漆黒の影の世界で轟く微かな声
「珍しいねヤマブキくんが送ってくれるってさ」
「あ、う、うん。たまには一緒に帰りたいからね」
ヤマブキとマナが共にヤジマ家に向かっていた。
「あれ。シゲさんこんにちは」
近所の八百屋の店主であるシゲさん。
奥さんと離婚して娘とは離れ離れになってしまったらしい。
離婚理由は妻の不倫とか何とか。
時々安値で野菜を買わせて貰っているためにマナはシゲさんの事を良い人だと認識している。
「⋯⋯学校帰りかい?」
「はい」
「その子は⋯⋯はじめましてだね」
「はい。僕、ヤマブキと言います」
「おぉ、そうかい」
優しそうな表情にヤマブキの緊張の糸がほどけた。
マナが少し話をしており、毎回相槌を笑顔で打ってくれる。
「そう言えばシゲさん、あのおっきな車ってシゲさんの? 停まっているようだけど⋯⋯」
「そうだよ。貸してくれる人がいてね」
「へ〜」
六人は乗れる程の大きさがある車である。
ヤマブキもその車を見て、違和感に気づいた。
それはナンバープレートの部分。
ここら辺の市名や県名ではなかったからだ。
「ね、マナちゃん」
「なに?」
「ここって⋯⋯学校近くだよ」
「そうだね?」
信頼している相手が近くにいて、そして最近感じていた視線もない事から警戒心が薄くなっていた。
遠回しのヤマブキのヒントが通じない。
学校の近くであり、家の近くでは無い。つまりマナの家の近所では無い。
それ即ち、八百屋は近くにない。
知り合いの子供が通り道に居たからと言って車を停めてまでやって来るだろか。
せめて車の中で軽く挨拶するくらいで終わるだろう。
ヤマブキの警戒心が上がった⋯⋯それと同時だった。
シゲさんの手がマナの腕を捕まえたのは。
「え、何?」
「ちょっと一緒に来てもらうよ」
「いや、無理だよ。帰るし⋯⋯痛いよ? 離してっ!」
じゅるり、舌なめずりをしたシゲさんの目は黒く濁っていた。
ここでようやく、マナは危険だと分かった。
逃げるために暴れるが、大人の力には劣る。
「痛い。離してっ!」
「ようやく、ようやくワシにもチャンスが巡って来たんだ。ずっと我慢してたんだ。自分の理想の肉体になるまで」
「何⋯⋯言ってるの?」
誰に話している訳でもない一人語り、それがマナの恐怖心を最大限高める。
誘拐。その二文字が浮かび上がるまでそう時間はかからない。
「ま、マナちゃんを離せ!」
自分の方が弱い事を理解しているヤマブキ。
マナよりも弱い事を強く理解している。
だけど抗えずにはいられないのが男であるヤマブキだった。
その勇気は賞賛されるべきモノだ。
「邪魔だ!」
「ヤマブキくんっ!」
殴り飛ばされた友達を心配するために叫ぶ。
「シゲさん、こんな事止めよう? まだ間に合うよ? これは犯罪なんだよ。今日のシゲさんはおかしいよ!」
被害者であるマナがヤマブキの心配をして、シゲさんを説得しようとする。
だけど、耳はマナの方に傾かない。
「彼氏じゃないよねその子。まだ初めては終わってないよね?」
「もしも終わってるって言ったら⋯⋯」
「⋯⋯新しい子を産めば良いよね?」
これがシゲさんの本性。
昔から優しくしてくれたシゲさんはここにはいなかった。
「いや⋯⋯」
足が震え出す。
事の大きさが見えだした。
「奥さん、戻ってこない、よ? こんな事したって⋯⋯」
「もう無理だよ。だってバレちゃったから」
「へ?」
「実の娘を使っていた事がさ」
離婚の理由が妻の不倫、それは真っ赤な嘘である。
奥さんはシゲさんの狂気を知って娘と共に逃げたのだ。
「マナちゃん、を。離せっ!」
立ち上がり、拳を握った。
怒りと勇気を込めた、大切な、好きな相手を助けるための拳。
メガネが割れたが、それでも薄らと見えるシゲさんの輪郭。
ぼやけていても狙いを違える事は無いだろう。
「離せえええええ!」
男気溢れる行動。
この中では一番弱くて、怖がりだけど、想い人のために動ける。
⋯⋯しかし現実は無情である。
どんなに怒っても、漫画のように急に力が覚醒する訳じゃない。
種族を持っていたら話は変わったかもしれない。
だけど彼は探索者になる資格を有してないし、その努力をしていなかった。
だから、大人には勝てない。
「うぐっ」
「周りの人が気づいちゃうでしょ。黙って」
「あがっ」
「黙れ黙れ黙れ」
気絶するまで何回も殴る。
「止めて!」
マナも泣きながら抵抗するが、意味が無い。
シゲさんのスマホが鳴った。電話らしい。
「もしもし⋯⋯ああすまないね。今行きます」
ガムテープで手足を固定、口を塞いだ。
それだけでは不安なのか手をガムテープで丸めて固定。
絶対に何もできない。
その上でロープで縛り、袋を覆い被せて車に詰め込む。
(お兄ちゃん⋯⋯)
全く気づかなかった。
警察が動いてもおかしくない事をしていたのに平然と仕事ができている理由をマナは思いつかなかった。
ただ一つだけ分かる、シゲさんは優しい人の皮を被った狂人だと。
数十分と揺らされて到着した場所はどこかの倉庫だった。
「それじゃ、始めようか」
「ん〜ん〜!」
シゲさん以外には誰も居ない倉庫。
今から何をされるのかは先程までの会話で誰でも予想はできるだろう。
最後の必死の抵抗。
芋虫のようにクネクネと身体を動かして、強烈な抵抗を繰り返す。
縛られた足で股の中心を蹴り抜く事に成功。
「うぐっ」
だけどか弱い女の子の蹴り、とても痛いのは確かだがすぐに立ち直れる。
「使い物にならなくなったらどうする気だガキっ!」
そんなガキに欲情しているのはどこのジジイだ、と言いたいがそんな余裕は無いし状況でも無い。
怒りに任せたパンチが数回マナの顔に飛ぶ。
痛みに悶え、涙を流すが守る事すらできない。
「あぁ、好みの顔が⋯⋯」
「ゲホッゲホッ」
衝撃で口のガムテープが剥がれて、二本の歯を吐き出した。
ビリビリ。
服とはこんなにも簡単に裂けるモノかと、疑問が出るよりも先に恐怖が先行する。
マナの脳裏に過ぎるのは最愛の兄。
「た⋯⋯」
「うん?」
「助けてお兄ちゃん!」
高々に大きく叫んだ。
「ここに人は来ないよ。叫んでも無駄さ」
◆
着替えるために家に帰っている。
「くっそ。先生の頼み事のせいで帰るのが少し遅れたっ!」
全力疾走で家に向かっていると、ヤマブキくんを発見した。
だけど様子が変だ⋯⋯動きがなんかユラユラしている。
「ヤマブキくん!」
ハッキリと見えるようになると、彼の身体はボロボロだった。
黒く汚れた制服に割れたメガネ、何かがあったのは間違いない。
「大丈夫か! 何があったの!」
「マナ、ちゃんが⋯⋯ごめんなさい」
⋯⋯え。
「シゲさんって、人が、マナ、ちゃんを」
「もう言い。大丈夫だ」
それだけでもう十分だ。
小さい頃、飴とかを良く貰っていた。優しい人だった。
何かの間違いであって欲しい。
「場所が⋯⋯」
こんな時くらい、勝手に魔眼の力は発動されて良いんだよ!
魔眼の力をオンにしようとした瞬間、影からローズとオニキスが現れる。
ローズの顔は悔しみか怒りか、理由はなんであれ苦しそうに歪んでいた。
「なんっ」
「時間がありません主人。影移動で向かいます」
初めて影の世界に入るが、海の中にいるようだ。息はできる。
「あちらの方向です」
「ヤマブキくんにも数人誰かつけてやってくれ。行くぞ」
どうして外にローズ達がいるのか分からない。だけど、今はそれがありがたい。
魔眼のテロップよりも早く確実な場所に案内されるから。
「ライム⋯⋯」
ローズの背中から飛び出て来たライムが制服を脱がして、スポーツウェアに変身して張り付く。
もしもの時のためか。
「助けてお兄ちゃん!」
微かに聞こえた声。
影の中を流れたその声を俺の耳が確かに拾った。
「マナあああああ!」
「しゅ⋯⋯」
サキュバスになって高速で向かう。
俺の出せる最速は前とは違うんだ。
魔眼⋯⋯出るべき場所を指し示せ。
『マナ助かる⋯⋯』
「ここかあああああ!」
俺は影の中から飛び出した。
マナの制服がズタボロに破れ、制服以外の布切れも散らかり、自分のズボンに手をかけているシゲさんが視界に入る。
優しかった笑顔のシゲさん、俺の記憶のシゲさんが完全に砕け散った。
妹の顔が腫れている。殴られた痕がある。歯が飛び出ている。
考えるより先に身体が動いた。
種族の身体では殺してしまうかもしれない。
だからだろう、人間の状態に戻りながらシゲさんを蹴り飛ばした。
「⋯⋯お兄ちゃん」
「良く叫んだな、マナ。助けに来た」
お読みいただきありがとうございます
評価《★★★★★》ブックマークとても励みになります。ありがとうございます
シゲさんは過去に一文だけ登場した事があります。覚えている読者様はおられますかね?
気になる方はマナ視点をお読みになれば分かるかも⋯⋯です