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  作者: 鷹弘
扇風機
22/26

 その日、(ぎょく)は珍しく怒っていた。いつもより、確実に温度の低い笑顔の彼女の手にはリモコンが握られている。そして、目の前には少し黄ばんだエアコン。何度リモコンを押そうとも、全く持って起動する気配のない、エアコン。



「とうとう壊れましたね、このオンボロが」




   *




「と、言う訳でして本日は我が家に来るのは止めておいた方がよろしいかと」


 頬に手を当てながら眉を八の字にする玉を、蜻蛉(とんぼ)は半目で眺める。

 朝のニュースで、今日は今年一番の夏日だと言っていた。実際、目覚めてから直ぐに自分の身体が汗ばんでいることに気が付いた玉は、エアコンの起動ボタンを押してから、朝風呂に入った。本当ならば、今頃は風呂で火照った身体を、エアコンの効いた部屋で程よく冷ましている最中だった筈だ。……そう、筈だったのだ。しかし、実際に風呂上がりの玉を迎えたのは、程よく涼しい部屋ではなく、閉め切られたが故に熱気が充満している、蒸し風呂状態の部屋だった。風呂から出てきたばかりなのに、蒸し風呂とはこれ如何に。

 端的に言えば壊れたのだ、呉凪(くれなぎ)家のエアコンが。少なくとも玉が物心付いた時からあるエアコンで、特別修理しているところも見たことがない。寿命であり仕方がない、と言われれば仕方がないのだが、何も真夏日と予報された日に壊れなくても良いと思う。

 普段の、制服を着ていて隙がなく、涼しい顔して笑みを浮かべる玉は何処にも居らず、今は薄手のTシャツに短パンという隙だらけな格好。顔も、笑みは崩していないものの、汗が流れ続け、目元で切り揃えられた前髪は額に貼り付いている。対して、蜻蛉も蜻蛉で、何時もよりは軽装備である。ただ、真っ黒なTシャツに、ダメージ加工の施された厚手のジーンズ。見ているだけで暑苦しい。


「……取り敢えず、風呂入ってこい」

「さっき入ったのですがね。それに、一度入っても、この部屋に戻ったらまた同じ状態になるかと」


 暑さにやられてなのか、切り返しにいつものキレが無い。それでも笑みを崩さないのは流石と言うべきか。


「いいから、入ってこい。時間を掛けてな」


 蜻蛉は玉には見向きもせず、スマホを弄りながら命令をする。

 時間指定があるのが気になるところだが、頭が茹だって正常な判断が出来ないことと、いい加減肌がベタベタして気になっていたので、もう一度入り直すことにする。とは言え、髪が短いので洗うの時間は掛からない方だし、一度入ったので汗を流すくらいだから、時間を掛けられる気がしないのだが……。


「湯船にでも浸かれよ」

「暑いので嫌です」




   *




「蜻蛉さんお待たせ致しました。上がりまし、た……?」


 湯船には浸からなかったが、髪の毛を洗い直し、身体も洗い直し、冷水で身体の火照りを取り去ってから上がると、部屋がほんのりと涼しかった。さっきの蒸し風呂は何処へ?

 閉め切られていたはずの窓は全開になっている。しかし外は無風であるため、それで部屋が快適に過ごせるようになるとは思えない。むしろ熱気が入ってきそうなものだが……。

 答えは蜻蛉の目の前にあった。

 先程まではなかった扇風機が置いてある。しかも最新型。それは首を左右に振りながら、生温い空気を混ぜ続ける。蜻蛉はジーンズの裾を捲りあげ、胡座をかいて風を一人で浴び続けている。

 どうでもいいが、裾から覗く足はスラリとしていて美しかった。


「蜻蛉さん、これは」


 玉の呼び掛けにチラリと視線を寄越したが、それに答えることは無かった。代わりに、


「冷凍庫行け」


 この一言だけ投げ掛けられる。

 言われた通りに冷凍庫を覗くと、普段は買わないお高めカップアイスが何種類も入っている。もうツッコミを入れるのは諦めて、オーソドックスなバニラ味を二つ持っていく。スプーンが太陽光を鈍く反射する。


「扇風機とアイス、いつの間に持ってきてくださったんですか?」


 アイスにズヌッとスプーンを潜らせながら、蜻蛉の横に座る。

 長めに入れと指示されたとはいえ、二度目の入浴だ。せいぜい三十分程しか入っていない。アイスはコンビニで買えば良いが、扇風機はどうした。この近くは住宅地なので、電気屋は少し行かないと無い。とてもでは無いが、三十分じゃ帰って来れない筈だ。


「……持ってこさせた」


 そう言いながら、蜻蛉は手元のスマホを振る。成程、ヤクザよろしく、三十分で扇風機持ってこいと脅した訳か。脅したかは知らないが。


「脅してねェぞ」

「あら、失礼致しました。声に出ていましたか」


 全くもって失礼だと思っていない顔での謝罪。慣れている蜻蛉は怒るでもなく、自分のアイスの消費に意識を向ける。

 蜻蛉自身、汗によって簪に纏めきれなかった長い髪が項に貼り付いている。顎を伝う汗を目で追ってしまう。彼にはそういう色気があるのだ。

 ここに居るのが玉ではなく、彼のオキャクサマだったのならば、もっと色っぽい雰囲気になっていたのだろうが、残念。ここにいるのは『処女』の渾名で呼ばれる少女だけだ。精々、「色っぽいなぁ」くらいにしか思わない。


「業者呼んだから、明日にでも修理しに来る」

「え、そこまでしてくださったんですか。流石に代金は私では判断しかねますので、オトウサンが帰ってきてから修理の方をお願いしようと思っていたのですが……」

「代金は俺持ちだから、いい」


 その言葉に、目を見開く。果たしてこの男は、どれだけ自分を、否、我が家を甘やかせば気が済むのだろうか。


「……流石に悪いです。オトウサンに後で請求なさってください」

「要らねェ」


 頑なだ。こうなれば、受け取ってもらえる可能性はほぼ無い。しかし、今回はお菓子等では無く、家電だ。値段が違う。そこまでして貰う義理が果たしてあるのだろうか。否、義理なんて気にする間柄では無いので、そこはいい。ただ只管に申し訳ないのだ。


「あと、この扇風機もやる。今日はこれ使って寝ろ」


 更に追加された。

 これはいよいよ代金を払わせて貰わねばならない。いくらあのオトウサンでも、払わせろと言うだろう。が、この男が受け取るとも思えない。


「……蜻蛉さん、ご好意は大変有難いのですが、物が物ですし。それに、扇風機のお代まで出して頂くとなると……」

「要らねェって言ってんだろ。お前のご自慢の脳みそもこの暑さにやられたか」


 一応、下手に出ながら尋ねてはみたが、不機嫌さを顕にしながら睨みつけられる。これはこちらが折れるしかないようだ。

 何故、贈り物を貰って、妥協を感じなければならないのか。


「分かりました。有難く頂戴致します」


 その言葉を聞くと彼は、目線を和らげて再び扇風機に当たりながらアイスを食べ進める。

 何処からか蝉の鳴き声と風鈴の軽やかな音が流れてくる。エアコンの機械音と閉め切った窓では聞けない、夏の音だった。



「美味しいですね、値段の高い味がします」

「どんな味だよ」

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