【ステア子爵の日常】
ステア子爵位の叙爵から一年が過ぎた。冷凍馬車は二号車が完成し、王都の他、オーリス公爵領城下ホイールの街にも鮮魚が定期的に届けられるようになってた。王都では『オーリスの黒猫馬車』の名で呼ばれるようになっていて、この馬車を見かけると市場に人が群がるくらいになってる。今は月に一度の輸送だが、ガラムたちによって三号車の製作も進んでいて、いずれは王都への鮮魚輸送を隔週にすることを目論んでる。
二年前まで寂れた漁村だったステアは今や子爵領の城下町となり港町として発展著しい。なんか前世で流行った街づくりゲームを思い出すね。私にはそんな余裕なかったから友達に見せてもらった事しかないけど。そしてステアの港町を見下ろす高台に子爵邸を作らせた。お城はさすがにダメって言われたけど、万が一魔物が出た時には領民を保護する必要があるため高い壁と櫓の設置は認めてもらってる。実際に、海に面したステアの町は海の魔物が出現する事があるし。
執務室の左奥の扉を開けると私の寝室がある。そして寝室から執務室を挟んで反対側には私専用の実験室がある。使用人からの呼び名は『汚部屋』。まあカビだらけだから仕方がないけどね。そう、ついに味噌・醤油づくりの第一歩である。味噌や醤油の作り方は一通り覚えてきたが、肝心の麹がこの世界では手に入らない。だからカビから麹を作らなければならないのよね。
ガラムに隙間時間でシャーレを作ってもらってあるし、ここは港町で寒天を作るのは簡単だ。まあ最初に漁村の視察に来た時、鮮魚流通のほかにもう一つあった目的ってのが寒天だった。いくつもの寒天培地に記憶にあるものに近いカビを培養してる。麹が出来上がるまではしばらくは試行錯誤するしかないと思ってる。
そうして月の半分をステアで過ごし、残り半分はホイールに帰る生活をここしばらく続けていた。ホイールに戻る大きな理由はガラムたちだ。ステアの町に移り住むように言ってみた事もあるんだけど、とある懸案があって実現してない。その問題が片付けば移住に否はないとの事なんで、なんとかするのがホイールでの私の本当の仕事だ。
◇
ホイールの街、オーリス公爵の居城。見事な庭園だった中庭は今や畑になっていて老人が鍬をふるっていた。
「カールおじいさん、精が出るわね」
「あぁ、お嬢様。お帰りでしたか」
「悪いわね、カールおじいさん。自慢の庭を畑にさせちゃった上に農夫の真似事までやらせちゃって」
「ははは。お嬢様の我儘は今に始まったことじゃないですからな。それに驚きましたぞ。ちゃんと成果が出てきておる」
このカールおじいさん。麦わら帽子でも被らせたらどこに出しても農夫にしか見えないけど、本来は公爵家お抱えの一流庭師である。その中庭を畑に作りかえて行っていたのは大豆の輪作実験だった。
私が、というよりこの世界のエリザベスが生まれる前、このオーリス公爵領を魔物の大災害が襲ったと聞いている。陣頭指揮を執った先代公爵は殉死し父上が若くして公爵を継いだとか。臣下の掌握に苦労したとか、そのせいで公爵の騎士団は壊滅状態だとかいう苦労話を父上は稀にするが、私にとっては本題はそっちじゃない。この時の災害で領地の農作物の収穫が大きく落ち込んだままだった。農地は荒らされ、農夫も人手不足に陥っているのだから致し方ない部分もあるけど。
そしてガラムの懸案もこれに関係してくる。ガラムの工房からさらに奥に進むと貧民街になっている。ここには先の災害で戦えなくなった兵士や親を亡くした孤児たちが多く暮らしているという。ガラムはあれでお人よしだからよく面倒をみてるんだそうだ。その反動で貴族のお嬢様には最初噛みついてきたけど今となっては笑い話。ガラムの懸案は私も払拭したいんだ。
そこで考えたのが麦と大豆の輪作。これで麦の収穫量も増える。大豆は言わずもがな、醤油や味噌の材料なので私が買い上げる。そうすればみんなハッピー。そのためには父上を動かさなければならない。だが私は鮮魚輸送の一件で学んでいた。彼を動かすには目に見える形で利益を示すのが手っ取り早い。
ある日、父上を中庭に呼び出す。
「というわけで麦と大豆を交互に植えることにより収穫を上げることができるのですわ」
「うむ。エリザベスは賢いな」
「それで父上、お願いがございます」
「言ってみなさい」
「ホイールの街の外に公爵直轄の実験農場を作って、この輪作の研究を進めていただきたいのです」
「なるほど、だがそれには人手がいるな」
「このホイールにも悲しい事に貧民街がございます。彼らの多くは戦に出られなくなった元兵士や、魔物被害にあった孤児だと調べがついています。大罪人が他領から逃げこんできたという例も無くはないでしょうが少数のはず。彼らを労力として、この実験農場で雇えば農作物の収穫量増加の研究と貧民対策が同時に行えるかと」
彼らは『働けるのに働かない』のではなく『働きたくても働けない』のだ。だったら働ける環境を整えてあげればいい。頷いた父上は前向きに話を進めてくれる事を約束した。
◇
聖属性魔法が生えた……いや、聖属性に目覚めたとか聖属性を獲得したというのが正しいんだろうけど、感覚的にはまさしくニョキっと生えてきたとしか言えない。キッカケは輪作だった。
父上は約束通りホイールの郊外に公爵直轄の実験農場を作ってくれた。そこでは貧民街の住人たちを雇って麦と大豆の輪作の実験を進めてくれていて、大幅な収穫増が見込めるとの結果が出た。それを聞いた私は実験農場を自分の目で視察しに行ったんだけど、そこでまるで聖女のように崇められてしまった。ホントは私が大豆が欲しかっただけなんです、とも言えず笑顔で誤魔化していたらドンドンと持ち上げられていって。ふと気づくと今までにない力が身体から湧き上がっていることに気づいたっていう。
それで慌てて、魔法にも詳しいガラムのところに行ってみたところ、聖属性じゃね?という話になったわけだ。ちなみにゲームの悪役令嬢エリザベスの魔法属性は闇だったと思う。うろ覚えだけど。闇に対するのは光じゃないのか?とか聖属性の対になるのは魔属性じゃないのか?などなど疑問は尽きないが、まあそれは魔法学園に入学すれば教わるだろう。調べてもらったところ、一応は闇属性も持っているらしい。っていうか、私が使っているアイテムボックスは闇属性のオリジナル魔法だと周囲は思っていたらしい。
なんでも『闇には物を隠す、というイメージがある』とかだそうだ。
そんな風に私に生えた聖属性魔法だが、これが麹の研究に大きく寄与した。パン酵母とワイン酵母の培養には成功していたのだけど、ここに聖属性の魔力を注ぐと菌の増殖が活性化した。反対に腐った魚から敢えて取りだした腐敗菌は聖属性の魔力で消滅した。そんなご都合主義な……と思わなくもないが"ツキネガ"のゲーム運営は設定がガバガバだったことを思い出し、きっと現代日本で善玉菌と呼ばれるものにはいい影響を及ぼし悪玉菌と呼ばれるものは滅するのだろうと勝手に納得した。
まあゲーム運営の設定の甘さはさておき、私が麹の研究を進めるうえで大きく役に立ったのは言うまでもない。キノコですら見分けるのはとても大変というのは知ってはいた。ましてや真菌の見分けなんて中卒でネットの知識しかない私にはかなり厳しい条件だった。とにかく数打ちぁ当たるの精神で探しだすしかないと思っていたところによもやの幸運だ。
◇
ホイールの実験農場は軌道に乗り、元スラム街は今や実験農場の従業員たちの居住エリアとなっていた。それを見届けたガラムたち兄弟は私の招きに応じてステアの港町に居を移していた。
その頃、研究の傍ら私は乗馬を習っていた。父上には「上級貴族たるもの乗馬くらい嗜みませんと」と言っておいたが実際のところはホイールとステアの往復に馬車で片道三日かかるのがもったいなかったんだ。馬は鮮魚の利益から赤兎馬を購入した。名前は『スバル』だ。ステアの町の利益を自分のことにはあまり使いたくはなかったけど、時間が買えると思えば決断できた。この馬に乗って早駆けできれば午前中に出発すればその日の内にステアにたどり着ける。
『赤兎馬は一日に千里を駆ける』と言われてるそうだ。一里って約四キロだっけ?なんかゲーム的に元ネタがありそうだけど、私は知らない。一日に四千キロはさすがに誇張だったんだけど、それでもホイールからステアまで一気に駆けてもばてる様子もない。私の乗馬技術が上がればもっと早く走れそうな気配だ。
ちなみにだけど、徒歩が時速約四キロ、毎日八時間ほど歩くとして休憩込みで約三十キロ。ホイールからステアまでは約九十キロの距離がある。馬は常歩と呼ばれる人間の徒歩相当が時速約五~六キロなんだけど、荷馬車の場合は重たい荷車を引かせるので実質時速約三キロが限界で毎日十時間くらい進む。だからホイールからステアはやっぱり三日かかる。
黒猫馬車は刻印魔法と四頭立てにする事で時速五キロ強で走れるから、ステアから王都まで百五十キロ五日の距離を三日で行ける計算になる。
さすがに一騎駆けは父上が許してくれず専属の護衛騎士をひとりつけてくれた。名前はベグと言う。長い付き合いになりそうだった。父上はベグにも名馬を探し出してきて与えてた。ホントに娘には甘いよね。
そんな事している間についに、麹が完成した。魔法学園の入学まであと二年。ここからが勝負だと気を引き締めた。
◇
月日は流れようやく味噌と醤油が完成した。学園入学まであと半年、想定外のトラブルがあったとは言え本当にギリギリのタイミングで間に合った。これのお披露目の為にガラムにBBQコンロを作ってもらった。これは外見は前世のものと瓜二つで、唯一の違いは木炭の代わりに魔石と炎の刻印魔法を使う事だけだ。この仕組みについては誰でも見ればすぐわかるので特に隠さない事にした。
「おう領主様じゃねぇか。活きのいいキンメが揚がってるんだがどうだい?」
発展したステアの町で私は領主様と呼ばれて親しまれている。っていうかあまり貴族扱いしてくれない。私が気軽に町を歩き回るせいもあるし、私もまだ小娘だという自覚もある。むしろ町のみんなの娘扱いされてる気がする。この態度に怒るような使用人はホイールに帰ってもらったので割と好き勝手にできてる。それでもこの町をたった数年で発展させたのは私の手腕だっていう自負はあるし領民もそれを認めてくれているからこそ慕われているのは理解してる。
そんな領民のために今日は港での味噌のお披露目会のつもりだ。BBQコンロを使用人に運ばせて港まで歩く。さらには子爵邸の庭に作った味噌蔵から樽も一つ持ってきた。コンロの上に大きな鍋を乗せ湯を沸かす。そこに鱈やらアサリにホタテをぶち込んでさらにカニやエビまで。こんな贅沢、前世ではできなかったなあ。火が通るまで煮て、適宜灰汁を取る。前世はでハウスキーパーさんから料理を教えてもらっていたので最低限のことはできる。いいころ合いになったところで味噌を投入すると、あたりに匂いが漂いひとが集まってくる。初めて食べる味噌の味と香りにみんな大興奮だったがまだまだお披露目は終わらない。
「じゃあ、ドーバお願いね」
寂れた漁村だったステアに初めて訪れて以来、私について働いてくれているドーバは刺身包丁を取り出した。これまたガラムに頼んで作ってもらった逸品だ。「鍛冶は得意じゃないんだがなぁ」とはいいつつそこはドワーフ職人だね。ドーバのほうも今ではステアの領民たちに指導する立場になっていて黒猫馬車の鮮魚物流に欠かせない人材になっている。
見事な包丁捌きで刺身が出来上がっていく。ここで登場するのが醤油だ。この世界では生魚を食べる文化はないらしく、漁港の町として発展したステアの町でも驚かれた。なので率先して食べる。領主が食べた事で領民たちも恐る恐るといった感じで刺身を口に運ぶ。そして驚愕。どうやらこれまでは食中りを気にして生食は控えていたそうだ。でも、これだけ新鮮なら腐敗の心配はないし、寄生虫も聖属性魔法で滅せる。まあ聖属性魔法の使い手なんて希少だから仕方がない部分もあるね。
ステアの町の人たちには大好評だった味噌と醤油だけど、現代日本の経験を持つ私からすればまだ改善点も多い。鍋は魚介ばかりではなく野菜も入れたほうが美味しいし、刺身には山葵が欲しくなる。え?オマエ子供だったろって?私はそんなお子様舌ではなかったのですよ。
でも物事には優先順位がある。学園入学まであと半年。今はその準備を優先しなければ。
薄幸少女が発酵少女になりました……
これで第一章は終わりです。次回は人物等の紹介を入れてその次から第二章学園編がスタートします。
→第二章ではいよいよ悪役令嬢とヒロインが邂逅します。