72時間後に地球はハムスターになる
──72時間後、地球はハムスターに変わります。
その声は、雷鳴のように轟いたわけでも、誰かの口から発せられたわけでもなかった。ただ、教室の空気を震わせるように、全人類の脳髄にすっと滑り込んでいった。頬杖をついた理花の耳にも、その響きは染み込むように届いていた。
黒板の前でチョークを握ったまま、教師はぴたりと動きを止めた。そのまま数秒、時間が凍る。やがて、溶ける氷のようにすっと教壇に腰を下ろす。誰も騒がない。ただ、かすかな吐息と、シャープペンの先が机を突く不規則な音だけが鳴っていた。
「今の、聞こえたよね?」
隣の席から、瞳が忍び声で囁く。
理花はゆっくりと頷いた。「うん。ハムスターって……言ってた」
月曜日の午後。校庭には部活帰りの生徒が数人、球を蹴っていた。だが三十分後、全校放送で“帰宅命令”が出される。世界は突如、巨大な回し車の建造計画に動き出した。
*
地球は、三つの陣営に分かれた。
第一勢力──「ナツメ社」。かつては名もなき町工場だったが、「ハム走計画」をきっかけに技術と資産を雪だるま式に膨らませ、トヨタグループや大手ゼネコンを吸収。アフリカ大陸の砂漠に直径五百メートルの人口都市型回し車が現れ、地中海沿岸はウッドチップ農場と化した。
第二勢力──「脳順宗」。動物的思考への“順応”を掲げる新興宗教。「シンプル・イズ・チュウ」を信条に掲げ、信者たちは言語を放棄し、尾で感情を表現する修行に全力を注いでいた。
第三勢力──「リス教団」は、声の意図を誤って解釈し「ハムスターではなくリスになる」と信奉。ナッツを備蓄する“神の義務”を掲げ、各地で暴動を起こしていた。創設者は元・東大哲学科教授、「リスは知性、ハムスターは盲信」と講壇を撫で回すように語ったが、後に彼の自宅地下でナツメ社製の大型回し車が見つかり、信徒の心は静かに崩壊していった。
混沌を極める世界の中で、理花だけは違っていた。彼女はひとり、特に理由もなく、どこか楽しげに微笑んでいた。
*
夜。理花はカーテン越しに澄んだ月を見つめていた。エアコンのルーバーがかすかに動く。そのとき、ふっと空気が緩んだ。
「──どうして笑える?」
それは、細いが澄んだ声だった。
振り向くと、何の前触れもなく現れた銀鼠色のハムスターがいた。驚くでも怯むでもなく、理花はただ見つめる。ハムスターは蝶ネクタイを締めており、前足で静かに額を押さえていた。頭が重いと言わんばかりに。
「君は“選ばれし者”だ。ヒトの代理となり、宇宙意思と対話する権利を、有している」
理花は一瞬言葉を呑み、それから部屋のカーテンでそっと彼に小さな寝床を作った。
「……じゃあ教えて。なぜ、地球はハムスターになるの?」
ハムスターは眉根を寄せ、視線の奥に銀河の深みを宿らせた。
「なる、のではない。──戻るのだよ」
*
太古。惑星地球はもともとハム性質の生命で満ちていたと、彼は語った。温厚で、争わず、巣穴を大切にし、余分な主張をしない調和の存在。それが“ハム性質”。宇宙が理想とした生命の原型。
だが、人間はそれを忘れてしまった。
コンクリートの狭間に飛ぶ怒声、朝を追いかける疲弊しきった足音。敵意のスパイスを含んだ情報が眼前を埋め尽くし、光と音が心を侵した。やがてハム性質は風化し、地球は“修正”を望まれた。
「あと三十八時間と──十三分だ」
理花はその声を噛み砕きながら、口に含んだミルクティーの味を確かめた。不思議なことに、それは鉛筆の芯の風味に似ていた。
*
翌朝の教室は、遠足前夜の空気を帯びていた。
「聞いた? 文科省が“ハムスター課”作ったんだって」
「ナツメ社の社長、最近、毛が銀色になったらしいよ」
教室の片隅にはチョコボールの空き箱で作った回し車があり、数人の男子が順番に回しては目を回している。その様子を眺めながら、瞳がハムスターモチーフのカチューシャを差し出した。
「理花も、つけない?」
理花は一瞬だけその耳飾りを見て、かすかに首をふった。
「……きっと、どっちにしても、変わらない気がする」
彼女の記憶には、昨夜のハムスターの声が残響していた。
──受け入れようと抗おうと、地球は巡る。それだけだ。
*
世界が“最後の1時間”を刻む頃、各地を異なる混乱が包み込んだ。
リス教団が原子力発電所を占拠。ナツメ社は回し車型のロケットを打ち上げて威嚇し、宗教団体は「瞑想による脳波のハム化」を宣言。だが、大多数の人々はもはや疲弊し、変化という名の劇場に拍手すら打てなかった。
その夜、理花はそっと訊いた。
「ねえ。地球が“ハムに戻る”って、本当に、良いことなのかな」
ハムスターは沈黙したまま、毛繕いを止め、目を細めた。
「……人間のままでも、もし“ハムの徳”を思い出せるなら。変わらずに、いられるかもしれない。たぶん、ね」
その瞬間、世界全体が呼吸を止めるように、長い時報が鳴った。
──ゼロ時。
*
翌朝。
世界は、何も変わっていなかった。
空気は澄み、パン屋からはほんのりとバターの匂いが漂っていた。だが、それは確かに“昨日の匂い”とはどこか異なっていた。街角には、まるで誰かの手によってそっと置かれた大小さまざまな回し車。公園の隅に、ビル屋上の緑園に──
人々の心の軸が、どこか回転を始めていた。何かが変わったわけではない。ただ、人々が“まわること”の意味を、ほんの少し思い出した。
駅のベンチで、理花はポケットから一枚のメモを取り出す。裏には、銀色のインクでこう記されていた。
──変化は、姿より、「まわり方」に宿る。
ふと見上げた先、小さな輪の中心に、あの銀鼠色の影が飛び乗る。彼が、静かに、円を描いて歩き出す。まるで世界の音叉にでもなるように。
地球もまた、その速度にそっと足並みを揃えるように、まわっていた。




