赤龍始動
不意に患った不治の病―――
生涯を共にすることになったとしても―――
君は柔道が楽しいか?
「……潰瘍性大腸炎?」
2020年8月17日、昼餉の支度に入る頃。
東京のとある大学病院、その消化器内科で、オックスブラッドの長髪の青年が診断を受けている。
主治医である古老の医師が、内視鏡検査の結果を静かに告げていた。
聞き慣れない病名を前に思考が止まり、体の奥がざわつく。
それでも青年は、医師の言葉にじっと耳を傾け続けている。
「えぇ~っと……赤神龍馬君でいいのかな? 内視鏡の結果なんだけどね……この症例はだねぇ……潰瘍性大腸炎と言って、大腸の粘膜が炎症を引き起こしている状態なんだ。国の指定難病に分類されているねぇ」
「……指定難病? ……なんですか、それ?」
「ん~とだねぇ……ものにもよるけどね、一般的に指定難病っていうのは、治療法が確立されていなくて、長期の療養が必要になる病気のことなんだ。これは大腸の炎症が出ている時期と、落ち着いている時期を繰り返すタイプでね……現状では、これは完治しないね」
「…………完治、しない?」
「あぁ、そんなに構えなくていいよ。5ASA製剤っていう薬があってね、それを使えば症状が出ていない期間を延ばせるし、出ている時も抑えられる。もちろん重症度によっては変わるけど、赤神君の場合、命に関わる段階ではない。そこは安心していいよ」
「そうなんですか……謝罪。以後、お世話になります」
「いやいや、そんなにかしこまらなくていいよ。それでさぁ、ちょっと聞きたいことがあるんだけどいいかな?」
「はい? なんでしょう」
「発症の原因は不明なんだけど、ある程度の傾向はあるんだよね。責任感が強かったり、神経質だったり、真面目な性格の人間が発症しやすいんだけど……なんかストレスとか溜まってたりする? 心当たりとかある?」
「いやぁ~……どうでしょうか? この前のインターハイを終えて、皇焔学園の主将になりましたし、その影響? 主将になる前も、マスコミ対応や部員達の指導、学業に家のことも……」
「あ、うん、大体理解ったからもういいよ!! ……ふぇ~高校生は本当で大変だねぇ」
赤神との問答に、医師は表向きこそ感心したような様子を見せていた。
だが内心では何か言いたげなものを抱えながらも、TPOを弁え、それを言葉にすることはなかった。
そんな気遣いを知る由もない赤神は、今後の治療方針について説明を受け、処方箋を渡されると、診察室を後にする。
伝えられた内容を頭の中で咀嚼しているのか、待合室の壁に寄りかかり、何度も小さく唸っていた。
「……まあ、命の危険性がないのならどうにかなるか。今日は予定が立て込んでいる……次だ、次」
壁から背を勢いよく引きはがすと、そのままの足で赤神は院内の一角へと向かっていった。
面会受付で記録票を手に取り、必要事項を鉛筆で書き込んでいく。
その右手は淀みなく動き、慣れた速さで文字を連ねていった。
記入を終えた紙を受付の女性に渡すと、ある人物の待つ個室へと足早に進む。
扉を開けて中に入ると、赤神はまっすぐ女性のもとへ歩み寄っていく
足音に気づいたのか、読んでいた本を閉じてベッド脇に置いた女性が、やわらかな声音で赤神に声をかけた。
「あら龍馬……来るのが少し早かったわね」
「そうだな、母さん。前の用事が早く終わったからかな? 予定よりは早くここに着いたよ」
「用事? 学校の?」
「あぁ、まあな。今日は学校のことで少しあってな」
(……さっきの症例を伝えれば、余計に心配させるだけだな。ここは言わない方がいいだろう)
患っている病状を隠蔽きつつ、短い受け答えを交わしながら、赤神はベッド脇の丸椅子に腰を下ろす。
右手には、家から持ってきたのだろう雑誌や小説など、さまざまな本を詰めた鞄が握られており、それを母親へそっと手渡した。
中身を一通り確かめた母親は、小さく息をつき、赤神へ労いの言葉をかけた。
「感謝ね、龍馬。体調を急に崩しちゃって、また入院することになって……家のことをまた頼むことになるけど……」
「あぁ。いつも通りやっておくよ。他に何か持ってきて欲しいものはあるか?」
「そうねぇ……今のところは特にないわね。何かあったら連絡をするね」
「そうか……理解った。俺はそろそろ次の用事があるから、早いけど失礼するぞ」
「えぇ、理解ったわ。龍馬……体にはきをつけなさいよ? お母さんみたいに体を崩してからじゃ、遅いんだからね?」
「……あぁ、理解ったよ。それじゃ」
疲弊した母親との他愛もない会話を終え、赤神は個室を後にした。
その姿を、廊下で緑茶を飲用きながら、談笑していた2人の老婆が目に留める。
先ほどまでの雑談りを途切れさせ、足早に通り過ぎていく赤神のことを、2人は自然と話題にしていた。
「あら? あの子……赤神龍馬じゃない? ほら、高校生ランク1位の」
「そうよね、そうよね? いや~仰天たわ……あんな有名人がこんなところを歩いているんですもの。何かあったのかしら?」
「ほら、やっぱりあの噂、現実だったんじゃない? 赤神龍馬の母親が入院しているってあの」
「あぁ~……なるほどねぇ~……確か、前のご主人のDVが原因で、うつ病になったとか。それで今も、定期的に再発して入退院を繰り返してるって話よ」
「残酷な話よね……それで、再婚した旦那さんが、入院費を稼ぐために遠洋漁業で家を空けてるって」
「あら、じゃああの子、実質1人暮らしみたいなものじゃない。それでランク1位なんて……凄いわね……まだ未熟いのに、立派だわ」
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太陽が頂から傾き始める頃、赤神は自身の所属する皇焔学園の敷地内へと至急で戻ってきた。
すでに制服へと着替えを済ませており、これから行われる催しに向けて、副主将であり同級生の三船虎右魔と合流する。
玄関では、同じく制服姿の三船が落ち着かない様子で赤神の到着を待っていた。
その姿を認めるや否や、三船は急かすように声をかけてくる。
「おい龍馬!! もう勘解由小路総理が来てるぞ!!」
「あぁ、理解った。すぐ向かう」
「……お袋さんとの面会は、もう済んだのか?」
「あぁ、おかげさまでな」
「そうか。んじゃこっちの用事も一掃しようぜ? ……あぁ、それと、中学生が見学に来てるんだけどよ、岡田のやつも来てたぞ」
「現実か? なかなか熱心な奴だな」
「……3馬鹿に絡まれてなきゃいいがな」
「……そうだな。なぁ虎右魔」
「あ? なんだ?」
「道場の様子はどうだ?」
「……さっきは落ち着いてたぞ。今も大丈夫だ……多分な」
「多分ってお前……」
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皇焔学園の応接室へと向かった赤神と三船。
優勝旗や表彰盾が並ぶ厳かな空間で、艶のある黒革のソファに腰を下ろした4人の男が言葉を交わしていた。
1人は皇焔学園の監督であり、ワインレッドのスーツを着こなす伊達監督。
1人は内閣総理大臣にして、強烈な求心力で日本を率いる勘解由小路総理。
1人は柔道省を管轄し、総理とも旧知の仲である明星柔道大臣。
そしてもう一人が、柔皇の孫にして、日本柔道を語る上で欠かせない存在――西郷六郎であった。
ひとしきり話を終えたのか、赤星柔道大臣と西郷が先に席を立つ。
すれ違いざま、赤神と三船はそれぞれと握手を交わした。
西郷は左手を差し出し、赤神もまたそれに応じて左手を差し出す。
2人の背を見送りながら、赤神はその所作の意味に思いを巡らせていた。
「……」
(左手での握手、か……柔皇の孫ともあろう人間が、その意味を知らないはずはないんだが……何の意図があるんだ?)
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「いや~今日は時間を頂き、誠に感謝!! 赤神君!! この前の全国大会、実に見事な戦いだったぞ!!」
応接室を後にした赤神達4人は、皇焔学園の道場へと向かっていた。
総理の視察も兼ねた催しが控えており、学内の通路を進みながら、勘解由小路総理は昨日の全国大会について言葉を重ねていく。
その語り口には飾り気のない純粋な熱が宿り、まっすぐな人柄をそのまま映し出していた。
応じる赤神は、日本の首相を前にしても動じることなく、言葉を選びながら受け答えていく。
「赤神君!! その調子で頼むぞ!! 日本柔道の未来は君達若者にかかっているからな!!」
「勘解由小路首相、激励感謝。今後も皇焔学園の主将として、恥じぬ振る舞いを心掛けます」
「わっはっはっは!! そんなに硬くならなくてもいいんだぞ!? もっと肩の力を抜いてくれてもいいんだがな!!」
日本の首相でありながら、気さくに言葉を投げかけてくる勘解由小路総理。
それに応じる赤神は、表面上こそ冷静さを保っていたが、胸中では次の一言を誤らぬよう神経を研ぎ澄ませていた。
(くっ……失礼のないように言葉を選ばなければ……!! 肩の力を抜けと言われてもな……さすがに首相相手にそれは無理だろう……!! あの3馬鹿じゃあるまいし……ん? 道場の様子がおかしい……まさか、あいつら――!!)
騒がしい思考の最中、道場の方角から喧々囂々した声が耳に届く。
近づくにつれてその騒ぎは輪郭を帯び、同時に赤神の鼓動も速さを増していく。
嫌な予感が現実へと形を成しつつある中、それを食い止める術はない。
降りかかる責任を受け止める覚悟を決め、赤神は道場の扉へと手をかけた。
その先に広がっていたのは――乱闘であった!!
「おいおいおい!? 次は俺が乱取りやるんだけど!?」
「次は俺の出番だし~!!」
「おい誰だここに荷物置いたのは!?
「俺じゃねぇよ!!」
「俺でもねぇよ!!」
「糞最高ぇ、なんか苛苛って来てね!?」
「ふ~……ちょっと今日の情感、最悪かなぁ」
「おいおい俺だろ俺!!」
「いや俺!!」
「俺!!」
「…………………………………」
(あのさぁ……首相が来てる時にさぁ……!? ………………ちっ!! お前ら何やってんだぁ"ぁ"ぁ"ぁ"!!)




