野菜スープ
学校裏の狭い路地を川沿いに抜け、並木道を少し進んだところに私とチエの住む学生寮はあった。
これから三年間住むことになる古びたドアの前で初めてチエと会ったとき、私は不安になったのを覚えている。
初めまして。そう言って朗らかに笑うチエの笑顔はとても眩しくて、綺麗で——くりくりとした丸い両目でのぞき込まれた私は思わず目をそらしてしまった。
毎日塾に通ってひいひい喘ぎながら勉強してなんとか合格できた私に比べ、チエはスポーツ推薦の特待生で、当然のように成績も私よりよかった。月とスッポン。神様のいじわる。
チエと知り合って半月くらい、私は心の中のため息が止まらなかったくらいだ。
けれど次第に私たちは驚くほどお互いの趣味が似通っていることに気づいた。
私も彼女も外国の短編小説を好み、無地のシャツ・ワンピースとオニオンスープが大好きだった。五月の連休が過ぎる頃にはもうチエは私にとってこの上ない友人になっていた。
夜遅く消灯の後も私とチエはよくおしゃべりした。チエの夢は陸上の選手になること。将来の夢なんてほとんど考えたことがなかった私は、ちょっぴり恥ずかしそうに、でも、堅い決意と努力に裏打ちされたチエの夢を聞くうちに、彼女のように特別な何かになれたらとぼんやり思うのだった。
私にとってチエは大切な友達であると共に憧れの存在でもあったのかもしれない。
そんなチエが学校に行かなくなったのは、二学期が終わる頃だった。
*
「おはよう」
襖を開けるとチエはベッドの上に体を起こしていた。
昨夜から降り始めた雪で窓の外の景色は仄白く、遠くにぼんやりと見える校舎を眺めている。
「野菜スープ、飲む?」
「うん」
ちらちらと降り積もる雪を眺めながら二人並んでスープを飲む。私は制服、チエはジャージ姿。
「浅田先生、今日から産休だって」
「そうなんだ」
「体育どうなるのかな」
「……」
「自習だったらいいなあ」
「うん」
「球技はやだな」
「苦手だもんね」
「チエみたいにボールと一緒に速く走れたらすごく楽しそうなのに」
「……」
「……雪、積もってきたね」
「だね」
「そういえば昨日の数学のときにね――」
私とチエの会話は最近ではなんだか私の独り言みたいだ。前は逆だった。チエがしゃべって私はほとんど聞いてるだけだった。それが私たちにとっては自然な感じで。今は、ちょっとぎこちない。
「そろそろ行くね」
まだ遅刻を気にする時間じゃないけれど。途切れがちの会話にピリオドを打って、私は立ち上がる。
「チエ……今日も、休む?」
「……うん」
まだ少し調子が悪いと彼女は言う。
「わかった」
先生には私から伝えておくから、そう言うと彼女の辛そうな顔に少しだけ安堵の色が浮かぶ。私はちょっとだけ複雑な気持ちになる。
*
「ただいま」
靴を脱ぐやいなやびしょ濡れの靴下を洗濯カゴに放り込み、かたかた震える歯を噛み締めながら朝の残りの野菜スープの入った鍋に火を点けた。
「チエ?」
ふと気になって襖を開けると、チエは朝と同じようにベッドの上に起き上がっていた。本を読んでいる。
朝と違うのは窓の外の積雪がわずかに増えていることくらいで。白と橙の色彩に混じって、遠くから夕方のチャイムが聞こえてくる。とても寂しい音色。
「お昼、食べなかったの?」
余っていた野菜スープのことを訊ねると、あまりおなかがすかなくてとチエは言った。
「だめだよちゃんと栄養とらないと」
「……うん」
「なに読んでたの?」
チエが表紙を広げる。私も好きなO・ヘンリの短編集だ。
「一緒に読まない?」
唐突にそう言うと掛け布団をめくってぽんぽんと叩くチエ。
「どうしたの突然」
「いいから、いいから」
私はおずおず白いベッドに腰を下ろす。一日中ここで本を読んでいたのか、布団の中はとても温かくて、私の冷え切った足にはかえって毒になる気がした。
「なにが好き?」
思わずハッとして彼女を見る。すぐ隣で綺麗な黒髪を揺らしてチエが訊ねる。
「緑の扉とか……最後の一葉、かな」
「じゃ、最後の一葉ね」
チエはぱらぱらと慣れた手つきでページをめくると「ワシントン・スクエアの西の小さな区域では――」よく通る静かな声で読み始めた。
まるで暗誦しているような淀みない声。長い睫毛が文章を追って規則正しく瞬き、彼女の小さな息継ぎが触れた肌から伝わってくる。
寄り添うように聞きながら、ふと明日もチエは学校を休むのだろうかと思った。明後日もその後も。
急に、胸がきゅっと痛んだ。そんなの——いやだ。足先が凍りそうな、あのうんざりする雪道だって、チエと一緒ならきっと楽しいはずだ。泥だらけになるのがわかりきってる雪上サッカーだって、チエがいれば何時間だってボールを追っかけていられる。
でも……。私にはわからない。どうしてチエが学校に行かないのか。どうして悩んでいるのか。
ピーッというけたたましい音が響き渡って私はハッと我に返った。
「ごめんチエ、火止めてくる」
慌ててベッドを降りようとすると、突然小さな手がぎゅっと私の腕を掴んだ。
「チエ……?」
ばさりと本が落ちて羽毛の中に埋もれる。温かな布団の中で、私の体は氷のように固まったまま動かなかった。
背中に回された腕に引き寄せられ、制服のタイがぐしゃりと歪む。
すぐ目の前にチエの頭があって、指がきつく背中を締め付ける。
遠くの方で野菜スープが焦げていく音を、私はただ聞いていることしかできなかった。