白い結婚終了まで、残り一ヶ月
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ひとまず、我が国のおしどり夫婦について説明しよう。
王子殿下と王子妃殿下は幼馴染で、甘酸っぱい恋を繰り広げている。お互いへの溺愛ぶりは、傍から見ていれば一目瞭然だ。問題は、側妃や愛妾を極力ほったらかしにしている点である。王子の父君は王家を娼館同然に変えてしまうほど、己の欲望に忠実な御仁だ。当然、世継ぎを、世継ぎをと騒ぎ立てる。
その矢面に立たされているのが、他でもない王子である。
結果、傍目には女を周りに固めた格好になっている——そういう体裁が必要らしい。
その割を食った第三者が、私——エリアス・ビートネア公爵令嬢だ。王子妃は頑なに夜伽を拒む一方、私は駒としての性能が充分に高いと判断されたらしい。三年経っても子を成さない異例の事態とあれば、側妃を召し上げるのは自然な流れではある。要するに、放置される側妃の仲間入りというわけだ。
大いに迷惑な話だが、王子には色々と恩がある。渋々受け入れることにした。
思い返せば、二度ある。
一つは、兄の失態を水面下で封じてくれたこと。公の場で明るみに出ていれば、ビートネア家は一夜にして終わっていた。もう一つは、領地が最も苦しかった頃、王都の商会との取引口を裏から整えてくれたことだ。
どちらも、一言も恩着せがましいことを言わなかった。
だから余計に、断れなかった。
元より、愚息と呼ばれた兄とは裏腹に、私は充分可愛がられて育ってきた。蝶よ花よと甘やかされ、乳母には読み書きから身の回りの世話まで手をかけてもらった。侍女の選抜を片っ端から手伝ううちに、エリアスは都合のいい当て馬として目をつけられていたらしい。
腹立たしいが、親への恩も返さなければならない。国家中枢が苦慮する中、入籍は驚くほど迅速に決まった。もっとも、私とて婚約破棄を一方的に突きつけられ続けてきた令嬢の一人だ。
理由は単純——可愛げがない、それだけのことだ。
王都へ向かう馬車の中で、見送りの人々が塵のように小さく散らばっていくのを眺めた。
騎士号を持つ幼馴染の子息。
よく働いてくれた侍女頭。
父は我が家の地位が盤石になったと喜び震え、兄は才色兼備の女性たちに囲まれている。ただ母一人が、ハンカチを手に佇んでいた。御者席を気にかけながら、無言で座る王子だけがそこにいた。
殿下は一瞥もくれず、鋭く睨みつけてきた。
「配膳に避妊薬を入れてある」
「わかりました、陛下」
(側妃はお世継ぎを産むのが仕事なのでは…なんて言えないけど)
側妃の立場など煩雑なだけだ。下手をすれば、家族や領民の立場まで危うくなりかねない。終日笑みを振りまき、劣悪な環境に置かれ、雑務を押しつけられる未来が目に浮かぶ。せめて忌避くらい、できないものだろうか。
「あと……家政を頼む」
「かしこまりました、麗しの王子様」
適度に距離を置かれているほうが、こちらとしても好都合だ。とはいえ、思っていることがうっかり口をついて出れば追放もある。賢く使い回されるのも御免だ。深夜に自室へ飛び込んできて、王子妃と喧嘩したと泣きつかれでもしたら目も当てられない。そんな関係は、断固として御免だった。
「自室は設けてある。荷物はそこに置け」
森林地帯を抜けたあたりで、国境関門が現れた。
無数の近衛騎士が列をなし、鐘楼から盛大な音が響き渡る。
屋敷の自室へ案内されると、王子はそそくさと去っていった。
午後から王子妃陛下と鼎談を、と言われたときには大いに驚いた。使用人に連れられ、応接室へ向かうのかと思いきや、案内された先は夜会の場だったのだから。聞けば、当の王子妃——マリア・ナナリアス様に丁重に断られたとのこと。茶菓子と薬草を手に「ご希望には添いかねます」と、見事に追い返されたらしい。
夜会の場とは名ばかりで、実態は王子妃の私的な茶会だった。
招かれた面々は、見覚えのある顔ぶれだ。放置されている側妃たちである。貴族令嬢から商家の娘まで出自は様々だが、揃いも揃って暇を持て余しているという一点だけは共通している。
王子は相変わらず王子妃へ密着した様子で、側妃たちには一顧だにしない。
美貌と家柄だけで召し上げられた愛妾は愛想を振りまき、知識や領地経営に長けた者はボロ雑巾のように扱われる。誰が寵愛を受けられるかもわからない中、互いに仲良くできるはずもなかった。
そんな中、妃陛下から屑でも見るような視線を向けられた時には、さすがに驚いた。側妃が増え続けることへの苛立ちは理解できる。それでも、仮面を剥いだ顔はあまりに浅ましかった。王位継承者の妃として焦っているのか——あるいは、現王の死期でも悟ったのだろうか。
「ごきげんよう。来てくださってありがとう」
近づいてきたマリア様の口元が、微かに引き攣っている。
屋敷に誰かを迎える際、相手に求められるのは充分な謙虚さと、朗らかに笑っていられる忍耐強さだ。実際のところ、側妃の中には実家へ戻る者も、別の貴族と婚姻する者もいる。誇張して言えば、一種の戦争だ。側妃の座を狙っていた有力貴族から嫌がらせを受けるのは、織り込み済みの話である。中庭に見える白薔薇が、赤ワインの水面に揺れた。飲み物に毒は入っていない。初日は様子見、といったところか。
「あ、ルドヴィク様……側妃の皆さんへご挨拶を」
ルドヴィク・ナナリアス——王子陛下の戸籍名だ。
彼は素っ気なく挨拶だけ済ませると、逢瀬の誘いもなく立ち去った。
「ごめんなさいね。あと……帳簿の管理もよろしくね」
「かしこまりました」
「貴女を鼎談ではなく夜会にお呼びしたのは……この雰囲気に慣れてもらうためなの」
「そうですか。ご教示いただき、ありがとうございます」
「畏まらなくていいわよ。では、私たちはこれで……」
マリア様とルドヴィク殿下が去ると、部屋の空気が変わった。
扉が閉まった瞬間、それまで押し黙っていた側妃たちが、一斉に息を吹き返したようだった。
「ビートネア公爵令嬢でしたっけ」
最初に声をかけてきたのは、派手な装飾の耳飾りをつけた令嬢だ。
美貌枠、と一目でわかる。笑顔だが、目が笑っていない。
「ええ」
「帳簿の管理、任されたのですって?随分と買われたものね」
「お役目をいただいただけですわ」
「まあ」と彼女は扇で口元を隠した。
「でも、帳簿係なんて、要は使用人と同じじゃない。側妃の格を落とすようなこと、よく引き受けられるわね」
周囲がくすくすと笑う。示し合わせたように、間が良かった。
——なるほど。
私はようやく合点がいった。
鼎談を断り、応接室ではなくこの場へ呼んだ理由。マリア様自らが手を下す必要などない。側妃たちに新入りを放り込めば、あとは勝手に片がつく。
「帳簿係でも使用人でも構いませんわ」
私は微笑んだまま答えた。
「王子陛下とは…極力関わらないつもりですもの」
座が、しんと静まった。
「……な、どういうことよ?」
「契約です。それ以上でも、それ以下でもありません」
動揺した様子の令嬢たちを眺めながら、私は冷めかけた紅茶を口に運んだ。
怒る気力も湧かなかった。ただ、ひどく疲れた。
公爵家とは言えど、領民の離反や窮乏が酷かった時期があった。
商会との取引条件の見直し——使用人の配置の最適化——幼ながらに、帳簿を漁る母の姿は目に焼き付いている。最終的に利益だけを見る父とは裏腹に、母は誰よりも唯ならぬ努力をしていた。何歳になっても婚約破棄ばかり強いられるエリアスを、誰よりも励ましてくれた。稽古で疲れた時も、教育係に尻を叩かれた時も、いつも当たり前のように見守ってくれた。
侍女も面倒見が良かった。食事時も厨房へ指示を回して、いち早くお膳を渡してくれた。それでも、侍女頭を含めて数人の侍女がいたが、屋敷に置いて来たのだ。陰気臭い娼館へ彼女たちを招待してはいけないから。それと引き換えに、エリアスの居場所はたちまち消えてしまったが。
目が覚めると、見慣れない天蓋があった。
寝台の端に、ルドヴィク殿下が座っている。こちらを見もせず、窓の外へ視線を向けたまま、開口一番こう言った。
「知っていると思うが、俺がお前を愛することはない」
あっけらかんとした声だった。宣告というより、天気の話でもするような調子だ。
「存じております」
「マリアだけだ。それは変わらない」
「ええ」
殿下がようやくこちらを見た。何か言いたげな顔をしている。同情か、あるいは確認か。
私は身を起こして、静かに口を開いた。
「一つ、お願いがあります」
「……なんだ」
「書面上、白い結婚ということにしていただけませんか」
殿下の眉がわずかに寄った。
「白い結婚、だと」
「はい。初夜不履行の記録を残していただければ、一ヶ月後の離縁もスムーズに運びます。陛下にとっても、余計な手続きが省けるかと」
「……お前は」
「ナナリアス家の体裁も守られます。悪い話ではないはずです」
殿下はしばらく黙っていた。
不快そうな沈黙だった。拒まれているのか、考えているのか、判然としない。
「わかった」
やがて短く、それだけ言った。
「ありがとうございます」
「……愛されたくないのか」
不意の問いだった。私は少し考えてから、答えた。
「殿下に、ではなく——一般論として、ですか?」
「どちらでも」
「さあ」と私は言った。
「今はただ、三年を穏やかに過ごせれば充分です」
殿下は何も言わなかった。やがて立ち上がり、振り返りもせず部屋を出ていった。
扉が閉まる。
私は再び寝台に横になって、天蓋を眺めた。
三年間、ルドヴィク殿下が私の部屋を訪ねたことは一度もなかった。
それは約束通りだった。
白い結婚の書面を交わした翌朝から、殿下は側妃棟へ足を向けることをきっぱりとやめた。他の側妃たちも同様だ。廊下ですれ違えば視線が合うことはなく、行事の場では王子妃が隣に立ち、私たちは末席に並んだ。
最初の冬が来る前に、帳簿を渡された。「前任者の分もまとめてあります」と使用人は言ったが、渡されたのは乱雑に束ねられた紙の山だった。収入と支出の帳尻が合わない。税の計算は何年分も溜まっている。商会との取引記録は一部紛失。使用人の給与台帳すら、まともな形で存在していなかった。私は机に向かい、一から作り直した。
複式簿記の形式を導入し、全ての収支を項目別に分類した。未払いの税を計算し、分割納付の嘆願書を三日三晩かけて書いた。商会との取引条件を一件一件見直し、割高な仕入れ値を是正した。使用人の配置を洗い出し、適材適所に組み替えた。
誰も頼まなかった。
誰も礼を言わなかった。それでいい、と思っていた。
義母——ルドヴィクの母君であるヒルデガルド様が初めて側妃棟を訪ねてきたのは、二年目の春だった。
「あなたの代わりなんて、いくらでもいるのよ」
ティーカップを優雅に傾けながら、まるで明日の天気でも語るように言った。
午後の陽光が差し込むサロンで、エリアスは帳簿を抱えたまま立ち尽くした。
「ルドヴィクにはもっとふさわしい女性がいるの。そろそろ身を引いてもらわないと」
本気の相手、というのは王子妃のことだろう。
今更言われるまでもない話だ。
「御意見、承りました」
「……それだけ?」
「他に何か」
義母は眉をひそめた。泣き崩れるか、言い訳をするか、そういう反応を期待していたのだろう。私はただ、帳簿の続きが気になっていた。今月の東方商会との決済期日が迫っていたから。
王子妃が側妃棟へ現れたのは、二年目の秋だった。
扉を開けると、マリア様が立っていた。侍女も連れず、一人で。
「……夜伽を」
声が、微かに震えていた。
世継ぎの問題が、いよいよ現王から直接圧力として下りてきているらしいことは、噂で知っていた。三年経っても懐妊の気配がないことへの焦りが、ついに王子妃自身を動かしたのだ。
私は少し考えてから、静かに言った。
「書面があります」
「……え」
「白い結婚の書面です。殿下の署名入りで。王宮の公証人に預けてあります」
マリア様の顔色が変わった。
「それは——」
「私を動かしたいなら、まずその書面を無効にする必要があります。ご存知でしたか」
長い沈黙があった。
マリア様は何も言わず、来た時と同じように一人で去っていった。
現王の慶事は、三年目の暮れに訪れた。
王子妃の懐妊が正式に発表された日、王宮は沸き立った。現王は手放しで喜び、廊下を歩く使用人たちまで顔が明るかった。ルドヴィク殿下が王子妃の元へ駆けつける足音が、側妃棟の廊下にまで届いた。
私は執務室の窓から中庭を眺めた。白薔薇が、冬の光の中で静かに揺れている。
三年分の帳簿が、棚に整然と並んでいた。誰も気づかなかったが、この屋敷の収支はとうに黒字に転じている。
来月、離縁の書面が届く。
それでいい、と思った。今度こそ、本当に。
◆
赤子の命名式は、王宮の大広間で催された。
天井まで届く燭台に火が灯り、各国からの賓客が居並ぶ中、現王は終始上機嫌だった。
世継ぎの誕生を告げる乾杯の音頭は三度に及び、そのたびに広間が沸いた。
側妃たちは席から立ち上がり、グラスを掲げる。
「殿下のご子息の、ご健勝を」
祝賀の席に、私の姿はなかった。
広間が歓声に沸く頃、私は自室で荷物の最終確認をしていた。
三年分の私物は、思いのほか少なかった。衣装箱が二つと、小さな旅行鞄。それだけだ。
帳簿は全て棚に残していく。引き継ぎの覚書も、執務机の上に置いてきた。
次の担当者が誰であれ、困ることはないはずだ。
広間の方角から、遠く喧騒が聞こえた。乾杯の音頭だろうか。
私は窓を閉めた。
「エリアス様はどちらに?」
ご慶事の席で誰かがそう尋ねたらしい、と侍女から聞いた。
ルドヴィク殿下は何も答えなかったと。ただ、グラスを傾けただけだと。
そうだろうな、と思った。
夕刻、誰もいなくなった執務室に、西日が差し込んでいた。
整然と並んだ帳簿。引き継ぎの覚書。使い込まれた羽根ペン。
机の上には、一枚の書類が置かれていた。
離縁状だ。
署名欄に記された名は——エリアスのものだった。
婚約破棄は了承しましたので、とっととお帰り願えますか
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新作です!よろしくお願いします




