ある夫人の述懐
是非、最後まで見てみてください。
私とあなたが出会ったのは、まだあなたが薄暗い研究室に引きこもっては、人体の研究に明け暮れる前の事でしたね。
その時のあなたは、それほど自身の研究に対しても、自身の才能に対しても特に執着を示していませんでした。
幼いころからお義父様の背中を見て育っていたために、なんとなくお義父さまの研究を引き継いでいただけであり、人嫌いのあなたは、一日の大半を亡くなったお義父様の莫大な遺産の一つである、広大な屋敷の書斎にこもってはただひたすら読書をする毎日だったと伺っております。
そんなあなたを心配したお義父様のご友人であられた私の伯父が、私をあなたに紹介した時、私を見てあなたがこぼした一言は、「あなたの眼球は美しい」でしたね。
それっきり、とりなす伯父の言葉に反応もしないで私の瞳を見つめていたあなたに、私のような境遇の娘ならば、例え伯父の頼みだとしても怒ってこの縁談を断るものなのでしょう。
けれど私は、あなたのその何の衒いのない私の瞳を称賛した声に、ほんの少しときめいてしまったのでした。
私とあなたが出会うのは、いつもあなたの屋敷の書斎でしたね。
私はいつも一緒にいるゴールデンレトリーバーの杏を連れてはお邪魔していました。
書斎には、あなたのお父様が世界各地で集めた本やレコードが所狭しと置かれていましたね。
私は古ぼけたレコードをかけては耳を澄まし、あなたは読書に明け暮れていました。
そうして、あの頃の私たちは外に出ることなく、私の家の門限が近づくまで一言も発さずに読書を続けました。
私はいままで腫物を扱うように過保護な親に束縛されてばかりの人生で、まったく心休まる時間というものがありませんでした。
ですから、私にはあなたとの、結婚を前提としたお付き合い関係の中でできるその誰にも監視されることのない穏やかな時間がたまらなく嬉しかったのです。
あなたは、時折本から目を背けると、いつも私のうつろな瞳を見ていましたね。
私はその視線に気づいていないふりをしていました。
あなたはお義父様が亡くなったあと、屋敷の使用人を全てクビにしたと聞いております。
あなたが、何故そこまで人嫌いになったのかは存じておりませんが、そんなあなたが私を屋敷へ招いて、書斎で共に時間を過ごすことを受け入れていたことだけで、たとえ会話をしなくても、私は満足していたのでした。
私とあなたの結婚式は、屋敷の中で家族だけを呼んでの些細な式でしたね。
ある日突然、あなたに結婚を申し込まれたときは、本当に驚きました。
そのころ、私とあなたの屋敷の書斎だけでの逢瀬は、二年を超えていました。
親や伯父からは、そろそろ結婚をとせっつかれてはいましたが、あなたが何も返事をしないので、本当はあきらめていたのです。
あなたはこうして私と付き合ってはいましたが、今まで一度も世間一般でいう恋人という関係性を築いたことがありませんでしたから。
あなたは私に心揺れる気持ちもないのだと、悲しみと共に確信していました。
けれど、そのころには私とあなたは読んでいた本についてや、家族の事や趣味など、いろんなことをたまにぼちぼちと話せる仲になっていましたね。
けれど、お義父様の話については一言もあなたは話してくれませんでしたね。
そのことについて、私は少し寂しく感じていました。
そんなあなたから、突然、「そろそろこの屋敷で暮らさないか」と言われたとき、私は最初、その言葉がプロポーズだとは思いませんでした。
けれど、貴方がくれた大きな宝石のついた指輪で、結婚を申し込まれたと悟ったのです。
私は愛犬の杏と共にあなたの家で暮らし始めました。
私の親は、使用人も雇わないあなたとの結婚生活に不安を感じていたようですが、あなたのサポートや、杏の存在もあり、また、月に二度屋敷を大掃除してくれる家政婦をあなたが黙認してくださったことから、なんとか私たちの結婚生活は安定していきました。
私たちの関係は、結婚を期に大きく変わりましたね。
今まで無口一辺倒で、あまり会話を好まなかったあなたは、私の何気ない会話によく反応をくれるようになりました。
私はあなたの空気を震わせるその小さな笑い声に幸せを感じていたのです。
今思えば、誰も居ない屋敷で二人と一匹だけで過ごしていたあの穏やかな時間こそが、私たち夫婦にとっての理想的な生活だったのかもしれません。
私が、子供を授かった時、あなたは今までにないほど動揺されていましたね。
親になる資格がないと語ったあなたを、妊娠中、何度励ましたことか。
生まれたばかりの娘を抱きかかえもしないあなたに、私は不満を感じていたのです。
あなたは娘に対して怯えていました。
私はそのことが理解できずに、父親としての役割を果たそうとしないあなたを何度詰ったことか。
その頃からでしょうか、あなたが、今まで寄り付こうともしなかった地下の研究室にたびたび足を向けるようになったのは。
私は、あなたが何の研究をしているのか、そのころには全く分かっていませんでした。
ただ、お義父様が成した研究を引き継いでおられることだけ、伯父からの人伝えで知っていたのです。
娘が歩き始めるころには、私たち夫婦の間の会話も、まるで会ったばかりのころのように減り始め、あなたは研究室で大半の時間を過ごし、私は娘の世話のために、実家に帰ってばかりいました。
そんな折でしたね、彼が屋敷を尋ねてきたのは。
初めは、彼の事を正直疎ましく思っていました。
あなたの研究をどこから嗅ぎつけたのか、大の人嫌いのあなたの弟子になりたいだなんて。
そんなの無謀に決まっています。
彼は、何度あなたに断られても、時間が空けば屋敷へやってきて、あなたに弟子入りを志願しましたね。
当時、彼はまだ成人もしていないような若者でしたし、片足が不自由にもかかわらず、何とか引きずりながら我が家へ訪ねてくる彼の事を、私は非情にもなれず追い返しはしませんでした。
屋敷の客室に呼んで、紅茶や菓子でもてなしては、あなたがどれほどの人嫌いで、弟子を取るつもりはないだろうと伝えたことか。
それでも彼は決してあきらめずに、屋敷へやってきてはいつも私が出した紅茶や菓子を褒めて、大学であったおかしな話を面白おかしく語ってくれました。
彼が屋敷へやってきて、一年が経過した時、あなたが唐突に彼を雇うと決めたときは、驚いたものです。
どうやら、お義父様から引き継いだ研究は順調に進んでいるらしく、ついには一人で研究をするには荷が重すぎることに気づき、渋々彼を助手として雇うということでしたね。
私は、その時になって初めて、あなたの研究について関心を持ちました。
夜中、貴方が二階の寝室で寝静まったころ、こっそり私は地下の研究室へと行きました。
鉄の扉には、頑丈な鍵がかけられており、私は扉を開けることはできなかったのです。
けれど、眠っているあなたと、自宅へ助手である彼が帰った後の誰も居ない筈の研究室から、何かが動く音が微かに聞こえたことにただならぬ恐怖を感じながら、その日は眠りにつきました。
次の日に私は伯父に会いに行き、お義父様がしていた研究について尋ねることになったのです。
伯父は言葉を濁しながらも、『人もどき』を作ろうとしているということを教えてくれました。
私は、それを当初は人型のロボットのようなものだと解釈し、あの日の夜に研究室から聞こえた何かが動く音は、そのロボットの作動音だと考えていました。
娘は、あなたをお父さんと呼ぶことに、抵抗があるようでした。
何せ、あなたは娘に一言も声を掛けたことはありません。
いつも遊んでくれる助手の彼のことを、娘は最初お父さんだと勘違いしていたのです。
彼は、いつも私とあなたとの関係を気にかけてくれていました。
けれど、私たちの関係は時が経つごとにますます冷え切っていきましたね。
あなたの研究室に食事を出すのも、いつしか私の役割ではなく、彼の役割になっていました。
私は、あなたと会話しないどころかめったに顔を合わせることがなくなっていたのです。
広大な屋敷の中で、娘と二人だけで取る食事の、なんとむなしいことか。
そのころには、私の不満はもう抑えきれないほど膨れ上がっていました。
ある日、地下室へと続く階段から聞こえた女の声、あの人はいったい誰だったのでしょうか?
いつしか私はこの屋敷の中に、私たち家族と助手の彼以外の息遣いを頻繁に感じるようになりました。
あなたはいつも研究室の中で誰かと話していましたね。
私とあなたが出会ってから今まで、あなたはあんな大声で笑い声をあげることはありませんでした。
とても愉快そうに。
ねぇ、あなたはどうして私と結婚したのでしょうか?
思えばあなたから一度も愛を囁いてもらったことはありません。
私は、それでも待っていたのです。
あなたの言葉を。
ある日、小学生になったばかりの娘が、あなたに向かって抱き着き、「お父さん!」と呼んだ時、あなたは勢いよく娘の体をふりほどき、「気持ち悪い」と言って去っていきましたね。
娘は、泣き声を一つもあげませんでした。
娘はわかっていたのです。
自分があなたに嫌われていることを。
けれど、小学校に上がり周りの友達から伝え聞くお父さんという存在は、娘の知っている父親とはまったく違っていたことから、あなたがどんな反応をするのか、ほんの少し気になってしまったのでした。
娘の心は、あなたの言葉に傷つくことさえないほど、冷え切っていました。
そしてその出来事が、私の心を決めさせました。
私がひっそりと離婚届を地下の研究室の前に置いたとき、あなたの笑い声は廊下まで響いていました。
娘の手を取りこっそり屋敷から出た私は、一度も振り返ることなく実家へと向かったのです。
初めて見たあなたの背中は私でも分かるほどやつれていました。
初めて見た地下の研究室は薄暗く、ピカピカと光るよく分からない大型の機械や、三百六十度透けている水槽の中に入った人の足のようなもの、脳みその断片や、眼球の山、そして、鉄でできた大きな机の上には、腹部を切断された人のようなものが乗っかっていました。
私からはあなたの背中しか見えませんでしたが、あなたはどうやらその人のようなものの腹部に臓器を移植しているようでした。
いつか伯父から聞いた、あなたの研究。
人もどきの創造。
私は今この時、初めてその言葉の本当の意味を理解したのでした。
私が考えていたロボットのような鉄くずではなく、あなたが研究し、創ろうとしていたのは、本物の人間に限りなく近い人工生命だったのですね。
机の上で、あなたに腹部を縫合されている物体が、グルリと首を動かして、私に向かってニタリと笑います。
その眼孔には、きれいなガラス細工で出来た眼球が嵌められていました。
そこだけが唯一、その物体が人工的に作られた人間もどきなのだと否応なく説得させられるのです。
ガガガと、何かを引きずるような音が研究室に響き渡ると、廊下へと続く重厚な扉から一人の白衣を着た男が姿を現しました。
「博士、娘さん方が訪ねて来ましたよ」
私は、白衣を着た男のその声に聞き覚えがありました。
私がこの家を出てから何十年たったのかは定かではありませんが、彼は間違いありません。
まだあなたの助手を続けているとは思いませんでしたが、その片足の不自由さからも、私がまだこの屋敷に住んでいたころに雇っていた助手なのでしょう。
顔の所々に皺を刻み、おそらく四十代後半ぐらいに見えます。
ということは、私が屋敷をでてから二十年は経っているということでしょうか。
私は、事の成り行きを静かに見守りました。
「そうか」
あなたは、一言そう口にすると人間もどきの製作に再び励み始めました。
その瞬間、助手の彼は踵を返し、研究室から重厚な扉を閉めて出て行った後、一人の成人女性がまだ年端もいかない男の子を連れて研究室へと入っていきました。
私は、長い黒髪をしたその清楚でおとなしめな雰囲気の女性に既視感を感じました。
まるで彼女は、幼いころの私が成長したような容姿をしていたからです。
簡潔にいえば、彼女は私ととても似た顔をしているということでしょうか。
女性が男の子の手を放すと、男の子はゆっくりと研究所の中を散策し始めました。
その黒々とした瞳からは、どこか女性と似た面影を感じます。
まるで親子のようでした。
女性は、あなたのすぐそばまでやってくると無言で鉄の机の上に乗っかっていた生命体の皮膚を切る作業を開始し始めました。
まるで機械のようにきびきびとした動きで作業をし始めます。
まるで助手のように。
彼女も彼と同じく、あなたの助手なのでしょうか。
けれど、彼女とあなたとの間には何物にも犯すことのできない絶対的な絆のようなものを感じるのです。
彼女はいったい何者なのでしょう。
ふと気が付くと、小さな男の子が私の顔を凝視していました。
私はそれを驚いた気持ちで見つめます。
男の子の純真な瞳を見ていると、何とも言えない暖かな気持ちを感じました。
この子は気が付いているのです。
私がこの地下研究室に存在し、自分たちの行動を覗いているということを。
子供はどこか大人には見えないものを感じることがあるといいますから、この子もなにか感づいているのかもしれません。
私の存在を。
私は、初めて見た研究室や彼らの姿を観察しているうちに、どうして私がこの場所に存在しているのかということに気が付きました。
あれは、私が離婚届をこの研究室の扉の前に置き、娘の手を連れてこの屋敷を出て行った時のことでした。
唐突に歩道に突っ込んできた車から娘を守ろうと、反射的に娘を強く抱きとめながら私は体が引き裂かれるような痛みと騒音にまみれ、息を引き取ったのです。
朦朧とする意識の中で最後に聞いたのは、娘の泣き叫ぶ声でした。
私は自分がいなくなった後の娘のために何とか生きようと踏ん張ったのですが、意識は否応なく途切れてしまったのです。
私は死んだあと、未練のあったあなたのもとへやってきたのでしょうか。
ですが、どうして死んだすぐ後ではなく、二十年と時が経った今このとき、この研究室にやってきたのでしょう。
私はそれが不思議でたまりませんでしたが、初めて見るあなたの姿を目に焼き付けるために、私はただあなたを見つめ続けます。
「博士、一ついいでしょうか」
唐突に響いた女性の声に、私は耳を澄まします。
「博士はあの人を甦らせて、何がしたいのでしょうか」
その時初めて気が付いたのですが、女性の両目はまるで無機質なガラス細工のようでした。
なんと形容すればいいのでしょう。
ただ、姿かたちは眼球であるにもかかわらず、まったくと言っていいほど生気というものを感じないのです。
よくよく見れば、彼女はすべてが無機質な人形のようで、ぜんまい人形がぜんまいを回されて動いているような、そんな気味の悪さを私に感じさせました。
けれど、彼女のその声だけは、温かみを感じることができました。
博士と呼ばれたあなたは、しばらく無言でいた後、
「お前に答える道理はない」
と答えました。
その言葉に彼女はしばし動きを止めると、唐突に、
「私には分からないのです。どうしてあなたがそこまであの人に執着するのかを」
と淡々とした声で語りました。
その彼女に対してあなたは、
「人というものは、複雑なんだ。憎んだり殺したいと思っていても、ふとした瞬間に愛しさを感じることもある。お前にはわかるまいよ」
と答えました。
彼女はまたしばらく無言でいると、
「私には分からないといいましたが、あなたが私をそう作ったのではありませんか」
と言いました。
私には彼女の言葉の意味が分かりませんでしたが、あなたは何も答えることはありませんでした。
しばらくすると、助手の彼がやってきて、彼女の姿を見た途端、あからさまに嫌悪感をむき出しにし始めました、
「邪魔だ、どけ」
と彼女を押しやると、研究室の片づけをし始めます。
やがて私のいる一角へと視線を向けると、
「博士、この人形たちは処分しますか」
と言い始めました。
私は自分の近くを少し見てみると、なんと、そこには彼女とうり二つの人形が大量に置かれているではありませんか。
私はあまりの不気味さに吐き気を催しましたが。
死んだ身で吐くものなどあるわけがありません。
あなたは、「ああ、捨て置け」というとまた作業に没頭し始めます。
よくよく見ると、鉄の机の上に乗っている人もどきも、彼女の顔にそっくりです。
三百六十度透けて見える水槽の中の手も、足も、すべては彼女と同じ人もどきを作るパーツなのだと、私はその時になって初めて理解したのです。
あなたは、まったく同じ顔をした人間を作り続けていたのですね。
ということは、先ほどの彼女の言葉からも、彼女もあなたが作った人間もどきということなのでしょうか。
私は驚きを隠せませんでした。
彼女はまるで本物の人間のよう、というか、人間そのものではありませんか。
ぜんまい人形のような不気味さや無機質さは感じますが、それでも彼女が人間であるということを疑う者などこの世に誰一人としていないでしょう。
あなたの研究は、もうここまで進んでいたのですね。
私は複雑な気持ちになりました。
私たち家族を放っておいてまで熱心に取り組んでいた研究がこうして目の前で実を結んで現れたのです。
男の子は、私に向かって話しかけました。
「どうしてここにいるの?」
と困った顔をして私を見つめる男の子は、本当の人間なのでしょうか。
この子も作られた人間もどきということはないのでしょうか。
私は困惑しました。
そんな男の子に、助手の彼は
「この子たちとはもうお別れになるよ。だからもうすぐいなくなる」
と言いました。
男の子は彼の言葉を聞いて、悲しそうに涙を浮かべると、
「どこにも連れて行かないで、ずっと一緒にいて」
と言いました。
その言葉に、今度は彼が困った顔をしました。
彼は、「この子たちは生きていないんだ。だから、いつまでもここにはいられないよ」と私のいる方向を見て言いました。
この子たちとは、どうやら人間もどきの失敗作のようなこの人形たちのことでしょうか。
男の子はそれでも「やだやだ」と駄々をこねはじめたので、今度はあなたが男の子を連れて地下研究室を出ていきました。
残された人間もどきの彼女と助手の彼しかいない部屋は、ピリピリとした空気に満ちていきました。
「さっさと博士もお前を捨て置けばいいんだ。感情のない人形だなどと、気味が悪くてたまらん」
彼はそう言うと、ギロッと彼女を睨みつけました。
彼女はそんな彼の視線を気にも留めず、無機質な瞳で見つめ返します。
「あなたは、なぜそんなにも私を嫌うのですか。私には理解ができません。あなたは私を憎んでいるかと思えば、たまにとても懐かしくて優しい瞳で見つめてきます。あなたはどうして私を憎むのですか」
彼女は心底不思議でたまらないという顔をして彼に向き合いました。
彼は、はっと驚いた顔をしたかと思えば、忌々しげに舌打ちをすると、
「お前の姿を見ると、あの人に何もしてあげられなかった無力な自分を痛感する。お前はあの人じゃない。無機質な人形のくせに、あの人の顔で動いているのが許せないんだ」
と言いました。
私はまたもや驚きが止まりませんでした。
彼は、私の知っている彼なのでしょうか。
私は彼から一度たりともこのように荒々しい口調で話をされたことなどありません。
「私はあなたがどうしてそこまで過去にこだわり悔いているのか理解ができないのです。あなたは私にあの人を重ねている。でも、私はあの人ではありません。そんな当たり前のことが許せないというのですか」
彼女の無機質な、けれどどこか人間味を帯びたその口調に、彼は顔をしかめるも、今度は何も言い返しませんでした。
その後、彼らは研究室を出ていき、壁に掛けられた時計から推測するに深夜二時ごろ、あなたは唐突に研究室にやってきたかと思うと、一人の女性と一緒にやってきました。
私はその女性を見た途端、胸がいっぱいになりました。
私はすぐに理解しました。
彼女は私の娘の澪だと。
初めて見た娘の顔は、小さい時の私の顔にほんの少し似ていましたが、どちらかというと、あなたの顔のほうに似ていると思いました。
娘は父親に似るといいますでしょう。
私はどこか神秘的な感動を抱きつつも、万感の思いを込めて娘を見つめましたが、二人とも私の存在に気が付くはずもありません。
もしも私が生きていたのなら、今頃滂沱の涙をあふれさせていたでしょう。
二人は何やら神妙な面持ちのまま研究室の椅子に腰かけ、向かい合いました。
どこか二人の間にはよそよそしさが漂っていました。
娘は、私がなくなったあと、どうなったのでしょうか。
こうして立派な大人になった姿を見ることができて、私はとてもうれしいのですが、どこか暗い表情をした娘を見ていると、彼女の人生に寄り添い生きていくことのできなかった自分の不甲斐なさを痛感します。
「お父さん……」
娘はあなたをそう呼びました。
ですが、あなたはもう娘を突き飛ばしたりはしませんでした。
私は恐る恐る二人の会話に耳を澄まします。
娘はあの後、私の祖父母のほうに引き取られたものだと思っておりましたが、二人がこうして大人になって会話をしているということは、まったく縁が切れたというわけではないのでしょう。
そのことに、私は少なからずホッとしました。
「夫の海外出向が決まったの。アメリカだって。私たちは家族で移住するつもりよ。当分日本に帰ることはできないわ。何年、何十年、下手したらもう日本へ帰ることはないかもしれない。だから、教えてほしいの」
娘の茶色に染まった髪が、娘の顔を隠した。
娘が俯いたからだ。
「何が聞きたい」
彼のどこか他人を威圧するような声音が、研究室に響き渡る。
「どうして、今までお父さんは私のことを避け続けたの?
お母さんが死んだとき、お父さんは死人みたいな顔して誰よりも悲しんでた。
私はずっと、お父さんはお母さんのことも避けてたから、お母さんのことが嫌いで、だから私のことも嫌いだってずっと思ってたの。
だけど、お父さんはお母さんのことを愛してた。
それは小さかったけど、私にだってわかったわ。
じゃあ、どうして私のことが嫌いなの?
どうしてあんまり会ってくれなかったのか、今日だけは、今だけは教えてちょうだい」
娘は俯いていた顔をすっとあげて、あなたを真正面から見つめました。
あなたはどこか困ったような顔をしながらも、徐々にすべてを語り始めました。
「俺がお前の母親を愛していたのは、彼女が不完全な人間だったからだ」
その言葉を聞いて、私はどこかああそうかと納得することを禁じえませんでした。
娘は、その言葉を耳にした途端、怒り声をあげました。
「何それ。それってお母さんが障害者だったから好きだったってことなの? お母さんの目が見えなかったから? だからお父さんは、お母さんのことが好きだったんだ。だから、完璧に生まれてきた私を好きになれなかったんだわ!」
娘はそう叫ぶと、ガシャンと座っていた椅子が倒れるほど勢いよく立ち上がり、「もういいわ。話は終わり」と研究室を出ていこうとしました。
ですがそれを、あなたが止めます。
「いいから、俺の話を聞きなさい。これは、今まで誰にも話したことがない俺だけの事情で、俺だけの現実だ。お前には、この話を聞く権利がある」
あなたは娘の腕を力強くつかむと、倒した椅子を元に戻して娘を再び椅子に座らせました。
娘は真剣な様子のあなたの姿に見入られているかのように、無言でいます。
あなたは語り始めました。
「お前も知っているように、俺の研究は人体創造。
人間もどきを作る研究だ。
これは、父が始めた研究だった。
父の研究は完璧だった。
まるで本物の人間のように、よく笑い、よく泣き、よく怒る、そんな喜怒哀楽にあふれた本物の人間と変わらない人間もどきを作り上げることに成功していた。
父は人間の体にしか興味がなかった。
俺の母は俺が生まれてすぐに亡くなり、男手ひとつで俺を育てた父は人間の体にしか興味のない科学者だ。
俺は父の息子ではなく、完璧な人間の見本としてしか扱われなかった。
研究室には俺によく似た人間もどきがたくさんいた。
そいつらはまるで本物の人間のように感情があり、個性があり、俺となんら変わらなかった。
俺はやがて、自分も彼らと同じような人間もどきで、人形だとしか感じられなくなっていった。
やがて父は気が狂い、研究室にあった人間もどきを全員殺し、心中した。
俺とほかの研究員たちは父のその姿に恐れを感じ、彼らの遺体をこの屋敷の地下深くに埋めた。
父の研究に加担していた者たちはみなこの屋敷から離れ、父の研究室には誰も足を踏み入れなくなった。
けれど俺だけは、父の研究を少しだけ継いでいたのだ。
それは、息子としての身勝手な使命感だったのかもしれないが。
お前の母と出会ったのは、俺が生きる目的をなくして、何物にも興味を抱けずただまんじりと屋敷の中に引きこもっては、時間をつぶすだけの毎日を過ごしていたころだった。
父の友人であったお前の母の伯父が、俺と彼女を引き合わせた。
俺は初めから彼女が幼いころに事故で両目の視力を失ったことを知っていたが、実際にあった彼女の何物も映さない瞳にどうしようもないほど惹かれたんだ。
父は完全な人間しか作らない。
だから、人間として欠陥を抱えた彼女は、誰よりも人間臭く感じたんだ。
だからこそ、彼女の瞳をとても美しいと感じた。
彼女との生活は、彼女が障害を抱えていることもあって大変だったが、それでも俺たちは幸せを感じていたんだ。
お前が生まれたとき、俺は今までにないほど動揺した。
五体満足で生まれてきた元気よく泣く赤ん坊を、俺は人形としか思えなかったからだ。
俺は、父のようにだけはなりたくなかった。
だからこそ、娘を人形としてしか見られない自分への嫌悪やいらだちからは逃れられなかったんだ。
だからこそ、俺は思いついたんだ。愛する妻を完璧な人間にしてしまえば、お前を一人の人間として見ることができるかもしれないと。
父の研究であれば、彼女に新しい眼を与え、視力を回復させることができるかもしれないことに、俺はうすうす気が付いていた。
それからは、父の地下研究室に引きこもり、研究をつづけた。
その過程で生まれたのが、お前も知っているように、今は俺の助手をしてくれている彼女だ。
俺は彼女を完成させた。
そののち、彼女の眼を妻に移植させるつもりで、妻に知られないように彼女を育ててきたが、やっと妻に移植できるほどの年齢に彼女が差し掛かった時、妻が死んだ。
お前も知っているように事故死だった。
俺はその時になって、自分はなんてことをしてしまったのだろうということに気がついた。
妻と娘をほったらかしにして研究に明け暮れた挙句、妻が死んでしまうなんて。
思ってもみなかった。
研究室の前に、離婚届が置かれていたんだ。
盲目の彼女が一生懸命自分の名前を書いた離婚届けに俺は記入をして、妻の棺桶に入れて埋葬した。
お前を育てられる自信なんて、あるわけがなかった。
こんなふがいない娘を人形としてしか見られない親に育てられるより、祖父母に育てられたほうがいいだろうと、お前の親権を手放した。
そのことに後悔はなかった。
ただ、俺のような人間にならず、人並みの幸せを味あわせてやりたかったんだ」
あなたは長々と語り始めた後、一粒の涙を流しました。
私は彼のその涙をぬぐってあげたくて仕方がありませんでした。
ですが私にはもう、彼の涙を拭うだけの腕がありません。
娘は、あなたの話を呆然と聞いていました。
聞き終わった後、しばらく言葉を発しませんでしたが、
「わかってる。わかってるの」
と呟きました。
「お父さんが今まで苦しんでいたことは……。だけど、私はどうしてもお父さんを許せないみたい」
娘は俯き泣き出し始めました。
私は、娘が心の優しい子だということを知っています。
ですが、娘にも受け入れられないこともあるでしょう。
私は、死んだからでしょうか。
驚きはしましたが、あなたの苦悩を私はいまやっと受け入れることができました。
あの時、あなたの研究室で聞いた笑い声は、きっとあなたと人間もどきの彼女との会話なのでしょう。
私がいつしか感じていた屋敷での人の気配も、人間もどきたちだった。
すべては娘を受け入れるために、あなたが嫌悪していたお義父様の研究を引き継いでまで私の眼球を作ろうとしてくれたからだったのですね。
あと少し、私が屋敷を出ていくのが遅かったら、私が生きていたら、私たちはあのころの私たちとはまた違う家族を作ることができたのでしょうか。
そのことに未練を残しながらも、私はもうすでに死んでしまった身。
再び生き返ることもなければ、あなたたちと会話をすることもできません。
私はただ、あなたたちのこれからの人生の幸福を祈ることしかできませんでした。
娘は、溢れ出る涙を拭うと、「お父さん」と再びあなたを呼びました。
「お父さんがどうして私を避けていたのはわかったわ。でも、まだ一つだけわからないことがあるの。
お父さんは、どうしてまだこの研究を続けているの?
お母さんとそっくりな人間もどきを作って、何をしようとしているの?」
私はその娘の言葉に驚愕を隠せませんでした。
どこか幼いころの私に似ていると、この研究室にいる人間もどきたちを見て思っていましたが、まさか、彼女たちは私なのでしょうか。
私は、十歳のころに事故で視力を失ってから自分の顔を見たことがありませんでしたから、まったく気が付きませんでした。
あなたは、こうして私の人間もどきを作ろうとしている、
何故?
私はそのことが不思議でたまりません。
あなたは、娘の質問に穏やかな口調で答えました。
「俺は彼女の遺体からいくつかの臓器を摘出していた。
たとえば脳だ。
俺は彼女の脳を使って、彼女の記憶や人格を引き継ぐ妻そのものを作ろうとしていたんだ。
だが、今となってはそれも笑い話だ。
お前と話しているうちに、自分は愚かな真似をしているということに気付かされたよ。
この研究もすでに二十年を経過しているが、一度たりとも妻そのものの人間もどきが完成されたことはない。
ここらで潮時なのかもしれない。
死んだ人間そのものを作り出すことなど、いかに人体を創造できようが、土台無理な話だったのかもしれない。
どれだけ妻に似た体を作ることができても、妻の心だけは想創造することはできないものなんだよ。
たとえ姿形が妻とまったく同じであっても、俺の愛した妻は世界で一人しかいなかったんだ。
結局のところ、すべてが無駄だったんだ。
俺が今まで研究に注ぎ続けていた情熱も。すべて」
あなたは、はぁ、とため息を一つ吐くと、研究室にあった機械の機能を停止し始めました。
奇怪な音を立てながらも、水槽に充てられていたライトや、酸素が消えていきます。
「たとえ、妻そのものを創造することができたとして、俺はいったいその妻と何がしたいんだろうと、思わされたよ。俺は、ただ彼女にそのきれいな瞳で見つめて笑っていてほしかっただけなんだろうってね」
あなたはそう独り言を呟くと、研究室の電気を消しました。
娘とあなたが研究室から出て行ったあと、私は一人、涙を流し続けました。
目が覚めたとき、私は地下研究室がすべて整理され処分されていることを理解しました。
助手の彼と、あなたの創造した私の人間もどきが、研究室の掃除をしています。
あなたと娘もいました。
私は、彼らの姿を何とはなしに見つめ、これから私はどうなるのだろうと考えました。
私は、できることならこれからもずっと娘とあなたの人生を見つめ続けていたい。
たとえあなたたちと会話をすることがなくても、遠くから見守っているだけで構わない。
ですが、私は目が覚めてから一度たりとも動くことができませんでした。
私は、幽霊というものは自由に浮遊し移動できるものと考えていたものですから、これには驚かされました。
私は、地縛霊というものなのかもしれません。
この研究室に取りつく霊。
ですが、これからあなたがこの研究室を使うことはないでしょうから、私は一人孤独にこの研究室に取り残されていくのでしょうか。
私はそのことに若干の不安を抱えつつも、死んだあとのことだからゆっくり考えていこうと思っていました。
そんな時でした、私の体がゆっくりと動き出したのは。
私の体はみるみる上がっていき、そして研究室の出口へと移動していきます。
とうとう私も移動することができるようになったのでしょうか。
そのことに喜びを感じながらも、感じた違和感を無視することはできません。
誰かが、私の体を運んでいるような気がするのです。
その時になって、私に触覚がよみがえってきました。
誰かが私の体に触れています。
人の体温を感じています。
私は、かすかに動かせるようになった頭を少し下げてみました。
そこには、体がありました。
正確には私の体です。
少し右腕を動かしてみました。
間違いありません。
私が自分の意志で動かすことのできる私の体なのです。
私は、その時になって初めて自分という存在の正体に気が付きました。
私は、
「ヴヴヴヴヴァァ……」
と小さく喉を震わせてみます。
すると、私を抱えていた助手の彼が舌打ちをします。
「目を覚ましたか。殺すのは忍びないがしょうがない」
そう言って、懐から注射針を出して私の喉元に打ちました。
その瞬間、じんわりと痛みが体を襲いました。
私はまだ感覚が完全ではないのでじんわりとしか感じませんが、完全であったのならあまりの激痛にのた打ち回るほどなのではないでしょうか。
彼は私を殺す気なのです。
目を覚ました人形もどきを処分するために。
「あなた、あなた!」
私がいくらそうあなたを呼んでも、実際には
「ヴヴァヴ」
としか声に現れることはありません。
私のことを冷めた目で見つめるあなた。
そして、どこか悲しそうな顔をして見つめる娘に向かって、私は一生懸命伝えようとしました。
私よ! 私よ。私は生きている。
あなたの作った人形もどきに感情が宿ったの。
ねぇ、私はあなたのことを恨んでなんかいないわ。
あなたのその悲しみも一緒に乗り越えていきたかった。
私に一言でも相談してくれればよかったのよ。
そうすれば、私はあなたを見離したりしなかったわ。
私もあなたを愛していたの。
ずっと一緒にいたかった。
一緒に生きていきたかった。
ねぇ、澪。幼いあなたを残して死んでしまってごめんなさ
い。
本当はずっとあなたのそばであなたの成長を温かく見守っていたかった。
ふがいない母親でごめんなさい。
あなたは目の見えない私を恥じることなく友達に紹介してくれたわ。
恥ずかしくなんかない、自慢のお母さんだって。
私がその言葉にどれだけ勇気づけられたか。
これからは、ずっとあなたの傍で母親として生きていきたい。
ねぇ、私は生きているのよ。お母さんはここにいるのよ。澪。
気付いて、気付いて!
私の「ヴヴヴヴァ」という叫びは、高く鳴り響いた。
気付いて、私に気付いて!
その時だった。その子の声を聴いたのは。
「ダメ! ダメだよ! 殺しちゃダメ。どうして殺すの? その人、死にたくないって言ってるよ。生きたいって言ってるじゃない!」
研究室に来て私をじっと見つめていた小さな男の子が私に縋り付いて泣いている。
私はその子に向かって、小さな唸り声にしか聞こえない声を精一杯叫んだ。
助けて! 助けて! 私は生きていたい。
もう死にたくないの。
ずっと一緒にいたかった。
「助けてって言ってるじゃない! どうして助けてあげないの!」
男の子は泣きじゃくりながらそう言った。
この子には私の声が聞こえているのだ。
私は彼に精一杯感情を伝えた。
「やめなさい良樹。それは人間じゃないわ。本来は生まれてきてはいけないものだったのよ」
娘の澪が男の子を私の体から引き離す。
「放してよママ! この人、ずっとママとおじいちゃんを見てるよ。ずっと一緒にいたいって言ってるよ!」
私は、男の子のその言葉で、この子が私の孫であることを理解した。
男の子はずっと泣き叫んでいた。
「何を言っているの。やめなさい、良樹」
娘の怒った声が研究室に響き渡る。
私は、意識が朦朧としてくるのを感じた。
これは、一度死んだときと似ている。
その時、私は私のことを無機質な瞳が見つめていることに気が付いた。
それは、あなたの助手の、彼女だった。
彼女のガラス玉のように美しい無機質な瞳が、私を射抜いている。
ああ、あの眼は、私の眼になるはずだった目だ。
あなたは、美しく彼女の眼を作ってくれた、私の眼孔に嵌めるために、あのきれいな目を私にささげるために、だからこそ、私は思うのだ。
あなたが作る眼球ほど、この世で美しいものはない……と。
見てくださり、ありがとうございました。