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Snow Magic

作者:

 昨日、雪が降った。


 素人でも、テレビで等圧線を見れば分かるほどの極端な西高東低の気圧配置は、いつもは雪が降らない私が住んでいる地方に、一センチを越える積雪をもたらした。三月の末に、今期初めてとなった雪に、近所の子供達が住宅街の真ん中で朝から大きな喜びの声をあげている。アパートの向かいの学校の校庭は一面真っ白になって、足跡ひとつついていない。カーテンの隙間からそれを見て、まだ新しくコップにいれた苦いコーヒーをすする。昨日までとは違って、今日は車一台走る音がしない。

目線を部屋に戻して、頭をいつもの現実に戻すと、昨夜片付けた薄暗い部屋があった。こんな雪の日に、ゴミ収集の人たちは来られるのかしら、と最近になってやっと身に付いてきた一人暮らしの生活を心配しながら、残りのコーヒーを飲み干した。

喉の奥に苦味を残したまま、昨夜の掃除で出た七十リットルのゴミ袋を片手に一つずつ携えて外に出る。春知らぬ冬風は、私の薄手のセーターを抜けて私の肌を撫でて、熱を奪っていく。雪は古いアパートの廊下にまでうっすらと積もっていて、足元をとられないように慎重に歩かないと滑ってしまいそうだった。なんとか階段を下りてゴミの集積所まで行くと、私の背丈の半分くらい雪だるまが二体、電柱の側で身を合わせるように居座っていた。きっとこのあたりの子供が作ったのだろう。

特に関心もなく、ゴミ袋をコンテナに押し込んで足早に部屋に戻る。ずいぶん身体が冷えてしまったが、暖まる時間もなく、時計があの約束の半刻前をさしていた。




人の多い街の方へ出るには坂の多いこの住宅街を抜けていかなければならない。主幹の道路は役所の人が、あらかじめ融雪剤を撒いていて、普段通りのコンクリートが露出しているけれど、少し狭い道に入ってしまうと真っ白な雪がそのまま放置されている。

道脇にはアパートのゴミ置き場で見たような雪だるまがたくさん置いてあって、道すがらに前を通るジャングルジムと滑り台だけの公園では、小学生低学年ぐらいの子供達が雪を丸めて遊んでいる。中には素手で雪を掴んでいる子もいて、私は思わずコートのポケットの中の手をぎゅっと小さく握りしめてしまう。きっと彼らにとっては冷たいことよりも楽しい気持ちでいっぱいなのだろう。

私自身、雪で遊んだ経験なんてきっと一度か、二度くらいだから思い出などそれほど無いはずなのに、妙に懐かしく思える。たぶんそれは、子供の頃は躊躇なく雪で遊ぶことができたのに、今になって、雪にはしゃぐのが恥ずかしくなってしまったからなのだろう。

掌を伸ばす。屈めば届くはずなのに、知らぬ間に、真っ白な地面がこんなに遠くなってしまった。


 駅前に着くと、電車が遅延しているらしく、この時間では珍しく人でいっぱいだった。

約束で指定されていた喫茶店も、普段の倍くらいの客がいて、いつも私達が座っている席には、すでにスーツ姿のリーマンが座っていた。注文したブレンドを持って、たまたま空いていた窓辺のカウンター席に腰かけた。約束の時間にはまだ少しだけ余裕があった。だけどきっとあの人は遅れてくるだろう。理由は電車が遅れているからではなく、私と会うのが嫌だからだ。それでも私達は会わなければならない。この二週間で何千のメッセージをやり取りして、結果の見えなかった話を終わらせなければならない。時計はゆっくりと時を刻み、それに比例して掌がじんわりと冷たくなっていくのをカップ越しに感じていた。


 その人は約束の時間から二十分遅れてきた。電車が遅れててさ、と事前に言葉を用意していたように彼は言う。私も、さっきここに着いた所よ、と冷めたコーヒーを少しだけ強く握って告げる。彼は、ごめん、と言って私の横に座った。私が彼の嘘を見抜いているように、たぶん彼も私の嘘に気付いているのだろう。それをお互いに理解しながらも、それには触れないように、なおかつ触れられないように、そわそわと相手の様子をうかがうのだ。

顔は窓の向こうの白みがかった街に向けたまま、相手の顔を見ることもなく、ただ黙るしかなかった。

私達が共にしてきた五年という歳月は、おそらく未だ私達の短い人生にはあまりにも大きすぎる思い出が詰まりすぎている。相手の手の動き一つ見るだけで、吐息を吐くその音だけで、私達はたくさんの事が反射的に分かってしまうのだ。


 私は僅かな間でも彼を好きだった。命を懸けてでもこれは事実だと言いたい。しかし、今も愛しているか、と聞かれれば私はきっと言葉に詰まってしまうだろう。むしろ首を振ってしまう私もいる。他に好きな人ができたわけでもなく、そこには明確な理由なんてなかった。ただ漠然としたした時の流れが、いつの間にか私に彼が好きだ、と言わせることをためらわせるようになっただけだ。

付き合い始めた当時、私達はまだ中学生で、自分が住んでいる直近の街以外は地理にも疎く、私は自分の知っている物が世界のすべてだと思っていた。付き合った日に街に唯一ある洋菓子店で、切り分けたケーキを買い、上にロウソクを二本立てて、その儚く溶けていく蝋を二人に見立てて空虚な言葉で愛を誓った。大人から見れば大層おかしく見えただろうが、自分達は本気で自分達が特別な運命で結びつけられているのだという確信をもっていた。

やがて私達は高校生になり、そして彼は地元の自動車部品メーカーに就職し、私は少し離れた地方の大学に進学した。今まですれ違いや喧嘩なんて一度たりとも無かった。当時は気がつかなかったが、それが二人の仲が極めて良いというわけではなく、お互いに相手に調子を合わせ続けていたからなのだと、最近になって気づいてからは、五年間で私達二人で築き上げてきたものが随分と陳腐に見えてしまうようになった。

最近になってからは、私の大部分を占めている何かが、一日一日を跨ぐ度に少しずつ強く、限界を告げていた。例えばメールが来れば見た直後に返し、会いたいと言えば無理にでも都合を付けて合っていたのも、きっと自分が相手が好きだと信じ込みたかったからなのだ。相手の何が駄目だったとか、何が嫌い、というのではない。もう、私も彼も漠然とこれ以上はお互いに時間の無駄だと悟っている。きっと止めるべきなんだ。


 大丈夫かい、と彼が私に尋ね、呆然と窓の向こう側を見続けている私を神妙な表情で見る。私は息を吸い、ええ大丈夫よ、と答えて彼の目をじっと見た。彼は何か後ろめたいことがあるかのように、少し目を伏せた。彼は優しくてずるい人だ、そして私と同じくらい卑怯だ。


 ほんの一瞬、嵐の夜に、稲妻が走るぐらいの間隔、その僅かな間、彼の瞳に私が映る。私はどんな顔をしていたのだろうか、彼はすべてを理解したような顔をした。そして何かを諦めたように、そうか、と小さく呟いた。呼吸を整えて、朱里、と私の名を呼んだ。私は、うん、と答えて、体を彼の方に向ける。私は卑怯だ。五年間何よりも大切にしてきた物を、彼に台無しにさせようとしている。

 なんだか、それではいけない気がする。だけど仕方がない事は分かっている。もし神様がほんとうに実在して、明日には、ただの幼馴染に戻るという私の選択は甘いのでしょうかと聞くと、神様をきっとイエスと答えるだろう。だからといってもうどうしようもなく辛いのだ。そう考えている間に、彼の口が開く。嫌だ嫌だ。

 彼が言葉を出そうとしている瞬間には、「待って」と私は彼を制止していた。私が止める事を予測していたからなのか、彼はすぐに言葉を止めた。自分が身勝手なのは分かっているつもりだ。あえて言葉にするなら、今じゃない、という理由。そんな曖昧な感覚で、彼の覚悟を水の泡にしてしまった。そんな後悔の気持ちを押さえながら「ちょっとだけ外歩こうよ」と私は彼の目を見ずに言った。


 駅前は相変わらずの人混みで、私達は人を縫うように避けて歩くことで精一杯だった。どこに行こうという宛も無かったので、駅から一番近い大きな公園を目指した。駅の改札の目の前を抜けて駅の反対側に出る。

 人の波を抜けて、目的地にたどり着いた時、気が付けば、本当に無意識に、私の手は彼の手を握っていて、いつのまにか彼が私の手を引いて歩いていた。公園の大きな広場は一面雪景色で、春休みで時間を持て余している子供たちが遠くで雪遊びをしていた。そんな情景も楽しめない程に私は困惑していた。私は、人の波に飲まれて、一人になるのが、怖かったのだろうか。それとも私は未練をこの手のどこかに宿しているのだろうか。真意を掴めぬままに、私は前を歩く彼の手を少しだけ強く握ってみた。たぶん彼も私の手を握っているという事実に、この時になって初めて気が付いたような気がした。

 彼は、歩く速さを変えないままに、私の顔を見もせずに、言葉もなしに、手に込めた私の手を握る力をゆっくりと弱めていった。ちょうど広場の真ん中あたりに来る頃には、私達の間には私が彼の手を握る力だけが少し残っているだけだった。ああ、離さなければ、離さなければ、そう思っている。いつだってそうだ、私は卑怯で、優柔不断で、未練がましい。今からでもやり直せないだろうか、そんな甘えた考えが脳にかすめ続けているのだ。

 そう、私は彼を愛していた。それは過去の話なのだ。

 彼が立ち止まり、振り返る。

 何千回と見た顔は、少しだけ悲しげな表情をしていた。

 最近自分で買った手元の時計が、私の腕を締め付けるように一秒一秒を刻む。

 白い吐息は彼に届くことなく天に昇っていく。空は朝からずっと変わらずに曇り空だった。すうっと視界が涙でぼやける。なんで、こんなにも矛盾した気持ちを抱えているんだろう。私と彼とが、出会ったばかりの思い出が、余りにも眩しくて胸に焼き付いて、かさぶたのように、はがれない。あの頃の私達が、愛しくて愛しくてたまらない。

繋いだ二人の手が、重力に従って、するりと抜け落ちた。

彼は悲しそうな顔をしていた。

 じゃあね、と言って去っていく彼の頭にめがけて、雪玉を投げた私は、きっと私も彼も知らない私だった。

「いい女見つけろよ」

荒々しく叫んで走って帰った。春は近い。雪だるまなんて溶けてしまえばいい。


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