そっちじゃないよ
「なんなの? っていうか誰よ? どうして私の名前を知っているの? なんで家まで?」
この前も家までの道を知っているようだったから、当然名前もバレているだろうってことはわかっていたけれども、実際に名前を呼ばれてみると奇妙な感覚だった。
「まあまあ。そんなに怒んなくてもいいでしょ? それよりさ、考えてくれたこの前の話?」
「話って?」
なんか話たっけ? ……もしかして時給一万円って話?
危ない子じゃないか。やっぱり。
「僕のこと思い出した?」
「え……そっち?」
「そっちって他にあった? ……あ……あれ?」
彼はクシャっと顔を崩して笑っている。これじゃあ……あの話を真に受けた私がおかしいみたいじゃない。言い出したのはこの子の方なのに。
「それよりさ。中に入れてくれる? 雨のせいで体が冷えてきて」
近づいて来た彼をよく見ると、バイト中に降っていた雨に打たれていたんだろう、髪も服も少し濡れていた。季節はもう五月だけど、今日は雨のせいで少し肌寒かった。彼は本当に寒そうにしている。
「髪とか乾かすだけだからね!」
強気に言ってみたけれど、言っている内容はめちゃくちゃだった。知らない男を部屋に入れるなんて、どうかしている。何の為に高いお金を払ってここを借りているのかわからないじゃないか。だけど、寒さに震える子を放っては置けなかったし、今ではまた会えて良かったと思っている。彼が何者なのか聞けばいいだけの話だ。どうこうなったって、それはそれでいいんじゃないかって思える。私は投げやりになっているんだろうか。一度捨てた人生だから、自分を大切にすることができないんだろうか?
「ありがとう」
開いた自動ドアの中に彼と一緒に入る。エレベーターのボタンを押した。一階で待機していたエレベーターはすぐに扉が開いた。彼と二人でエレベーターに乗り込む。
そのまま私の部屋の階までたどりつき、廊下を部屋前まで歩いていく。いつもは危険がないか慎重に確認してからドアを開けるが、私は周りを気にすることなく部屋の鍵を開ける。彼が一緒にいるからだ。
開いたドアから玄関に彼と一緒に入り込む。
「タオル持ってくるから」
そう言いながら私はタオルを取りにバスルームに向かう。向かうと言っても、キッチンとバスルームとトイレとあと一部屋あるだけの小さな部屋だった。私が払える限界ギリギリのスペースの部屋だった。
バスルームに入って、バスタオルとドライヤーを持って来る。
戻った先には、拾ってもらえた捨て犬のような彼がいた。人懐っこい笑顔は、まるで尻尾を無邪気に振る子犬のようだった。
「ほらタオル。髪拭いてね。あと、ここに来て座って。ドライヤーで服乾かすから、動かないでよ」
「はーい」
ベットに彼を座らせて、髪を乾かす彼の服に私はドライヤーの風を当てる。脱いだ方が乾かしやすいけれど、男の子を脱がすのにはさすがに抵抗がある。それに、着替えもないし。実家ならば父の服があるけれど、ここには必要最小限な物しか持って来ていない。
黙々と服を乾かしながらもこの事態について考えてしまう。いや、考えるのが遅すぎる。座るところにベットを選んでしまった。普段、お風呂上りに自分がベットに腰をかけてドライヤーを使っていたからだろう。なんかいいのかな、これ? ダメだよね。もう誘ってるようにしか受け取れないでしょ?
髪を乾かしながら彼は、私を見つめている。その瞳に吸い込まれそうになる。彼の眼を視れば、安心して大丈夫なんだと確信した。彼は私の事を深く想ってくれている。優しい温かな視線だ。その眼には嘘は混じっていなかった。彼は私に会ったことがあるんだ。でも、いつ?
「このへんでいいかな。あとは髪だけど、自分でドライヤーで乾かしてね」
「はーい」
ドライヤーを彼に渡し、タオルを受け取ってベットから立ち上がる。なんとかあの状態からは抜け出せた。
タオルを洗濯カゴに入れて、キッチンでココアを入れる準備をする。お湯を沸かし二つのカップにココアの粉を入れる。
彼はドライヤーで髪を乾かし始めた。
いつだろう。彼と会ったのは? 最近ではない。少なくとも悠人に出会う前の話だろう。悠人に会った後ならば絶対に忘れる筈はない。
「ねー、私に会ったのってかなり前?」
「さあねー」
ドライヤーに負けないように大声で話しかけた。彼の答えも大きめな声だ。
彼の眼を視つめる。……かなり前だ。当たっている。どこだろう? きっと中二よりも前だろう。
「君が小学生の頃?」
鎌をかけて質問していくしかない。
「どーだろうね」
彼はあくまでもとぼけるつもりらしい。でも、その眼は言っている、そうだと。彼は私よりも四つか五つぐらい年が下みたいだ。ということは私が小四から中一の間で出会っていることになる。私は中一で転校しているから転校前の可能性が高い。高二でこちらに戻って来た頃なら年の計算が合わない。
小四から中一……。思い出をひっくり返してみる。同じ学校ではないだろう。それならばきっともっと鮮明に記憶に残っている筈だ。
年も離れているにもかかわらず、どこか学校以外の場所で出会っている……。
「思い出せない?」
彼はそう言うとちょっと悲しげな眼をしている。
ん?
その表情……。
記憶が一気に蘇る。