5 麻疹の恐怖
5 麻疹の恐怖
話は余談になりますが思えば、平成6年8月15日、震災前の年、全国各地で異状気象が続き気温も37度前後非常に暑い日が続いた年でした。
今ここに来ている息子の長男、私の孫が6歳の時、麻疹に掛かりました。
1週間前に次男が麻疹を患い、軽い症状で終わっていたので、息子夫婦もああ又か、N君は食欲も旺盛で元気な子だから…直ぐに治るだろうと安易に考えていたが?昨日大阪府高槻市にある某医科大学病院に緊急入院したと連絡を受け直ぐに妻と病院に行きました。
院内で私の顔を見るなり嫁が走り寄り涙声で「お父さん御免なさい!予防注射をしなかったのでこんな病気にして…」と謝ると共に、声を大きくして、
「此処は私が診るから直ちに主人と先祖の供養の為、田舎に帰って下さい!お父さん達が先祖を粗末にしているからN君はこんな大病になったのです!」と感情的な言葉を投げかけてきた。
私は「そんな事はないよ!郷里が遠いので頻繁には帰れないが帰った時には、挨拶を其処々々に、必ず手を洗い、口を漱いだ後、仏壇に土産物を供え線香と水を上げる事を習慣にして来たので先祖の罰とは思わないよ…御先祖様は子孫を守る事は有っても苦しめる…そんな事は無いと思うが…何かあったの?」
と聞き返すと、嫁は「昨夜遅く迄看病をしたら少し疲が出たので、4階の仮眠室で横になりました。
明け方異様な気配に目を覚ますと枕元に、三十歳前後の女性が現れ「淋しい、淋しい」と悲しげな声を残して消えたので…てっきり主人に関係のある先祖の霊だろうと思って…?」
「そうかそんな事があったのか?予期せぬ子供の入院で心配と疲れが一度に出て心が動転していたと思うよ、どうしてもと云うなら供養をしに帰るが…Yさんの郷里はどうなの?家族の方がチャンと供養している?もしそうだとしても、どちらの先祖の霊か分からないね…先祖の霊と関係は無いと思うよ。
この件は後日、息子が在籍している会社の、重要顧客「高野山真言宗」の管長にお聞きしたら、
「それは地縛霊と思う。先祖の霊は特別の事が無い限り子孫を苦しめない」と知らされると共に、子供さんの病気に付いては直ちに厄払いの祈祷をしましょうと、有難い言葉を頂いたとの事でした。
先日息子夫婦は主治医から後遺症の話を聞かされ気が動転し、たとえどのような形に成ろうとも助けたい今の気持ちを忘れずに…是も人生の試練、又運命と思い、お互い協力し合って強く生きよう!と誓い合った事を聞きました。
私は息子に先導されて部屋に向かった。
途中「意識が無い病状が続いているが聞えている様子なので言葉に気を付けて…」と注意を聞き部屋に入ると、孫は院内感染の予防が施されたビニール張りの個室で寝かされていた。
見ると下肢付け根に点滴針が埋め込まれており、頭上には2~3個の点滴嚢が吊され、変色した皮膚に点滴針が刺し込まれ、薬品が流れ込み痛々しい治療の現場見て、妻と交互に「N君!大丈夫か?」と呼び合ったが目は開いているのに意識は無く私は「可哀想で見ていられない、代われるものなら代わってやりたい」と云ったものです。
4~5日前までは顔を見るたびに「お婆ちゃん!お婆ちゃん」といって元気に走り回っていた孫が…
名前を呼んでも、唯一点を見詰めるばかり何の反応も無く「何でこの様になったの?…可哀相と云って」妻は傍で泣いていた。
私は、常時計測されている、37度前後の体温計の針を見て「熱は平熱ですか?」と問いかけると傍に居た長髪の医者が「お爺さんですか?一寸外に出ましょうか」と云われ外に出た廊下に出て、昨日の朝緊急入院時の症状から、今朝迄の病状を知らされ驚きました。
息子から病気の概要を聞いていたが…あの元気なN君がこんな大病になるなんて…麻疹の怖さをつくづく思い知らされました。
先生は「今の体温は薬で抑えているのであの数字ですが薬を除けば直ぐに元の42度前後になります。
その状態で最低5分間位放置していれば先ず脳細胞が冒され大変危険な状態に移行します。
孫さんは搬送された後の処置が早かったので其の点ラッキーでしたが、脊髄炎、脳髄炎、それに肺炎を併発しておりどの病気を取り上げても大変厳しく危険な状態なので…今後の治療方法は二週間程、脳死の状態にして化学療法を行います。…それと輸血はどうしましょうか!」
「輸血?どう云う事ですか?素人の私には分かりませんが?…」
「今世間で輸血による伝染病が議題になっている「肝炎」すなわちエイズの事です。」
「分かりました輸血をして下さい!とにかく治して下さい!助けて下さい、御願いします」と妻と二人して頭を下げたものです。
すると医者は『分かりました、後一ツ了解して置いて下さい、私達七名のスタッフの中で麻疹に掛かって無い方は予防接種をして専属治療に尽くします。
生命の保証は良くて二割、後遺症の割合は八~九割り出ると覚悟をして置いて下さい』と云い難い説明をされました。
然し、今はその言葉を信じ、今後厳しい治療に取り込まれる熱意に絶大なる信頼を託して、お願いをしたものです。今は唯、命乞いをするのみ、正に苦しい時の神頼み、千代万の神々に、お願いをしたい心境でした。
午後から直ちに二週間余り脳死の状態に移行する医療手続きが取とられ、ゆっくり時間をかけ徐々に薬の量を増やし、全ての生命維持装置が動き出した時点で医者達は脳死の確認をした後、口から三本のパイプを胃及び肺に通したとの事、治療の施しを受け脳死状態の痛々しい姿がそこに有りました。
脳死の状態でも突然の異物の進入でこの異物に対して拒絶反応が働くのかそのパイプを口外に押し出そうと舌をからめ、ガチャガチャと音をたて何時までも苦しそうに舌を動かせている哀れな孫の姿…正直辛かったです。
薄暗い集中治療室の中、生命維持装置の継続音を今は頼りとして、絶えがたい気持ちとこれから先の不安を秘め孫の傍で、二週間余り診る事にしました。
時には疲れ果て?舌の動きが静かになり熟睡の状態になったので安堵したが、何故か、この様な時に決まって看護婦さんが来て「N君!痰を取ろうか」と声を掛け、鼻腔に20cm位の吸引パイプを通し、チュチュと音をさせながら吸い上げると閉じていた目を開き、痛そうに顔をしかめ…また舌を動かし異物の排泄運動…この繰り返しが暫く続いていた。
これに対して何もしてやれない心のもどかしさ…又看病している時の時間の長さ…本当に辛く悲しく私達家族を苦しめたが、家族は協力して夜は、妻が看病、昼は息子夫婦の付き添い、交互の看病を続け、私も金曜の夕から日曜日迄、唯々N君の快復を願いコンコンと響く酸素吸入のリズミカルな音を聞き、色紙1枚1枚に、N君早く元気になって又お爺ちゃんと一諸に遊ぼうよ、神様幼い命を助けて下さい、御願いします。と記入、其の紙を妻が鶴に折り、時々手を休めていくら呼んでも返事の無い孫の顔を見つめ辛く悲しい時を過ごした事が昨日の様に思い出されます。
人間は欲深い動物で、ある程度命の保証が見えてきたら、今度は後遺症の悩みが増幅され、植物人間、下半身不髄、その他諸々の器官等が後遺症に冒されぬ様に勝手に願いを変えお祈りをしたものです、又最悪の事も考え、今後直面する厳しい生活に付いて、あれこれ思案をしていました。
可様な状態の日々でしたので、折を見て地元の「住吉神社や西国札所の中山寺等」に快復祈願の御願いをし、息子夫婦も地元にある御利益あらたなお地蔵さんに、二十一日間の願を掛け、般若心経を唱える事が日課となっていた。
云迄もなく厳しい病状でしたが日毎に快復に向かい、私達家族を喜ばせ安堵した事か、それに心配していた輸血も受けずに済み、後遺症も殆ど現れず、略、完璧な状態で退院出来たのです。
この様な重病で完全な形で退院出来るのは、千人に一人の確立とか、正に奇跡に近い状態で、入院二ヶ月後の10月15日に、無事退院出来ました。
平成8年4月、小学校に入学、無欠勤で小学校を卒業し現在中学一年生で元気に通学しています。
(この闘病記録は「祈り」と題され「みのもんた」さんの、TV番組で放映されました。)
横道にそれましたが、本文に入ります。
孫達も、私の異常な雰囲気を察したのか、やつれた私の手を握り「お爺ちゃん早く元気になって!…
死なないで…」と涙声を掛けてくれたものです。
私も家族の為に頑張らなくては…思いは募るものの、窓越に見える銀杏の梢…紅葉し始めた木の葉を見て人生もこれと同じ、何時かは枯れ落ちて逝く…努力はしても大半運命には逆らえず押し流されて行く、か弱い生命体である事をつくづく感じ取りました。
この時点で私は自分の体力の衰えと極端に痩せ細ってゆく肢体を見て、死の訪れが近いだろうと覚悟を決めたものです。死に付いて余り怖いとは思いません天命だから…唯、少し早いかなーせめて七十歳半ば迄…と今更僅かな欲望を擁いた事も事実です。
私の死後、今迄どおり家族仲良く元気で暮らす事を切に望み、別れの気持ちを含んで会話をした事が今は嘘の様です。
9月 3日、(日)点滴、5本、輸血1、黒色排便、4回。
検査の結果、悪性リンパ腫と診断された。
主治医より家続が呼ばれ、今後化学治療するが、今後の病状に依っては転院を含め深刻に説明をされた事を後日、妻より聞かされ又近々抗がん剤を使用する事を知りました。
悪性リンパ腫が血液の癌と知らされた家族は、ただ驚きと悲しみに包まれ、今でも厳しい治療を行っているのに、其の上癌の治療…まず八~九割助からないと嘆き諦め、葬式は御影山手のお寺で行う。
車の廃車手続き等…後日涙交じりで聞かされた。
黒色便が出ている事は、潰瘍から出血している状態なので益々不安を抱いた。
私達の田舎では黒い便と、足に水が溜まれば、死亡が近いと聞かされていたので私の命も後、僅かだろうと思ったものです。
9月4日(月)点滴等不明、幻覚症状?生死をさ迷った日でした。