雑文
夏目漱石の「こころ」はすばらしい。
高校の教科書で採用され続けるのも首肯けます。鼻につく臭みがない。
平凡な人間があの小説の中で使われている言葉を使ったら舌触りのとんでもなく悪い文章が出来上がってしまうことでしょう。
しかし、そうかと言って当たり障りのない平々凡々な文章ということはなく、十分に修辞的技工が張り巡らされている。
なぜあれ程のことができるのか不思議でたまらない。
まあ、そうは言いつつも、検討はついているんですがね。
古典教養ですよ、やはり。
漢文、古文への教養。歴史によって磨き上げられた言葉の数々に触れていた彼は自然と流麗な言葉を操ることができたのでしょう。
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定型句から外れるような、普通の人が話さない言葉は目立ちます。存在感がある、力強いと言っても良いでしょう。
そういった言葉は適切な位置に置かなければ不快でたまらなくなります。
小説家の技量はほとんどそこにかかっていると言っても差し障りないのではないでしょうか。
自分にとって気持ちの良い言葉は大抵の場合、他の人にとって気持ち悪いのです。
しかし、人はいとも簡単にこの事実を忘れてしまう。自分が気持ちいい言葉を快楽に任せて撒き散らす。そして、後になって羞恥に苛まれる。
馬鹿らしいと思いませんか?
いや、違います、馬鹿らしくありません。これは肯定を想定していない破格の修辞疑問文です。馬鹿らしいと思ってもらっては困るのです。これは決して馬鹿にしていい事実ではありません。人はこの事実を真摯に受け止め、自分の言葉に気をつけなければなりません。自分の言葉が気持ち悪いかもしれないということをしっかりと意識しなくてはなりません。