2. 恋に落ちたのは
ロジーナは右手に銀貨、左手にりんごを持ったまま、心ここに在らずであった。
姿を明かしてしまったあの日以来、セドリックのことが頭から離れずにいる。
待ち時間にもてなしてくれたこと、治療以外の会話を交わしたこと、色を塗った指先に気付いてもらえたこと、二人だけの秘密を共有したこと──。
正体を知られても、気味悪がられたり蔑まれたり侮られたりすることはなく、最後まで丁寧に接してくれた。
別れ際の笑顔が、記憶から薄らいでいかないのだ。
「ロジーナちゃん、買うの?」
話しかけられて、ロジーナは我に返った。
本来の姿で買い物をしているところで、銀貨のシルバーを見てセドリックのことを思い出してしまい、意識が明後日の方に飛んでいた。
「か、買います、買います!」
娘の姿で外に出ている時は、『癒し婆』の手伝いのロジーナとしての立ち位置だ。
魔法使いとしての仕事に支障がない用事の時には、本来の姿で過ごしている。
そのため近所の店などとは交流があり、魔法使いの手伝いをしている若い娘ということで気にかけてもらっていた。
「ええと、このりんごと野菜を少し頂けますか」
「はーい、ちょっと待ってね」
この八百屋のスミス夫妻も、親切にしてもらっている人たちの中の一人だ。
りんごを詰めるスミス夫人の背にはリックという幼い男の子が背負われ、ロジーナをじっと見つめてくる。
ロジーナは渾身の変顔を披露したが、リックはぴくりとも笑わず、興味なさそうに別の方を向いた。
「今年は暑かったでしょう、だからりんごが甘く出来たんですって。リックも、すりおろして食べさせると喜ぶのよ」
「本当に、今年は果物がどれも美味しいですね」
「はい、どうぞ。婆さまによろしくね、ロジーナちゃん」
「ありがとうございます」
スミス夫人に礼を言って、のんびりと家を目指した。
騎士団でセドリックに正体を知られてしまってから、ひと月ほどが経った。
あれからも週に一度、騎士団での仕事に通っているが、何も変わりはない。
誰からもなにも言われないので、彼は約束した通りに、周りには秘密にしてくれたのだろう。
セドリックにまた会いたいと、ロジーナは思っていた。
お茶を出してくれたお礼を言いたいし、周りの人に秘密にしてくれていることにありがとうと伝えたい。
そう考えて、これは言い訳だなとロジーナは首を振った。
これまで、『魔法使いの癒し婆』か『癒し婆の手伝いのロジーナ』という立場でしか、他者と接してこなかった。
そんな中、初めて本当の自分を知る人が生じてしまい、浮き足立っている。
正直に言えば、ロジーナのことを知っても態度の変わらなかったあの人のことを、もっと知りたいのだ。
セドリックに会えるだろうかとドキドキしながら騎士団の仕事に通っているが、治療室に彼は現れない。
元々、セドリックがやって来る頻度は高くはなかった。
ロジーナの元に来る騎士は怪我か病気の人だ。彼は怪我の少ない、優秀な騎士なのだろう。となると会う機会などあるはずもなかった。
結果、正体を知られる前と変わらぬ生活を送っている。
「はあ…………、ん??」
大きくため息をついて家に着いたところで、小さな我が家の前に長身の二人が立っていることに気付いた。
そのうち一人は、たった今考えていた人だったので、ロジーナは目を剥いた。
「おー、ロジーナちゃん!」
セドリックの隣に立っていた大柄の男性は騎士団長。
買い物かごを下げたロジーナを見て、大きな手を上げた。
「ごめんね、突然。婆さんいる?」
「こ、こんにちは。いまお昼寝中で、もうすぐ起きると思うので中でお待ちください」
慌てて家の鍵を開け、二人を中に招き入れる。
セドリックは騎士団長の後ろを遠慮がちに入ってきた。ずかずかと入って来る騎士団長とは対照的だ。
買い物かごをカウンターに置いて、ロジーナは奥の部屋に引っ込んだ。
自らに変身魔法をかけ、癒し婆の姿になってから灰色のローブを羽織る。
それから、あたかも『今起きたばかりです』というように、あくびをしながらのそのそと店内に姿を現した。
「ふああ……、なんだい突然。急患かい」
「ああ、急に悪いね、婆さん。こいつね、セドリックっていううちの部下なんだけど怪我しちゃって」
セドリックが苦い顔で俯く。
よく見ると、右腕は隊服の袖に通さず、上着の中で右手を吊っているようだった。
「骨折かい?」
「うん。しかも利き手。でさあ、婆さんの週一の治療じゃなくて、もっと頻繁に通って早く治してもらえないかと思って。来月からめちゃくちゃ忙しくなるんだよ」
癒し婆が騎士団に通うのは週に一回。確かに頻度高く治癒魔法をかける方が、治りは早い。
これまでも直接店に通いに来る騎士を引き受けたことはある。
問題は、ないけれども。
「構わないけどね……」
「それならよかった! じゃあ早速よろしく! 治療費はいつもので請求して!」
騎士団長は要件だけ告げたら嵐のように去っていった。
店内には癒し婆姿のロジーナと、セドリックの二人のみ。
──沈黙。
会いたいと思っていたのに、いざ会うと対応に困る。
しかも騎士団長の手前、癒し婆の姿になったのだ。なんだか気まずい。
とはいえ、依頼を受けたので仕事はきちんとしなければならない。
ロジーナは咳払いをして店内奥の治療室を指差した。
「え、ええと、じゃあ早速治療するかい」
「お忙しいところすみません、よろしくお願いします」
治療室は横になれる簡素なベッドと、その隣に机と椅子。患者が寝た状態でも座った状態でも治癒魔法をかけられるようになっている。
腕の怪我だけであれば、寝てもらう必要はないだろう。
ロジーナはセドリックに椅子を勧め、自らも「よっこらせ」と向かいの椅子に腰を下ろした。
「じゃあ腕を出して」
「すみません……」
肩にかけていた上着を降ろし、白い布で吊られた右腕をそうっと机の上に出した。
かすむ目を細めて、腕の様子をまじまじと見る。
騎士団の医師に処置してもらったのだろう、きちんと添え木されている。時間はかかるだろうが、機能が戻らないといったような怪我ではなさそうだ。
定期的に通って治癒魔法をかけて回復力を高めれば、通常よりも早く治るだろう。
「どうやって怪我してしまったんだい?」
「訓練中に受け身を失敗しまして、お恥ずかしいです」
「いや、よくあることさ。さあ、始めようか」
「あの……、癒し婆さま」
患部に手をかざそうとしたところで、セドリックがおずおずと声をかけてきた。
「なんだい?」
「僕はもう癒し婆さまの本当の姿を知っていますので、わざわざ姿を変えた状態でなくても大丈夫ですよ。その、変身魔法も魔力を消費すると聞きますし」
「えっ」
思いがけない提案に狼狽えて目が泳いだ。
別に魔力消費は問題にはならない。癒し婆の状態で魔法をかけることが通常で慣れているからだ。
ただ、癒し婆の姿で長時間過ごすのと戻った時に体が固まってしまっていて辛いので、本来の姿でいいのであればその方が助かる。
「じゃあ、お言葉に甘えて……。ちょっと待っといておくれ」
今日は来客の予定はない。
ロジーナは店の入口の看板を引っ込め、カウンターの上に置かれた砂糖菓子を一つ口に含んで変身魔法を解いた。
「すみません、お待たせしました」
「いえ」
娘の姿になって灰色のローブを外し、椅子に腰かけた。
セドリックが机の上に出した腕に、そっと手をかざす。
「じゃあ始めますね」
「よろしくお願いします」
治癒魔法により、淡く温かい光がセドリックの腕を照らすのを見ながら、ロジーナは失敗したなと思った。
「……………………」
「……………………」
癒し婆の姿以外で、この仕事をしたことがないのだ。
患部にかざす手は普段のしわしわとは違う、自分の手。
いつもは患者のどうでもいい話に適当に返せるし、沈黙なら沈黙で気にならないのに、今は平常心ではいられない。
ちらりと視線を上げると、セドリックは治癒魔法の当てられる腕を静かに見つめていた。
改めて見ると、非常に整った顔をしている。長い睫毛が綺麗だ。
「あの」
「ひゃっ、は、はい!!」
急に話しかけられて、変な声が出た。
「な、なんでしょうか」
「団長の依頼とはいえ、普段のお仕事に追加でこのようなことをお願いすることになってしまい申し訳ありません」
「ああ……、いえ、一般の患者さんも来ますし、騎士団の方から普段の治癒とは別で依頼を受けることもありますし気になさらないでください」
実際、騎士団に費用も払ってもらうのである。
普段からひっきりなしに患者が来るわけではないし、一人増えたところで何も問題はない。
それでもセドリックは申し訳なさそうな表情で、不安げに眉を下げた。
「治癒魔法をかけて頂いて、どのくらいで治りますか?」
「そうですね……、治癒魔法を継続すれば、大体通常の半分の時間で治ると言われています。来月から忙しくなると仰ってましたもんね、何かあるんですか?」
「来月から社交シーズンが始まるので、式典や夜会が増えて騎士団は忙しくなるんです。それで利き手ということもあり、早く治さないとと……」
「なるほど」
平民であるロジーナにはほぼ関係が無いが、社交シーズンには王都に大勢の貴族たちが集まって来る。
騎士団は繁忙期だ。
だがその前に怪我してしまったことに、セドリックは申し訳なさを感じているようだった。
「情けないです、こんな時期に怪我を、しかも訓練中にしてしまうなんて。団長にも癒し婆さまにもご迷惑を……」
「普段、怪我で治癒室にいらっしゃることはほとんどないですものね。セドリックさんは優秀なんですね、団長も信頼されているので早く治して欲しいんでしょう」
「…………」
返事がないので顔を上げると、セドリックは頬を赤くして俯いていた。照れてしまったらしい。
なんだかロジーナも恥ずかしくなって、俯いた。
「……お優しい言葉をありがとうございます」
「いえいえ……」
やっぱり、この人は他の騎士とは少し違う。
多くの騎士は自分の立場を特別だと思っており、平民に横柄な態度をとる人もいる。相手がロジーナのような魔法使いであってもだ。
なのにセドリックは自分が特権階級にいるという意識は薄そうだ。そのことにとても好感を持った。
「先ほど団長が呼んでいるのを聞いたのですが、癒し婆さまは本当はロジーナさんと仰るんですか?」
「ええ、はい。魔法使いのロジーナです」
「では、ここに通う間だけ、ロジーナさんとお呼びしても?」
「もちろんです」
嬉しくなって大きく頷いた。
『魔法使いのロジーナ』
そのように名乗ったのは、初めてだった。