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その日、寝起きの玉が見たのは、人一人分の間隔を開けて、隣に寝ていた美形だった。
「……処女喪失……?」
*
まさか、本当に喪失していた、なんて展開では無かった。特に身体に痛みが無いのが、その証拠だ。
隣の美形__蜻蛉は、僅かに眉を寄せて、横向きに寝転がっていた。丁度、玉と向き合うような形で。十中八九、原因は彼が常日頃から身に付けている簪だ。今日は真っ赤なトンボ玉の簪。
しかし。それにしても整った顔をしている。眉が寄ってる分、無愛想に見えるが、それすらも色気に変えてしまっている。唇や肌は乾燥知らず。黒いシャツから除く鎖骨の美しさと言ったら、はっきり言ってエロい。
そんなくだらない観察をしながら、玉は自身の脳を覚醒させて状況整理を行う。
思い出した。今日は元旦だ。
昨日、つまり大晦日にやってきた蜻蛉は、前日までに年内のオシゴトを全て終わらしてきたと言って、珍しく疲れた様子だった。そこからは炬燵に入りながら、普通に、お互い興味の欠片も無いテレビを見て、年越し蕎麦を食べて、年の変わるその瞬間を待っていた。
オシゴト疲れに、炬燵の暖かさが加わって、彼は終始眠そうにしていたのを覚えている。
因みにと言ってはなんだが。玉のオトウサンは、今日は成人式用の着物の納入だとか、色々新年に向けての仕事が重なり出張中だった。
話を戻そう。
玉はせめて年越しの瞬間まではと、他愛もない話をして、蜻蛉の意識をなんとか繋止めていた。
そして、カウントダウン。テレビの中のアナウンサーが、大声を出して、秒読みしていく。
__五ぉッ!四ッ!三ッ!二ぃッ!一ぃッ!……明けましておめでとうございまぁす!
「蜻蛉さん、明けましておめでとうございます」
「ん……おめでとう」
そう言って、彼は瞼を閉じた。
そうだった、自分もその後眠くなって、すぐにその場で意識を沈めたのですっかり忘れていた。
「それにしても……年明け早々に、男性と添い寝とは……」
彼女お得意の笑顔も、寝起きのこの時ばかりはぼんやりとしていた。
「蜻蛉さん……人と触れ合うのとか苦手でしたのに、ここまで近くで寝ていらっしゃるとは……」
しかもオシゴトでもありませんしね。
そう呟いた彼女は、どこか嬉しそうに頬を緩めた。
「さて、こんな珍しいことそうあるものでもありませんし、堪能したい気持ちもあります、が。このまま、おこたで寝ていては二人揃って風邪を引くかも知れませんねぇ」
そう言うと、まずは自分から炬燵の布団から這い出る。炬燵があるからと、暖房を消していたから、布団から出た玉の身体を部屋の冷気は容赦無く凍えさせる。
「あらまぁ……これは寒いですね。蜻蛉さんが起きる前に暖めておいた方が良さそうですね」
手近にあったストールを肩に羽織り、立ち上がる。炬燵は蜻蛉と玉、それに人一人分の間隔を開けれるほど大きいサイズだったので、多少もぞもぞ動いても、彼の寝ている部分は殆ど動かされなかった。
その様子を見て、少し安心した玉はエアコンのリモコンを、そして朝食を作ろうと歩き始める。
が、その足は何かによって阻まれた。
「え……」
ゆっくりと視線を下ろしていく。いくら幽霊だったりの怪奇現象を信じていないとは言えど、いきなり足を掴まれたら流石に驚く。
しかし、それは幽霊なんて非科学的なものではなかった。ソレは、布団の中から伸びていた。より正確に言うならば、布団の中の蜻蛉から伸びていた、腕だった。
男らしく骨ばった、しかし白くすべすべなその腕は、控えめに玉の細い足首を掴んでいた。
「え……っと、蜻蛉さん?起きていらっしゃいますか?」
そっと声を掛けるが、応答は無い。今度は、ゆっくりと屈み込む。足首に絡みついた腕を離そうとしているのだ。
しかし、それもまた何かによって阻まれる。次は、蜻蛉の目線だった。
寝起き特有の、濡れた瞳と、炬燵のせいでほんのり赤く染まった頬。簪からこぼれた髪の毛。艶めかしい……。
彼は特に何を言うでもなく、ジッと玉を見つめ続けた。
「あの、蜻蛉さん……?今から朝食を作って参りますので、出来ればこの腕を話して頂ければ……」
「寝ろ」
低く掠れた声に、阻まれた。そして、足首から手首に絡みつく部位を変えた彼の腕は、力強く彼女を布団の中へと引き込む。
勢い余って、彼の胸の辺りへと飛び込む形になってしまった。だが、既に意識を遠くへと飛ばした彼は、そんな事など気にしていなかった。多分、起きてお互いの距離感を認識したら、彼は顔を青ざめて即距離を取るだろう。流石に新年早々、そんな仕草をされるのも嫌なので、身体を方向転換してから彼の横に並んで布団に入る。彼の腕が手首を離してくれなかったので、距離はさっきよりも朝起きてすぐよりは近づいている。しかしこれは蜻蛉のせいなので、最悪、顔が青ざめても距離は取られないだろう。
「ふふふ、全く……今年は寝正月ですかねぇ……」
まだ少し眠気の残る身体は、すぐに炬燵暖かさに身を委ね始めた。
ウトウトとした頭で思い出すのは、年明けすぐに、寝る前に蜻蛉に言われた言葉だった。
「蜻蛉さん、明けましておめでとうございます」
「ん……おめでとう__玉」
普段、自分の事を“処女”なんて呼ぶ彼が、珍しく、屋外でもないのに本名で読んだのだ。
それを思い出した彼女は、頬を緩めて、普段は見せないような自然な、ぎこちない笑みを浮かべる。そっと、彼が起きないことを確認すると、素早く、そして軽く、握られた腕に口付けを落とす。
満足そうにすると、眠気のせいでフワフワとし始めた頭で、なんとか言葉を探し出して、小さく祈るような、若しくは縋るような声で呟いた。
「蜻蛉さん……今年もよろしく、お願いし……ます……」