赤い嵐
(一)
その日、クース老は珍しい客を連れて帰ってきた。その姿にミーシュは歓喜の声を上げた。
「きゃぁ、可愛い。父さん、どうしたのこの子?」
「いやなに、この近くでな。インホットが人里近くに現れるのはあまりないことじゃ。親の姿が見えなかったところを見ると、どうやら迷子のようじゃな」
「それで連れて帰ってきたの?」
「ああ。あのままにしておけば、この子にどんな危険が及ぶか分からないからのう」
二人の視線の先、食卓の上にポツンと佇む客。およそ十五センチ弱の毬のような体はフワフワとした純白の毛で覆われ、その隙間から僅かに覗く黒水晶は、穢れのない透き通ったものであった。ミーシュが思わず声を上げたように、その外見は非常に可愛らしく、誰もが微笑みを湛えてしまうようなそんな魅力があった。
一般的にインホットと呼ばれるこの動物は、山や森の奥深くに生息し、あまり人目に付くこともないことから、その生態には謎が多い。実際ミーシュも、インホットを見るのはこれが初めてであった。
キュッ、キュルック。
小鳥が囀るように、インホットが鳴いた。
「きゃ、鳴いた。可愛い。ねぇ、この子どうするの?飼うの?」
そういってミーシュがインホットに触れようとすると、突然インホットは、見た目には見えない足で後退り、ミーシュの手を避けた。
「あれ、なんで逃げるの? ほら、恐くないよ」
ミーシュは笑みを湛え、インホットに優しく語りかけるが、インホットは後退り、逃げるばかり。ついにはクース老の懐へと逃げ込んでしまった。
「はッはッはッ、インホットは警戒心の強い動物じゃ。そうたやすく触れさせてはもらえんよ。なにを隠そう、この儂もこの子を抱けるまでに半日かかったからのう」
「えッ、じゃぁ?」
「そう、今日の収穫は、この子だけじゃ。まッ、それは良いとして、ミーシュ、ぜひともこの香ばしい香りの元を早く用意してくれんかね。この子も腹を空かせているじゃろう」
部屋には、肉の焼ける香ばしい香りが満ちていた。
ここは街の外れにひっそりと佇むクース老の自宅。
クース老は、齢六十六歳。賢者として名を得、時に国王に教鞭を取るなど、その知識の深さを高く評価されている人物である。しかし本人といえば、世上の評価に奢るところなく、日々の研究に余念がない。今日も研究のための薬草採取に出ていたのだが……
一方、ミーシュは十八歳。戦争遺児となったのをクース老に引き取られ、養女となって、もう十年近くになるか。容姿端麗、利発ないい子だ。
ランプの明りの下、質素な食卓に、ミーシュ自慢の料理が華々しく並んだ。湯気が立ち、視覚的にも食欲をそそる。
二人は向かい合うように椅子に腰掛け、神への祈りを終えた後に、温かな料理を頬張った。インホットはというと、食卓の端に用意された野菜の盛り合わせを、カリカリと音を立てつつ食べていた。足同様、口もまた分かりずらく、傍から見ると野菜を毛の内に包んでいるような感じになっている。
ここでもミーシュは「可愛い」と連発し、クース老の苦笑いを誘った。
「ところで、わしの留守中、何事もなかったか?」
「うーん、何もなかったけど……。またね、カリナがハインドゥ様のことで……」
「あの侍女のカリナか。ハインドゥとは近衛騎士のか?」
「そう。なんでも近頃、ハインドゥ様が国王様に疎んじられているとかで、ハインドゥ様共々、カリナも相当悩んでいるらしいの。それで私の所に相談にきたみたいなんだけど……。父さんじゃなくて、なんで私なんだろう?」
「はッはッは、それだけお前が信用されているということじゃろう。……それにしても、ハインドゥ殿が疎んじられているか……。つまらぬ勘違いで、己を見失わなければよいのじゃが……」
最後の言葉。クース老は瞑目し、一人呟いた。
〈二〉
ヴァーナ。大陸の東に位置する王国で、平和を見る現在、産業国家としての姿を得、人々は比較的、裕福な暮らしを保っていた。
昨年の暮れには、国王が急逝するという大事件も起こったが、新年を迎え、二ヶ月経った現在では、前国王の息子、二十七歳のコンザルン王が無事即位し、凡君たらざる手腕を発揮し、人々みな安堵したものだ。
そんなヴァーナ国の王都ヨルンは、日も没したというのに大層な賑わいであった。
「まぁ、飲め! そう難しく考えるな」
「無責任に言わないでくれ。こっちとしては、死活問題なんだからな」
『インネクト』という名の酒場には、今夜も多くの労働を終えた男達が集い、夏の暖気を吹き飛ばすように、次々に冷えたビールを飲み干していった。客席は五十程もあるのだが、もう一杯一杯だ。その中に、平装をしたハインドゥと、その親友ナハタの姿もあった。
ハインドゥは、今年で二十二歳。国王、コンザルンに近衛騎士として仕え、正義感溢れる好青年だ。容姿にも優れ、剣で鍛え上げた体格は、堂々としたものであった。平装であるとはいえ、店の他の者達とは明らかに雰囲気が違う。
ナハタにしても、また同じだ。ハインドゥと同年の彼は、国王の弟チューチワルの側近くに仕える騎士で、剣技に優れ、国内でも五指に入るといわれる強者だ。
二人は騎士見習いの時からの親友であったが、今となっては主人の違いから普段は中々会うことができない。しかし、今日は互いに休みともあって、このような所で酒を浴びている訳だ。ところが、いざ会ってみるや、話題は悩めるハインドゥの話ばかりになっていた。
「陛下は変わられてしまったのか……」
「仕方がないだろう。皇太子の時と同じという訳にもいかん」
「分かっている、分かっているが……」
ハインドゥは、彼の父が前国王の近衛騎士であったことから、騎士見習い時より、当時皇太子であったコンザルンに仕えていた。臣たる者が君たる者との関係を友というには憚りがあるが、当時二人の関係は、それに近いものがあった。ところが、コンザルンが王位に就いてすぐ、ハインドゥに対する態度が変わった。妙に居丈高になり、側に寄せ付けなくなったのだ。近衛騎士の仲間などは、ハインドゥがコンザルンの侍女、カリナと恋仲になったことを挙げる者もいるのだが。しかし、ハインドゥとカリナの仲は、コンザルンが皇太子の時からで、コンザルン自身も、とうに知っていた筈だ。
「思い当たる節はないのか?」
「……分からない。ただ確か……、いや、まさかな」
「おい、なんだよ、途中で止めるな」
「いや、よそう。俺達がこんな所でするような話じゃ……」
「……それって、……例の噂か?」
「……そうだ。……その話を王としてからのような気がする。もちろん俺は、そんなことはないと一笑に伏したさ」
「……」
ハインドゥは、ジョッキのビールを一気に飲み干した。しかし、ドン! とジョッキをテーブルに置いた後も、酔いよりも迷いが頭を支配していた。
ナハタはそんなハインドゥの姿をジッと見ていた。すると、
「ハインドゥ、話がある、ここを出ないか?」
立ち上がると、ハインドゥの右腕を取った。
「話? 話ならここですればいいじゃないか」
「ここじゃできないから言ってるんだ。さぁ」
ナハタはハインドゥを無理矢理立たせた。二人の足に、酔いはまだ表れていない。
勘定をして店の外に出ると、ナハタが先をいき、ハインドゥが後を追った。
少し長い距離を歩いた。ナハタは街の裏通りに入ると『インネクト』とは正反対、物静かなバーにハインドゥを誘った。
狭い店内にはカウンターがあり、マスターであろう男が立っていた。
「奥を借りるよ」
ナハタは馴染みなのだろう。マスターに声をかけると、一般のフロアーよりも奥にある一室にハインドゥを連れていった。
ランプ一個に照らされた部屋は非常に狭く、テーブルと二つの椅子が中央にポツンとあるだけだ。
二人は再び、向かい合って座った。
「こんな所に連れてきて、話ってのは?」
不機嫌そうにハインドゥはナハタをなじるが、ナハタは真剣な瞳を、ハインドゥに向けていた。
「さっきの話の続きだが、……例の噂に、陛下は機嫌を損じたのだな?」
「そんなこと分からん」
「いや、曖昧にしないでくれ。大切なことなんだ。どうなんだ?」
「……お前、それを聞いてどうする」
二人の酔いは醒めていた。微妙に険悪な視線を、二人は戦わせ始めた。
「……例の噂、真実かもしれない」
「なッ、なにを馬鹿なことを!……いいかげんなことを言うと、いくらお前でも許さないぞ!」
ナハタの発言に、ハインドゥは激昂した。
二人が話す例の噂とは、コンザルンによる前国王暗殺疑惑である。これは、前国王が急死したことに発するのだが。死後、どこからともなく生み出され、国中に広まった噂だ。公式発表による前国王の死因は脳溢血。
しかし、国民の多くは、この噂を信じなかった。というよりも、信じる必要がなかった。コンザルンが着位してまだ二ヶ月であるが、その名君振りは明らかであったからである。前国王が無能であったという訳ではないのだが、国民は却ってコンザルンの着位を喜んだものだ。ハインドゥも側近くに仕える者として、とてもそんな噂など信じるに値しなかった。
そこにナハタの発言である。
「いや、いいかげんなことじゃない!……これは絶対の秘密事なのだが……信頼できるお前だから話す。……実は数日前、チューチワル様を暗殺しようとライバ城に忍び込んだ奴がいる」
「なに?……まさかお前!?」
「……チューチワル様は、そう見ている」
コンザルンの弟チューチワルは、ヨルンから十キロ離れた支城、ライバにある。そのチューチワルの寝室に忍び込んだ者がいたという。
「で、その侵入者はどうした?」
「チューチワル様に見つかり、声を上げられると逃げたらしい。守衛の者が駆け付けた時にはすでに……」
「じゃあ、何者か分からないのだな。ならば……」
「いや……お前も知っているだろう。お二人の仲は……」
これは、国の公然の秘密となっていることなのだが。実は、前国王の子として最初に生まれたのは、チューチワルなのである。コンザルンに先駆けること、十日前のことであった。しかし、チューチワルはコンザルンの弟と公表され、皇太子にもなれなかった。
二人の運命を分けたのは唯一つ、母親の違いであった。コンザルンの母は、前国王の妃。一方、チューチワルの母親は、妃付きの侍女だったのである。
血を尊んだ前国王は、コンザルンを長子とし、チューチワルを次子とした。ここに二人の確執があった。
チューチワルはプライドの高い男である。成長すると共に事実を知ると、公然と皇太子たるコンザルンに対して、長者として振る舞うようになった。これにはコンザルンも、はなはだ腹を立てたものである。
確かにコンザルンにとってチューチワルは目の上の瘤であった。ハインドゥ自身、コンザルンのチューチワルに対する愚痴を聞いたことがあるだけに、なんとも否定しようがなかった。
「もし、その侵入者が王の手の者だとしたならばだ……陛下と前王との間を考えれば……」
コンザルンには、父親たる前国王との間にも確執があった。それは国家を運営するための政策に意見の食い違いが生じ、皇太子時のコンザルンが意見するたびに、前国王は疎ましく思っていたのだ。これもまた、ハインドゥは目の前にしていることであった。
疑念が疑念を呼び、頭を抱えたハインドゥは、徐々に困惑していった。
「まさか……陛下に限ってそんなことは……」
「俺も信じたくはない。だが事実、チューチワル様は襲われた。それに前王の死も、また不可解過ぎる」
「まさか……信じられん……」
部屋は重い空気に包まれ、しばしの沈黙が流れた。再び口を開いたのはナハタだった。
「……ハインドゥ、チューチワル様に会ってみないか?」
それは絞り出すような声であった。ハインドゥを試すような声だった。そして、重い言葉であった。
「お前も知っているだろう、チューチワル様は、陛下に劣ることのないお人であることを……」
「お前、本気でいっているのか?……チューチワル様は本当に……?」
「ハインドゥ!お前は許せるのか、もし全てが事実であったとしたら、陛下の行為をお前は許せるのか!?」
正義感の強いハインドゥには、核心を突く痛烈な言葉であった。
ナハタは内情を打ち明けた以上、なんとしてもハインドゥを説得しなければならない。渾身の声を張り上げ、立ち上がり、ハインドゥに迫った。
ハインドゥは言葉を失った。とんでもない重大事を聞かされ、呆然となった。ナハタは自分にコンザルンを裏切れといっている。なぜ、そのようなことをさせるのか。チューチワルは叛乱を企てている!
ハインドゥのコンザルンに対する忠誠は絶対だった。しかし、その一枚岩には、今、多くの罅が入っていた。前国王暗殺。チューチワル暗殺未遂。そして、最近の己の疎んじられよう。今のハインドゥには、全てが真実に聞こえてしまう。コンザルンを疑えば疑う程、ハインドゥの心は偏っていく。
そしてついに、ハインドゥは小さく頷いた。
〈三〉
「どうやらお疲れのようだ。今日はこの辺にしておくかの」
「折角足を運んで頂いているのに、申し訳ない」
陽射しを受け、明るく風通しも良い一室。クース老はコンザルン王を前にしての講義を、この日は早めに切り上げた。
講義は月に、およそ一、二度行われる。王たる者の心構えや国の経営など、コンザルンはクース老より熱心に学んでいた。
この日も二人は向かい合ってから、すでに二時間が経過していた。普段ならば、もう一時間はやるところだ。だがしかし、クース老はコンザルンの明らかな疲労を見て取っていた。鍛え抜かれた肉体は衰えるところを知らないが、やはり顔には、すぐにその症状が出るものだ。
「お恥ずかしい限りです」
「いやなに、それだけ陛下がこの国を想っていてくれていると思うと、国民たる儂らは嬉しい限りじゃ」
クース老は皺の多い顔を和ませ、笑った。これに釣られ、コンザルンも控えめな笑みをその目元に浮かべた。さすがにまだまだ若いだけあって、クース老と違い、笑い皺もすぐに戻る。
「ところで今日は、ハインドゥ殿は出仕していないのかな?」
「ハインドゥ?今日は確か……」
部屋には二人きりで確かめようがない。コンザルンは確認を取ろうと立ち上がろうとするが、それはクース老が止めた。
「ハインドゥが何か?」
「なにな、陛下は知らぬかもしれぬが、陛下の侍女にカリナという娘がおるじゃろう。その娘はハインドゥ殿と恋仲にあるらしいのじゃが、どうも儂の娘の所によく相談にくるらしいのじゃよ。ハインドゥ殿が、最近陛下に疎まれ悩んでいるとな」
「カリナが?私がハインドゥを疎んじていると?まさか……」
「はッはッはッ、やはり陛下に自覚はないようじゃな。しかし、相手は悩む程。国政に熱中するのもよいが、時には自らの足元をしっかりと見定めなければなりませぬぞ。臣あっての君ですからのう」
コンザルンは曖昧な笑みを浮かべた。しかし、それでもしっかりとした声で、
「分かりました、気を付けましょう。さっそく明日にでも」
クース老は満足そうに笑って、何度も頷いた。
だが次の日、コンザルンは政務に追われ、ハインドゥと言葉を交わすことはなかった。そして次の日も、次の日も……
その日、ハインドゥはナハタと共に、日が沈んでからヨルンを後にした。ついにハインドゥはチューチワルに謁見する日を迎えたのである。謁見といっても、公式に堂々とやる訳にもいかず、場所はライバ城近くの民家を指定してきた。もちろん、チューチワルの息のかかった者の家だ。
月明かりに照らされた街道を、二人は馬で駆け抜けていく。風を切る音が、耳を覆う。
ナハタの後方をいくハインドゥは、この時、まだ迷いの中にあった。己の行為が許されるものであるかと。コンザルン、チューチワル、どちらに正義はあるのかと。ハインドゥは考えあぐねていた。
おもむろに手を懐に当てる。固い感触が手に伝わった。実は今、ハインドゥは懐剣を忍ばせてある。時と場合によっては、主人、コンザルンの障害となるべきチューチワルをその場で仕留めるために。だがそれも、確固たる意志ではない。流れによってはこの剣をコンザルンに向けねばならないとも思っている。全てはこれから会うチューチワル次第であった。そこにハインドゥは、何が真実で何が嘘かを見出せると思った。見出したかった。
馬を走らせること二十分弱で、二人は目的の民家に着いた。そこは丘陵にポツンと建つ一軒家で、程よい大きさのものであった。
馬を降りたナハタはハインドゥを導くと、家中の者と扉を挟んで一言、二言、言葉のやりとりをした。すると扉が開き、ハインドゥは招き入れられた。
家の中には、二人の姿があった。共にハインドゥが知る顔だ。
一人はもちろんチューチワル。粗末な椅子に腰掛け、ハインドゥを見ている。もう一人は、そのチューチワルの右腕ともいわれる騎士ゴートンであった。
「今宵はお招きを頂き……」
ハインドゥが進み出、礼をとり、形通りの挨拶をしようとすると、
「止めろ、止めろ、今宵は忍びだ。堅苦しいことはよせ。ハインドゥ、さッ、こっちにきて座れ」
なんと口上を制するや、立ち上がって自らハインドゥの手を取り、自分と向かい合うよう用意された椅子に座らせたのだ。ハインドゥが恐れ多いと辞退しようとしても、チューチワルは強引にハインドゥを従わせた。そして親しみある笑顔を満面に浮かべて、
「今宵は、ようきてくれた。感謝するぞ」
固くハインドゥの手を取り、握手を交わすのだ。
これにはハインドゥも辟易すると同時に、感激した。ここまで自分がきたことを喜んでくれるなど。仮にも王の弟たるチューチワルに。コンザルンに対する鬱々が溜まっていたハインドゥにはなおさらのこと。チューチワルに好意を抱いた。
その後もチューチワルはハインドゥに対し、まるで十数年来の友であるかのように親しみを込めた態度を見せた。ハインドゥもこれに気をよくし、懐剣のことなど忘れ去っていた。
酒を酌み交わし、歌を吟じたり。およそ二時間近く、二人の笑いは絶えなかった。
「はははははッ、お前とはよく気が合う。こんなにも笑ったのは久し振りだ。どうだ、またここで、こうして酒でも酌み交わさんか?」
チューチワルは、ついに例の話を持ち出さなかった。そればかりか、また会おうと、気軽に声をかけてきたのだ。ハインドゥは肩透かしを食らったような気になったが、あえて追求する気にはなれなかった。
そして二人の会談は、ハインドゥの務めの休日を選びその後も続き、四度目にして、チューチワルはついに例の話に触れ、ハインドゥに協力してくれるよう求めた。
この時、ハインドゥの心の中にコンザルンに対する想いは残っていたが、その比重において正義はチューチワルにあった。四度の対談で、ハインドゥはチューチワルの人柄に酔ってしまっていた。ハインドゥはチューチワルの要請を受け入れ、この人のためならばと固い握手を交わした。
この期間、ハインドゥがコンザルンを意識的に避けるようになったこともあるが、ついに二人は、目を合わせることさえなくなってしまった。
「陛下、よろしいでしょうか?」
「リットムか、入れ」
政務室で椅子に座り、書類に目を通していたコンザルンは、部屋の入り口に立った近衛騎士隊長リットムを一瞥すると、彼を招き入れた。
リットムは二メートルに近い巨漢の男で、三十八歳。国内随一の武勇を誇り、コンザルンの信頼最もある男だ。なおかつ頭も切れ、参謀的役割も果たしている。
リットムは部屋に入ると、守衛の者を全て下がらせ、コンザルンの前に立った。
「どうした、何かあったのか?」
尋ねつつもコンザルンの視線は書類にあった。しかし、リットムはそのまま話を切り出した。
「……チューチワル卿に不穏の動きがあります」
「……チューチワルに?」
弟の名が出、これにはさすがにコンザルンも反応し、上目使いにリットムを見た。
「はい。使いの者の報告によると、夜に城を抜け出すことが多く、何者かと会っている形跡があります。また、兵士達の間にも、なにやら殺伐とした雰囲気が流れていると」
「で、そのチューチワルと会っている者は分かっているのか?」
「残念ながら、まだ……。しかし、現在、全力をもって探索させております」
「……」
リットムの報告に、コンザルンは無言のまま背凭れに倒れると、ゆっくりと目を閉じた。
「……仕掛けてくると思うか?」
「……おそらく」
「やはり、狙いは王位か?」
「そのように思います。先日のライバ城に侵入者があったという件もそうですが、陛下が犯人という噂を暗に流しているのは、明らかに……。それに、前国王の死の際についての噂もまた……」
「全ては、チューチワルが私の人望を失わせるための策略か」
ライバ城へ侵入者が入ったという噂は、最近になって急速に流れ始めたものだ。
コンザルンは知っている。最近、チューチワルの人気が高まっていることを。身分にいかほどの隔たりがあろうと親身に接し、国民を思う気持ちはコンザルン以上だといわれている。おそらく、ここにもチューチワルによる情報操作がおおいに働いているのだろうが。
コンザルンは王位に執着する気はないが、チューチワルに譲る気はなかった。長年の付き合いで、チューチワルの本性を知るだけに。
「リットム、なお一層の監視を続けろ。確固たる名分がない以上、討つこともできぬ。一時守勢に回ることも致し方ない。とにかく今は、早く謀反の証拠を得ることが肝要だ」
コンザルンの声は厳しいものであった。
チューチワル陣営同様、ついにコンザルン陣営も本格的に動き始めた。
――その間にあって、ハインドゥは何を思うのか。
〈四〉
空は分厚い雲に覆われ、風も強く、今にも雨の降りそうな不安定な天候であった。
その下、ライバ城を三台の荷車を引いた三十人程の行列が門を出ていく。その先頭をいくはナハタであった
「いよいよですな。みな、あなた様を信じ、命さえ投げ打つ覚悟でしょう」
「ふふふッ、嬉しいことだ」
行列を、塔の窓より見送る男が二人。チューチワルと、その片腕たるゴートンであった。二人の口元には笑みが浮かんでいる。
「特に、あのナハタはいい働きをしてくれる。ハインドゥという最高の駒を連れてきたのですからなぁ。これも全て、あなた様の人望……とでもいいましょうか」
「くッくッくッ、だいぶ皮肉ってくれるなぁ、ゴートン。だが、人誑しも能力の内だ」
「ふふふふッ、まさに。今のあなた様の顔、とても他に見せる訳には参りませんな」
「なに、そんなに醜いか?」
ニヤついたチューチワルの表情は、自らがいうように酷く醜いものであった。目が釣り上がり、口が右方に歪んでいた。とてもハインドゥを説得した時のチューチワルとは思えない程の違いだ。心の黒々としたものが、顔面をここまで変えてしまうのだろうか。
これこそ、チューチワルの本性といっていいだろう。数少ない者だけが知る、欲と怨念とに固められた悪魔の本性。
暗室の会話は誰にも聞こえない。二人だけの密事だ。
チューチワルによる情報、イメージ戦略は、国民ばかりか味方までをも欺くというてってい振りであった。まさに、敵を欺くためには、まず味方から、とでもいおうか。
「さて、それでは我々も行こうか。コンザルンの首と、玉座を取りに」
チューチワルの無気味に響く声音は、災いをもたらす悪魔の呪文となる。
チューチワルはこれから、自ら軍を率いる。チューチワルに心酔する三百を数える兵士達だ。この部隊は、ヨルンの王城、また、街に騒動が起こると同時に郊外より乱入し、王城を制圧する最終部隊だ。これをチューチワル自身が率い、一気に勝負をかける。兵士達はすでにコンザルン陣営に悟られぬようそれぞれに城を出、ヨルン郊外の森に集結していた。
一方、この部隊に先立って動くのが、すでに身形を変え、ヨルンの街に潜入している部隊である。その数、およそ二百。この部隊は、とある合図と共に蜂起し、街を混乱に陥れつつ一気に王城に迫り、最終部隊の道を切り開く役目を負っている。
そして、その埋伏部隊が立つきっかけとなる合図こそが、コンザルンを討ち取った時の合図、王城中央の塔に設置された鐘の音である。これを鳴らすのは――
チューチワルの見立てでは、成功する確立は高いと踏んでいる。それもこれも、ハインドゥの存在だ。チューチワルも、ハインドゥとコンザルンの仲は知っている。まさにうってつけの刺客なのだ。
チューチワルの階段を降りる足取りは、自信に溢れる確かなものであった。
チューチワルからの使者が王城に訪れたという報がコンザルンに伝えられたのは、昼過ぎであった。
天候は朝から変わりなくどんよりとし、城内も薄暗く、昼間にもかかわらずランプの明りが灯されていた。
「なんと言ってきた」
この時もコンザルンは政務室にいたが、何か察するところがあったらしく、すぐに書類から目を離した。
「それが、花を献上したいとのことで」
「花?」
「はい。なんでも、ライバ城の庭園で咲いた花だそうで。チューチワル卿たっての望みとか。陛下、これは……」
報告するリットムの顔には明らかな緊張が見て取れた。そしてコンザルンにも。
「追い返しましょうか?」
「……いや、チューチワルのことだ、もし、仕掛けてきたのだとしたら、必ず何かしらの行動を起こす。それならばいっそ、様子を見て裏を取るのがいい。これは賭けでもあるが、内戦を起こす訳にもいかぬゆえ、一気に片を付ける。……よし、ならば三十分後に謁見すると使者に伝えろ。その間にできる限り、密かに兵を集めておくのだ」
「はッ!」
リットムは敬礼すると、ただちに部屋を後にした。
コンザルンは窓より曇る灰天を見詰め、決意を固めた。
三十分後、チューチワルの使者達が、謁見のため待合室を出た。
先頭に立つのはナハタ。草色の隊服に鎧は纏っておらず、武装は腰に帯びている剣のみ。ただその手には、白紙に包まれた色とりどりの色彩を放つ花束を持っていた。その後方に、さながら小さな花畑のような輿が三台。一台四人ずつで持ち上げている。
使者の総数は、騎士三名を加えた十五名。
これを先導するのは、偶然にもハインドゥであった。
ハインドゥは謁見の間に続く回廊を、風を受けながらゆっくり歩を進めつつ、周りの様子を窺いナハタに近付いた。
「ナハタ……悟られているぞ」
ハインドゥは、視線はあくまでも正面、静かに話しかけた。これにナハタはビクッと肩を揺らし、ハインドゥの方を見ようとする。が、ハインドゥがそれをたしなめた。
「見るな!……兵士達に臨戦態勢を取るよう命令が出ている。どうする、今日は引くか
?」
「まさか……今更引けまい」
「どうしてもやるか?」
「……ああ。ハインドゥ、俺達が囮になる。お前が勝負を付けてくれ」
「……ああ、分かっている」
二人の表情は緊張に引き締まり、凛としていた。おそらく、こうなっては生き残ることはできまい。もしコンザルンを討ったとしても、すぐに守衛の者達に取り囲まれるに違いない。しかし、今更引くことなどできない。時には命を賭して貫かねばならない正義もある。貫く覚悟もある。死など怖れるものではない。
「正義は、我々にある」
これこそ、二人の若い騎士を行動に掻き立てる全てであった。
二人は会話を終えると、改めて距離をおいて歩き始めた。
やがて謁見の間は目前に迫り、ハインドゥは案内役を終え、道を使者一行に譲った。擦れ違い様、ハインドゥとナハタは最後の視線を交わし、その友情を確かめ合って別れた。
ナハタが先頭となり大扉を潜って謁見の間へと入る。
謁見の間は大変に広く、中央には赤い絨毯が敷かれ、その延長線上の段上には玉座があり、コンザルンの姿があった。絨毯の左右には文官武官が並び、使者一行を目送していた。
空気が重く立ち込める中、ナハタは慎重に歩を進め、視線は玉座のやや下を見、花束を握る右手には、力が込められていた。
ランプの明りが多くの影を生み出し、人々の思惑を思わせる。
一行は玉座の前に達すると、ナハタを先頭に、残り二人の騎士がその後方に、全員が片膝を突いて国王に対する礼をとった。
「陛下におかれましては、ご多忙にもかかわらず謁見賜り、誠にありがたき幸せ。本日は弟君、チューチワル卿より花を献上いたしたく、まかりこしました。これらは全て、ライバ城の庭園にて採取した物。この花々をもって、政務忙しい陛下の心休まれば、これに超したる幸せはござりません。どうぞ、お納めください」
ナハタは落ち着きを払い、はっきりとした言葉で言上した。
周りは静まり返り、コンザルンの言葉を待っている。
かすかにだが、屋根を叩く雨音が謁見の間にも伝わってきた。ガラス張り部分の天井を見上げてみると、確かにガラスは濡れていた。これは少々嵐になるかもしれない。
そして、外同様、城の中でも今まさに嵐が起きようとしていた。血の嵐、赤い嵐が。
「ご苦労であった。ありがたく思うぞ」
玉座にいくぶん浅く腰掛けているコンザルンは、表面上、いつもと変わりなく使者への労いの言葉をかけた。
この言葉を受けナハタは深く一礼すると、一歩だけ改めて足を踏み出し、手にしていた花束を前に捧げた。この場では形として、この花束だけをコンザルンに献上するのである。もちろん直接渡すことは許されていない。取り次ぎに一人の近衛騎士が入る。
ナハタが花束を捧げたのを見るや、一人の近衛騎士が進み出た。赤色の隊服姿の近衛騎士はナハタの前に立ちはだかるようにして立つと、ナハタ同様に片膝を突き、花束を受け取ろうとした。その時だ!
「ぐふっ……!」
近衛騎士が突然低い呻き声を発した。周りの者がよく見れば、ナハタの右手に握られた花束が、それを受け取ろうとした近衛騎士の胸に当てられていた。花を包む白紙が、徐々に赤く染まっていく。花束には、短剣が仕込まれていた。
次の瞬間、ナハタは近衛騎士を突き飛ばし、玉座を目指し走っていた。
「前国王暗殺、さらにはチューチワル卿暗殺未遂の罪により、ここにて裁かせて頂く!!
」
ナハタは腰の剣を抜くや吠えた。それと同時に、後方に控えていた使者達も、騎士は剣を抜き、輿持ちは懐剣を取り出した。さらには輿の花が突然盛り上がり、飛び散り、中より武装した男達が現れた。一台から二人ずつ、計六人。実は、輿は上げ底になっており、ライバ城よりずっと潜んでいたのだ。
花の下に隠れていた者達は、みな騎士らしく、剣を取る者、また、輿の棒に隠していた槍を持つ者と、至極屈強な者達ばかりであった。
襲撃者は、合計二十一人。
「覚悟!!」
ナハタは高い身体能力を生かし、階段を駆け一気にコンザルンとの間合を詰めると、強烈な一撃をコンザルンに見舞った。
ある者は目を見張り、ある者は目を伏せた。
ガキーン!高い金属音がなり、火花が散った。コンザルンは玉座に座したまま、隠していた剣を抜き放ち、ナハタの一撃を食い止めていた。
「この、愚か者め!」
一撃を止められても、なおも力押しに押し込んでくるナハタの腹を、コンザルンは足蹴りにし、突き放した。
「くッ!」
ナハタは苦痛の声を上げ階段を転がるが、すでに精神が肉体を超えている今では、痛みなどほとんど感じない。無我夢中、戦闘本能に導かれるまま、ナハタは再び、一直線に駆け出した。しかし、今度は邪魔が入った。
「下郎め、下がれ!」
近衛騎士隊長のリットムであった。リットムもまた、赤色の隊服で鎧は身に付けていない。
剣と剣とがぶつかり合い、野性化した二つの顔が近付き、弾け飛んだ。
襲撃者は襲いくる波のように玉座に迫ってくる。
一方、コンザルンを守るべく、守衛、武官は襲撃者に立ち向かい、文官は逃げる者多く、しかし勇気ある者は、主君の盾となるべく体を張った。さらにこの騒動に、臨戦態勢をとっていた武装兵士がようやくあちこちの扉より突入し、戦いの最前列に立った。
「ううぉぉぉッ!!」
襲撃部隊は、まさに少数精鋭。一人一人が一騎当千の者達ばかりで、ところかまわず剣を払い、突き、斬り落とし、吹き荒れる風となって、次々に血の雨を降らせていった。
場は、阿鼻叫喚の乱戦となった。
その中、単身動く者がいた。ハインドゥである。混乱に乗じつつ、コンザルンの背後に出た。コンザルンは前方ばかり気にし、気付いていない。絶好のチャンスだ。
ハインドゥは剣を持つ右手に力を込めると、剣を振り上げようとした。と、その時だ。一人の初老の男がハインドゥに気付いた。ハインドゥもよく知っている文官の男だ。
「何をしているハインドゥ、早くお前も前に出ろ!」
この声でコンザルンが振り返ってしまった。
電流が走るように二人の視線は交錯した。一瞬時が止まったように思う。ハインドゥの右腕も、まったく動かなかった。と……
「……まさか、お前が……」
コンザルンの疑惑の目、疑惑の言葉が引き金となった。ハインドゥは白昼夢を見ているような感覚に襲われ、体が意識と離れたところで動いていた。
「うわぁぁぁ!」
剣を振り上げるや、コンザルンの右袈裟を打つ。しかし、これはコンザルンが退いて躱した。が、これにコンザルンは精神的に大きな一撃を食らった。思いもしなかった者がチューチワルと繋がっていたのである。信じられない男が。
「止めろ、ハインドゥ! なぜだ、なぜお前が私を裏切る! なぜだ!?」
「それはあなたが一番お分かりでしょう!前国王を暗殺し、チューチワル卿をも!」
「違う、私はそのようなことなどしない!それはお前が一番知っていることだろう!」
「私もそう思っていた。しかし、あなたは私に冷たくなった。あの噂を口にした時から!
それがなによりの――!」
「違う! あれは――!」
剣を交えること五合。コンザルンは階段の段差に足を取られ転んでしまった。起き上がろうとしたところをハインドゥが馬乗りになり、コンザルンの喉元に剣を突き付けた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
二人の息は荒い。
周りの者達は主君を助けたくとも動けない形となってしまった。コンザルンの一命は、ハインドゥの手中にあった。
見下ろすハインドゥ。見上げるコンザルン。
「……聞いてくれ、ハインドゥ。あの時、お前が父の死の噂を口にした時、私はお前をも疑ってしまったのだよ。お前も私を疑っているのかと。今思えば、愚かなことだと思う。私は王位に就いたばかりで、王たる者の厳しさに悩んでいたのだ。その上に、例の噂。……私は敏感になり、被害妄想を膨らませていた。言い訳する訳ではないが、あの時、私の精神状態は普通ではなかった。お前の気持ちまで、気が回らなかった。……クース老にお前が私に疎まれていると思っていると聞かされた時、まさかと思った。私にはそんな気はない。忙しいのだから仕方がないのだと。……しかし、お前の気持ちは違ったようだ。結局私は、自分のことしか考えていなかったのだな。臣の気持ちを察することができなくて何が君主だ。……それは私の罪として認めよう。それが許せないのならば、構わない、その剣で私の喉を突け。お前の手にかかるなら仕方がない。だが、これだけは信じてもらいたい!父を暗殺したことなども、チューチワルを暗殺しようとしたことなども、断じてない!私は断じて嘘はつかぬ!……それはお前が一番理解してくれている筈だ」
コンザルンはハインドゥの目をただひたすら見詰め、切々と語った。真実の込められた熱意と、思いやりのある言葉であった。
ハインドゥの構える剣先が震え、ポタポタと滴がコンザルンの胸に落ちた。
「……それは、真ですね……あなたは嘘をつかない……そうだ……あなたが嘘をついたことなど一度もない!」
「私を信じてくれるのか?」
「信じるもなにも、私は……」
「何をしているんだ!ハインドゥ、早く討て!!」
剣を下さないハインドゥに、リットムと戦うナハタが叫んだ。しかし、最早ハインドゥに剣を下ろす意志はなかった。
ハインドゥの手から、剣が離れた。それはゆっくりと落ち、喧騒の中、高い音を立てて床に転がった。
「ハインドゥ……」
コンザルンの呟き。
と、突然、ハインドゥの上体が揺れた。目が見開かれ、涙が飛び散る。歯がガチガチと鳴り、平衡感覚が保てずに崩れ落ちる。
とっさにコンザルンは上体を起こし、ハインドゥを支えようとするが、横から加えられた力にハインドゥの体が吹っ飛んだ。
「この反逆者め!」
一人の騎士がハインドゥを蹴り飛ばした。ハインドゥは前のめりに床に倒れ伏す。その背には、剣が深々と刺さっていた。騎士が投じたものであった。
ハインドゥは低く呻き声を上げる。剣の刺さった背中からは血が溢れ、赤色の隊服を黒く染めていった。
「陛下、ご無事で」
差し出された手を、コンザルンは瞬時に払いのけていた。ハインドゥを抱きしめ、叫ぶ。
「しっかりしろ! おい、ハインドゥ!」
すると、ハインドゥは僅かに目を開けるよう努力し、
「……ごめんな……さい……」
弱々しい言葉が零れ出た。ただ、それだけ。投じられた剣は、見事、ハインドゥの心臓を刺し貫いていたのである。
コンザルンはハインドゥの死を嘆いた。
〈五〉
昨日、チューチワルは捕らえられた。『赤嵐の変』と名付けられたあの日より、二十一日後のことである。
ハインドゥの死後、ナハタを中心とした襲撃部隊は、全員がその場で斬り殺された。しかし、その働きは驚嘆するもので、五十三名もの者を道連れにした。まさに赤い嵐が吹き荒れた訳だ。
鐘が鳴ことはなく機を逸したチューチワルは、ライバ城に篭もりコンザルンに叛旗を翻すが、綿密な情報操作の結果としては予想外に味方が集まらず、篭城戦二十日目にしてようやく降伏。戦いは終わった。チューチワルにはこの後、長い幽閉生活が待っている。
さて、コンザルンはというと、この日、自ら出向いてクース老の自宅を訪れていた。
コンザルンは問う。
「クース老に忠告を頂いていたにもかかわらず、あたら優秀な者達を……。なぜ彼らはチューチワルなどの口車に乗ってしまったのでしょうか?」
今回の変について、チューチワルの片腕であるゴートンが尋問により真相を語ったのは今朝のことだった。まんまとハインドゥやナハタがチューチワルに言い様に操られていたのを知ると、コンザルンは無念でならなかった。
クース老は悲しみをその深い皺に隠し、微笑み答える。
「それは、嘘、偽りの性質にあるのじゃろう。真実と嘘は相対するものじゃが、真実は一つに対して、嘘とは無限に増殖するものじゃ。一+一=二じゃが、三といえば嘘になる。四といっても同じじゃ。さらにハインドゥのように、真実を疑えば、真実も嘘となってしまう。しかし、ナハタのようにいくら嘘を信じても、嘘は嘘のままなのじゃ。つまり、真実は真実を信じた時のみ、真実となる。真実とは見付けにくいものなのじゃ。替わりに嘘は簡単に見付かり、なおかつ、いくらでも自分のいいように形を変えられるため信じやすい。嘘とは恐ろしいものじゃ」
「では、どうしたら真実のみを信じられるのでしょうか?」
「そうじゃなぁ、難しいが、一つのことを、視点を変えてなんども観察することじゃな。おッ、そうじゃ、陛下に珍しいものを見せて差し上げよう」
そういうと、クース老は椅子から立ち上がり、奥に入って何やら手に抱えてきた。そして、それを食卓に置くと、改めて椅子に座った。
「これは?」
「インホットと呼ばれる動物でしてな、これが中々に面白い。ちょっと手をお貸し願えますかな」
クース老はコンザルンの手を取ると、インホットに近付けた。すると、ミーシュの時同様、ちょこちょこと逃げた。しかし、これを何度も続けていると、やがてインホットは逃げなくなった。そればかりか、フワフワの毛の内より二本の触手のようなものを伸ばして、コンザルンの手を調べ始めたのである。
「これは、何を?」
「実はわしも驚いたのじゃが、その触手には、視覚、嗅覚、聴覚、味覚、触覚という五感が全て備わっているんじゃ。インホットは、その触手であらゆる方面より、それが自分に害をなすものか、なさざるものかを調べておる。その結果、害がないとみなせば、もう逃げることなどもない。元来インホットとは大変用心深い動物で、中々人目には付かぬものじゃ。まぁ、迷子になっているようじゃから、こいつはだいぶおっちょこちょいのようじゃが。インホットはこの触手の分析によって、それを信じるんじゃ。つまり、信じるという行為には、最大限の注意が必要ということじゃ。そのためには、視野を広く持つことが大切になってくる」
五分もすると、インホットはコンザルンの手が触れても逃げなくなっていた。
「しかし、真実だけが正しいかというと、そうでもない。時には嘘が人を喜ばせ、幸せにする時だってある。ふふッ、難しいのう。まッ、儂にいえることは、臨機応変であれということ。その時、その時にあった判断を、広い視野で眺め、下せるかが重要となってくるんじゃ。一つの考えに捕らわれることこそ、嫌わなければなりますまい」
「なにもかも、機に応じた使いよう、ということですか」
「そういうことじゃ。そうすれば、最善の断を下すことができるじゃろう。たが、その根底には、必ず、思いやりと慈しみの心がなくてはならぬ。よいですかな?」
コンザルンがクース老の自宅を出たのは夕刻であった。西の空が赤く輝いていた。それを見つつコンザルンは思った。
――王とは常に、臣より信の置かれる真実でなくてはならぬのか。なんと厳しき道であろうか!だが、そうあらねばなるまい。ハインドゥ、お前が最後に見せてくれた私への信頼を、無駄にしない為にも。
コンザルンはハインドゥの死を乗り越え、この後も名君としてヴァーナを治め続けた。