第7話 彩美の世界 その5
廃団地の屋上で彩美はハンマーを握りしめる。
西の空がそろそろ赤みを帯びてきたものの、まだそのほとんどがどこまでも広がる透明な青い十一月の空の下で。
目の前には虎目の背中があり、その向こうにたった今自分の開いたクラックがある
クラックの中からタコ足をくねらせる禍々様が墨を噴く。
虎目がそれを右手で受ける。
墨はいつものように虎目の手のひらから親指へと移動し、虎目の両手の中で唯一、地肌を見せている親指の下半分へとまとわりつく。
これですべての指関節が黒く染まった。
虎目は自身の両手を見下ろして背後の彩美に告げる。
「ご苦労様でした。これで市内全二十八箇所すべてのクラックを開きました。では、約束通り、君を幸せに――」
「いらない」
思わぬ彩美の言葉に虎目が振り返る。
「はい?」
同時にその長身に彩美が身体をぶつける。
その手にナイフを握りしめて。
その尖端が突き刺すのは虎目の腎臓。
「これは……」
虎目はなにが起きているのかわからず、戸惑い、後ずさりする。
しかし、彩美は逃がさない。
まだぽかんとしている虎目との距離を詰めて、正面からナイフをざくざくと突き刺す。
虎目の胃に、肝臓に、小腸に。
そして、虎目が前屈みになってやっと届くようになった肺、心臓、さらに膵臓を背中から刺し続ける。
虎目が大きく咳き込み、血を吐いた。
その様子を見ながら、両目を涙で赤く腫らした彩美がささやく。
「クラックと禍々様があれば世の中は壊せる。この数日、封緘者がさぼってて町が混乱するのを見てわかった。だから虎目はいらない。せっかく開いたクラックが“閉じられてもかまわない”とか意味わかんないこと言い出すし。でも、わかった」
脳裏に高校の生徒玄関で、封緘者に穏やかな笑顔を向ける虎目が浮かぶ。
「最初から封緘者とつながってたな。この――」
すうと息を吸って怒鳴りつける。
「――裏切り者があああああああああっ」
虎目はそんな彩美に言葉を返すことなく仰向けに崩れ落ちる。
彩美はそんな虎目に馬乗りになり、さらにナイフを突き立てる。
頭に浮かぶのは叔父の姿、担任の姿、そして、同級生の姿。
「どいつもこいつもあたしをバカにしやがってええええええ、ざけんなああああっ」
泣きながらざくざくざくざくざくざくざくざくざくざくざくざくざくざく……。
虎目は声を上げるでもなく抵抗するでもなく刺されるまま、暗い目でじっと彩美を見ている。
そこへばたばたと足音がやってくる。
「この先なのデスっ」
「屋上か」
扉が勢いよく開いて封緘者が飛び出してきた。
が、すぐにその場で立ち止まり、目を疑っている。
無理もない。
目の前にいるのは開封者――彩美と虎目。
しかし、そのひとりは全身から血を噴き出させて冷たいコンクリートに仰向けに。
もうひとりはそのかたわらで血まみれのナイフを握りしめて返り血に染まっている。
「ななななななにが起こってるのデス」
「ぼぼぼぼぼ僕が訊きたいっ」
予想もしてない光景にうろたえるふたりの封緘者は、しかし、すぐに我に帰る。
「と、とりあえずクラックを」
「そ、そうなのデス」
珊瑚の襟からケーブルが伸びて珪斗に刺さる。
その襟下から珪斗が銃を取り出し、クラックの禍々様へと銃口を向ける。
が、珪斗が引き金を引くより早く、銃口の延長上に彩美が立つ。
珪斗の銃弾を遮るように。
禍々様を庇うように。
思わぬ動きに珪斗が戸惑う。
「いや、そこ、どいてくれないと」
珊瑚が悲鳴に似た声を上げる。
「どくのデスっ。どくのデスっ」
おろおろと混乱するふたりの様子がおかしく、彩美は大声で笑う。
そんな彩美に珪斗は混乱している、珊瑚は混乱している。
彩美はひとしきり笑うと涙目で手にしたナイフを自身の頸動脈に当てる。
そして「こんなに笑ったのって、いつ以来だろ」と、ひとりごちて珪斗と珊瑚に告げる。
「このクラックを閉じたら、あたしは死ぬからっ」
珪斗がその意図を悟り、つぶやく。
「自分で自分を人質に……!」
珊瑚が説得に出る。
「やめるデス、死んでもいいことなんかないのデス」
彩美が怒鳴り返す。
「生きててもいいことなんかねえんだよっ」
その時、足元に横たわっている虎目がごぼごぼと血を吐いた。
珪斗が息を飲む、珊瑚が息を飲む、彩美が忌々しげに見下ろす。
虎目が彩美に語り掛ける。
「約束、を、果たす。君の、望み、願い。君を、幸せに……」
そして、弱々しく上げた黒く染まった指をぱちんとならす。
不意に彩美のポケットでスマホが着信を知らせた。
虎目が促す。
「出たまえ。君の、弟」
彩美は珪斗と珊瑚に目を向け、自身の頸動脈に右手のナイフを当てたまま左手でポケットのスマホを取り出す。
「俊樹? どうしたの?」
切羽詰まったような俊樹の声が返る。
「ねーちゃんっ? どこにいるんだよ。はやく病院へ来てくれよっ。パパとママが――」
彩美が続く言葉に意識を集中させる、心臓が加速する。
「――起きたんだよっ。もしもし? 聞いてる? ねーちゃん? あと、ばあちゃんもさっき着いて……。うん、代わるよ」
祖母の声に代わった。
「彩美ちゃん? ごめんね、こんな事故に遭ってたなんて知らなかったんだよ。でも、もう大丈夫だよ。お金の心配もいらないし、もう辛抱しなくていいんだよ。主治医にもお話して、ばあちゃんの近所の病院に移ろうね。彩美ちゃんも俊樹ちゃんもばあちゃんと一緒に暮らそうね」
彩美が弾かれたように見下ろす先で血まみれの虎目は黒い親指を突き立てて微笑んだ。
ずっと虎目が言ってきた“彩美の幸せ”とは“願い”とは“望み”とは――“世界を壊すこと”ではなかったのだ。
やっと気付いた彩美はナイフを落とし、虎目の身体から流れ出た血溜まりの中でぺたりと座り込む。
そして、堰を切ったようにあふれ出る自身の様々な感情に戸惑い、混乱して泣きじゃくる。
珊瑚が叫ぶ。
「今なのデスっ」
珪斗が応える。
「おうっ」
珪斗が改めてクラックへ銃口を向け、引き金を引く。
放たれた銃弾が禍々様を貫き、最後のクラックが消え去った。




