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プロローグ

セレンディピティとは、素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見すること。また、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値があるものを偶然見つけること。平たく言うと、ふとした偶然をきっかけに、幸運をつかみ取ることである。

(ウィキペディアより引用)



 大きなスーツケースをさげ、サトミが玄関のカギを開けて「ただいま」と実家に帰ってきたのは、まだ寒さが残る三月中旬頃だった。


 「おかえり」と誰もサトミを出迎えてくれる人はいなかった。


 誰もいない家。

 夕方の薄暗い時間帯。

 久しぶりの実家の匂い。


 寂しさとノスタルジックで、鼻の奥がツンとして涙腺が緩む。

 この匂いをかげるのは、戻って来た直後だけで、時間が経つと鼻がなれて感じなくなってしまう。


 そしてまた次に嗅ぐまでその匂いを思い出せなくなってしまうのだ。

 サトミは、暫く玄関に佇んで、それを味わっていた。


「これが最後になるだろう」


 遠い所へ嫁いで、何かある度に帰ってきていたが、それもする必要がなくなった。

 ここに住んでサトミを出迎えてくれる主がもういないのだ。


 一人っ子のサトミがこの家を相続したが、遠く離れ、そこで自分の家族を持つサトミには必要ない。

 色々と大変だったが、少しずつ片付け、やっと売却する準備が整った。

 その前にもう一度だけ、気持ちの整理をつけようと、戻って来た。

 これが最後の滞在。

 サトミはスーツケースを持ち上げ、上がり框に置いた。

 靴を脱いで自分も上り込めば、足元がひんやりとしてぶるっと身を震わせた。


 誰もいない実家。

 和室の居間に入り、天井にぶら下がる照明器具の紐を引っ張り明かりをつけた。

 電気と水道とガスはまだ使える。

 だがほとんどの家具や部屋の装飾と言ったものは処分し、何もない殺風景な空間だった。

 からっぽ。

 その言葉がとても良く似合っていた。


 またぶるっと震えてしまう。

 静寂さが一層、気温を下げているように思えた。 

 唯一残っている電化製品のエアコンを暖房に切り替えて、スイッチを入れた。

 暖かい風が出てくるが、心は寂しく体の中から感情が震えだす。

 まだダウンコートが脱げなかった。

 居間とキッチンと廊下を隔てて建てられた一本の柱。

 それを見ると簡単に涙がこぼれた。


 この土地にこの家が建てられた頃、偶然、興味本位で母親と見に来た。

 サトミはまだ中学生で、その頃は狭い借家に住んでいた。

 まだ完成してない、中途半端な建て具合。

 誰もいない事を確認して、この家の中へと足を踏み入れた。

 キッチンがとても広く、それは魅力的な空間として、そこで料理してご飯を食べるビジョンが目に浮かんだ。

「この家、買おうよ」

 いつかは両親も家を買うつもりでいたから、サトミはお菓子でも買うように簡単に言った。

 それが運命のようで、サトミには自分の家に思えてならなかった。

 欲しいと言って、すぐに買える代物でもないので、母親は戸惑っていたが、まだ子供のサトミにはお金の問題など深刻に考えられず、ここが自分の家になるからと、しつこく何度もねだった。


「絶対この家が欲しい。唾つけちゃうもんね」

 サトミは、舌をペロッと出して人差し指を舐め、その指で柱に軽くタッチした。

 それが効いたのか、その後話はスムーズに進み、見事この家を買った。

 

 サトミは40年近く経っても、あの時の事をはっきりと思い出せた。

 それだけじゃない。

 その柱には何本ものラインが引いてあり、その横には日付がついている。

 結婚して息子が生まれ、ここに来るたび父親が自分の孫の身長を記録していた。

 サトミの息子は来るたびににょきにょきと成長し、今ではその柱以上に育ってしまい、腰を屈めないと頭を打ってしまうようになった。

 夫も長身なので、ここに来た時はいつも頭を打っていた。

 夫も息子も最後にここに来たがったが、来たところで邪魔になるので、サトミ一人だけ訪れた。

 それに遠すぎて交通費も馬鹿にならない。

 これはサトミだけの問題なので、一人で蹴りをつける覚悟でやってきた。

 

 柱だけじゃなく、全てに思い出がこの家には染みついている。

 両親がいなくなったことも、悲しくさせる。

 何もないけども、どこを見てもかつての姿が目に映る。

 でもとうとうお別れだ。

 帰ってきた今、その柱を手で軽く撫でた。

「もう帰る家がなくなってしまうのね。そしてこの町にも帰ってくることがないんだわ」

 サトミは無性に切なく、最後には感情が高ぶって嗚咽していた。

 家が欲しいとねだったあの時、こんな日がくるなんて想像もつかなかった。

 最後という言葉がサトミの心に深く入り込み、現実として受け入れられない。

 それでも、確実に戻ってこれない事実はサトミの心を締め付ける。

「どうすればいいんだろう」

 気持ちと折り合いがつかず、サトミは途方に暮れた。

 このまま、たださようならをするだけで終わるのがとても嫌だった。

 最後に相応しく、自分も潔くここを去って行ける、後押しが欲しい。

 そんな事を考えていると、気持ちを引き締め、覚悟を決めようと無理に踏ん張った。

「なんとかなる。きっと上手く行く」

 寂しさを追い出し、気持ちを奮い起こすためにサトミは呟いた。

 家具がない部屋では、天井や壁にぶつかって声が跳ね返って、ねばりついたようなエコーがかかる。

 サトミはもう一度言った。

「きっと上手くいく!」

 サトミの口癖だった。

 辛い時、悲しい時、失敗した時など、自分を元気つけるために呟く。

 些細な言葉だが、呟くと少しでも心が軽くなるから不思議だった。

 サトミは濡れた目を無造作に手でこすり、息を吐く。

 そして腕時計を見つめた。

 時間指定の宅急便で、ここにインターネットにつなげるWiFiルーターを届けてもらう事になっていた。

 テレビはないが、ノートパソコンは持ってきた。

 インターネットが出来れば、何もない家でも退屈しないでなんとか過ごせる。

 ベッドも布団もないけども、寝袋はあるので、寝る事も出来る。

 贅沢を言わなければ、短い期間でもなんとかこの家で寝泊まりはできる。


 思い起こせば、この家が出来上がり、契約して引っ越しを待つ間、サトミは嬉しくて一人でこの家に来ていた。

 その時も何もなかったが、真新しい畳の匂いに包まれ、夢いっぱいにワクワクしていた。

 自分も年を取ったが、この家も年季が入った。

 キッチン、トイレ、お風呂はリフォームし、屋根も壁もやりかえたから、そんなに悪くはない。

 この後、別の人がここで住む。

 自分の家じゃなくなる。

 気持ちがまた沈んでいく。

 それを誤魔化すようにまた腕時計を見て、宅急便が早く来ること願っていた。

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