋とマーカーで膨れ上がった社会科の教科書と、シャーペンの芯の粉で黒く汚れたノートが広げられている。ポニーテールをきつく結び直し、愛衣はまるでバグを指摘するエンジニアのような厳しい視線を悠馬に投げていた。
「チッ……そう言われりゃロジックは通るけどよ。だったらプロンプトに最初からそう書いとけってんだ。なんで『1573年、室町幕府滅亡』とかいう、ただの固定されたログ(年号)を俺の脳みそ(メモリ)に手動でインポートしなきゃいけないんだよ。無駄だろ、検索すりゃ一発じゃん」
悠馬はキャップのツバを限界まで後ろに回し、パイプ椅子の背もたれに大きく体重を預けながら、天を仰いで文句を垂れ流していた。
深セン帰りの天才ハッカーとしての鋭いシステム思考は健在なのだが、日本の公立中学校が求める「暗記型の定期テスト」という現実の壁の前に、彼のメモリは完全にオーバーフローを起こしかけていた。ラボでのクラスを経て語彙力は劇的に向上しているものの、それが歴史の年号や国語の漢字に変換されるのは、彼にとって苦行以外の何物でもないらしかった。
二人のやり取りを、自分の折りたたみ机で静かに眺めていた航太が、妄想ノートの端に数学の因数分解の公式を書き込みながら、ふっと笑みを漏らした。
「悠馬、気持ちは分かるけど、諦めて覚えるしかないよ。僕たちの新碧浜中学校は『二期制』だから、ここで落としたら大変なことになるんだ」
「にきせい……? なんだっけそれ。二学期制ってことか?」
悠馬が眉をひそめると、愛衣が呆れたようにため息をつき、シャーペンで悠馬のノートの白紙部分をトントンと叩いた。
「そうだよ。従来の三学期制と違って、一年間を『前期』と『後期』の二つに分けるシステムのこと。碧浜市の中学校はね、夏休みを挟んで十月までがずっと『前期』扱いになるの。だから、普通の学校みたいに七月に期末テストがない代わりに、この六月中旬に行われる『前期中間テスト』が、前半戦の成績……つまり私たちの内申点を左右する、めちゃくちゃ重要な最初の勝負どころになるんだよ。ここで赤点なんか取ったら、八月の活動に響くかもなんだからね!」
「内申点かよ……。ゲームの評価値みたいで気に入らねえな」
悠馬は毒づきながらも、愛衣の必死の剣幕に押されたのか、しぶしぶシャーペンを握り直した。
五月に組み立てた天候連動型マクロプロンプトは、JNMCOMの検証サーバーでも完璧な稼働を見せ、雨の碧浜の街に美しい動線を描き出し始めていた。AIへの命令(言葉のハック)という非日常の世界で圧倒的な成果を出した3人が、今、現実の「紙とシャーペン」という最も泥臭い中学生の日常に引き戻されている。そのギャップが、どこか微笑ましく、順調に成長している彼らの等身大の輪郭を際立たせていた。
それから一週間、激しい雨の降る中で行われた前期中間テストを命からがら乗り越え、碧浜の季節は文字通り「加速」していった。
六月の終わりと共に停滞前線は北へ去り、七月に入った碧浜の空には、網膜が焼けつくような強烈な青と、巨大な入道雲がそびえ立つようになった。ジメジメとした不快な湿気は、夏の到来を告げる熱気へと姿を変え、街全体が、もうすぐ始まる夏休みという特権を前に、微かに浮き足立っている。
「みんな、テストお疲れ様。結果の良し悪しは、まあ……この際置いておこうか。特に悠馬」
ラボの端のデスクで、ファシリテーターの零士さんが苦笑いしながら3人に数枚のプリントを配った。いつになく引き締まった大人の表情をしている。
「今日集まってもらったのは、夏の本番……いや、この碧浜プロジェクトの第2ステージのスケジュールが確定したからだ。プリントを見てくれ」
航太が受け取ったプリントの冒頭には、大きな文字でこう印字されていた。
『八月一日:栃木県那須特設データセンター・合同夏合宿スケジュール』
「那須の、データセンター……!」
航太の目が、歓喜に丸くなった。妄想ノートを抱え、ずっと古い合同庁舎の地下にこもっていた自分たちが、ついに外の世界の、それも本物の巨大なサーバーがうねりを上げる心臓部へと足を踏み入れるのだ。
「へえ、涼しい高原で合宿かよ。悪くないじゃん」
悠馬がプリントを指先で回しながら不敵に笑う。愛衣も
「那須のデータセンターなんて、普通の中学生は絶対に入れない場所だよね! 楽しみ!」
と、テストの疲れを一瞬で吹き飛ばして笑った。
「大興奮のところ悪いが、これはただの観光旅行じゃない。プリントの2枚目を見てくれ。お前たちジュニアクラスと合同で動く、『カレッジクラス』の参加メンバーのリストだ」
零士さんがコンソールを叩くと、メインモニターに合宿のフォーメーション図が映し出された。画面の向こうからは、都市政策科学科の恵美さんが
「みんな、中間テストお疲れ様! 八月からの合宿、私も凄く楽しみにしてるよ!」
と手を振ってくれている。
だが、航太の目は、そのリストの下部に並んだ、いくつかの「奇妙な空白」に吸い寄せられた。大学生の恵美さんたちの名前の下に、名前も所属も伏せられた、いくつかの匿名プロファイル(ブランクアカウント)が並んでいるのだ。
「……おい、零士さん。この隠されてるアカウントのログ、何だこれ」
悠馬の目の色が変わった。瞬時にハッカーの顔に戻った彼は、デスクのキーボードを引き寄せると、許可されている範囲でその匿名のプロファイルを画面上で軽く叩いた。ディスプレイに、暗号化されたパケットのヘッダー情報が高速で流れ出す。
「ただの大学生のインターンじゃねえぞ。このファイアウォールの仕様を逆手に取ったプロトコルの組み方……めちゃくちゃ尖ってやがる。誰だよ、これ」
悠馬の指が止まる。その肌が、目に見えない強者の気配を察知して、チリチリと痺れるような感覚を覚えていた。
零士さんはマグカップを置き、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「気づいたか、悠馬。カレッジクラスっていう名前だが、そこには大学生だけじゃなく、特定の分野で大人を遥かに凌駕する技術を持った『超優秀な高校生メンバー』も含まれているんだ。彼らはJNMCOMが特区用に用意した次世代セキュリティ基盤の、言わば『守りのハック』をしなやかにこなしている。お前たちと同じ、あるいはそれ以上の天才たちさ。今回の合宿で、お前たちは彼らと初めて対面することになる」
「高校生の……天才メンバー」
愛衣が息を呑んだ。自分たち中学生のジュニアクラスが碧浜の街で成果を出してきたように、高校生や大学生の先輩たちもまた、大人のインフラの裏側で凄まじい実績を積んでいる。その見えない先達たちの存在が、ラボの空気に心地よいライバル心と、圧倒的な緊張感を注入していった。
悠馬の口元が、挑戦的に歪む。
「おもしろいじゃん。大学生だけだと思ったら、同世代の化け物が隠れてたわけか」
「学校のテストや、まだ見ぬ先達の存在に怯えている暇はないわね、ジュニアたち」
ラボの自動ドアが開き、圧倒的なオーラと共にクロエ先生が姿を現した。
彼女の切れ長の瞳は、七月の強い日差しを浴びて、いつも以上に冷徹で美しい光を放っている。教壇のデスクにゆっくりと歩み寄ると、3人を見据えて冷酷な事実を告げた。
「七月後半の夏休み開始から、八月一日の合宿までの期間。碧浜のテーマパーク周辺は、これまでの五月や六月の比ではない、年間最大の『超繁忙期』を迎えるわ。そして、あなたたちに課される七月のアジェンダは、これまでのような『その場のひらめき』で一発解決できるほど甘くはない」
クロエ先生はホログラム画面を展開し、赤い巨大な警告グラフを3人の前に突きつけた。
「これまではアジェンダをその日のうちに解決させてきたけれど、今月からは複数日のクラス構造へ移行します。あなたたちが知恵を絞り、プロンプトを提出するたびに、私はその論理の矛盾や瑕疵を徹底的に論破し、弾き出すわ。あなたたちは何度も失敗し、打たれ、学びを得ながら、明日も、また明後日も、放課後の限られた時間の中で繰り返しプロンプトを潰していくのよ」
クロエ先生の指先が、航太の妄想ノートを鋭く指した。
「年間最大のピークを迎える超繁忙期のテーマパーク。そこから溢れ出す、五月の数十倍の観光客の熱量。高校生たちに那須の合宿で子供扱いされたくなければ、この七月の数日間の試練の中で、あなたたちのプロンプトの処理能力と論理構造を、大人の領域へと引き上げなさい。さあ、最初のトライを始めなさい、航太」
窓の外からは、七月のけたたましい蝉時雨が地下まで微かに響いていた。中間テストを終え、日常の泥臭さを経て少しだけ大人に近づいた3人は、互いの顔を見合わせ、深く頷いた。
まだ見ぬ最強の高校生メンバー、そしてクロエ先生が突きつける数日間の試練。
碧浜の突き抜けるような夏空の下、航太は新しくなった妄想ノートの最初のページに、引き締まる決意と共に力強くペンを走らせた。




