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地平線の果てに、熟れきったオレンジ色の太陽が溶ける頃。ルゴダの時計塔の上で黒魔道士の男は呪文を唱え始めた。
「魔の王のしもべ達よ、旧き契りを呼び起こし、血肉の忠誠を呼び覚ませ······大いなる神の力を宿せし眷属どもよ、我が声は王の声、支配者の想起······忘れられし血の記憶を戻せ、再びこの世に災いを成せ······」
横で震えるように身を縮めるスティング。それは魔道士の邪悪な魔力に当てられたからではなく、未だに首筋に残る冷たい感触からである。
「く、く、くそっ、くそ······」
既にスティングの精神は正常で健全な状態ではなくなっていた。元々追い詰められ、ストレスによって疲弊しきっていたところへトレイルからの屈辱的な仕打ちを受けたのだ。
まともな思考は残されておらず、混乱して衝動的な行動ばかり選ぶ。
つまり、ヤケになっていた。
「は、早くしろ! ぺ、ペスト隊長には伝えてある! 今すぐ町を襲え······!」
「──······。しばしお待ちを。もうすぐ召喚が完了しますので」
町では人々が変わらず穏やかな日常の営みを続けていた。
腹を空かした労働者や子供らが家路へと急ぐ。夕日色の道にはいくつもの長い影が自宅へと伸びている。
しかし、魔道士の男にはハッキリ見えていた。
そんな当たり前の景色の中に浮かぶ巨大で不気味な魔方陣。町の南側にボンヤリと光っているのが。
幾何学的な直線を幾重にも不規則に重ね合わせた模様の狭間に、抽象的で古代的な文字がいくつも連なっている。所々に、意味を成しているのかさえ不明な紋様も光っており、それら一つ一つが民家を飲み込むほどだ。
それほどの規模の魔方陣であったが、その上を通り過ぎる者は誰一人として気にも留めなかった。
誰にも見えていないのである。
「もう間も無く“門”を開けます。ご用意を」
「やっとか······!」
スティングは立ち上がり、腰に着けた剣をグッと引き寄せた。
「や、やっと、やっと僕の傷ついた心が報われる! 僕が、僕が輝かしい栄誉を取り戻す時が······」
塔内部への階段を下りて行くスティングを横目で見送った男は、薄ら笑いを浮かべた。
「間抜けな貴族のお坊ちゃんが。一体どういう育て方をすればああいう救いようのない愚か者になるのだろうか。まあ、もっとも、その愚かさのお陰で私はこの魔術の実験が出来るのだからな。ああいう馬鹿には感謝だ」
男が手を掲げると、巨大な魔方陣の輝きはいよいよ妖しさを増していった。
「フフフ。これ程の規模の魔導陣を作成するのは私とて初めてだ。ガラにもなく心が昂っている」
男が懐に手を入れる。取り出されたのは、小さな黒い宝石のような欠片であった。
「さあ、始めようか。魔の饗宴を。人間どもよ、思い出すがいい。貴様らは大いなる力のために用意された供物である事を!! 我ら闇の使徒が天啓を下してやろう!」
ぼんやりと光を帯びた欠片は独りでに浮かび上がり、男の手から解き放たれた。
小さな煌めきを残した流星となり、魔方陣のまん中へと落ちていった。
その途端、誰もが足を止めた。
ビクリと体を震わせて、何もない虚空に何かを見つけ出そうと周囲を見回す。
不安に駆られた幼子が母親の腰にしがみつく。犬のけたたましい鳴き声が狂ったようにあちこちから響いた。
町中にフッと闇が落ちた。
それは日が沈んだからではなく、深く、濃い闇の霧が町を抱擁したからであった。
邪悪な気配が全てを包み込んでいく······。
お疲れ様です。次話に続きます。