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 千夏のオフィスに向かう間、サトミは既視感のある通路を歩いて昔を思い出していた。

「私ね、昔、このビルで働いていた事があるの。今はその会社は潰れてしまったけど、あの時も、嫌な上司が何人かいたわ。自分が失敗しても人のせいにしたり、理不尽に怒られたり、ほんと無茶苦茶よ。辞めたいって思いながらも、次の仕事見つけるまでがしんどいし、いい同僚に恵まれたこともあって、我慢してずるずる働いちゃった。だから千夏ちゃんの頑張りはわかるよ。ほんと無理して働いてるんでしょうね」

「はい」

 小さく千夏は頷く。

 見ず知らずの人なのに、親切にしてくれるのが嬉しい。

 しかも体の事を心配して、自分のために助けてくれようとしている。

 弱ってる千夏には救世主のように思えた。

「でも、今振り返ると、あの頃が楽しかったって思えるのよ。時間て、ほんと不思議よね。それとも歳取ったから、若かったころの自分が懐かしいのかもしれな い。苦しくて辛かったけど、あれはあれで本当になんとかなったものだわ。さて、千夏ちゃんの事も何とかしなくっちゃね。心配しないで、きっと上手く行くわよ! そう、きっと上手く行く!」

 サトミが自分自身に言い聞かせてる姿を見て、千夏は頼もしさを感じた。

 

 突然千夏が、見知らぬおばさんに寄り添ってオフィスに戻って来た様子に、皆、唖然として、手元の作業がピタッと止まった。

「あの、お邪魔します。鬼塚専務はいらっしゃいますか」

 見知らぬサトミの出現に、鬼塚は露骨に眉根を寄せた。

「私ですが、何か御用ですか」

 ゆっくりと立ち上がり、訝しげにサトミに近づいた。

 千夏は条件反射のごとく身を縮ませた。

「突然に失礼します。あの、武本千夏さんなんですが、突発性難聴の兆候が出ています。すぐ病院に行かないといけません」

「なんだね、あなたは。武本の知り合いですか?」

「いえ、今そこで知り合ったばかりのものですが、気分が優れなさそうだったので放っておけませんでした」

「そうですか。それはわざわざどうも」

 下手にとってるつもりだろうが、鬼塚の慇懃無礼さが却って鼻につく。

「あの、じゃあこれから病院に行かせてもいいんですね」

「それはこちらで決める事です。武本はこれから大事な仕事があるので、それは後からになります」

「ちょっと待ってください。突発性難聴ですよ。すぐに病院で治療しないと耳が聞こえなくなるんですよ」

「ほんの少しなら大丈夫でしょう。そんなに慌てる事もないです。それに見知らぬあなたに指図されることは非常識なんですが」

「彼女、めまいもして、さっき吐いて、明らかに体調が悪いんです。しかも今、左耳が聞こえない状態でバランスを崩してます。彼女の健康状態を心配なさらないんですか」

「だから、それはこっちで処理しますから、どうぞお引き取り下さい。しつこいと不法侵入で警察呼びますよ」

 これにはサトミも驚き、たじろいでしまう。

 しかし、このまま引き下がれば千夏は病院にいけないままになってしまいそうだった。

 この上司なら今週末が来るまで待てと平気で言えそうだ。

 千夏が病院に行くタイミングが遅くなったら、取り返しがつかなくなる。

 突発性難聴は症状が出た初期が一番大事だ。

 早ければ早いほど完治する。

 反対に手遅れになったら一生聴力を失う事になる。

 全てを投げ打ってでも、すぐさま病院に行かなければ本当に怖い病気なのに、この上司は部下の事を微塵も心配してない。

「サトミさん、ありがとうございました。私なら大丈夫です」

 千夏も諦めていた。

「だめ! 突発性難聴は盲腸と同じよ。放って置けば置くほど致命的になってしまう」

「何を大げさな、命を失う事もないでしょう。たかが耳が聞こえないだけで」

 鬼塚の言葉に、サトミは怒りだしてしまった。

「鬼!」

 思わず口からでてしまう。

 周りの人々は凍り付いていた。

 しかし、半分だけ名前を言われた鬼塚には、そのような言葉では応えない。

 嘲笑して、馬鹿にした目つきでサトミを見下ろした。

「はいはい、おばさんは、どうかお引き取り下さい。武本、休憩が終わったんだったら商談の準備にかかれ」

 鬼塚はこれ以上の用はないと、サトミを無視して自分のデスクに戻った。

 サトミは呪いでもかけるようにきつく鬼塚を睨みつけていた。 

 ふらつきながら千夏が申し訳ないとサトミに頭を下げ、それを見兼ねた先輩の同僚が千夏の元に駆け寄って一緒になってサトミを気遣った。

「お願い、千夏ちゃんを助けてあげて。突発性難聴は本当に怖いのよ。私の母が治療が遅れたために治らなくて本当に苦労したの。だから……」

 仕事の方を優先にしないといけない職場では、見知らぬ人の意見で行動が変えられるものでもなかった。

 形だけ「はいはい」と受け答えするも、そこからは千夏を本気で助けようとしない雰囲気が伝わってくる。

 なんていう職場だろう。

 病人を目の前にして、憐憫の情を感じないなんて。

 それでも諦められないで、サトミはなんとかしたくて踏ん張っていた。

 その時、また新たに見知らぬ人がオフィスに入ってきた。

「スミマセン」

 イントネーションがどこかおかしいその言葉に、誰もがそこへ視線を向けた。

 栗色の髪、堀の深い顔立ちの外国人の男性が、スーツに身を包んで入り口に立っていた。

 鬼塚はぱっと立ち上がり、先ほどの不機嫌さから、ビジネスマンの笑顔を見せ、千夏を引っ張ってその外国人の許へと向かった。

 千夏に対応しろと背中を叩く。

 まるで動物に命令する調教師のようだった。

 千夏は咄嗟の事に頭が働かなくて、もたついてしどろもどろになって、あたふたしていた。

 千夏ちゃんが可哀想と、サトミが条件反射で傍に駆け寄ろうと動いたその時だった。

「オーマイガー!」

 突然その男性は声をあげ、千夏と鬼塚を無視して、スタスタとオフィスの中に入ってサトミの前にやって来た。

「センセイ! サトミセンセイ!」

 サトミは「えっ?」と疑問符にまみれてその男性をまじまじと見つめた。

「(僕ですよ。中学の時に先生の日本語のクラスを取った、ダンです。ほら、いつも馬鹿な事やって『静かに』ってセンセイ僕に言ってたでしょ」

「オーマイグッドネス、ダン! ノーキディング」

「ザッツライッ。イッツミー」

「(あー、ダン。嘘、信じられない)」

「(僕こそ信じられない。なんでセンセイここにいるんですか)」

「(ダンこそなぜ日本に?)」

「(もちろん仕事です)」

「(それにしてもなんて偶然な)」

「(本当にすごい偶然ですよね。先生と会えるなんて思わなかった。センセイここで働いてるんですか)」

「ノーノーノ―」

 サトミは手を強く振った。

 この二人のやり取りを、誰もがポカンとして見ていた。

 鬼塚は何が起こっているのかわからず、千夏に説明しろと催促した。

「なんか知り合いみたいですね。しかも、先生っていってるくらいですから、サトミさんの元教え子みたいです。ここで出会った偶然にお互いびっくりしてるみたいです」

 これから取引をするかもしれない大事な相手が、サトミの知り合いだと知った鬼塚はすぐに状況を飲み込み、千夏をまた引っ張ってサトミに近づいた。

「お二人はお知り合いなんですか。しかも先生と教え子の間柄みたいで」

 先ほどとは打って変わった鬼塚のビジネス的な態度に、サトミは嫌悪感を抱いた。

 あれだけ失礼な態度を取って置きながら、何事もなかったかのように、よくコロコロと変われるものだと呆れる。

「昔、20年くらい前に日本語を教えていたことがあって、その時の生徒だったんです」

 一応聞かれたので、礼儀だけは見せたが、サトミは無表情だった。

「センセイ、ドウカシタノ?」

「ダン、日本語話せるのね」

「ウマクナイ。デモ、ベンキョウシマシタ」

「そっか。頑張ったんだ」

「センセイノオカゲ。センセイノクラス、トテモ、タノシカッタ。ダカラ、日本語スキ」

「あら、ダン。嬉しい。あれから一生懸命勉強したのね。一番クラスで不真面目だったのに」

「フマジメッテ、ナンデスカ?」

「遊んでばかりの怠け者、レイジーってことよ」

「オーノー」

 ダンは笑っていた。

「(今はもちろん違うわよ。立派になったわね。覚えてくれててありがとう。会えて本当に嬉しいわ)」

「(僕こそ、嬉しいです。センセイ、変わってなかったからすぐにわかった。もうびっくり)」

「(やだ、変わってないって、大げさよ)」

 といいつつ、サトミは素直に嬉しかった。

 目の前のダンはすかっり変わっていて、まだ少年だったあの頃の面影を少し残しつつも、がっしりとした大人の男性に変身していた。

 ダンだと言われなければ、サトミはわからなかった。

「(でも、センセイ、ここで働いてないのに、何してるんですか?)」

「(あっ、そうそう、ちょっと聞いて)」

 サトミは千夏の事を話し、ダンは目を見開いて驚いていた。

「ホスピタル、イッテクダサイ」

 サトミから説明を受けたダンは千夏に向かって言った。

 千夏はどうしていいかわからずに、おどおどしながら、弱々しく答えた。

「I can't」

「Why?」

 ダンはすぐ返答した。

 サトミは鬼塚の顔をちらりと見て、仕返しをしたくてこの状況をダンに説明しようと口を開きかけると、鬼塚はそれを遮った。

「サトミさん。申し訳ないですが、彼がサトミさんの知り合いとは言え、我々にとってはビジネスの大切なお客様です。少し控えて下さいませんか」

 不利になる事を言われるのをけん制した。

 鬼塚は頭が切れる。

 いくら鬼塚に腹を立てても、サトミは部外者で全く関係なかった。

 ここで不利な事を話せば、ビジネスの邪魔をしたと裁判沙汰にならないとも限らない。

 サトミも我に返って、自分の立場を重んじた。

「そうですね。でしゃばった真似をして申し訳ございません。とにかく、千夏さんを病院に行かせてあげて下さい。ダンはアメリカ人ですので、日本人ビジネススタイルが肌に合わなければ、はっきりと拒絶すると思います」

 それでも嫌味を言わないと気が済まない。

 しかし、そんな脅しにも鬼塚はひるまなかった。

 とても落ち着き、会社の顔としてあくまでもビジネス的に接していた。

「しかし、今、彼女に席を外されると、我々は彼女ほど英語ができないので、困るんです」

「だったら、鬼塚さんが辞書を片手に持って頑張ればいいじゃないですか。ダンは日本語も分かりますし、話そうという意欲があれば、言葉なんてなんとか伝わります。相手が外国人だからって、英語を話す必要はないんです。ダンだって、日本語でビジネスを進める覚悟でやって来てるはずです」

 サトミは千夏に寄り添い、優しく触れて病院に行くことを再度促した後、ダンを見て微笑んだ。

「ダン、ネゴシエイトがんばって!」

「ハイ。ガンバリマス。ソシテ、ウマクイク! センセイノ favorite word」

「覚えてたのね。ザッツライト」

 サトミの顔が綻んだ。

 だが、鬼塚はこの状況をあまりよく思ってないのが、鋭い目つきから伝わってくる。

 訴えられてもいい思いで、千夏をむりやり病院に連れて行こうとそのまま強行しようとした。

 それを鬼塚に後ろから肩に手を掛けられた。

「ちょっと、勝手な事をしないで下さ……あっ」

 サトミが振り返ると、変な腰つきで鬼塚は静止していた。

 顔を青ざめ、目を見開き、サトミの肩を持つ手に力が入っていた。

「あっ、ああー!」

 いきなり獣のように叫んだので、サトミも恐ろしくなってしまった。

「あの、鬼塚さん?」

 サトミが鬼塚に向き合おうと体を動かすと、サトミの肩を持ったままの鬼塚はその動きに影響されてさらなる奇声をあげた。

 鬼塚は先ほどと変わらず、腰を変に曲げたまま、目だけをぎょろぎょろとして固まっていた。

「What's going on?」

 ダンがサトミに答えを求めた時、サトミは気が付いた。

「もしかして、ぎっくり腰?」

 サトミが言うと、鬼塚は小さく頷き、どうしていいかわからないでいた。

「あら、大変。ダン、ヘルプミー」

 サトミは、ダンに鬼塚を支えるように指示し、従業員にどこか横になれるところはないかと訊いた。

 パーティションの向こう側を指差され、そこは応接室のようにソファーが置いてあった。

 そこにゆっくりと鬼塚を運ぶ。

 途中で何度も悲鳴をあげ、鬼塚は瀕死の様子でダンに支えられていた。

「ねぇ、氷ある? すぐに冷やした方がいいわ」

「俺、氷もらってきます」

 従業員が機敏に動いて、近くの飲食店へと走った。

 その間、皆、固唾を飲んで鬼塚の様子を見守っていた。

 普段厳しい鬼塚は、耐え難い腰の痛みにひいひいとしながら、何も言えずにいた。

 5分もたった頃、ビニール袋に詰められた氷を持って従業員が帰ってきた。

「これでいいですか」

「ちょうどいいわ。ありがとう」

 それをサトミが手にすると、ソファーの上でうつぶせになっていた鬼塚のシャツをズボンから引き出して、直接腰に乗せた。

「ひぃ」

 鬼塚は冷たさにビクッとし、そしてそのビクッとした拍子にまた激痛を味わっていた。

「少しの辛抱ですからね。20分我慢してください。これ以上痛くならないように、痛みの成分が出てくるのを押さえる処置です。これでかなり治るのが早くなります」

「はぁ……」

 鬼塚は情けなかった。

「誰か、ロキソニンもってないですか?」

「あっ、私持ってます」

 千夏だった。

 すぐさま荷物置き場に行って、自分のロッカーから出してきた。

 それをサトミに手渡した。

「本当は病院で処方してもらったものの方が良く効くんだけど、市販品でもないよりはましだから。鬼塚さん、とりあえず少し安静にして、それとお昼ご飯食べてから、この薬飲んでみて下さい。それでかなり痛みは和らぐと思いますが、まだ酷いようなら病院で診て貰って薬処方してもらって下さい」

 鬼塚は軽く首を動かした。

 先ほどの威厳がすっかり消えて、しょぼーんとしてなんともみじめな様子だった。

 もしや、さっきの呪いが効いたのだろうか?

 サトミはどうしようもない戸惑った顔をして、向かいのソファーに座るダンを見た。

「ダン、大変な時にお仕事になっちゃったね」

「ノー、ハプニング、ダイスキ」

「ダンは昔から変わった子だったもんね」

 サトミは日本語教師をした昔を思い出し、少年だった頃のダンの姿を重ね合わせて口を綻ばしていた。


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