1 自覚症状
1 自覚症状
今思えば平成7年1月17日、阪神大震災前後から食欲の減退に併せ便秘気味となり、体内に異状にガスが溜まる症状が続いていた。
震災後ライフライン、交通網、日常生活に欠かせない施設が壊滅的な打撃を受け、バブル崩壊の不景気と震災被害…この被災地で働く事での疲労…体調を崩したと思います。
平成11年11月中旬、腹部あたりに鈍痛が走り普段と様子が違うので、東灘病院で診察を受け、飲み薬注射等で様子を診たが痛みが治まらず原因が分からない症状が続いていたので、後日大腸検査(内視鏡)を受けたが大腸は異状が無いと云われ、何時もの痛みも治まった感じがしたので…安心したが?何故この時、胃の検査のアドバイスが無かったのか?又私が申し出なかったのか…今でもこの件で悔やみ、後悔しています。
平成12年7月、食欲が著しく減り、日々気に掛かる様になり食べ物のから僅かな異臭を感じ取る日もあり、会社もこの不景気、食材のランクを落としての賄いだろうと思い余り気にせずにいたが、以後可様な事が度々あったので、同僚に聞くと皆首を傾け「そんな事無いと思います…食材が悪いとは思いません」と言葉が返って来たので…そうか?私の気のせいか?と思案したものです。
家でも妻が心配して一度専門医に診てもらったら…食事の度に口煩く云っていたが、入社以来37年間、毎年行う健康診断で指摘された事がなく、健康に付いては特に自信があり、診察に抵抗を抱いていた。
然し日毎に食事が進まない状態が続くと、やはり不安が生じ、以前の病院で胃腸の検査の予約を申込み、7月中旬に内視鏡検査を受けました。
当日、咽喉の麻痺とゲップ止めの注射をした後、胃カメラが挿入されたが、殆ど苦痛を伴わず、枕元のTVに胃の内部が鮮明に映し出された映像を見て…医学の進歩に驚き…自分の胃の中を、己の目で観察出来る事の好奇心と、一抹の不安を抱いたものです。
胃の入口付近に1ヶ所、胃の内部に3ヶ所、十二指腸入口付近に1ヶ所、大豆程の褐色の患部がありその場所から細胞の採取が行われ、二人の医師の会話で、かなり進行している様子を知り不安を抱いた。
後刻、医師から「是だけ大きく成るまで良く辛抱したな…痛かっただろう?」と聞かれたが、私は殆んど苦痛を感じなかったと答えた事を覚えています。
又この時点で医師から入院、手術等の話が無かったので、以後この病院に伺う事無く、表記病院での入院を望み再度胃カメラに依る検査を受ける事にした。
余談になりますが今迄、事ある毎に妻から「煙草を止めたら!」と言っていたが俺が「煙草を止める時は棺桶に足を入れる時」と言い逃れをしてきたけど、今は違います蛭が吸着している様な胃壁を診た時、「これが癌か?胃に穴があくのと違うか?」瞬時驚きと恐怖を抱き、是を境になんの抵抗も無く即禁煙に移行しました。
不思議な事に後日禁断症状の苦しみが無くこの点助かりました。今も禁煙を続けており食欲旺盛、体調も良好です。8月9日診察の為病院に行く。古木を庭木に持つ建物からは、数十年の歴史の重みを感じ、内部にも他の病院と異なった雰囲気だった。
受付で採血と検尿検査の手続きを終え、胃の内視鏡検査を申し出、検査は8月17日朝9時からと決まり、私は胃癌でない限り1~2ヶ月の入院で治るだろうと僅かな安堵感も持ち、今年は初盆だから無理をしてでも帰る積もりでいた。
(昨年12月私の父、同じく妻の母親が亡くなりW初盆)然し食欲の減退と異常な暑さに疲れが出たので帰郷を断念し、妻のみ、名古屋に住む義妹夫婦と帰る事になった。
毎日暑い日が続き、甲子園では全国高等学校野球大会の期間中、熱戦がTV、ラジオ等で報じられ、特にお盆前後の試合は観衆も多く、どよめく歓声と甲子園独特の雰囲気の中、試合内容も面白く、例年迄は甲子園にて観戦するのを楽しみとしていたが…今年は病院のベッドに伏して侘しいTV観戦になるだろうと覚悟をしたものです。
8月17日、朝、胃の検査の為病院に行く、病院周囲は蝉時雨の大合奏、…建物内部も大勢の患者さん達で混んでおり、賑やかな話し声と患者の名前を呼ぶスピーカーの音が間断なく聞こえていた。
9時過ぎ内視鏡の検査に入り、薄暗い検査室のTV画面を診ながら奇跡を期待したものの、その画面は7月の写真と同じで数ヶ所に色の違った患部が鮮明に映し出され、器具を操作する医師は時々動きを止め、患部の皮膚の採取を行いながら、かなり進んでいる…と他の医師に言っており、私は今更自分の健康に付いて過信した事に強く後悔しました。
検査が終わり医師から細胞検査の結果は後日になるが、写真はすぐ出来るので暫く待って下さいと言われ待つ事2時間余り、名前が呼ばれ医師から、検査の結果を知らされ驚き落胆をしました。
胃潰瘍がかなり進行しているので即入院するように、今看護婦に連絡しているので病棟で、入院手続きを取るように…指示を受けた。
当病院は、阪急電鉄御影駅の北側山手にあり、緑多い静かな環境に恵まれ、五階建ての本館と、地上3~4階建ての東舘及び南舘、当直医者等の宿泊施設、看護婦寮、その他の施設から構成されており、ベッド数は概ね300前後だろうと思います。
案内された病棟は本館の南側にあり、本館の1階と南舘の3階が同じ高さの建物で、渡り廊下で繋がっており急斜面の敷地での建設だから…他の建物も同じ様な建造物でした。
後日知りましたが南舘は地下2階、地上2階の建物で、地下に炊事場と職員の食堂、講堂、手術室があり、後日ベッドに伏してオペに行く患者さんを度々目にした。
この建物の2Fと3Fの各々病棟は、外科患者の病棟になっており、病棟はナースステイションを境に東側が、A班、西側が、B班に分けられ、私はA班の6人部屋に案内され、同室の患者さん達に紹介された。
部屋の内部は入口を境に、左右3人横並びで各々、ベッドはカーテンで仕切られ左中央のベッドに案内され、ベッドのアングルに、私の名札と、担当看護婦は、宮岡幸子と記入されていた。
宮岡看護婦さんより「入院患者の心得」を渡され、注意事項を聞かされた後、直ちに入院をするように云われたが、私は突然の入院指示に驚き「会社に出向き引継ぎ等があるので時間を下さい」と申し出、出社して上司に報告、必要事項の手続きを終え入院生活に入る。