第20話:春の風と、二段ベッドの小さな相棒
四月の終わりに吹き抜ける風は、すっかり冬の冷たさをパージして、微かに初夏の匂いを運んできていた。
ゴールデンウィークの初日。碧浜駅のロータリーに面したオープンカフェのテラス席に、浅羽航太は所在なさげに座っていた。いつも秘密ラボで着ている無頓着なジャージ姿ではなく、お気に入りのネイビーのパーカーにジーンズという私服姿の自分自身に、どこか落ち着かない。
「おーい、航太! 待たせたな!」
ロータリーの向こうから大きく手を振りながら駆けてきたのは、悠馬だった。オーバーサイズのストリート系Tシャツにキャップを斜めに被った姿は、いかにも都会的で垢抜けている。
「おはよう、悠馬。私服、なんか新鮮だね」
「そうか? お、航太のパーカーもいいじゃん。あ、愛衣ちゃんはまだか」
悠馬が隣の椅子を引いてドカッと腰を下ろしたのとほぼ同時に、
「ごめん、遅くなっちゃった!」
と、息を切らせた愛衣がテラスに滑り込んできた。いつものきっちりした制服姿とは違い、白いサマーニットにチェックのスカート、ポニーテールに結んだ長い黒髪が、四月最後の陽光を浴びてキラキラと揺れている。
「おはよう、二人とも。男の子たちを待たせちゃうなんて最悪よね、ごめんなさい!」
「いや、俺も今着いたばっかだからセーフ! とりあえず、なんか頼もうぜ」
悠馬が慣れた手つきでテーブルの端にあるQRコードをスマートフォンで読み込んだ。だが、画面を開いた途端、悠馬はフッと小さく眉をひそめた。
「うーん……やっぱり日本のカフェのモバイルオーダーって、ちょっとUIが硬いっていうか、ステップが多いな。深センのストリートの屋台だったら、QR読んだ次の瞬間には脳波や顔認証の自動決済でサクサク注文完了して、10秒後にはブレックファストが出てくるのに」
「へえ、顔認証は普通だけど、屋台でそこまでスムーズなのは凄いね」
航太が感心して頷く。
「そうだよ。3歳児でもデバイスなしの生体認証だけで、一瞬で買い物が完結するんだ。街中にドローンがビュンビュン飛んでて、プログラミング言語が日常会話に混ざってるような環境だったからさ。だから、この春に日本に帰国したとき、手続きの手数が多くてちょっとびっくりしたわ」
悠馬はケラケラと笑うが、航太と愛衣は圧倒されていた。
この春に新設された碧浜ジュニアラボ。そこに悠馬が採用された理由は、まさにその「深セン育ち」という最先端のデジタル環境下で、呼吸をするようにテクノロジーを吸収してきたインターナショナルな感性が買われたからだった。
「凄いね、悠馬君……」
愛衣が感嘆の息をもらす。
「私なんて、スマホのアプリを入れるだけで毎回パスワードを求められて大騒ぎするのに」
「いや、愛衣ちゃんこそ、あのクロエ先生の悪魔的な英文読解の課題、毎回一発でクリアしてるじゃん。あれ、俺には絶対無理」
悠馬が本気で感心したように言う。
「それは……私、ただの勘違いから始まってるから」愛衣は少し頬を赤らめながら、アイスラテのストローをいじった。「私、碧浜生まれの碧浜育ちでしょ。小さい頃から、ここの大きなテーマパークが世界で一番大好きなの。だから将来は、絶対にあのパークのキャストになって、世界中のゲストを英語でお迎えするんだって決めてたのね。それで、市が主催する『ジュニアラボ』の募集を見たとき、『あ、ここで英語を教えてもらえるんだ!』って、なんだかよく分からないまま、勝手に思い込んで応募しちゃったの」
「えっ、プロンプトのラボだって知らなかったの?」
航太が驚いて聞き返す。
「そうなの! 行ってみたらAIに英語で指示を出すとか、規約を読み解くとか言われて、最初は完全にパニック。でもね、私、地味にコツコツ勉強するのだけは得意だから。パークの歴史やガイドラインを英語で丸暗記するくらい勉強してたから、文法力とか、ルールをロジカルに組み立てるのだけは自信があったの。そしたらクロエ先生に『あなたのその厳密な思考力こそ、AIを縛るプロンプトに最も必要よ』って言われて……」
「なるほどな。だから愛衣ちゃんのプロンプトって、指示の条件がめちゃくちゃ綺麗でバグがないんだ」
悠馬が納得したように深く頷いた。
「じゃあ、航太は?お前、修学旅行の後に急にプロンプトの天才みたいになったって聞いたけど」
「天才なんかじゃないよ」
航太は照れくさそうに頭を掻いた。
「僕は、修学旅行のときに偶然、英語プロンプトの面白さに気づいただけ。それからは、自分の『妄想ノート』に、AIにこういう世界を作らせたらどうなるかっていう英語の指示を、ただ独学で書き殴ってたんだ。そこを……まあ、うちの父親に若干プッシュされて、運良くラボに拾われたって感じかな」
「でも、おじさんの後押しがあったとしても、あのクロエ先生が実力のない奴をラボに残すわけないって」
悠馬が笑いながら、運ばれてきたポテトをつまんだ。
「そういえば、航太君」
愛衣が思い出したように、身を乗り出してきた。
「先日のClassの最後、航太君が作った完璧なプロンプトのことで、丸山室長や航太君のお父さんがラボに飛び込んできたじゃない? あのとき、どさくさに紛れて聞けなかったんだけど……途中で航太君が言ってた『JSON構造』って、結局何だったの?ちょっと難しくて、よく分からなかったんだけど」
「あ、それ俺も気になってた! ホラー映画の怪物みたいな名前だけど、何かの呪文か?」
悠馬もポテトを咥えたまま乗っかってくる。
航太はクスッと笑い、自分のグラスを見つめながら説明を始めた。
「呪文じゃないよ。AIやコンピューター同士が、データを一番シンプルに、迷わずにやり取りするための方程式、フォーマットのことなんだ。AIって、普通に英語や日本語で質問すると、余計な解説をダラダラ喋っちゃうでしょ?『予測ですが~』とか『一概には言えませんが~』とか。でも、それじゃJNMCOMの商店街の端末が読み込めなくて、システムがエラーになっちゃうんだ」
「うん、確かにAIってたまに言い訳っぽいこと言うよね」
愛衣が頷く。
「でしょ? だから、このJSONを使って、店舗のID、予測時間、予想人数、っていう『見出し』と『中身』をセットにした箱(構造)だけを指定するんだ。そうすると、AIの脳みそが強制ギブスで縛られたみたいになって、人間の言葉での無駄話を一切やめて、必要なデータだけをキッチリその箱の中に詰め込んで出力してくれるようになる。文字数も極限まで節約できるし、そのままJNMCOMのインフラに流し込めるんだよ」
「なるほどね……!」
愛衣の目の前がパッと開けたように輝いた。
「ただホテルに泊まるだけの観光客を街へ連れ出すために、AIに余計なノイズを喋らせず、一瞬で店舗の端末に『未来の需要』を通知するためのハコだったんだ。航太君、やっぱり凄い!」
「いや、僕もクロエ先生にシバかれながら、必死で削り出しただけだから」
航太は照れくさそうに頭を掻いた。
ラボに採用されてからの四月、彼らは息をつく暇もないほどClassと実践課題に追われていた。大人の巨大な再開発計画の裏側で、常に緊張の糸を張り詰めていた3人。
「せっかくの連休だし、飯でも食いながらお互いのことをもっと知ってきなよ。ラボの中だけが仲間じゃないぞ」
そう言って、ラボの休みに入る前にこの集まりを勧めてくれた、市役所の職員でありラボのファシリテーターでもある零士さんの言葉が、航太には今、よく分かった。零士さんは丸山室長の部下でありながら、ジュニアたちにとっては誰よりも近い距離で支えてくれる、頼れる兄貴分だった。
「ねえ、もう一つ聞いていい?」
ポテトを口に運んでいた愛衣が、悪戯っぽく微笑んだ。
「前、ラボでシステムのアカウントを作るときに、航太君の部屋の写真がチラッと画面に映ったでしょ? あのとき気になってたんだけど……航太君って、一人っ子だよね?」
「うん、そうだけど」
「なのに、なんで部屋に大きな二段ベッドがあるの? もしかして、誰かお泊まりにくる用?」
「あ……」
航太は一瞬ぽかんとした後、少し照れくさそうに笑った。
「いや、あれ、僕の弟が使ってるんだ」
「えっ!? 弟!? 一人っ子なのに?」
悠馬も身を乗り出す。
「人間の弟じゃないよ。僕が保育園の時に、我が家にやってきたオスのチワワがいるんだ。名前は『ポポ』っていうんだけどね」
「ポポ! 可愛い名前!」
愛衣が手を叩いた。
「もうかなりの年齢なんだけど、ずっと一緒に育ってきたから、僕にとっては完全に『小さな弟』なんだ。小学校に上がって、僕が自分の部屋で一人で寝るようになったとき、どうしてもポポと離れたくなくてさ。そしたらお父さんが『じゃあ、いつでも同じ空間で過ごせるように』って、二段ベッドを買ってくれたんだ。下段のマットを全部外して、ポポの専用の犬用ベッドとハウスを丸ごとそこに設置したんだよ。だから、下段はポポの部屋」
「何それ、めちゃくちゃ最高じゃん!」
悠馬の目が輝いた。
「俺、深センのマンションがずっとペット禁止だったから、犬と暮らすのすげえ憧れだったんだよ。二段ベッドの下にチワワの弟がいる生活とか、贅沢すぎるわ」
「あいつ、僕が上段のベッドで寝転がりながらノートPCでプロンプトを考えてるとさ、下からクンクンって、小さな寝息が聞こえてくるんだ。僕が煮詰まって溜め息をつくと、トコトコハシゴの近くまで来て、下から見上げてくるの。ほら、これなんだけど……」
航太はポケットからスマートフォンを取り出すと、画面を二人に向けて滑らせた。液晶に映し出されたのは、二段ベッドの下段で、大きなクッションに体をうずめて気持ちよそうに丸まっている、小さなチワワの写真だった。つぶらな瞳を少しだけ開けて、航太のカメラを見つめている。
「うわあああ! 可愛すぎるってこれ!」
悠馬が声を上げ、スマホを奪うようにして顔を近づけた。
「おい見てみろよ愛衣ちゃん、この耳! おもちゃみたいじゃん!」
「ちょっと悠馬君、私にも見せて!」
愛衣が隣から覗き込み、両手を頬に当てて身悶えした。
「嘘、本当に可愛い……! 二段ベッドの下にこんな天使みたいな弟が待ってるなんてズルいよ、航太君! あ、こっちの写真、お正月のやつ? 小さな帽子被らされてる!」
「あはは、それ、お母さんが無理やり乗せたんだ。あいつ、すぐ落としちゃうんだけどね」
二人が画面をスワイプするたびに「可愛い!」「これは反則!」とテラス席は大盛り上がりになり、航太はくすぐったいような、誇らしいような気持ちでラテをすすった。ポポの存在を共有したことで、張り詰めていた心の境界線が、一気に、そして完全に溶けていくのを感じていた。
テラス席に、中学生らしい邪気のない笑い声が響き渡った。
大人が仕掛ける、碧浜独自の『宿泊税改革』やJNMCOMと挑む『ふるさと経済圏パス』の巨大なビジネス、そしてその先にあるという『州制移行』のカード。それらは確かに、この街の未来を揺るがす大きなうねりだ。
けれど今、四月最後の柔らかな青空の下で、アイスラテを飲みながら笑い合っている彼らは、ただの12歳の少年少女だった。同じ秘密の未来を共有する親友として、彼らの心の距離は、四月のどんなClassよりも確実に、固く結びついていく。
「さあて、エネルギーもチャージしたことだし、この連休で僕たちも未来の準備を始めなきゃね」
愛衣がポニーテールを揺らしながら、悪戯っぽく微笑んだ。
「おう、大人が泥臭く街を回ってる間に、俺たちもプロンプトをさらに研ぎ澄ましとかないとな!」
悠馬がキャップのツバをクイッと上げる。
航太は、自分の席に戻ってきたスマートフォンをそっとパーカーのポケットに収めた。下段で待つ小さな弟の温もりを思い浮かべながら、四月の穏やかな風が運ぶ未来の足音を、航太は心地よくその胸に受け止めていた。




