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その日、蜻蛉は務めている店で、二枚の紙を半ば強引に渡された。
「なんだよコレ……」
*
『放課後、駅前集合』
普段、携帯電話を携帯しない玉が奇跡的に持っていた端末に、突然来たメールは、とても簡素なものだった。
ちなみにこれが届いたのは昼休み。友人と昼食をとる前にと確認したら来たのだ。あと少し遅かったら、彼女はこれに気づかずに、いつも通り帰宅していただろう。
__玉?早く行こうよー
「すみません、先に行っていて頂けますか。すぐに追いつきますので」
__んー、分かったー
友人が去ったのを確認してから、メールへと向き直る。幸い、今日は予定も何も入っていない。というよりも、普段から用事という用事は特にない。すぐに了承のメールを送る。
「……送信。これで送れてますよ、ね。よし、早く行かなくては」
彼女は、送ったメールの確認など面倒なことはせず、すぐに弁当箱を片手に友人の向かった方へと歩いていく。
一方、蜻蛉に届いたのは、以下のようなメールだった。
『わかる下。授業終了後、すぐに向井ます』
変換ミスにつぐ、変換ミス。何となく言いたいことは分かるが、これは凄い。
「あいつにメールの練習させるべきなのか……」
別にオレには関係ないが、これじゃああいつ将来誰ともメール出来ねェだろ……。
そう呟いた蜻蛉が居たとか、居なかったとか。
*
そして放課後。駅前の目立つところにたっているのは、長身痩躯、眉目秀麗という四字熟語が見事に当てはまる、青年だった。長い髪は簪で纏められているが、それでも纏めきれなかった髪が顔にカーテンのようにかかり、瞳に影を落とす長い睫毛も相まって、どこか艶かしい色気を放っている。視線は手元のスマホへと向いている。その美しい姿を見た人々は、男女問わず、顔を赤らめながら過ぎ去っていく。だから、誰も想像もしなかった。その見る人を魅了する青年が見ているネットのページが__『猿でも出来る!メールの簡単な打ち方』なんてサイトだったとは。
「蜻蛉さん、お待たせ致しました」
と。
近寄り難い雰囲気を放つその青年に歩み寄ったのは、これまた美人に分類されるだろう、セーラー服姿の少女だった。顎のラインで切りそろえられたボブヘアに、薄らと浮かべられた微笑み。少女らしい、細いけれど、消して肉付きの悪いとは言えない身体。
青年へと向けられた声に、一時はどんな奴だと好奇と嫉妬の視線が向いたが、やってきたのがこの美少女だ。全員、示し合わせたかのように視線を元に戻す。
「別に。そんなに待ってない」
「あら、そうでしたか。……『全然大丈夫だよ、今来たところ』って言葉と共に爽やかな笑顔を向けてくるのが、この場面には相応しかったのでは」
「恋人同士なら、そうなのかもな。オレらは違う」
「若しくは、援交とかですかね」
いつものように軽口を言い合うと、おもむろに蜻蛉が歩き始める。それを数歩遅れて玉が追いかける。
「そう言えば、蜻蛉さん。今日はどのようなご要件ですか」
「それは着いてから言う。それより」
すると、急に歩みを止めてくるりと玉の方向に向き直った蜻蛉は、スッとスマホを彼女へと向ける。
「これ、は……」
「お前はあまりにも携帯に慣れてねェ事を自覚しろ。せめて、メール送る前に確認しろ」
自分の送った、変換ミスだらけのメールを前に、流石の玉も少し恥ずかしそうに苦笑する。
「そうですね。気をつけます」
「是非そうしてくれ」
そう言って、彼は再び前をどんどんと進んで行く。
やがて二人は、とある建物の前で立ち止まる。
大きなマイク、原色を使いまくった外装、カラオケの四文字。__カラオケ館だった。
「これは、私の目が可笑しくなければ、カラオケ館ですよね」
「お前は頭は可笑しいが、目は可笑しくないだろ。ここはカラオケ館だ」
微妙な顔で蜻蛉を見やる彼女に、「これを見よ」と、少々芝居がかった風な言葉と共に突きつけられたのは、カラオケ無料券だった。それも、二枚。
「店長に押し付けられた」
「成程、それで私ですか」
「一応、女子高生なお前なら一緒に行く奴もいるだろうしと思ったが、よくよく考えたらお前友達いないだろ」
「失礼な、お友達くらいいますよ」
「カラオケに行く友達」
「ゼロ人です」
ニコニコとしながら告げる少女に、彼は溜息しか出せない。
「ですが、それなら蜻蛉さんのお客様と一緒に行けばよかったのでは?」
玉の最もな問いかけに、しかし、蜻蛉は再度溜息をついた。
「特定の客とだけカラオケに行く、若しくは無料券をやると、他の客からのブーイングとかが面倒臭ェんだよ」
「それで体良くそこにいた私と、二人で消費すると……」
よく分かったなと言いたげな顔はしたものの、それ以上は何も言わずに建物の中へと入っていく。
*
案内された部屋は、薄暗く、そして狭かった。
「こういう所にくると、やはり人は性欲を刺激されるのでしょうか」
「知らねェ」
玉のしょうもない質問は、全く相手にされなかった。
機械を手に取った蜻蛉は操作しながら、自分の正面に座る少女に声を掛ける。
「おい処女。お前何歌うんだ」
「え、私がトップバッターですか……」
「お前以外に誰がいる」
貴方がいるでしょう。
その言葉を既のところで飲み込む。しばらく思案する。
「それでは__」
玉が言ったのは、最近になって発売されたアイドルの曲だった。アップテンポなイントロが狭い空間に響く。
「お前、こんなの聞くのか」
「いえ、特に音楽は聞きませんが、これは最近テレビやラジオで聞くので……」
曲が始まる。
まあまあな歌い方だった。たどたどしくはあるものの、大幅に音程を外すでもなく、かといって、正確無比でもない。正直、蜻蛉は面白くなかった。
どうせこの少女はカラオケなんて全く行ったことがないか、それに等しいと予想していた。音楽をそう嗜まないのも知っていた。だから、ヘボい歌唱を聞いて、からかおうと思っていたのだ。だが実際は、そこまで下手と言うほど下手ではなかった。
一番のサビが終わった。間奏が入り、二番になる。……と、急に玉の声が止まる。
「何してんだよ、もう始まってんぞ」
「あの……私、二番以降は聞いたことがなくて……」
歌えないと。
そこで蜻蛉は、機械へと腕を伸ばし、演奏中止ボタンを押した。音楽はフェードアウトして、やがて、止まる。
「全部歌えるのねぇのかよ」
「学校の校歌なら……」
ある訳ないだろ。
ポチポチと操作しながら、探し続ける蜻蛉に、玉は声を掛ける。
「あの、蜻蛉さんは歌わないんですか」
「歌うわけねェだろ」
なんと酷い男だ。人には歌わせておいて、自分は歌わない。
何か言おうと、口を開いたと同時に、スピーカーから音楽が流れ始める。
「これも、一番くらいなら歌えんだろ」
次は、英語の曲だった。これは、何となく全部聞いたことがあった。
律儀にも、玉はそれを歌い始めた。歌っている最中、ずっと蜻蛉の視線が刺さっている。が、それは気にせずに必死に歌詞を追う。
大サビも終わり、ようやく休めた。
「歌うのって、疲れるんですねぇ……。蜻蛉さん、さっきからジッと見ていらっしゃいますけど、私の顔に何か付いてますか?」
「……歌ってる時のさ」
依然としてつまらなさそうな顔をしながら、蜻蛉は口を開く。
「歌ってる時の顔って、ヤってる時の顔と一緒なんだと」
「あら、そうなんですか。私はどんな顔でした?」
いきなりの下ネタに、しかし玉は慣れたように返す。それへの答えは、
「さあな」
だった。
実は、ポーカーフェイスの下で、少し驚いていた。
いつも涼し気な笑みを浮かべている目の前の少女が、歌っている時には必死について行こうとしている顔をしていたのだ。それが、少女の情事の姿だと想像すると、あまりにも似合わなさ過ぎて、言いたくなくなったのだ。
「……マイク貸せ」
「はい?」
「歌う」
端的に告げられた言葉に、玉は一瞬だけ呆ける。
確かに、歌わないのかと尋ねたのは自分だが、彼は歌わないだろうと予想していたのだ。確かにそうだった。なのに、何故だろうか。ここになっていきなり考えが変わったらしい。
「蜻蛉さん、何を歌うんですか」
彼の口から出たのは、数年前に、とは言っても、玉が小学生高学年頃に流行った曲だった。確か、男女問わず、クラスの大半が口ずさんでいた気がする。
「__」
イントロが無いこの曲、いきなりアカペラからのスタートのこれ。
目の前の青年は、普段の適当すぎる態度からは想像出来ないくらい、美しい入りを見せた。
魅せられた。
低く、伸びのある声が音となり、言葉となり、狭いこの部屋いっぱいに響き渡る。
玉は、先程の蜻蛉の言葉を思い出し、そっと彼の顔を見る。彼は__無表情だった。楽しそうでも、悲しそうでもない。目は真っ直ぐに画面へ向けられ、口は一定以上の大きさには開かない。
しかし、目だけがいつもと違った。普段のようなやる気ない目ではなく、捕食者のように、ギラギラと光っていた。
無表情と、瞳の光。相反するような二つに、玉は釘付けだった。
「__……。確かに、少し疲れるな……」
気づいたら、演奏は終わっていた。
電源を切らず、乱暴に机に置かれたマイクのせいで、スピーカーからはゴトリッ、と耳障りな音がする。
「ん、処女。まだ時間余ってんだし、なんか歌え」
「私、そんなにレパートリー無いんですが」
「捻りだせ」
彼の表情に関する感想なんて誰も求めてないし、それの真意が分かる日は、少なくとも玉自身には無いだろう。
そう結論付け、何でもないように、いつも通りに返答して、いつも通りの無茶振りに苦笑で返す。
「俺の顔なんて、面白くもなかったろ」
機械を懸命にいじる玉に、半ば独り言のように投げかけられたその言葉に、彼女は返答しなかった。
「では、この曲なら全部歌えると思います」
そう言って玉がセレクトした曲。そのタイトルは、蜻蛉の知らないものだった。
頬杖をしながら、退屈そうにする蜻蛉の耳に飛び込んできたのは、ファンシーな音楽だった。驚いて、珍しく目を見開く蜻蛉の目の前で、玉は立ち上がって、歌い出す。
「『マジカルステッキ、準備は〜〜〜……オッケーッ』」
いつもの微笑のまま、声だけはノリノリで歌い出した彼女を、これまた珍しく、唖然とした顔で見つめる蜻蛉の姿がそこにあった。
*
「……なあ、最後のあの曲何」
「えっと、『ミラクル☆綺羅星ちゃん』っていうアニメの主題歌だそうですよ。私の学友がずっと歌っていたので何となく覚えてたんです」
なんて会話をして、カラオケ館を出る男女の姿が目撃されたとか、されなかったとか__。