1. 正体
しわしわの右手が、鈍い黄金色のドアノブを握る。
灰色のローブを脱ぐと、それと同じ色のお団子頭。まぶたは重く、その奥の瞳も灰色がかっていた。
壁にかけられた鏡に映る姿は、紛れもなく老婆である。
早くない足取りでのっそりと部屋を進み、カウンターに置かれた透明ガラスの器を開ける。
紅玉の指輪のはめられた人差し指で、残り数少ないまんまるの砂糖菓子を選んで。
「ど・れ・に・し・よ・う・か・な」
指輪と同じ色に塗られた指先で摘んだそれを口に放り込み、心臓がひとつ、大きな鼓動を立てて一瞬。
艶のない灰色の髪は光を返すふわふわのキャラメル色に。
くすんだ瞳が指輪と同じ紅色へ。
しみのある手がみずみずしく伸びて──。
「はあ、疲れた……」
老婆から十八歳の本当の姿に戻ったロジーナは、長い手足をうーんと伸ばすと、灰色のローブをカウンターにかけた。
ロジーナは魔法使いだ。
魔法使いは修業を受け、十八歳になると独り立ちする。ロジーナも親と離れ、独立したばかりだ。
こぢんまりした家は店舗兼自宅になっており、店内の棚には魔法薬が並べられている。
しかし、ロジーナの本職は薬師ではない。
ロジーナの得意な魔法は、治癒魔法。
といっても、病気や怪我の治療自体が出来るわけではなく、患部に手をかざして魔法をかけることで、そのひと本人の回復力を高めるのである。
ロジーナの母親も同様の魔法が得意であった。
独立したばかりのロジーナだが、回復魔法を使える魔法使いはあまり多くないということもあり、いまのところ一人で生活するには問題ない程度に仕事が出来ている。
しかしながら、順風満帆というわけでもない。
そのうちの一つが、本当の姿で仕事が出来ていないことである。
「体痛い……」
ロジーナが凝り固まった首をぐるぐると回すと、ぽきぽきと音が鳴った。
十八歳。
キャラメル色の髪は雨の日にはいうことを聞かないが、柔らかい手触りは気に入っているし、紅色の瞳も大好きな母親譲り。
若い娘らしく手足は長く、きちんと食べているので体型だって健康的だ。
だが、他人からするとロジーナは幼く、頼りなく見えるらしい。特に、魔法使いとしては。
娘の外見により仕事に支障があるだろうと心配した母は、当面の間、娘に老婆の姿で働くことを勧めた。
というのも、母自身が若かりし頃、そのようにしていたらしい。
若い娘の魔法使いに対し、薬の値引きを強要したり、魔法の効力に文句を言ったりと、外見ゆえに舐められていた時期があったため、姿を偽っていたと。
そのため、ロジーナは母の勧めに従って、老婆の姿で仕事をすることにした。
この店の魔法使いは「癒し婆さま」と呼ばれる老婆で、十八歳の姿のロジーナは店の手伝いという立ち位置だ。
「砂糖もそろそろ足さなきゃね」
肩を回しながら、カウンターに置かれた透明ガラスの器に目をやった。
砂糖を摂取することで、ロジーナの変身魔法は解ける。
老婆への変身魔法はそれほど難しくないものの、年老いた体は思うように動かず、ゆっくりのっそり動くので、戻った時に体が凝り固まってしまうのが悩みだ。
習慣のストレッチを済ませて、カウンターの横に置かれたお気に入りのソファに体を投げ出した。
グラデーションに塗られた紅色の指先。色の境目には小さなパールが連なる。
そのほのかな桃色をぼんやり見つめて。
「誰にも気付いてもらえなかったけど……、かわいい……」
一人ぼっちで、本当の自分を知る親しい人はいないけれど。
仕事もあるし、好きなことは出来るし、食べることには困らないのだから、毎日しあわせだ。
そう思いながら、ロジーナはゆっくり目を閉じた。
♦
「はいよ、終わったよ」
「あー、長かった」
「あまり無理しないようにね」
王城の一番端、騎士団の宿舎はロジーナの仕事先の一つだ。
週に一度、ロジーナは騎士団にやって来て、怪我や病気の騎士に治癒魔法をかける仕事を請け負っているのである。もちろん、老婆の姿でだ。
礼も言わずに治療室を出て行く騎士を見送り、ロジーナはその騎士のカルテに怪我の具合を書き込んだ。
別に礼を言われないのは彼に限ったことではない。
王城に勤めるような騎士は多くが自信家で、老婆の魔法使いになど興味は無いのだ。
母も言っていた。男性しかいない場所は、特に気を付けるようにと。
舐められるだけならまだいいが、若い娘の魔法使いなどトラブルが生じる可能性がある。仮に、ロジーナの方が強いとしても。
治療を受ける騎士が一通り終わり、帰ろうかなと腰を浮かしかけたところで、治療室の扉が優しく叩かれた。
「はい、どうぞ」
「失礼します」
わずかな扉の隙間から控えめに見えた、騎士団の制服とアッシュグレーの短髪。
顔を覗かせたのはセドリックという名の騎士だった。
今日の患者リストの中には入っていなかったはずだ。
「癒し婆さま、今日の治療は終わりましたか?」
「終わったよ。どうしたのかい、治療するかい?」
「いいえ、俺は大丈夫なんですが、外に出るのは少々お待ち頂けますか」
そう言って、セドリックはティーポットとカップを乗せたトレーを持って部屋に入ってきた。
ロジーナが再度椅子に腰かけると、セドリックは机の上のカルテを少し離してそれを置いた。
カップは二つ重ねられている。なぜ。
「外で何かあったのかい?」
「ええ、姫さまが突然訓練をご覧にいらして、入口の門が一時的に封鎖されてしまいまして」
窓の外に目をやると、多くの騎士たちが慌てた様子で走ってどこかに向かっていた。
突然王族が来るとなると、保安上の対策を急きょ行わないといけないため、出入口が閉められてしまっているということだろう。
「すぐに開かれると思いますので、すみませんがそれまでお待ち頂けないでしょうか」
「もちろん、構わないよ」
「すみません、ありがとうございます」
セドリックがカップを二つ並べて、ティーポットから丁寧な手つきでそれぞれに注いでいく。
「あんたはあっちに行かなくていいのかい?」
「ええ。姫さまは団長を見にいらしていて、急いで行っているのは野次馬の連中ですよ。癒し婆さまが嫌でなければ、俺もここでご一緒してもいいですか?」
「いいよ、休憩かい」
「いいえ、サボりです」
さらりと言われて、思わずぷっと吹き出してしまった。
それを見てセドリックも微笑む。まっすぐなアッシュグレーの髪が揺れ、灰色の瞳が細められた。
このセドリックという騎士、何度か治癒魔法をかけたことがある。
珍しい男なのだ。
初めて治療室にやって来た時に、自分から名乗り、老婆の姿のロジーナに丁寧な言葉遣いをする。
治癒魔法が終われば、きちんと礼を言い、頭を下げて帰っていくのだ。
他の騎士はロジーナのことを「婆さん」または「ばばあ」などと呼ぶか、そもそも全く会話の一つもしない人もいるというのに、セドリックは「癒し婆さま」と呼んでくるのである。
怪我に関すること以外の会話は一切ないものの、セドリックは礼儀正しい男性なんだなと思っている。
「お口に合うといいのですが、どうぞ」
「どうもありがとう」
差し出されたカップの中には、琥珀色の液体が注がれていた。香りが良い。
患部にかざし続けていて固まった両手を握ったり開いたりしてから、温かいカップを包んだ。
すると、それを見ていたセドリックが言った。
「癒し婆さまの爪、綺麗な色ですね」
「!!」
爪先に塗った色を初めて人に気付かれて、一気に頬に熱が集まった。
思わずカップから手を離し、指先を隠すように握り込む。
いや、恥ずかしくはない、はずだ。自分で綺麗に塗れたのだから。
むしろ初めて人に気付いてもらえて、褒められて、嬉しい。
「……どうもありがとう」
消え入りそうな声でそう言って、気恥ずかしさを誤魔化すように勢いよくカップを煽って。
──その瞬間、ロジーナは自分の過ちに気付いた。
心臓が大きな鼓動を立てて、カップを包んでいた指先が細く伸びる。
まぶたも、頭も、体も、軽く。
ゆっくりカップを下ろし、液面に映った自分を見る。
頬に手をやれば、しわのない張りのある肌。
顔を上げたら、驚愕の表情を浮かべるセドリックと目が合った。
見つめ合って、たっぷり五秒──。
「…………ちっ、違うんです!! わたし、不審者ではありません! ごめんなさい!」
顔の前で手をバタバタと振り、ロジーナは狼狽しながら弁明した。
「怪しいものではないです! いえ、怪しいとお感じだと思うのですが、先ほどまでのわたしも今のわたしも同じで……、ああややこしい!」
「い、癒し婆さま、落ち着いて……」
「あの、このお茶の中にお砂糖とか入ってましたか? 実はわたし魔法使いでして」
「それは知っています」
きっと先ほど口にしたお茶の中に砂糖が入っていたのだ。それで魔法が解けてしまったのだろう。
カップに注がれてからなにも入れられていなかったので油断していた。
セドリックはティーポットの蓋を開けて中身を確認したが、首を横に振った。
「分かりません、茶葉の方に調合されていたのかもしれないです。団長に美味しくて珍しいお茶だと頂いたものだったのですが」
「そんな貴重なものを……」
「ご迷惑をおかけして、大変申し訳ございません」
「いえ……」
ロジーナは視線から逃れるように俯いて背を丸めた。
セドリックが、おずおずと覗き込んでくるからだ。
「あの……、どちらが本当のお姿なんですか?」
「すみません、こちらの姿です……」
「外に出て頂くにあたって、また先ほどのお姿になれるものですか?」
「そ、それが、砂糖の影響が無くなるまで時間をおかないと変身魔法が使えなくて……」
魔力量としては問題ないのだが、しばらくは難しいだろう。
だが、そんなに長い時間待たせてもらうわけにもいかない。
するとセドリックが窓の外に目をやった。
「そうしたら、出入り業者に紛れて門から出て頂けますか? ああ、ローブは被らない方がいいかと」
「は、はい」
「門が開かれたら、窓を叩きますから、そうしたら出て行ってください」
「分かりました」
セドリックがティーポットを片付けながら、「ご迷惑をおかけしてすみません」とまた頭を下げる。
やっぱり礼儀正しい人だなとロジーナは思った。魔法が解けたのはロジーナの事情と油断のためであり、彼のせいではないのに。
「いえ、セドリックさんのせいではありませんから。それで、申し訳ないのですがこのことは他の人には言わないで頂きたくて」
「もちろん、秘密にします」
ロジーナはほっとして礼を言った。
セドリックが治療室を出て行ってからしばらく待っていると、窓の外に彼が現れて、コツコツと窓を叩いた。
口だけで「もういいですよ」と言っている。
ロジーナは頷いて、言われた通りにローブを羽織らないで部屋を出た。ここにくる時は常に老婆の姿なので、悪いことをしているような気分だ。
騎士団の門は開放されてすぐのようで、騎士や業者らしい人たちと荷物が多く出入りしていた。
ロジーナは彼らに紛れて門を出た。
門を出て振り向いたその時、遠くにセドリックを見つけた。
目が合って、小さく会釈する。
すると、セドリックが微笑んで口元に人差し指を立てた。
今日あったことは互いの秘密だ、というように。
それを見て、ロジーナは恋に落ちた。